1. ラジオ産経ビジネスジャーナル
  2. その学習塾、「教室は地元の会..

起業時の教室は地元の会館、宣伝は町内の回覧板、テキストはなし。
今回の経営者インタビューは大阪を拠点とする総合学習館「イング」の創業者で名誉顧問の青木辰二さん。
第1回目は、脱サラして英語学習塾を立ち上げ、躍進した当時を語ります。

【聞き手】安本寿久(産経新聞大阪本社・編集委員)


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00:00
あたりまして、今晩のゲストは株式会社イングの名誉顧問、そして創業者、青木達夫さんです。青木さん、こんばんは。
こんばんは。よろしくお願いします。
今晩から3週にわたって青木さんのお話を聞くということをさせていただきたいので、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まず、最初にちょっと申し上げたんですが、青木先生、タッグ先生と呼ばれているということなんですが、この由来から教えていただけますか。
はい。単純に私の名前がタッツグなので、はじめのタとグでキャーグということで、それが一番覚えやすいかなと。
英語的にも聞こえるんでということと、それと生徒にも全部英語名をつけたんですね。
英語名でお互い呼び合うと。お互い英語の環境ができるということで、授業中も英語名で呼び合いました。
アメリカナイズされているような教室の雰囲気が伝わってきますよね。
それをされたのは、最初に創業された時の英会話スクールで始められたということでしょうか。
はい、そうです。
昭和44年のことですよね。翌年が大阪万博ということになるわけですが、この時期に英会話スクールを創業された経緯とか狙いを教えていただきたいんですが。
大学卒業後ですね、1年少し英語が活かせるという会社に行くので、貿易会社のほうで勤めておったんです。
ただ、お前から自分自身何か仕事したいなと、商売したいなというふうに思ってまして、
そこで考えたのが、自分が何ができるかなということで、英語はずっと好きだったもので、英語を活かせる部分で、
たまたま翌年に大阪万博があるということで、これ英会話スクール面白いんじゃないかなということで、英会話スクールをしようというふうに思いました。
万博でたくさん外国の方も来られるだろうし、その後外国との付き合いも日本人に変わってくるので、その辺を見込んだ創業ということでしょうか。
その時、青木さん何歳だったんですか。
始めたのが23歳です。
23歳。じゃあずいぶん早く会社に見切りをつけて、自分でやろうというふうに決められたんですね。
それだけこれからは国際化の時代だということが頭にあったということなんでしょうね。
23歳からの創業ということで、少し失礼な話かもしれませんが、やっぱり若いので信用とか経験とかいうところで、
なかなか厳しい目立ったんじゃないかと思うんですが、その創業当時の苦労話をちょっとしていただけるとありがたいですが。
はっきり言って全部反対されました。親にもね。会社勤めておりましたんで、部長とか課長とか全部反対されたんです。
でもやっぱり自分はやっぱり自分がやりたいことを思い切ってやろうということで、
03:04
兄親からは一旦感動や言われたんですけども、コンコンと話をして、これがやりたいということでOKをいただいて。
ただ面白いのが、もう全然お金なかったんで。
まだ就職してもあんま来ないじゃないですか。
全然資金がなかったんで。まず教室するのにはやっぱり教室の場所が要りますね。
それから宣伝の広告も要りますね。先生は自分ができるようになったら教材が要りますよね。
3点が全部なかったんですよね。お金もないということで、考えて町内の会館を一回お借りしたらどうかなと。
町会長さんとお話をしてですね、何とか来年万博もあるんで英会話を教えたいと。
この会館を使いたいということをお話しさせてもらったら、無償で貸してくれたんですよ。
それが1点の場所が行けた。
まず行けましたね、1つ。
宣伝の部分でそんなもう印刷するお金ないですから。
チラシもなかなかないですからね。
パッと思ったら地域には回覧板があるなということで、回覧板に手書きで募集のやりますということで回覧板を回していただいて、
生徒を集めたんです。
回覧板も質的な営利活動はどうとか言われなかったんですか。
だから一番の部分はやっぱり地域の英語を教えるというのは8点言うんですが、国際化に向けて地域のプラスになるだろうということで、
その時の町会長さんが大変よくわかっていただける方だったんで、いいですよって言っていただいたんです。
国際化ということに皆さん必要性を感じてたという時代なんでしょうね。
そうですね。
あと一つの問題点がありますが。
教材もほとんど使わずに全部自分でピクチャーカードという、今はフラッシュカードと言いますけども、
自分で絵を貼り付けたりとかして、絵を見て動作とか、例えば動物とか、その絵を見ながらほとんど英語でやってましたからね、授業も。
オールイングシュでその時からやってましたんで、教科書も全然教材は見ないで。
なるほど。じゃあここでお金がないことは3つの部分でクリアできたわけですね。
当時の生徒さんというのは大体何年生で何人ぐらいだったか覚えられてますか。
初め12名ぐらいだったんです。
でも小学生、中学生、一般の大人もおられて、ちょっと時間帯を分けてやりましたね。
全部で12人ですか。
はい、全部12人。
じゃあ分けると結構小人数で授業ができたということですね。
そうですね。
その分先生は何回もやらなきゃいけないんで、しんどかったと思いますが。
06:00
やられてみてその時の最初の印象ってどんな感じか。やはりやりがいがある。あるいは結構大変だなどっちのほうが。
どっちかというと面白いほうが。
面白い。
はい、面白い。生徒がね、小学生の子供が僕の家まで迎えに来てくれるんですよ。
早めにしてほしいんですか。
そうそう。行きましょう、言うて。
肩車したりして、一緒に教室行ったりとかやってましたんで。
ただですね、僕自身その時は英語が好きで、英語がある程度自信がありましたけども、どっから見ても外人には見えないですよね、ネイティブには。
日本人ですか。
せっかく英会話スクールするんやったら、やっぱりネイティブを追ったほうがいいなということで。
で、私の知人がですね、たまたま向こうに追った人がおったんで、そのつてでアメリカの人、アメリカからその講師を来ていただいたんですよ。
アメリカからわざわざ来てもらったんですか。
たまたまその彼女がですね、世界一周をずっと夢見ておったみたいで、とりあえず来たら日本からスタートしようという感じで、始めずっと一年間おってもいいよという形で。
ちょうどいい人を見つけたという感じですね。やはりその人も世界一周するぐらいですか、若かった。
若かった。ほぼ僕と同じぐらいの年齢で、24歳ぐらいだったと思いますよ。
20代前半の2人で肩上げしたようなものですね。
その人の名前がジャッキーさんですか。
ジャック・リン・レオって言ったんですけども、通称ジャッキー・ジャッキーということで。
でもその小さな町に彼女が住みますんで、アパート借りて、やっぱり近所の日本人のおばさんが非常に世話をたくさんしてくれたんですね。
彼女も養母庁方じゃないですかね、ずっと。
まだ外国人が珍しい時代でしょうから、近所に住んでくれるということだけで、前の方たち、結構鑑賞を持ってくれたわけですね。
あともう一つ、やっぱりその辺は堺という土地柄かもしれないですね。
普通、田舎だと引いてしまいますが、逆にいろいろ世話を焼いてくれてるわけですね。
そうですね。
じゃあ、いいところで開業されたという感じもしますがね。
そうですね。
初めてこの人が社員のような形になるわけですか。
そうですね。でも社員と言ってもね、結局生徒さんの、やっぱり彼女が来て、彼女の生活費も、これからの資金もいるんで、
要は月謝全部彼女にあげて、それから彼女の個人レッスンとか全部紹介して、
幼稚園を教えに行くとか、全部僕の方がやって、彼女は整形立てれるようにですね。
だから、お金は全部彼女に渡しました。
となると、青木さんはどうやって生活してたんですか。
だから、僕はもう親の世話になって。
親元にいる強みですか。
はい。
なるほどね。
親の世話になって。
でも、なかなかできないことですよね。やっぱり、これからも場所もそのまま無料かどうかということも分からないわけですし。
09:07
でもね、読んだ以上、やっぱり責任がありますからね。やっぱりその子の方が大事かなということで。
なるほどね。じゃあ、ジャッキーさんも、やる気は出してくれたでしょう。そこまでしてもらえればね。
そうですね。
なるほど、なるほど。
でも、やっぱりね、習慣の違いが、やっぱりね、だいぶ喧嘩しましたけどね。
そうですか。
その時はまた口喧嘩できたんですよ、英語で。
大体どの辺がぶつかるんですか。
一番ね、思ったのが、やっぱり日本人は何かお世話になったら恩返しをするの相手にしますね。
はいはい。
それが、相手にしなさいって言うと、もうノーって言うんですね。
ほうほうほう。
で、向こうの考えは、あるAさんからやってもらったら、他のBさんにするのが、それが恩返しだと。
ほうほうほう。
ということでね、だいぶそんなんもね、全然違いますね、やっぱり考え方が。
それだと日本では上手くいかないことも多々あったんじゃないですか。その辺のカバーリングは。
なんかあれですね、姉妹が来たような感じですか、同じような年代でね。
そうですね。
面倒見てあげなきゃいけないという感じで。
そんな感じですね。
もう一つ、そういう外国の方に教えてもらうということで、会社としての効果はありました。
例えば、あそこへ行けば外国の人にネイティブの英語を教えてもらえるということで、人が集まるようになったとか、そういったあたりなんですが。
それはね、やっぱり評判になりましたね。ネイティブがおるということで。
その当時はあんまりネイティブが教えてる英会話教室とか、なかったんで。
万博もあるということで、評判にはなっていうのは聞いていただいて。
だから広がりましたね。
幼稚園をしに行ったりとか、いろんな部分で、僕らは全部お願いしてと。
かなりやっぱり境を中心として、英語普及には尽力されたという感じがしますね。
ここが英会話スクールがイングの出発点ということで、この話を伺ってきたんですが。
その後、学習塾へと、守備範囲を広げていかれるわけですよね。
番組の後半では、そのあたりからまた伺おうと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
はい、後半です。
英会話スクールはなんとか旗揚げをして成功したというところから、今度学習塾に守備範囲を広げられるわけですが、
これはいつごろからどういう思いで業態を広げられたんでしょうか。
5年、6年たってからだと思いますけども、中学生の生徒さんと保護者の方が、
学校英語も教えてくださいということで、文法とかを含めてですね。
学校英語も教えるようになったんですね。
この学校英語を教え取ったら、今度は他の数学も教えてください、教科も教えてくださいということになったので、
12:00
それで塾の方に広げていった感じですね。
どこまで青木さん自身が教えられていたんですか。学校英語までは大丈夫でしょうけども。
あとは他の教科はまた人を募ってやりましたけどね。
そのあたりからも会社としてもグッと大きくなるというか、いろんな人材を抱える。
まだまだ小さいんですが。
だから一番大変だったのが塾になってから講師の参与というのが大変でしたね。
たまたま私、大学ESSクラブに入っていたので、クラブの後輩が助けに来てくれたんですね。
英語も含めて他の教科もできるというのもあるので、それがだいぶ助かりましたね。
大学のつながりで後輩たちから講師を募る、あるいはやってもらうということになるわけですね。
この段階になると、例えば教室を確保するとか、そのあたりではあまり苦労はなかったんでしょうか。
初めの頃はお金がなかったので、初めはほとんど集会所、団地の集会所へお願いに行って、
週何回とか。そこからちょっと借りれるようになって。
一番ラッキーだったのが、私の親戚の人が、ビル空いてるから、ただでいいから使ってみえへんかと言っていただいて、
それが高橋の方で、教室としてスタートしたんですよ。
無償でこれも、良いことやってもらったから噛めへんよ、使っていいよということで、無償で借りられたんで。
なるほどね。この良いことというのがキーワードのような気がしますね。
前は会話が喋れることが良いことだということで、会長さんたちが集会所を貸してくれたりした。
今度は子どもたちに勉強を教えるということも良いことだということで、その場所はただで提供しますよという人がいらっしゃったということですよね。
だから人に恵まれましたね。
やっぱりこれは教育というものに対する、多分周りの人たちの敬意という気がしますね。
なぜか、それをされている方にも、何とか自分たちでできることをしたい、協力したいという感じですね。
ありがたかったですね。
学習塾はその後順調に伸びていったんですかね。
そうですね。順調に伸びていって、だいぶ教室展開も図ってということで、やりました。
ちょうど時代的には昭和40年代の終わりから50年代の始まりですね。
なるほど。結構受験が厳しい頃ですね。やっぱり学習塾というものの需要が多くなってきて、
学校だけでは勉強できないという子どもたちがどこかにという、その需要があった時代でもありますよね。
そうですね。昭和40年代の後半から50年代にだんだん塾というのができてきてという部分で。
まだ僕らは初めの方だったんですけどね。そういう部分で塾の必要性というのは出てきたかなという部分で。
15:05
なるほどね。非常に時期が良かった、タイムリーだったという感じもしますね。
万博も終わって、英語列が少し冷めてきた時代に教育列がぐっと上がってきて、そこにちょうど必要とされたので学習塾が展開できたと。
時代の波に乗ったという感じですね。
時代の波に乗ったという意味では、このINGという社名についても伺いたいんですけども、英語で言うとINGですから進行形という形ですよね。
そうですね。
この社名に込められた思いというのはどういうものなんですか。
これは社員に合併したんですね。それが私とそれが私の友人が、これESS仲間ですけどもね、お互い別の塾をやっとったんですけども、
その頃からずっとスタッフの交流をしたり、あるいは一緒に合同で教材を作ったり、合同テストをしたりとか、一緒にやっとったんです。
一緒にしていいんだったらもう一緒になろうかと、その方がいいねということで、良い名をということで、良い教育をさらに追求できるんじゃないかなということで合併をしたんです。
その時の私の方がILI学院のIだったので、もう一つが西日本教育学院のNだったんですよ。IとNのギャザリングということで、集合体ということでINGという部分と、先ほどおっしゃっていただいた進行形でありたいと。
これは社員が考えてくれたんですよ。
なかなかこれもいいアイデアですね。両者の対等性もちゃんと出してるし、一緒にやろうという気持ちになるような社名になってますよね。
ただこの部分で、合併の時ですね、あくまでも対等合併で、対等合併で親切合併にしようと、どっちかに偏るんじゃなしに、新しいものをということで、それが一つですね。
お互いどっちが上とか下がない部分で、新たな部分で親切合併しようと。
ただ当時ですね、合併という部分がちょうどまだ厳しかったんですね。
会社王家なんかですか。
そうそう。あれが合併するときに、条件が厳しかったので。でもクリアしたんで、それでよかったなと思いましたね。
なるほど。その創業者の方と教育的な理念は合致してたんですか、完全に。
はい、一緒。合致してます。
じゃあここでも一つ仲間を増やしたようなもんですね。
そうですね。
なんか伺ってると、進歩すると同時に仲間が寄ってきて、ちょうどいいときに力が増えていくという、こんな感じがしますね。
そうですね。人の繋がりの大切さというかね。
なるほど。そこからさらに、このイング、進行形の形で、今度は大人も相手にする教育機関へと脱皮されるわけですよね。
資格教育だとか、技能教育だとか、こういうことなんですが、ここにターゲットを今度広げられた狙いとか経緯はどんなものなんですか。
18:08
一つはですね、私がまだ塾やってるときに、大人の部分のカルチャースクールを。
カルチャースクール、はい。
こうしませんかという人の繋がりでですね、大型ショッピングセンターの中にプールがあって、そういうカルチャースクールという部分で、それを頼まれたんです。
それを大阪、和歌山なら3カ所で、それをやってましたんで、ただ教育という部分でいけば、要は資格の教育とか、こういうのはまだ全然してませんでしたんで。
で、そういう教育、社会人教育をやってるところはないから、電話帳を調べてですね、電話帳で探して、僕何件か電話したんです。
はい。
で、たまたま大沢経理学院の社長が、いかに会おうかということで、いろんな話、将来の話をしとったら一緒になりませんかということで、それで合併した。
ここの合併ですか。
はい。ここが2回目の合併です。
ですからそれは社会人教育をやっておられたので、ちょうどここで障害教育機関かなということで、ちょっと広がったなということで合併しました。
なるほどね。一緒にやりましょうと言われることがここで2回続いてるわけですが、その分野では先にやってられる方から声をかけられてる形になってるわけですが、
そうですね。大沢経理学院。
これ、なぜそうなったと思われます?
いや、要は将来を見据えて、お互いどうありたいかっていう部分を話していって、自分のところでまた一からやっていけば時間がかかるねと、費用もかかるねと。
それやったらお互いが一緒になった方が早くできるしということで、将来を見据えてっていう部分で合併しましたね、お互い。
なるほどね。でも向こうから僕から感じるのは、向こうから買われて合併されてるという感じですね。
この人と一緒にやりたいと。そうすると自分たちが今までやってた後のもさらに大きくなる可能性があると思ったから、合併を申し込んでるんじゃないですか。
ね。
ね、ですかね。たぶん、おそらくですよ。情熱、教育にかける情熱を皆さん感じられるから、そういう話を出してくるんじゃないかなという気がしますが。
ちなみに、この大人のための教育能力もつけた合併は何歳のときくらいにされたんですか。
それは平成5年ですね。
平成5年。ということは。
1993年ですから、ちょうど30年くらい前ですね。
これはあれですね。創業されてからだと20年ちょっとくらい。何歳くらいのときでした、そのとき。
93年やから、もう45、46。
21:00
でも20数年キャリアを積まれてということですよね。
それから社長室とか募金室とか、いろんな資格の講座をやってましたんでね。
で、向こうの社長から言わせれば、うちの会社は困って合併を申し込んできてると思ってたみたいですよ。
どうやったら面倒見たろうかっていう部分が何かあったみたいですよ。
でも全然話したら、いや違いますよ、将来のためにということで、うち全然困ってませんという部分でしましょうということで。
なるほど。じゃあ、うまく相手を懐中したというか、取り込んでしまったという。
こういう感じですね、なるほど。分かりました。
今日は1回目ですので、イングの成長の歴史のようなものを伺いました。
来週はですね、ぜひともそれだけの合併を申し込まれるような、青木さんの魅力はどう育ったのかというところを伺うと思いますので。
個人的なことを来週伺いますので、よろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いします。
ぜひ皆様のご感想をお聞かせください。
22:40

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