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2022-09-14 20:50

97歳の大先輩が語る「あのころの産経新聞」 サッカーライター・賀川浩さん

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現役最年長サッカーライターとして知られる賀川浩さんは産経新聞の大先輩。司馬遼太郎さんがいたころの産経新聞を知る賀川さんに、当時の社内の様子などを聞いた。

【賀川浩(かがわ・ひろし)】
大正13年12月29日生まれ、神戸市出身。神戸一中から神戸商大。陸軍の特別攻撃隊に所属し、現在の北朝鮮で終戦を迎えた。昭和27年に産経新聞に入社。サンケイスポーツの編集局長(大阪)などを歴任し、独立。サッカーのW杯を10度取材し、日本人初の国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞。平成22年に日本サッカー殿堂掲額。

 


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【制作】産経新聞東京本社・運動部
【更新】毎週水曜日(予定)

                                      

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産経新聞のポッドキャストでお届けするスポーツここが知りたい。 本日は最年長サッカーライターとして知られる
香川博さんにお話をお伺いします。 現在97歳の香川さんは
神戸で生まれ、子供の頃からサッカーに親しんできました。 陸軍の特別攻撃隊に所属し、現在の北朝鮮で終戦を迎えました。
戦後、あるきっかけで産経新聞に入社。 多くのスポーツ報道に携わってきた大先輩の香川さんに、当時の産経新聞の様子などを話してもらいました。
今日は産経新聞の話をします。 実は産経新聞が今年、大阪新聞ができてから100年になるので、
100年の話でもしようかなと思って。 大阪新聞の方が昔から勇敢していたわけですからね。
僕らが入る前は、大阪新聞は有名だった。産経新聞も後からできたから。 大阪新聞は非常に大阪の勇敢誌として、当時の立ち売りなどを合わせて、
公表が何十万人だったのか、すごい数を出していましたからね。
- 香川さんが産経新聞に入ったのは、昭和27年ですね。
- その頃ですね。
- 京都で、スウェーデンから来たチームのフェルシンボーリの原稿を書かれたんですか。
- そうです。フェルシンボーリのオリンピックは、1952年の昭和27年ですからね。
産経新聞はその頃にスポーツ新聞も出してきて、スポーツ新聞を出す時に、ちょうど2月にヨーロッパで卓球の世界選手権をやってきて、
それから大きな国際大会が2日か3日同じ時に重なって、同じ卓球屋とかそういうのを見るために、僕は寝る前だったけど、そのままずっと毎晩、夜中まで泊まっていたわけです。
- 木村将大さんのことは覚えていますか。
- 木村将大さんは、日本のスポーツ記者としてはタイ科であるし、アムステルダムのオリンピックの競泳の選手で、
木村さんは競泳がそんなに強くなかったから優勝もせないんだけど、
アムステルダムに行って、オリンピックの時には木村さんは都会で、
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- 昔の郷土通信の都会で。
- 都会で行ってた。あれは同盟の都会で行ってた。
その向こうで、その頃は朝日新聞のベテランの記者がいたわけですけど、木村さんもその頃からの都会で。
- 香川さんが産経新聞に入るときも、木村さんに言われて、じゃあ入ろうかと言われなかったんですか。
- たまたまその頃、ヘルシングボーリューというスウェーデンのアマチュアのクラブのチームがやってきて、
- 僕はたまたま京都に住んでて、京都新聞の連中なんかに頼まれて、
- 原稿を書いたんですか。
- 京都新聞に原稿を書いて、ヨーロッパからね。
- 当時の僕としたら、新聞社の人間としてもね、幅の広い地域でヨーロッパから天国にいろんなチームが来るけれども、
- ヨーロッパから直でね、サッカーだけのために来るなんていうのは珍しかったわけです。
- そういうこともあわせてね、その頃からサッカーの世界性というものをこれで見てもわかると、
- たまたま僕は京都で、僕の仲間とやっててね、面白いものを書く人がいるので、それを産経の方に言うと、
- 京都産経新聞がボールゲームの専門家がいないということでね、僕の地域見てね。
- その時に木村将来という大記者に会って、これはなかなかのおっさんやなと思って、そこでこちらの方が完璧して、
- これを作ろうと思ったのは、民文記者とかね、スポーツ記者とかまだ自分の意志を決められていた頃でね、
- それがたまたま木村将来さんと会って、向こうの建築機もあるし、何しろベルリンオリンピックの頃から特派員といっているわけだから、
- 民文のことも詳しいだけじゃなくて、スポーツ全体も詳しくてね、それがきっかけで、木村さんとの付き合いから産経新聞で、どうやという話になって。
- あれ、産経スポーツを作る時も木村将来さんと一緒に作られたんですか?
- 産経スポーツというのはね、ちょうどスポーツ新聞を作ろうという気がね、産経の中にもあって、それには誰がいいかというのがあって、
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- 木村将来というスポーツを何でも知っているおっさんがいると言うので、その木村将来さんがたまたま産経とも、みんな同じスポーツマンで関係があるから、
- 木村将来が産経に入って、その産経でボールゲームのいいのがいないと言うので、
- たまたま僕は京都新聞から何かに、ちょうどヘルシングボールというスウェーデンのチームが来日して、
- えらい人気あってね、アメリカから野球のチームは交流はあったけど、ヨーロッパからチームが来るなんていうことを考えたこともないのに、ヨーロッパから直にサッカーのチームが来て、
- 5試合ほどして日本に帰ったんですよ、その5試合を僕は見て、それを木村将来も呼んで、ちょっと大手芸を受けたということになって、そこからがこの巻きごた日記へ入ってきた。
- 当時の産経新聞の編集局には柴里太郎さんとかもいらっしゃるんですか?
- 柴里太郎さんはね、僕があの頃京都市局に行くのよ、京都市の大手の前に来てたから、京都の機械はみんな大手だから大事だから、それが柴里太郎さんの財産だったんです。
- 柴里太郎さんが大阪で産経なんかもどこに来るまでに、みんな一緒の大部屋の中にいたときに、これの2倍くらいある立角があって、その立角に運動部がここにいて、その向こうの端に文化部のデスクがあって、そこに柴里太郎さんがいた。
- 僕が運動部のデスクにいた。柴里太郎さんが大阪新聞に風神雷神という絵筆を書いていた。
- あの新聞から文章にタクがあったからね、それを見てね、その頃の産経の新聞のデスクが柴里太郎が始めるときに、みんなデスク連中がね、これが自慢なんですよね。
- タクのがね。
- 自分らもみんな描きたいわけ。柴里太郎さんの原稿を見てね、他所のデスクの原稿を絵で描きに行ってね、うちのデスクにね、この人誰だしね、マイナスなーって言って、自分らのことほっといて、他所のデスクを褒めたんで、絵が機嫌が悪くなって。
- 笑
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- そこに柴里太郎がいて、その10人ほどデスクが並んでて、で、女性記者をね、産経新聞の課長がドンと入れるというのがね。
- 毎年ひさくさんのとき?
- その頃女性記者なんてね、天下の浅い人でもそんなにおらないからね、ものすごい財産でね、そのおばさま連中がザーッとここに寄って、僕がこっちの足に寄って、そこから向こうはもう文化部のデスクで、おばさんばっかり。
- 笑
- ブルスよ、ブルスよ、おばさんばっかり。みんな当時女子代でね、優秀なスペースだったみんなね。
- だから、人と人と話してね、初めて、そういうとこだったから、新聞社というとこ悪いとこがないねと、みんなすごいからね。
- 描くのうまくて。
- それで色々教えてもらって、それから大阪女子マラソンという、大阪での女子マラソンをやろうという話になって、それを僕らが担当して、女子マラソンをやることによって、
- 産経新聞の新聞としての核がね、それまでは私は毎日マラソンに行ったけど、大阪の市内でマラソンを走る、ものすごい人気があったんですよ。
- 僕らもその仕事をやらされて、そういうところからしょうがないというわけでもないけど、とにかく運動部にのめり込んでいったわけです。
- 昔、お話をお伺いしたときに、運動部にも女の子がいらっしゃったでしょ。
- 運動部にね、東京に僕らが入って、次の年に女の子が2人入ってたんです。
- いや、女の子が入ったら強いじゃないかと言って、それが7歳くらい出た子が2人で、1人は途中で辞めたんです。
- もう一人は、東京にうちに来て、東京で長いことをやってたんです。
- 昨日か一昨日、何年か前年か知らないけど、彼女のことをすぐに思い出して、ああ、あんな子がいたな、女子の季節しては、よくやってたなと思って見てましたね。
- 昔やから、原稿を鉛筆で書いて、赤いやつで直すじゃないですか。
- ああ、塩を入れるというね。原稿を直したり、手のほうを直したり、あるとしては、専門用語では塩を入れると言うんですよ。塩を入れてもらうのもいいけど、もちろん原稿を書き直すのが多いもんね。
- ほとんど元の姿が残っていないような感じ?
- うん、そういうときにね、今日の良かったのはね、僕らが入ったときのキャップをやっていた木村将来さんというのが一番働きがかりでね、
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40歳そこそこぐらいで、ポーチのことも詳しいだけでなくて、自分も英語も読めて、色々勉強をかけて、僕らが入ったときに木村将来さんが運動部長だったというのが、僕にとっては幸いですよね。
その頃は各社の運動部長さんにとってはね、みんなオリンピックの名選手ばかりでした。朝日新聞の三段跳びの、それから毎日新聞も三段跳びの、みんなもそういうオリンピックの名選手がね。
だから逆に言うと名選手だけども、自分の三段跳びはね、専門家やけどね、それ以外は何もしないわけや。
それを木村将来さんは、自分は水泳でオリンピックとしてそんなに上の方に行かなかったけども、新聞の読み解く力という点で感じた木村将来が最後に来た。
だから木村将来があったところへ僕は入れてもらったから、あとね、いろんな世界中に出て行っても、どこにも助けが来ないような顔が聞いたのは、やっぱり木村さんのおかげやね。
あとあの方はどうですか、北川定次郎さんは。
北川定次郎がね、途中から相撲をやり始めて、ちょうど大阪本場所が始まることになってね、その年に上昇ということで、木村将来さんが僕や北川君に大阪本場所が始まるから、関係新聞の中で大阪本場所をどのように取り上げるかというのを考えろと。
僕と木村さんと考えて、大阪の本場所やから大阪にある地域を描くんだけれども、それはやっぱり相撲の記事を書かなきゃ。相撲の記事はやっぱり大相撲であると。
相撲の記事を大相撲で相撲を書いて、しかも相撲の中に雑貨、昔の新聞さんは相撲の記事を言うと、とちゃまきというのがね、右手で左手でたおしたと。
ピアイ経過だけを書いて、それを新聞に出すと思うんです。ところが当時はピアイ経過のほかにピアイの全体のその日の流れも入れてね、それを僕らがいろんな小柄やら面白い話を持ってきて、それを北川さんに報告して、北川がそれをまとめて、
それで熱戦1番という、その日の1番だけのピアイをね、それがむろくも増えた。東京でも大阪のサンスポーでそれができて、地面に乗った時にはみんながワッと言ったわけよね。
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だから朝日の大谷博や、毎日新聞のダルセナという、僕らの先輩でいい記者がたくさんいたけど、それをみんなね、大阪のサンケイさんだったね、すごい記者と言われたね、ということで。
あれはやっぱり木村将来の幅の広さで、彼の長年の今から思えばね、その頃何もそんなに言わなかったけど、今にして思えば、むったいない話ですよ。
―当時の新聞社の編集局というのはかなり活気があったんでしょうか、元気が良かったように。
そういうのを出すと、それが反応がボーンと出てくる。他の新聞からも反応が出るから、みんな面白かったです。あれ頃、僕らは新聞を作っていて楽しかったです。
―若い記者もたくさん活躍したんですね。
うん、若い記者はね、そうね。若い記者を言っても、やっぱり結局勝ちもないからね、本人の実力が出るからね。これはまあ、あんまり自分でどうこう言っても、持っているものがなければね、すでに出ませんよ。
―1974年の西ドイツのワールドカップ、ベッテンバーワーとクライフのワールドカップの時に。
ああ、あれは1974年の。
―その時、50歳で初めてワールドカップに現地に行かれたんですか。
僕はワールドカップを、それはね、オリンピック何回かどこかへんの話があったけども、それはオリンピック言うとね、日本では運動部の一番華やかなのはオリンピック時代だから。
僕らはあんまり、まあ大阪に木村さんがどっちかというと、やっぱり面白いものを読者が呼んで楽しいものを書けと言うことが主力だったからね。
その中で、僕らは女性機関もたくさんいたけども、いろんな機関からいいものを教えてもらって、まあおかげさんで、勤務者のものを書く楽しみ、作っていく楽しみ、それは十分味合いましたよね。
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―ものを書く楽しみのどんなところが楽しいと思いますか。
たとえば相撲なら相撲という一つの十五日間の相撲の流れがあって、その十五日間の中の一日の相撲の中で一番面白い部分を引っ張り出して書くのがいい。
だから当時はほとんどの人はテレビを見て、下野のテレビを見ているわけだよね。
ああだこうだと思っているのを、今度は独立の新聞を見たら、ああなるほどこうだったんだなということを自分だけ思い出して、そこでもう一本読み直そうというのがあったから、だから非常にたくさん読んだよね。
田川定次郎という僕の次乳で仲間が相撲機関になって、熱戦一番をやろうということになって、東京と一緒に考えて、熱戦一番という乳だよ、熱戦が一つだけだから熱戦一番。
それから向こうで現場で相撲場に座って、だいかんというかいろんな話のこだねがありますからね、面白い話。それを拾ってきて、田川さんが、それとその日の流れと、それと一本だけで勉強を書くわけ。
それが当たって、僕らが東京へ転機したときに、東京の社長が産経新聞の中で熱戦一番を読まれたのは何の違いかと、みんなよくやったなという話はしてくれたけどね。
もっとも我々はそういうものを作るつもりでやったわけだから、楽しいことは楽しかった。
ありがとうございます。
ありがとうございます。本日は私の大先輩でもある香川さんに、王子の活気あふれる社内の様子などを話してもらいました。
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