改めまして、今晩のゲストは、株式会社イングの創業者で、名誉顧問でいらっしゃいます、青木達通さんです。青木さん、こんばんは。
こんばんは。
先週について、今夜もよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いします。
先週、イングの躍進の秘密のようなものを伺いました。
今晩は、その躍進につなげた創業者、経営者としての青木さんの老いたちに迫ってみたいと思っております。
資料をちょっと読ませていただきますと、7人兄弟の生育校でいらっしゃったわけですよね。
はい、そうです。
家庭のこと、あるいはご両親の教育方針なんかについて伺えますか。
はい。家のほうはですね、兼業農家でですね、農業と、それからよろず屋ですか、雑貨屋さんですかね、今のコンビニ的なものですね。
両方をやっておったんですね。
堺でされてたんですね。
親は2人とも明治の人間で、朝早くから夜遅くまで一生懸命働いている姿はずっと見とったんですね。
私も手伝いながらやってきました。
特にお袋なんかは近所の人のお世話までしてと。
親の頑張る姿ですか、これを見てきたんで、反対にこの母親からは我慢しなさいということ、
それから自分のことは自分で決めて自分でやりなさいという部分。
それから絶対休んだらダメっていうことで。
休んだらダメ、はい。
一個も休ませてくれなかったんですよ。
風邪行こうが、ちょっと怪我しようが。
病気でも休めないんですか、学校。
だから僕は小中高、ずっと戒禁症でした。
そういう部分が親の教えで親を見とって、そういう習慣がつきましたね。
なるほどね。
お父さんとお母さんで、例えばよろずやさんのような店をやっておられるときの役割分担みたいなものはされてたんですか。
親父はほとんど農業ですけどね。
農業は。
母親は漁をやったりとかやってましたけどね。
なるほど。
そうなるとお父さんの方が外に出てることが多いので、
青木さんとしてはお母さんの背中を見ながら、あるいはお母さんの話を聞きながら育ったという部分が結構大きいですか。
大きいですね。
なるほど。
お母さんの教育のたままかもしれませんね。
長兄兄弟の末っ子ということなんですが、お兄ちゃんお姉ちゃんたちとの関係はどうだったんですか。
かなりかわいがってもらった、あるいは厳しくされた、どちらだったんですか。
あんまりね、かわいがってもらって、あんまり何も言われなかったですから。
言われなかった。
僕はどっちかというと、僕は自分で近所の人と遊んどったという感じですね。
だからあんまり兄弟で一緒に遊んだりとかはなかったですからね。
年が離れてとかそういうこともあるんですか。
それもありますね。上がほとんど女だったんで、姉だったんで、一番上がだいぶ年が離れてますね。
そういう部分で、なんか自分で遊ぶ習慣がつきついてましたね。
じゃあ近所の子供たちとよく遊んだということでしょうね。
次に学校時代のことを伺いたいんですが、普通で小学校、中学校、高校といくわけですが、小学校時代はどんなお子さんだったんですか。
小学校時代は本当にもう外へずっと夕方まで遊んでましたね。
それから昔で言うベッタですか、面子、それからB男とか、ああいうことをよくしたりケンパしたりですね。
とりあえず外で遊んでました。
あまりその時は例えば、学校の勉強しろとかそういうことはお母さんは言わないんですか。
親は一切ね、勉強しなさいとか言わなかったですね。
勉強はお好きでした。
いや、でもそういうのは嫌じゃなかったけど、センター監督は自分でしただけで。
中学になるとどうなりました。
中学になってですね、いろんな友達ができてという部分で、友達との遊びがやっぱり多かったですね。
ただクラブ活動もやってたりとか、勉強も一生懸命するようになりましたからね。
中学から。
はい。
ちなみにクラブは何されてたんですか。
もうね、2,3入って、陸上部入って、そこからテニスちょっとやってとか、それからちょっと体操部やったりとか。
もうすぐちょっと飽きてやりましたけどね。
でも体を動かすことは好きだったんですね。
そうです。大好きだったんですね。
陸上なんていうのはスポーツの王道みたいなものですから、そこもやられてるということですもんね。
中学の時、体操でも校内大会で大車輪にやってましたからね。
ブロッド回りですね。
アンナもしてましたんで、だいぶ運動が好きだったんですね。
なるほど。そこから高校ということになるわけですが、いつ頃から例えば職業のことを意識されました。
高校入った時はこんな仕事つきたいなみたいな気持ちは育ってたんですか。
中学3年生の時の担任の先生が、たまたま英語の先生で、よく授業中にお話をしてくれたんですよ。
どんな話かというと、外国航路の船長さんのお話をしてくれたんですね。
外国の船長だったら、いろんな国に行って見れるし、楽しいお話をしてくれたんで、船長に憧れたんですよ。
小船高校へ行こうと思って憧れたんで、ただ視力が全然ダメだったんで、担任したんですけども、
ただその先生によって英語が大変好きになって、高校になって英語のESSクラブに入ろうという部分で入りました。
先週から伺っていると、英語との出会いと英語を武器にしてということで、青木さんの人生はかなり成り立っているんですが、
その最初の道をつけてくれたのは、この中3の時の担任の先生ということになりますか。
その先生の話が大好きだったんですよ。授業中でもその話ばっかりだったんで。
いや、ちょっとは考えたんですけど、会計士になりたいとかですね。
そういうのは小学部だったんで、そういうのになろうかな、英語も好きやしとかいう部分で。
ただ、どれにしようというのはあんまりなかったですね。
だからどっちかというと、あんまり一生懸命これに向かってするようなことはしなかったですね。
でもその時は十分喋れる、会話できるという。
英語はある程度まで会話できましたけどもね。
そこは結構すごいなと思います。
目標を設定せずに能力が上がるというのはなかなかできないことだと思いますが。
なるほど、わかりました。
ここはもう4年間いらっしゃったわけですよね、ESSは。
はい、そうです。
4年間でこれやったESSというものがありますか。あるいは成績を上げたとか。
それは1個もないです。
1個もないですか。
ただ入って、友人が将来ずっと今までに続いている、すごい友達がずっと今も続いている。
なるほどね、これ同行の死と言ったらいいかもしれませんね。
そういう人たちを作れたことは財産かもしれないですね。
なるほど。
そのうちに4年生になるわけですが、就職先は、先週伺いましたけど貿易会社だったわけですね。
これはどういう経緯で選ばれたんでしょうか。
これもですね、あんまり自分自身就職活動しなかったんですよ。どっか行ったらええわっていう感じで。
夏休みもキャンプ行ったりとかいろんなの遊んでましたしね。
でもやっぱりちょっと入らなかった。
でも英語を使えるっていうのは貿易会社がいいかなっていう部分で、とりあえず貿易会社に行こうかなっていう考え的な部分が一番ありましたね。
でも英語という武器を持っていてその自信はあるわけですよね。
少しはね。
少しはね。
なるほど。
23歳で起業されましたので、1年いたかいないかぐらいですか。
1年ちょっとです。
1年ちょっと。
はい。
入られた時の感想、あるいはそこで身につけられたものというのはどういったものがありますでしょう。
そうですね。やっぱり会社入って、ただ僕は同期で入った社員がありますね。
やっぱりどうしても自分が比べてしまうんですね。比べてはあかんのですけど、なんでこいつと同じ給料なんかなとかね。
はいはいはい。
単純に思った時がありましたね。そんなのも思って。
でも英語も使えそうであまり使う機会がなかったんで、ペーペーなんで別に英語を使う機会もなかったので。
外国人との商談があるというのはどこまでまで言っているんですかね。
どこまでまで言っていませんからね。
なるほど。
じゃあ、入ってみたけどもちょっと期待発生だったというところはあるんでしょうか。
それは少しあって、ただ自分は英語が好きだったという部分があったんで、子供も好きで英語も好きで、
なんか英語でする部分が、やっぱり英会話しかないなと教えることしかない。
自分がセンター館から、自分とうちの先生何人か、4,5人、それぞれのクラスでオールイング室でやろうということでやったんですね。
生徒たちの反応はどうでした?
やっぱりね、初めはやっぱり恥ずかしがって、あまり喋ってこないんですよね。
オールイング室の先生が喋るだけじゃなくて、向こうも英語で返さなきゃいけないわけですからね。
そう。でもだいぶ慣れてきてね。やっぱり、生徒とはやめないんですよ、先生から。
初めはなかなかね、接触がね、僕はいろんな言うてもなかなか来ないとか、返事が返ってこないとかありましたけども。
でも授業中もやっといて、だんだんわかってくれたでしょ、中身の部分で。よかったと思いますよ。
そこでは、おじいちゃん先生だから、敬遠されることはなかったわけですね。
いや、どっかで敬遠されてたと思うよ。
ただ、僕の場合は、保護者に授業風景を見てもらってとか、そういうのもやりましたからね。
実際の授業を見ていただいてとか。子供もそうだから、たぶん、ノーって言えないでしょうね。
そこのところでね、僕は塾というものを肯定的に捉えてるんですよ。
学校よりも小回りが効いて、これからの時代はこれをしなきゃいけないというときに、ほとんど縛りなくできますよね、先生、あるいは経営者の人たちがこうやろうというところで。
学校はなかなかね、ルールがあったりとか。そこのところで、塾だからこそできた、身軽だからこそできたというメリットを感じられることはないんですか。
子供たちにダイレクトに必要なものを与えられるということだと思いますか。
それは絶対ありますね。だから思って、子供たちにとっていいやり方は何なのかとかですね。
これはすぐ出せますからね。でも学校先生はやっぱりちょっと無理だと思いますよね、ルールがあってとか。
だからそういう部分でいろんな、反対に我々教えるものが、子供たちがどうしたらやる気を起こしたりとか、理解すると、やっぱり工夫していろんなやり方をするんですよ。
だからそれは面白いですね、反対に。一つのパターンじゃなしに。だからそういう部分では塾のある意味での良さじゃないですかね。
伺っていて、経営者と同時に教育者だと僕は思うんですが、学校の先生じゃなくて、この塾をされたのが一番良かったような気がしますが、その辺を振り返っていかがですか。
自分自身は縛られるのは嫌いな性格だと思いますので、かえって自由にできたかなと。そういう意味で幸せだなというふうに思います。
これはね、生徒さんとか保護者の人たちにも受け入れないというところが一番大きいんですよね。わかりました。今晩もそろそろ時間ですので。
今日は塾の話と最後にしたのは、学校教育と塾との関係ということを来週はちょっと考えてみたいんですね。時代によって対立してた、あるいは補完してたといろんな関係があると思いますが、