00:04
戦後史開封
岸壁の母、息子を待ち続けた橋野伊勢
第2話、のしかかる貧困と戦争
ご案内役はナレーターの徳光良子です。
岸壁の母のモデルとなった橋野伊勢は、
北海道函館で10年間結婚生活を送った夫と私別する
昭和5年9月のことだった。
その悲しみが癒えないうちに、もう一つの不幸が襲いかかった。
2歳になったばかりの長女、英子が亡くなったのだ。
伊勢は、当時のノートに次のように書いている。
夫の死よりも悲しく、声を限りに泣きました。
夫の百家日が過ぎたばかりなのに英子に去られ、
希望を一つ失いました。
針を持つ気にもなりません。
涙ばかり出て、私の心の支えは幼い真嗣だけになりました。
真嗣一人が生きる希望を与えてくれます。
真嗣は母の悲しみを知る余しもなく、
母に抱かれて寝るのを喜びましたが、私は片手を取られたようです。
夫、娘と相次いで亡くした伊勢は、悲しみから逃れるため、
昭和6年2月末、5歳だった一人息子、真嗣の手を引いて函館を離れ、上京した。
アクシデントが起こったのは、真嗣が中学2年の時だった。
真嗣は肺炎で40度の熱が4、5日続いて渋滞になり、入院生活を送ることになったのだ。
伊勢には高額な入院費用が払えなかった。
親戚に頼んでも聞き入れてもらえず、伊勢は着物をしちいれして何とかその場をしのいだ。
真嗣あればこそ、今日まで働いてきたのです。金には買えられません。
03:01
真嗣さえ元気になれば、借金など何とかなります。
真嗣に万一のことがありましたら、明日からこの世に用はありません。
働くこともないのです。伊勢はノートにそう記した。
真嗣が退院した時は苦しみも忘れて喜び、二人で泣いたという。
二人きりの母と子は厳しい貧困の中で絆を深めていった。
伊勢は一人っ子で函館の平凡な家庭の中で少女時代を送り、女学校に進んだという。
父は外国航路の船員で年に二、三回しか帰ってこなかったため、
真嗣と二人きりの生活が続いた。
この真嗣について伊勢は次のようにノートに書いている。
私は母に何一つ教えてもらえません。
居利用のものを与えてくれるだけです。
可愛がってくれるでもなく、優しい言葉もなく、私はまるで預かりっ子のようです。
甘えることもできず、時々寂しくなりました。
母との関係で寂しい思いを経験した伊勢の老いたちは、
真嗣への深い愛情に少なからず影響を与えたのではないだろうか。
伊勢が戻らぬ真嗣を待ちながら大学ノートに書いていた文章を、
昭和49年に未帰還兵の母として出版した新人物往来者の椎野八塚は、
真嗣に対する伊勢の愛情を、
息子に凝り固まっていた、と表現した。
凝り固まった理由について椎野は、
一つは夫や娘との私別以来、母一人子一人の寂しく苦しい生活の中で、
張り仕事だけを頼りに懸命に真嗣さんを育てたからでしょう、という。
そして、伊勢の真嗣に対する愛情について、
最後まで生きているという自信を持っておられたので、
伝説になるほど息子にこれがたまらざるを得なかったのです、と説明する。
貧困と戦争は、つい最近まで日本人に重くのしかかっていたのだ。
産経新聞社がお届けする音声ドキュメント
06:11
岩壁の母、息子を待ち続けた橋野伊勢
最終話の次回は、伊勢が待ち続けていた真嗣が生きていた事実をお伝えします。