産経新聞紙面に掲載された「話の肖像画」。歌手の加藤登紀子さんが、自らの反省を回顧する。(代読は加藤さんの次女、 Yae さん)
‥‥終戦の年、ソ連軍(当時)が満州に攻め込んできたとき、加藤さんは満州のハルビンに住んでいた。
「父は戦争へ行ったまま。守ってくれる国も部隊もなくなり、ハルビンに残された30歳の母は3人の幼子を抱えて自分を奮い立たせました。『私の生き抜く力と判断だけが頼りなんだ』と。そこから母の本当の人生が始まったのです。仕事を、食料を懸命に探し、略奪に来たソ連兵にも毅然と対応しました。一対一の人間同士なら、必ず分かりあえる。母の言葉は私の教訓になりました」

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

今年2022年に79歳になるシンガーソングライターの加藤登紀子さんは、戦争を生き抜いたピアフと母の物語を振り返っています。

目次

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みなさん、こんにちは。反能反歌手の八重です。
私の母は、しれとこ旅場や百万本の薔薇などで知られるシンガーソングライターの加藤登紀子です。
今年2022年に79歳になります。
母は、6年前の産経新聞に連載された話の肖像画で人生を振り返っています。
この度、ここ、父藤本敏夫が残した千葉県の鴨川自然王国から音声にてお届けします。
話の肖像画
戦争を生き抜いた強さ
加藤登紀子① 戦争を生き抜いたピアフと母を重ねて、
70年前の1946年、満州ハルビンから母子4人で命からがら引き上げてきた。
まだ3歳にならない末っ子の登紀子に、「自分で歩きなさい。そうしないと死ぬのよ。」
と知ったした母、としこ。
愛の産花、薔薇色の人生で知られるフランスシャンソン歌手エディット・ピアフは、
同じ1915年の12月にパリで生まれている。
戦争の時代をたくましく生き抜いた女性たちの思いを重ねて、
加藤登紀子は今、ピアフを歌う。
終戦の年、ソ連軍が満州に攻め込んできた時、父、甲志郎は戦争へ行ったまま。
守ってくれる国も部隊もなくなり、ハルビンに残された30歳の母は、
3人の幼子を抱えて自分を奮い立たせた。
私の生き抜く力と判断だけが頼りなんだって。
そこから母の本当の人生が始まる。
ハルビンでの再会
仕事を、食料を懸命に探し、略奪に来たソ連兵にも毅然と対応した。
一対一の人間同士なら必ず分かり合える、母の言葉は私の教訓になりました。
1981年に、ハルビンで初めてコンサートを開き、
母と一緒に35年前に貨物列車で引き上げた時と同じ線路を逆に走りました。
幼すぎて覚えているはずがないのに、
ハルビン駅の駅舎やモスグリーンのホームの天井を見た途端、
ああ懐かしいなあって、記憶のどこかに刻まれていたのかもしれません。
その時、残留孤児の方と会う機会があり、
めったに泣かない母が彼らを強く抱きしめて号泣しました。
よく生き抜いたね。あなたはお母さんに捨てられたんじゃない。
そうしなければあなたが生きられなかったから。
20世紀最高の歌姫と称えられ、
華麗な恋愛遍歴や酒、事故、病気にまつわる壮絶な生涯は有名だが、
こうした戦時下の抵抗活動はあまり知られていない。
ピアフが1963年に47歳で亡くなった時、私は19歳でした。
恋に恋する、たかんな時期。
二十歳で初めて出場したシャンソンコンクールで、
ピアフの七つの大罪を歌ったのです。
すると審査員から、
あなたのような幼い顔にピアフはまだ早い。
男心はつかめないなって、コテンパンにやられました。
同時に私は、いわゆる和製シャンソンに違和感を持ち始めていて、
いつか自分の役でちゃんとピアフを歌えるようになりたいなって思ったのです。
それからピアフの生涯を改めて調べてみた。
戦争を生き抜いた強さ。
晩年の奇跡のような輝き。
ピアフは苦難の時代でも前を向き、晴れ晴れとそして思い通りに生きた。
その生き様が母と重なるんですよ。
私が年を重ねたからこそ表現できるピアフがある。
今こそピアフの物語を歌いたい。
話の肖像画
05:44

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