あたりまして、今晩のゲストは株式会社イングの名誉顧問、そして創業者、青木達夫さんです。青木さん、こんばんは。
こんばんは。よろしくお願いします。
今晩から3週にわたって青木さんのお話を聞くということをさせていただきたいので、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まず、最初にちょっと申し上げたんですが、青木先生、タッグ先生と呼ばれているということなんですが、この由来から教えていただけますか。
はい。単純に私の名前がタッツグなので、はじめのタとグでキャーグということで、それが一番覚えやすいかなと。
英語的にも聞こえるんでということと、それと生徒にも全部英語名をつけたんですね。
英語名でお互い呼び合うと。お互い英語の環境ができるということで、授業中も英語名で呼び合いました。
アメリカナイズされているような教室の雰囲気が伝わってきますよね。
それをされたのは、最初に創業された時の英会話スクールで始められたということでしょうか。
はい、そうです。
昭和44年のことですよね。翌年が大阪万博ということになるわけですが、この時期に英会話スクールを創業された経緯とか狙いを教えていただきたいんですが。
大学卒業後ですね、1年少し英語が活かせるという会社に行くので、貿易会社のほうで勤めておったんです。
ただ、お前から自分自身何か仕事したいなと、商売したいなというふうに思ってまして、
そこで考えたのが、自分が何ができるかなということで、英語はずっと好きだったもので、英語を活かせる部分で、
たまたま翌年に大阪万博があるということで、これ英会話スクール面白いんじゃないかなということで、英会話スクールをしようというふうに思いました。
万博でたくさん外国の方も来られるだろうし、その後外国との付き合いも日本人に変わってくるので、その辺を見込んだ創業ということでしょうか。
その時、青木さん何歳だったんですか。
始めたのが23歳です。
23歳。じゃあずいぶん早く会社に見切りをつけて、自分でやろうというふうに決められたんですね。
それだけこれからは国際化の時代だということが頭にあったということなんでしょうね。
23歳からの創業ということで、少し失礼な話かもしれませんが、やっぱり若いので信用とか経験とかいうところで、
なかなか厳しい目立ったんじゃないかと思うんですが、その創業当時の苦労話をちょっとしていただけるとありがたいですが。
はっきり言って全部反対されました。親にもね。会社勤めておりましたんで、部長とか課長とか全部反対されたんです。
でもやっぱり自分はやっぱり自分がやりたいことを思い切ってやろうということで、
でもね、読んだ以上、やっぱり責任がありますからね。やっぱりその子の方が大事かなということで。
なるほどね。じゃあ、ジャッキーさんも、やる気は出してくれたでしょう。そこまでしてもらえればね。
そうですね。
なるほど、なるほど。
でも、やっぱりね、習慣の違いが、やっぱりね、だいぶ喧嘩しましたけどね。
そうですか。
その時はまた口喧嘩できたんですよ、英語で。
大体どの辺がぶつかるんですか。
一番ね、思ったのが、やっぱり日本人は何かお世話になったら恩返しをするの相手にしますね。
はいはい。
それが、相手にしなさいって言うと、もうノーって言うんですね。
ほうほうほう。
で、向こうの考えは、あるAさんからやってもらったら、他のBさんにするのが、それが恩返しだと。
ほうほうほう。
ということでね、だいぶそんなんもね、全然違いますね、やっぱり考え方が。
それだと日本では上手くいかないことも多々あったんじゃないですか。その辺のカバーリングは。
なんかあれですね、姉妹が来たような感じですか、同じような年代でね。
そうですね。
面倒見てあげなきゃいけないという感じで。
そんな感じですね。
もう一つ、そういう外国の方に教えてもらうということで、会社としての効果はありました。
例えば、あそこへ行けば外国の人にネイティブの英語を教えてもらえるということで、人が集まるようになったとか、そういったあたりなんですが。
それはね、やっぱり評判になりましたね。ネイティブがおるということで。
その当時はあんまりネイティブが教えてる英会話教室とか、なかったんで。
万博もあるということで、評判にはなっていうのは聞いていただいて。
だから広がりましたね。
幼稚園をしに行ったりとか、いろんな部分で、僕らは全部お願いしてと。
かなりやっぱり境を中心として、英語普及には尽力されたという感じがしますね。
ここが英会話スクールがイングの出発点ということで、この話を伺ってきたんですが。
その後、学習塾へと、守備範囲を広げていかれるわけですよね。
番組の後半では、そのあたりからまた伺おうと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
はい、後半です。
英会話スクールはなんとか旗揚げをして成功したというところから、今度学習塾に守備範囲を広げられるわけですが、
これはいつごろからどういう思いで業態を広げられたんでしょうか。
5年、6年たってからだと思いますけども、中学生の生徒さんと保護者の方が、
学校英語も教えてくださいということで、文法とかを含めてですね。
学校英語も教えるようになったんですね。
この学校英語を教え取ったら、今度は他の数学も教えてください、教科も教えてくださいということになったので、
それで塾の方に広げていった感じですね。
どこまで青木さん自身が教えられていたんですか。学校英語までは大丈夫でしょうけども。
あとは他の教科はまた人を募ってやりましたけどね。
そのあたりからも会社としてもグッと大きくなるというか、いろんな人材を抱える。
まだまだ小さいんですが。
だから一番大変だったのが塾になってから講師の参与というのが大変でしたね。
たまたま私、大学ESSクラブに入っていたので、クラブの後輩が助けに来てくれたんですね。
英語も含めて他の教科もできるというのもあるので、それがだいぶ助かりましたね。
大学のつながりで後輩たちから講師を募る、あるいはやってもらうということになるわけですね。
この段階になると、例えば教室を確保するとか、そのあたりではあまり苦労はなかったんでしょうか。
初めの頃はお金がなかったので、初めはほとんど集会所、団地の集会所へお願いに行って、
週何回とか。そこからちょっと借りれるようになって。
一番ラッキーだったのが、私の親戚の人が、ビル空いてるから、ただでいいから使ってみえへんかと言っていただいて、
それが高橋の方で、教室としてスタートしたんですよ。
無償でこれも、良いことやってもらったから噛めへんよ、使っていいよということで、無償で借りられたんで。
なるほどね。この良いことというのがキーワードのような気がしますね。
前は会話が喋れることが良いことだということで、会長さんたちが集会所を貸してくれたりした。
今度は子どもたちに勉強を教えるということも良いことだということで、その場所はただで提供しますよという人がいらっしゃったということですよね。
だから人に恵まれましたね。
やっぱりこれは教育というものに対する、多分周りの人たちの敬意という気がしますね。
なぜか、それをされている方にも、何とか自分たちでできることをしたい、協力したいという感じですね。
ありがたかったですね。
学習塾はその後順調に伸びていったんですかね。
そうですね。順調に伸びていって、だいぶ教室展開も図ってということで、やりました。
ちょうど時代的には昭和40年代の終わりから50年代の始まりですね。
なるほど。結構受験が厳しい頃ですね。やっぱり学習塾というものの需要が多くなってきて、
学校だけでは勉強できないという子どもたちがどこかにという、その需要があった時代でもありますよね。
そうですね。昭和40年代の後半から50年代にだんだん塾というのができてきてという部分で。
まだ僕らは初めの方だったんですけどね。そういう部分で塾の必要性というのは出てきたかなという部分で。