産経新聞紙面に掲載された「話の肖像画」。歌手の加藤登紀子さんが、自らの反省を回顧する。(代読は加藤さんの次女、 Yae さん)
‥‥平成4年、父、幸四郎さんが82歳で亡くなったとき、遺骨をスンガリー(松花江)に流した。登紀子さんの生まれ故郷で、両親がこよなく愛したハルビンを流れる川である。ロシアの専門家を養成する哈爾濱(ハルビン)学院出身の父の夢は「ハルビン発パリ行きの列車に乗る」ことだった。
 「父は、お酒が好きで、歌が好きで、何より人間が大好きな人。戦後、引き揚げてきて、レコード会社に勤めたり、興行師になったり、ロシア料理のレストランを始めたり…どんどん何かをおっ始める、怒濤のように切り開く、そして家族を路頭に迷わせる(苦笑)」

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

歌手である加藤登紀子さんの父親の夢とロマンが描かれています。

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【話の肖像画】
歌手加藤登紀子② 夢とロマンで路頭に迷わす父
加藤登紀子さんの父親の夢とロマン
1992年、父高志朗が82歳で亡くなった時、遺骨を消火口に流した。
登紀子の生まれ故郷で、両親が子よなく愛したハルビンを流れる川である。
ロシアの専門家を養成するハルビン学院出身の父の夢は、
ハルビン初パリ行きの列車に乗ることだった。
父はお酒が好きで、歌が好きで、何より人間が大好きな人。
戦後、引き上げてきてレコード会社に勤めたり、工業士になったり、ロシア料理のレストランを始めたり。
どんどん何かを追っ始める。
路頭のように切り開く。
そして家族を路頭に迷わせる。
母はいつも父の男のロマンの尻拭い役。
給料は飲み台に消えちゃうし、突然引っ越すと言い出したり、
母の世話にならないと宣言していたレストランも、結局は母が切り盛りすることに。
母は気丈で凛としていて、我が家の船長役。
沈めるわけにはいかないから頑張る。
母がいなければうちはとっくに家庭崩壊していたでしょうね。
時に壮絶な夫婦喧嘩もしましたけど、母は結構面白かったわよって。
歌手になるきっかけを作ったのも父だった。
甲子郎はハルビン時代イタリアから来たプロのバリトン歌手に個人レッスンを受けていたほど歌が大好き。
戦後は京都で新人歌手を要請する歌謡学院を主催。
小学生だった時子はその同様の部に通った。
そして東大3年の時、アマチュアのシャンソンコンクールに父が勝手に応募してしまう。
1964年、東京オリンピックの年でした。
優勝商品がヨーロッパ旅行。
それに釣られたんですよ。
だって、個人の海外旅行が自由化されたばかり。
簡単に外国へ行ける時代じゃなかったですからね。
でも最初の年はピアフの歌を歌って審査員からダメ出しをされ、結局4位。
次の年は父と必死で作戦を練り、ピアフのような大御所の歌はやめようとなった。
そして当時流行っていたフレンチポップスのような曲を選んで優勝。
ヨーロッパ旅行を楽しんだ後に歌手デビューが決まったのです。
だから私の場合、父に春便発、パリ行きの列車に乗せられたという感じかな。
甲子郎は旧正高校などの涼歌も大好きだった。
歌手になった時子に涼歌を歌わせたくて、
涼歌は男が歌うものだという旧正高校OBの反対を押し切って、
47年に日本涼歌集のレコードを企画、ヒットさせている。
旧正3校、京都の美和子集校の歌は今も歌い続ける代表曲の一つだ。
父はね、70歳を過ぎてから一人で世界中を回り、
南アフリカの音楽がすごいって教えてくれたり、
美味しいものを食べて、お酒を飲んで、歌って、踊って、
人が一番輝いている時が好きだったのね。話の肖像が。
05:10

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