ゴジラ東宝対ガメラダイエー
戦後史開封
ゴジラ東宝対ガメラダイエー
第2話 特撮の神様ツブラヤエイジと
特撮の素人ダイエー 驚愕の緻密さで挑戦
怪獣映画第1作目となったゴジラは大当たりした
ヒットに勢いを得て東宝は即座に続編の制作に着手
翌年に第2作目ゴジラの逆襲を公開した
成功に安堵したプロデューサーの田中智之はこの頃
冷静にヒットの理由を考えるようになっていた
そして、こう結論を出した
特撮の魅力は起こり得ないことをリアリティたっぷりに画面に出すこと
ゴジラは現実に存在しないからこそ魅力的だった
その特撮を担い怪獣映画というジャンルを確立したのは
今なお国内外にその名を轟かせるツブラヤエイジだった
ゴジラの原案をひねり出したのは田中だが
同じ時期にツブラヤも密かに同様の構想を温めていた
何もかも忘れて楽しめるような奇想天外なものを作った方が面白い
私の頭の中では昔のキングコングが踊り怪獣映画のストーリーをまとめていた
昭和17年公開のハワイマレー沖海戦は日本軍の真珠湾攻撃が題材
ツブラヤが縮尺400分の1
およそ4000平方メートルにも及ぶ壮大なミニチュアで再現した真珠湾を見て
軍の関係者でさえそのリアルさに驚嘆したという
ゴジラ映画でもゴジラの着ぐるみにふさわしい精密なミニチュアのセットが求められた
着ぐるみの大きさがおよそ2メートル
映画の中での設定は体長50メートルだから
縮尺25分の1のミニチュアのセットが必要だった
現在人が住んでいる場所が物語の舞台
おかしなところがあれば観客にわかってしまう
スタッフはロケ版を重ね徹底的に細部にこだわった
こんな体験もあった
銀座のデパートの屋上で
ツブラヤをはじめとする特撮スタッフはカメラを手に相談をしていた
新橋のあの辺りに火をつけて銀座の方へ燃え移らせよう
事情を知らない者にとっては不審者そのもの
案の定ツブラヤたちはデパートの出口で不審尋問を受ける羽目に陥った
ゴジラでコンビを組み
ツブラヤとツーカーの関係となった監督の本田石郎は
観客が特撮部分にいつも驚きを持ってくれる
そういう作り方をしている
と特撮映画作りの秘訣を明かしている
昭和59年に公開された復活ゴジラのプロデューサー田中文夫は
ツブラヤさんの特撮には手仕事の温かみがある
当時としては世界一だった
ツブラヤさんが今の技術で特撮を作ったらすごいものができると思う
と話した
一方の大英である
東宝と違い特撮の専門セクションを持っていなかった大英
昭和ガメラの監督
湯浅範明は特撮に苦闘した日々をこう振り返った
ガメラの制作が決まると大英の撮影所の所長が
ツブラヤを呼んでやろうかと言ってくれたが
スタッフは冗談じゃないと拒否した
だがやはり特撮は素人で
ツブラヤさんという巨大な砦に竹刃で挑戦したようなもの
湯浅はガメラ制作が決まるとすぐに原造所に留学し
合成技術を取得
ピアノ弦を使って怪獣の動きを操作する
双円という技術や着ぐるみの造形などを
東宝OBのスタッフに教わった
特撮に欠かせない絵コンテの制作は初めてだったため
書き上げるのに1ヶ月かかった
常に頭にあったのはゴジラとの差別か
ゴジラから10年たって同じものをやってもダメ
カットを頻繁に切り替えて
4つの場面で戦いが繰り広げられ
最後にガメラが勝つ
足元から見上げるようなカットで
巨大さを演出しているゴジラに対し
ガメラは極力地面を這うカットを多用した
1つの場面が上手くいくと
スタッフで肩を叩き合い喜んだものだ
特撮は試行錯誤と苦闘の連続だったが
第1作の成功に自信を得たスタッフは
作品を重ねるごとに自信を得て
特撮にのめり込んでいった
と言わさ
世界のトップを走ったゴジラの特撮スタッフ
差別化を図りながらチャレンジした
ガメラ特撮チーム
そんな対決の構図が
昭和40年代の怪獣ブームに拍車をかけた
次回第3話は
ゴジラがシェーをする大変貌と
映画産業の社用化で眠りにつくガメラをお送りします
案内役は私
ナレーターの中川ムックがお届けしました
昭和20年
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