2024-04-22 07:52

岸壁の母(1)希望を捨てず舞鶴港へ

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先の大戦が終わると、海外には多くの日本人が残されました。京都府の舞鶴港で息子の端野新二さんの帰りを待ち続ける母、いせさんは、ヒット曲「岸壁の母」のモデルになりました。

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

昭和20年に佐紀の大戦が終わると、海外にある日本の領土や日本軍が占領した地域にはおよそ660万人もの日本人が残され、舞鶴港にはおよそ66万人が引き上げてきます。桟橋で出迎える人の中には、息子の橋の真実さんの帰りをひたすら待ち続ける母、伊勢さんの姿があります。

戦後史開封
戦後史開封
岸壁の母、息子を待ち続けた橋の伊勢
第1話 希望を捨てず舞鶴港へ
昭和20年に佐紀の大戦が終わると、海外にある日本の領土や日本軍が占領した地域には、およそ660万人もの日本人が残されました。
京都府の舞鶴港には、ソ連によってシベリアに逆流されていた人など、およそ66万人が引き上げてきました。
桟橋で出迎える人の中に、息子の橋の真実さんの帰りをひたすら待ち続ける母、伊勢さんの姿がありました。
ヒット曲
岸壁の母のモデルとなった伊勢さんと真嗣さんの物語を、産経新聞に平成12年に連載された、親と子の日本史をもとに音声ドキュメントでお届けします。
ご案内役はナレーターの徳光良子です。
京都府の舞鶴港に、引き上げ桟橋という桟橋がある。
平成6年に復元された桟橋の有書書には、こう書かれている。
幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩を記した桟橋。
桟橋の脇に佇み、我が子、夫を待ち続けた岸壁の母や妻。
そして、暖かく迎えた市民の姿、この史実を伝えるため、歴史の語り部として復元した、その桟壁の母を象徴したのが橋野伊勢だった。
伊勢は戦地から戻らぬ息子を桟橋で待ち続けた。
岸壁の母、息子を待ち続けた橋野伊勢
引き上げが終わり、息子の死亡告知書が届いた後も帰りを信じ、
昭和56年7月、81歳で亡くなるまで息子との再会の希望を捨てなかった。
伊勢の一人息子、信治が満州、今の中国東北部に渡り、初年兵として入隊したのは昭和19年11月、19歳だった。
信治は立教大学を中退し、商船大学を目指して浪人中だった。
しかし、戦争の状況は悪くなり、学徒動員も始まっていた。
信治は、「内地で召集されたら、どの戦地に行くかわからないけど、満州の軍隊は強い関東軍だから安心。」
と考えたと言う。
伊勢は、「お前が戦死したら生きていけない。働けるだけ働き、何でも売り、食べられなくなったら自殺するよ。」と言って信治を送り出した。
昭和20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破って、満州に侵攻してきた。
第一戦に出ていた信治は行方不明となった。日本は戦争に負け、伊勢は悔しい気持ちだったが、
信治が帰ることを思うと、悲しみも恐ろしさも忘れ、明日にも信治が帰ってくるような気がした。
と、当時ノートに書いている。
伊勢はそれからは東京大森の自宅から帰ってきた兵隊たちが乗る列車の着く品川駅に毎日出かけた。
帰ってきた人に信治の所属を訪ね回った。
しかし、情報は入らない。
じっとしていられなくなって、引き上げ船が入港する舞鶴港に初めて出向いたのは、昭和25年1月だった。
信治の好物のケーキと弁当を持って岸壁に立った。
大勢の出迎えの列の前に並び、
「信治はいませんか?信治!信治!」と空腹も忘れて呼び続けたが、誰にも耳を傾けてもらえなかった。
伊勢はその後も岸壁に立ち続けた。
信治王、どこにいるのか?生きていないのか?母さんと呼んでもらえないのか?と、海に向かって叫んだ。
ノートには、
戦死したのなら約束通り自殺します。
毎日帰ってきた時に母がいなければ、私以上に悲しむかもと思うと自殺もできません。
金があったらここに小屋を建てて待っていたり、
今少し待つのだと自分の心に言い聞かせ、涙をふいたと記している。
報道で伊勢のことを知った作詞家の藤田雅人が岸壁の母と題した歌を作り、昭和29年に菊池彰子が歌ってレコードが発売された。
伊勢はその頃、過労で2ヶ月以上床に伏していた。
母は来ました。きょうも来た。この岸壁にきょうも来た。
伊勢はその時はまだそれが自分のことだとは知らず、ラジオから流れる歌詞に我が身を重ね、涙を流していた。
産経新聞社がお届けする音声ドキュメント
岸壁の母、息子を待ち続けた橋野伊勢
第2話の次回は伊勢がなぜ真珠を待ち続けたのかを考えます。
次回予告
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