1. 千利休生誕5百年記念作品「茶聖あり」
  2. 第5話 商人ならではの自己プ..
2022-06-16 08:49

第5話 商人ならではの自己プロデュース力【千利休生誕500年 第1部】

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茶会は、茶を飲むだけにとどまらない娯楽性のある催しだった。「千利休の『わび』とはなにか」の著書がある神津朝夫さんは「茶の道を究める発想は江戸時代以降のことだ」と指摘。「利休のころの茶の湯は町衆の仲間に加わるメリットがある上、飲食もある楽しい集まりだったのではないか。現代でいえば、サラリーマンがゴルフを始めるのと同じような感覚」とする。

 

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00:02
政治や武家に通じ、今に至る茶道を体制した
千利休の生誕500年を迎えます。
他方面の活躍と謎の多い生涯で現代人をも引き付ける利休。
その魅力に迫るシリーズ「茶聖あり千利休生誕500年」を
菅俊介のナレーションでお届けします。
第1部は利休にまつわる謎を紐解いていきます。
第5話 商人ならではの自己プロデュース力
千利休は堺の商家に生まれている。
なぜ茶の道を志し茶聖と言われるまでになったのか。
当時の堺は貢益の町として栄え、有力商人が
恵合集を組織し自治を主導していた。
町集は交流する場を持ち、その一つが茶の会だった。
天文十一年、千五百四十二年、千利休の死とされる
他家の女王が開いた茶の会について、奈良の茶人
松屋志様さの茶会記録松屋会記には茶室で茶をいただいた
と邸主は客の要望に応え松島の名がある自慢の壺を披露
料理や菓子を味わったと記されている。
茶の会は茶を飲むだけにとどまらない娯楽性のある催しだった。
千利休の和美とは何かの著書がある光津浅穂さんは
茶の道を極める発想は江戸時代以降のことだ。
千利休の頃の茶の湯は町州の仲間に加わるメリットがある上
飲食もある楽しい集まりだったのではないか。
現代でいえばサラリーマンがゴルフを始めるのと
同じような感覚だろうと指摘している。
堺の松下に生まれた千利休は十七歳だった天文七年、
千五百三十八年近くに住む北向洞賃の弟子となり茶の道に入ったとされる。
堺李生の森にある堺市立歴史文化にぎわいプラザの矢内一馬学芸員は
町州の中で人肌の人物と認められるため
諸や和歌と同じく不可欠な文化的要素として茶を始めたのではないかと推測する。
03:05
最初の茶の師匠だった堂鎮が李休の素養を見抜き
城王に紹介したとされる。
高尚だった城王は名物と呼ばれるからものの茶道具を多数所有。
松屋会記にあるような娯楽性の高い茶の会を開く一方で
自ら竹を加工して茶釈などを作る創造的な一面もあった。
李休はこうした姿勢に影響されさらに洗練させ
善の精神性も取り入れた質素な和美茶を完成させた。
李休が考案した落茶碗や茶釈などの茶道具は装飾性や均等性を排除し
質素な佇まいに和美の精神が表現されている。
東洋英和女学院大学の社会心理学の専門で茶の師範でもある岡本浩一教授は
和美の概念を精神の深くで理解し茶道具を多く持っていなかった若い頃も
その状況を工夫し正々堂々と取り組んだと評価している。
商人から茶の道に入った李休が茶聖徒まで深刻化されたのは
製材会のサロンだった茶の絵で無二の存在感を発揮したからだ。
李休は江郷衆の茶仲間と共に織田信長の茶の絵を仕切る茶道を務めた。
信長の下では茶道の末席に過ぎなかったが
豊臣秀吉の世では筆頭にまでなった。
出世の理由について茶道教養講座千利休の著書がある八王義雄さんは
茶の絵を仕切ったプロデュース力に注目する。
ハイライトが天章十五年、1587年10月
京都の北の天満宮で開かれた北の大茶屋だ。
八百を超える茶席が集まる空前絶後の規模。
黄金の茶室を中央に配した茶席で秀吉や李休が茶を振る舞い
悲憎の名物が惜しげもなく後悔されたという。
八王さんは秀吉はいわば社長だが一人で茶の絵を成功させることはできない。
李休は知恵を絞りイベントを切り盛りする力量があったからこそ茶道で抜きんでたとする。
商人だからこそのプロデュース力と言えるのではないか。
06:02
落茶碗とは千利休の命を受けて落焼きの初代張二郎が製作したもので現在まで受け継がれている。
張二郎の落茶碗には皇帝などの違いで赤みを帯びた赤落茶碗と黒っぽい黒落茶碗がある。
手びねりによる歪みは厚みのある形状が特徴で素焼きして仕上げる。
室町忠貴の茶人村田寿行が茶の湯の原型を作り
他家の女王を経て李休が完成させた和美茶の精神性を体現した茶碗とされる。
博多の合唱で茶人の上谷壮丹の壮丹日記には
豊臣秀吉は黒落を嫌い赤落を好んだとの記述がある。
お届けしたのは産経ポッドキャスト茶生有、千利休生誕500年の第5話
商人ならではの自己プロデュース力でした。
第1部は以上となります。続く第2部もご期待ください。
ナレーターは菅俊介でした。
記事は産経新聞社記者小畑光明、横山由紀子、藤谷茂、川西健次郎、井上光平が担当しました。
なお産経ニュースでは文章、写真やグラフィックでお楽しみいただけます。
産経ニュース千利休で検索してください。
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