2025-08-05 31:42

#30 キーン氏と息子・誠己さんが一緒に暮らした北区西ケ原の暮らしとは?|ゲスト: キーン誠己さん 

【今月のゲスト】 

一般社団法人ドナルド・キーン記念財団代表理事 キーン誠己さん 

【今回のトークテーマ】 

・お父様ドナルド・キーン氏との出会いは? 

・キーン氏と息子・誠己さんが一緒に暮らした北区西ケ原の暮らしとは? 


北区初の女性区長である、やまだ加奈子さんによる冠番組。彼女の抱く展望や、北区の未来を描くゲストをお迎えし、様々なテーマをもとに、北区の未来予想図を語り合います。

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サマリー

このエピソードでは、ドナルド・キーン氏の功績や日本文学との出会い、息子のキーン・セイキさんとの思い出を通じて、北区西ヶ原での生活について語られています。キーン氏の日本文化への愛情がどのように育まれたのかが明らかになり、彼の影響力についても考察されています。また、キーン誠己さんが父であるドナルド・キーン氏の日本への移住の背景や、日本文学に対する情熱について話し、特に西ヶ原での生活や地域の人々との交流を通じて得た文化への愛着が強調されています。さらに、ドナルド・キーン氏の北区西ヶ原での生活や地元の商店街での交流、食事に対するこだわりについてのエピソードも語られています。

ドナルド・キーン氏の紹介
東京都北区初の女性区長、山田カナコ。
彼女の描く展望や、未来を描くゲストとの対談など、北区の新たなビジョンを語るこの番組。
今日は、どんな北区未来予想図が描かれるのでしょうか。
皆さん、おはようございます。北区長の山田カナコです。
本日8月5日火曜日、今日も元気にお届けいたします。
さて学生さん、そして会社にお勤めの皆さんも、夏休みのシーズンとなりましたね。
イベントなど盛りだくさんの時期だと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
私個人的に夏休みやりたいことはですね、やっぱり家族と旅行に行きたいなあ、と日々思っています。
皆さんも暑さに注意をしながら、この夏を思いっきり楽しみ、乗り切って参りましょうね。
さて、今月のトークテーマは、ドナルド・キーン氏が愛した日本、伝えたい思い、です。
北区の名誉区民でもあります、日本文学研究者のドナルド・キーン氏というかですね、
ドナルド・キーン先生とお呼びをさせていただきたいと思いますが、皆さんご存知だと思うんですが、
世界的な先生で日本文学や文化の紹介者であり、日米の文学的、文化的架け橋として大変大きな功績を挙げられた先生。
その魅力と、北区としてどのようにその作品や思いを継承していくのか、お話をしながら考えていきたいと思っております。
そしてゲストは、一般財団法人、ドナルド・キーン記念財団代表理事でいらっしゃいます、キーン・セイキさんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
はい、どうぞよろしくお願いいたします。
ドナルド・キーン先生の数々の功績を2話にわたって具体的にお話をいただきたいと思いますが、
まずはじめに、ドナルド・キーン先生のプロフィールと、代表的な功績について簡単にご紹介いただけますでしょうか。
はい、私、キーン・セイキ、ドナルド・キーンの養子というか息子でございますけれども、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まず、ドナルド・キーンの功績というか略力から簡単にお話しさせていただきたいと思います。
はい、お願いいたします。
父、ドナルド・キーンは、1922年にニューヨークのブルックリンに生まれ育った、いわば喫水のニューヨーク子でした。
非常に成績が優秀だったので、16歳で名門大学のコロンビア大学に入学いたしました。
そして、1941年に真珠湾攻撃がありまして、戦争が始まったわけですけれども、すぐにアメリカ海軍の日本語学校に入学し、そして日本語を11ヶ月でマスターしました。
すごいですね。
そして、通訳や翻訳の仕事をいたしました。
そして戦後は、大学に戻りまして、日本文学を専攻いたしました。
初めて日本に来たのは、1953年、和暦で言いますと昭和28年のことです。
初めて来日して、日本文学や文化の研究を深めてまいりました。
また、その一方でコロンビア大学でも教鞭をとりまして、ニューヨークと日本でほぼ半分ずつの生活をずっと送りました。
その間ですね、1974年から北区西ヶ原に住みまして、北区の名誉区民、東京都の名誉都民、文化功労者、文化勲章など、数々の章をいただきました。
その理由としてはですね、日本文学や日本文学を正しく世界に紹介し、広めて、その後のですね、日本の経済発展のある意味、見えない基礎を築いたとも言われております。
そして2021年にですね、東日本大震災を機に日本国籍を取得し、日本で骨を埋めることを宣言しました。
それは北区の区役所で発表させていただきました。
そして2012年にはですね、日本国籍を取得して日本人になりました。
そして2019年の2月に96歳で生涯を閉じたという簡単な説明でしたけれども。
キーン・セイキさんの経歴
ありがとうございます。
いやもう今のプロフィールを伺うだけでもですね、大変優秀で、そして何より日本を愛して、日本文学を愛して、そして愛するだけではなくて、それを広く世界に発信するという、
当時で考えたらすごい行動力だったと思います。
もうドナルド・キン先生がいなかったら、日本文学が、また日本の文化が、どのように世界に伝わったんだろうということをですね、考えると、その功績を本当に日本人にとってもありがたいなと実感するところであります。
今ですね、金関さんにお話を伺いましたが、改めて金関さんのご経歴と現在の活動の内容もお伺いしたいと思いますがよろしいでしょうか。
恥ずかしいですけど。
じゃあ簡単にお話しさせていただきます。
私は1950年、昭和25年でございますけれども、新潟県の田舎の小さな作り坂屋の地難坊に生まれました。
今は新潟市西関区という住所になっているんですけれども、いわゆる国葬地でございますですね、私の故郷は。
20歳で伝統芸能の人形浄瑠璃に興味を持ちまして、修行してですね、3年後には文楽の三味線筆記としてプロの道を歩み始めました。
そして25年間勤めましたけれども、1997年に文楽座を辞めまして、新潟のですね、実家に戻り手造業の家業を手伝いながら地元で三味線の活動を続けました。
そして2006年にドナルドキリンと知り合い、親しくなりましてですね、2012年に養子になりました。
はい、父の死を見取り、現在は一般財団法人ドナルドキリン記念財団の代表理事として、ドナルドキリンの検証を続けております。
はい、ありがとうございます。
いや今、ご経歴伺う中ではいろいろな経験をされて、2006年の出会い、そして今に至られるということで、ここのですね、出会いの部分をもう少し詳しく伺ってもいいですか?
ドナルドキリン先生との出会い、そして関係、どんな取り組みをされてきたか、こんなことも伺いたいです。
そうですね、文楽座を辞めましてですね、新潟で家業を手伝う、つまり会社員をしながら、シャミセンの活動をですね、フリーの立場でしていったんですけれども、指導していただいたり、また助言をしていただいたりしていただく、いわば先生を私自身求めていたんですね。
その時にですね、日本の伝統芸能の歌舞伎、そして文楽に大変詳しい、それぞれにね、名著があったんですけれども、そういう著書で知っていたドナルドキリン先生のことを思いついたわけですね。
ビビビと。
ビビビとしたわけですね。
それで新宿でですね、ドナルドキリン先生の講演があると知りまして、まさか会ってもらえるとは思いませんでしたが、当たっていくだけでですね、楽屋をお尋ねしたんですね。
はい、積極的。
そうなんですね、ちょっと私も相当勇気が必要だったんですけれども、その楽屋をお尋ねましてですね、そしたら意外とですね、簡単に会ってくださいとして。
素晴らしい。
それから文通を始めて、そのうちに北区のご自宅をですね、訪ねて、教えを受けるようになり、とてもしたくしくさせていただきました。
そうですか。
ニューヨークのご自宅を引き払うとき、東日本大震災の後ですね、そのときもニューヨークにお手伝いに行ったりして、そして日本に、北区に完全に教を移すとともにですね、新宿をともにしたというんでしょうかね。
そしてその翌年には養子にしていただいたと。
なるほど。
それも北区の区役所で手続きをさせていただきました。
日本文学との出会い
ありがとうございました。
本当に運命的な出会い。
ただ、それはやっぱり日本文化ですとか、芸術、芸能、こういったものが通じてつながった、ドナルド・キン先生とチェキさんとのご縁だったんですね。
まさにおっしゃるとおりでございます。
今、その財団の代表理事として、キン先生の思いだとか功績を後世に引き継いで伝えていく作業をされているということは、まさにここの出会いがあって、共通の日本文学、芸能、文化への思いが一緒だったということだなというのを、運命を改めて私も感じさせていただきました。
ありがとうございました。
そしてですね、やっぱりキン先生と日本文学の出会いっていう、ここも一つ大きなポイントになるんだろうなと、先ほどプロフィールをご紹介していただいた中でも、日本文学との出会い、少し触れていただいたんですが、改めてですね、ドナルド・キン先生と日本文学の出会いというところを教えていただけますか。
それも本当に偶然の出会いだったと思うんですけれども、1940年の秋のことだったそうです。18歳でコロンビア大学の3年生の時だったと。
ニューヨークのですね、中心地、ハイムズスクエアっていうところなんですけれども、そこの本屋さんで、続記本って言うんだそうですけれども、売れ残りの本がですね、積まれていたんだそうです。
それで49セント、当時。
今だといくらぐらいですかね。
今だと70円とか80円とかの。
安いですね。
安いからという理由だけで、それを買ったそうです。
なるほど。
それがですね、なんと、源氏物語の英訳、The Tale of Genjiと言うんだそうですけれども、それを買って読んだところが、その美しさと面白さに魅了され、大感激しまして、
それがまさに日本文学との最初の出会いだったということだそうです。
本当にそこで出会わなかったら、日本文学との出会いもなかったという運命的なお話だと思いますし、最初に取られた本が源氏物語だったということも運命ですよね。
美しい表現だったり、日本文学の素晴らしさを感じた、そのことから最終的には日本に移住されるまでつながっていくと思うんですけれども、素晴らしいなと思います。
ここから日本に関心を持っていただき、そして移住までされて、日本に住む、特に北区西ヶ原を選んでいただいたことは、住民としても大変嬉しいなと思っているんですけれども、
この移住されるところまで決意をされて、そこまで日本を愛していただいた、最後が日本で迎えようと思われたきっかけの一つが、東日本大震災だったと伺っております。
金先生の日本移住の背景
いろんな思いを持たれたんだと思うんですが、その決断に至るまでの背景、お話を伺っていたと思うんですけれども、教えていただけますか。
生まれ育ったアメリカももちろん大好きだったんですけれども、アメリカには家族も亡くなりまして実は、身寄りもなくてですね、日本が好きだったということが一番大きな理由なんですけれども、親しい友人もアメリカよりも日本の方が多かったと言っておりました。
私の知る限りはですね、少なくとも40歳代半ばぐらいからですね、日本でお墓を持ちたい、日本国籍を取りたいという希望をですね、持っておりました。
それが2011年のですね、東日本大震災を機にですね、多くの外国人が日本を去っていったわけですね。
その時にですね、そういう様子を見てですね、日本人を励ましたい、日本のためになりたいという思いからですね、日本に移住して日本人になることを決めたという経緯でございます。
金先生の言葉を今伺って、本当に日本を愛し、日本文学、文化、そして日本人ですよね。地域を愛してくださった金先生の、私もですね、実は西ヶ原に住んでおりますので。
金先生と関さんがですね、お二人で西ヶ原の商店街を歩かれている姿を何度も何度も、実は国会議員の時から拝見をしておりました。
私たち地元の人間からすると、世界の大人の金先生が普通に歩いているというのがですね、結構地元では有名で、そして嬉しくも思っていました。
そのぐらい本当に日本文学、文化、そして日本、西ヶ原帰宅を愛してくださった姿に、地元の住民も含めてですね、非常に国民全体が感銘を受けているんですけれども、
そのこととともに、やっぱり嬉しく思っている人たちというのは、現代の日本文学を支えていらっしゃる方々だと思うんですね。
今の日本文学の素晴らしさを世界に発信してくださった第一人者であるドナルド金先生の功績というのはやっぱり大きい。
今の日本文学においても大きい存在だと思います。
著名な方々、日本のですね、文学者とも交流が盛んに持たれていたというふうに伺っていますが、
どのような生活というか、文学者との交流なんかもお話があったらお聞かせいただきたいと思います。
父はよくですね、僕は運がいい、運がいいって言ってたんですけれども、
とても本当に運が良かったと思うんですけれども、最初に住んだのが京都だったんですね。
京都に暮らし始めるとすぐにですね、後に文部大臣になられる長井道夫さんですとか、出版社の中央討論社の社長の島中邦司さんと親友になったんですね。
島中社長のご紹介で川端康成、それから三島由紀夫といった名だたる文豪たちととても親しくなりました。
とても気に入られたんですね。父もそういう性格でしたので、とても親しくさせていただいたそうです。
谷崎純一郎ですとか、川端康成には何度もお宅に呼ばれて、食事をご主張になったり、止めていただいたりまでしたそうです。
そうですか。
特に三島由紀夫とはですね、1954年に初めて出会ってから三島さんが1970年に自決なさるまで親友でした。
もちろん時々ですね、食事を一緒にしたり、大盛りの三島さんのご自宅にお邪魔したりしておりました。
そして約100通のですね、三島さんからいただいたお手紙が残されています。
それを読むとまさにお二人がですね、どれくらい信頼しあっていたかということがとてもよくわかるんですね。
そうですね。
最近わかったことなんですけれども、三島さんが亡くなった後ですね、未亡人の陽子夫人からもとても信頼されていたということがよくわかります。
そうですか。日本文学の素晴らしさを世界に発信、伝えていく作業の中で、やっぱり我々からすると歴史的人物である、なだたる文豪の皆さんとですね、直接の交流をする中で文学の表現される思いなども、金先生の中ではきちっと捉えられたものが世界に発信されたということが評価の台本になるのではないでしょうか。
台本になるんだろうなという、他の方々との違いを改めて実感するんですけれども、そういった金先生が人生をかけて日本文学を研究し続けてこられたその理由をですね、ずっとそばで支えられてこられた関さんにお伺いしたいんですけれども、関さんの視点から日本文学を研究し続けてきた理由というのをですね、どう感じられているか映っているか伺っていいですか。
西ヶ原での生活
それが私の考えが正しいかどうかはですね、わからないんですけれども、間違いなく言えることは日本文学、文化も含めてですね、大好きでした。
そうですか。
それで、父はですね、性格的に好きなこと以外はしない人だったんですね。
すごい。
ある意味で、私から見るとわがままな人だなという。
こだわりの。
そうですね、こだわりがすごかったですね。
それに加えてやはりものすごく明晰な頭脳と、それから物事に対する集中力。
なるほど。
何よりですね、日本文学を世界に広めたいという情熱ですね。
日本のために尽くしたい、日本大好きという感情、思い、情熱がそういうふうな研究の糧になったのだと思います。
日本人が見る日本文学と外国の方から見る日本文学、やっぱり価値観だとか見え方とかが違う中で。
それが大事ですね。
ここの違いも含めてですね、愛し発信し、そこが本当にありがたいですし、素晴らしいな。
そして集中力、その視点だとか観点が違うんだなというのを素晴らしいなと感じています。
好きなこと、日本文学が好きということでずっと研究してくださったということを改めて感謝したいなと思いますし、
感謝という気持ちでいくとですね、私は帰宅の住民としてですね、
もう広い日本の中でですね、東京帰宅西ヶ原に最後まで愛して住んでくださったという、ここがですね、本当に我々住民からすると誇りなんですね。
ちょっと違う視点から金先生を覗いてみたいと思うんですけれども、金先生が帰宅西ヶ原を選んで愛してくださった理由をですね、
伺いたいなと思うんですけどいかがでしょうか。
中央討論社の島中さんという方がですね、確か私の記憶では島中さんがよく知っていたという理由からですね、
旧古川庭園にご案内、父をですね、してくださったんですね。
それで初めて父は旧古川庭園に来まして。
西ヶ原ですね。
とても気に入りまして、そのあたりの様子もですね、見て、もうここに住みたいというですね。
すごい。初めて来られた瞬間にですか。
そういう意味ではすごい勘のいい人というかですね。
ビビビと混ざる。
本当にビビビなんですって。
それでそのそばにですね、新しいマンションがありまして、僕はここに住むんだと言ったそうです。
そうですか。
ところが島中さんが調べてくださったら、今全部埋まってて住む部屋がないということで待ったそうです。
どのぐらい待たれたんですか。
1年間だけだったそうですけども。
そうですか。
待ってですね。
待っててもう住みたいと思われた。
開くとすぐに引っ越したと。
そうですか。
それで無事に入ることができまして、非常に満足しましてですね、1974年から亡くなるまでちょうど45年間快適に住みました。
ありがとうございます。
そしてもうお墓も近所に持ってないんですね。
亡くなる4年前に建てたという次第でございます。
ありがとうございます。
まさか旧古川庭園に来られたその日にここに住みたいと言われたというのはなかなかレアな情報だと思います。
そしてその直感力にですね、やっぱり天才は違うなというのを感じますけども。
勘のいい人でしたですね。
私も近くで旧古川庭園もよくお邪魔しますが、やっぱり旧古川庭園の素晴らしさをですね、上から眺めるということが我々住民だとか来られた来場者は見れない。
旧古川庭園のそばにあるマンションの住民の方しか味わうことができない旧古川庭園がですね、お庭のような。
まさに庭だとはっきり言ってました。
公言されていると。
素晴らしいですね。
なんで旧古川庭園の素晴らしさもそうですが、1年待ってでも住みたいと言ってくださった金先生。
そしてお墓まで、お墓参りも私させていただきましたが。
ありがとうございました。
ご墓とお邪魔をさせていただきましたが、亡くなられた後もですね、熱い思いというか愛をですね、感じましたね。
この旧古川庭園をこの地点から眺めながら、いろいろな思いを、交流を、作品を作られたんだなと。
感慨深くお邪魔をさせていただいたことを思い出します。
ありがとうございます。
そしてですね、亡くなるまで西ヶ原に住んでいただき、地域にも普通に歩かれてたじゃないですか。
お買い物されたりとか。西ヶ原の街でお気に入りのスポットとか、いろいろな思い出を伺えたらなと思いますけれども。
もうたくさんございましてですね、まずやはり旧古川庭園ですけれども、何しろ気が向くとですね、ちょっと行こうということでですね、フライト散歩に行きました。
バラの季節はもちろんですけれども、冬枯れのですね、人気のない旧古川庭園も大好きでした。
なるほど。
行くとですね、庭園をですね、ぐるっと。
結構ありますよね。
ありますよね。
結構ありますね。
ね、バラのあるところとか、日本庭園、池のあるところとか。
池のところとか。高庭さんもありますしね。
そうなんですね。そこをですね、ぐるっと一周するのが大好きで。
それで洋館の大谷美術館ですね。
はい。
親しいピアニスト、帰宅の方ですけれども、西村由希子さんという方がいらっしゃって。
よくコンサートにね。
そのコンサートにですね、毎年1回は。
そうですか。
北区西ケ原での生活
行ってましたし、また亡くなる8ヶ月前なんですけれども、大谷美術館でですね、
ドナルド・キーンの写真展をやっていただきました。
それはですね、非常にいい思い出で、大変喜んでました。
そうですか。
その他には、下振りのですね、商店街がですね、やはり大好きで。
昔ながらのね。
そうですね。
街並みからお店もありましてですね。
大変気に入っていました。
しょっちゅうですね、ご存知だと思いますけれども、買い物籠をですね、おぶら下げて。
買い物に行って、お店の方たちともですね、気軽にお話をしておりました。
時にはですね、不安の方。
そうですよね。
からもお声をかけていただいたり、握手を求められたりしまして、
そんな時も笑顔で言葉を交わしていました。
商店街は本当にお気に入りの散歩コースだったと言っていいと思いますし、
また、飛鳥山公園もですね、よくテクテクと歩いて散歩に行きました。
そうですか。
特にお花見の季節なんかはね。
桜の季節はね。
必ず一度行って、花見を楽しんでおりました。
ありがとうございます。
いや本当に地元民からするとですね、買い物籠を持たれている姿っていうのが、
もう世界的な文学者、日本文学者なのにっていう普通な姿をですね、
背景してそのギャップに感動した思いを思い出します。
はい。そしてですね、ちょっと伺った中では、
さまざまなこだわりを持たれているということで、
朝食メニューもこだわりがあったと伺っていますが、
簡単に教えていただけますか。
グルメでしたですのでね、おいしいものが大好きでした。
朝食についてはですね、おっしゃる通り、こだわりがございましたですね。
クロワッサンとコーヒー、
それからパパイヤにですね、ライムを絞って食べる。
父の趣味というか、
お好みが。
お好みだったと思います。
それをずっとニューヨークにいる時から北国、西ヶ原に移っても続けておりましたですね。
そうですか。ありがとうございます。
もうプライベートなシーンを少し買い物にさせていただくことができて嬉しかったです。
とんでもないですね。
いろんな食卓での思い出話とかもあると思います。
本当に世界的な日本文学者でいらっしゃるドナルドキン先生の素晴らしいお姿と、
あと地元で拝見をする人間的なドナルドキン先生のお話、両方今日は伺って、
さらにドナルドキン先生が大好きになりましたし、
ありがとうございます。
食事へのこだわり
きっと聞いていただいている皆さんも興味を持って、さらに感謝を持っていただき、
これからも見守っていただけるんじゃないかなというふうに思っております。
大変素晴らしいお話を今日はいただきましてありがとうございました。
こちらこそ。
ぜひ次回もですね、ドナルドキン先生が愛した日本を伝えたい思いについて、
今度は継承していきたい部分ということをお話し伺っていきたいと思っておりますので、
次回もどうぞよろしくお願いいたします。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
本日は一般財団法人、
ドナルドキン記念財団代表理事の金正貴さんをお迎えしてお伺いをいたしました。
2番目もどうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
皆さん次回もぜひお楽しみに。
素敵な1日をお過ごしくださいね。
パーソナリティ山田花子でした。
31:42

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