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はい皆様こんにちは、アートテラー・とにぃです。アートテラー・とにぃのそろそろ美術の話を、この番組はアートテラー・とにぃ、私がアートに関わる方をゲストにお迎えしてトークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は日動画廊の長谷川智恵子さんをお迎えしてトークをしていきたいとおもいます。
お久しぶりです。今回ゲスト出演ということで。 よろしくお願いします。この番組始まって以来の女性ゲストなんです。
えー、ほんとに?
はい、だからもう智恵子さんに出ていただくと決まった瞬間から、もう智恵子さんが一発目と決めていたので、なんとか男子で繋いできました。ここまでのゲストについても。
それは光栄でございます。
なのでよろしくお願いいたします。
よろしくうちらこそ。
もうお会いして、僕も何年か経ちますけども、改めて初めて知る方もたくさんいると思いますので、まず日動画廊っていうのはどういう場所かというのを教えていただけたらと思います。
まあ、うちの場所はともかく隙あばしの交差点。今はソニーさんがお庭にしてますけれど、あの隣なんです。
立地条件としては非常にどなたでもわかりやすい。それを昭和3年からずっとここでやっておりますので。
何年目になるんですか?
えーと、あと7年で100年なんですよ。
すごいですね。昭和3年、当然戦前ですもんね、当たり前です。
1928年ですから。
昭和3年からここにあるという。場所は変わってないということですよね、常に。
日動画廊の日動ってのは何ですか?
その当時にこのビルに、昭和6年にこのビルのところに入ったんですけれども、その時に日本土産火災会場という会社が創立されて、そしてビルを建てると。
そしたらここの銀座の事主の方が、1回事務所にしたら銀座が発展しない。何か商売人を入れてくれた。
そこで市に、画廊なら品がいいだろうという感じで、それでお話があったということなんです。
それで日本土産会場を縮めて日動画廊に。矢主さんの名前で。
そしたら戦後になりましたら、そちらの会社も縮めて日動画廊になられて、日動画廊東京会場とかそういう風に合併されて名前が変わってきておりますけれども、もともとは矢主さんだった会社のお名前を頂戴しているんです。
テナントビルの名前みたいなところだったんです。
でも今さらっと出ましたけど、創業1928年、日本で一番歴史の長い洋画賞。洋画を扱う賞としてはもう初。
日本画でありとか、美術骨董は江戸時代からでもありましたけれども、洋画というのはやはり明治になって開国をして、日本の洋画家になりたい方たちがフランスへ勉強に行って、それで日本にもたらしてきたので。
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マーケットとしては、うちは昭和の3年から始めてましたけれども、やっぱり第二次世界大戦前後からやっぱりマーケットみたいなものが形作られていったと思います。
始まって最初の方はやっぱりそんなに順風満帆にはいかなかった。
三元か四元か、本当に少ない、いわゆるマーケットそのものが確立していなかったところに、たまたま主人の父の友達の弟さんが洋画家で芸大を出ていらして、それで父にその方から、これから洋画賞の時代が来ると言って、それで父は始めたそうなんです。
そして昭和6年にここが建物が建つから入らないかという、そんな流れで父は非常に川の流れに沿ってきたみたいに、そう言われたから始めたとか、ここが場所があるからと言われて。
だいたいコットン屋さんとかって代々受け継いでるじゃないですか。
はい。
西戸川さんの前はコットン屋さんだったとかではないんですか。
全然そうだよ、牧師だったんです。
全然違いますね。
もともとは江戸時代は笠間藩に、今笠間に私ども日同美術館を持ってますけれども、それはもともとが先祖の場所で、そこでずっと笠間藩の御殿院をやってたんです。
お医者さんということですか。
はい。そしてところが明治になって、主人のおじいさんにあたる人が東京に、美東に出てきたらしいんですけども、そこで医学を勉強しようと思ったら、専教師が来てて、何かこう上がって、それを聞いてるうちに、専教師こそ今こそっていう感じで。
まず医者はつかなかったんですよ、その時点で。
そういう時に専教師のお話を聞いて、すっかり専教師になりたくなってしまって、牧師の家になっちゃった。だから主人の父は牧師の子として生まれてるんです。
長谷川家がそこで変わるわけですね。
それまでずっと御殿院だったのに牧師になってしまい、体の医者じゃなくて心の医者になりたいとおっしゃったそうでございます。
でもまあ言っても、画像というか絵もまあ心の医者みたいなものですからね。
そうですね、そういう意味ではそうですね。
つながってはいるってことですね。
そういうことは言えると思います。
それで父はその中で生まれて、でもちょうどそういうふうにお友達が、そんな異様なこともあった、美術学校だから出たとかそういうわけではなくて、そういう方に言われて、これからは洋画の世界になるんだっていうことを信じて、
昭和3年から始めて、6年にここに入って、ですからうちの一つの洋画賞としての確立したきっかけは藤田嗣さんだと思います。
藤田嗣さんがずっとパリにいらしたのが昭和8年に日本に戻ってきて、そしてまあどっか展覧会する場所はないかなと思って銀座にいらしたと思うんですよ。
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でも当時3軒か4軒あっても銀座の路面展はうちだけだったんです。
そうだったんです。でも当然だけど美術館なんかはないわけですもんね、当たり前ですけども。
西洋美術館はないから、まずやるとしたらギャラリーしかなくて、そしたら選んだら日動画廊しかない。
だろうと思います。なのでぶらっと入ってらしたそうです。
その時は藤田さんはもうフランスではもう地位はあった。
エゴイドパリの一員として当格はもう出てたと思います。
一流バカが成り物入りで日本に戻ってきて。
ですから新聞に出たんだそうです。藤田さん自身の写真が。
なので市の知事は藤田先生が入ってらしたと思ってお声かけたんですって。
最初はぶらっと入ってきたんですね。
ぶらっと入ってらしたから。でも新聞で写真で拝見してたので、すぐ声をかけたそうです。
先生ここで展覧会してくれませんかって。
すごいですね。一発目に。
そしたら結局あちらも探してらしたと思うので、じゃあやりましょうっていうことになって。
ウィンウィンの関係で。
昭和9年から戦争が始まるまでずっとやって。
戦後すぐにまた藤田さんはパリへ、アメリカ経由ですけどパリへお帰りになっちゃったので。
その後はやれなかったんですけれども、戦争までの間何回かやらせていただいてた。
藤田さんは当然パリではコテンとかやってたんですか。
やってました。
じゃあそのやっぱりフランスの。
フランスの合唱のやり方を主人の父に教えたという話が残っております。
こういう感じでやってるんだよみたいな。
パリではこういう風に展示するとか。
それからパリでは展覧会の前の日に特別招待をしてパーティーをするんだとか。
今でこそ当たり前ですよ。
当たり前、あれは藤田嗣さんが日本に持ち込んだわけです。
日のがろうに持ち込んだわけです。
一発目のパーティーはここでやったってことですか。
そうです。
日本美術会で行ったら。
それでだから結構馬車で、結構偉い方が馬車でいらっしゃったとか。
そういう時代が。
そんな話が残ってるぐらいで。
そしてちょうど藤田嗣さんのお名誉さんにあたる方か何かで。
だいぶ昔ですけど私もお年寄りでアメリカに帰った時に。
藤田先生に言われて、今日はパーティーだから古袖着てらっしゃいって言われたんですって。
そんな時代があったの。
それで私はオシャレして行ったのよっていう話がある。
ここに。
車庫の場でもあったんですよ。
車庫をいわゆるそれで結構いろいろな大使館なんかにお声をかけたろうっていうのは藤田先生のアイディアで。
その馬車で来た方は大使を塞いだったりとか。
そっかだから今まではその路面店として来る人に売ってればよかった考えだったけど。
そっかだから持ち運び機の画章でしたから。
それが画廊を開けました。
開けましたけどまだ絵を飾ったぐらい。
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それを結局藤田嗣さんの展覧会をすることによってずいぶんいろいろ教えていただいて。
展示の仕方とかオープニングのやり方とか。
また画章とかの取り分の決め方とか。
いろんなことを教わったみたいでした。
すごい運が良かったというか偶然ですよね。
ちなみに一番最初になった方がいいよって先見の命があった画家の方っていうのは誰だか分かる?
なんかあの水戸高校の時の友達の弟だって言ってることしか伺ってません。
その人は結局売れたから。
有名な方ではなかったんじゃないかと思うんですよ。
良かったですね。
もしもすごく有名な方ならずっと話が残ってると思うので。
だからきっかけはその方だった。
藤田さんが来なかったらもしかしたらそいつのせいでお前のせいでこの仕事をやったのかってなったかもしれないですよね。
藤田さんは大変恩人です一つの。
当然ですけど。
昭和6年に明けて8年に帰ってらっしゃったから。2年後ですから。
9年にはもう展覧会をすることができて。
そしてもう一つは藤田嗣さんがパリにいらっしゃって。
日本からもたくさんの画家たちがパリへ留学を始めてました。
その中でやはり藤田嗣さんの憧れていった人たちもいっぱいいる。
藤田さんは弟子というのは取らなかったんですけれども。
やはり藤田さんの後に続く人たちというのは藤田さんからのご紹介だったりしてここでやって。
ずいぶんいろんな画家たちとのお付き合いがそれをきっかけに特に深まったと思います。
憧れのあの藤田さんがやった場所ってなるわけですもんねここが。
それですしそれから洋画家が当時パリまで行った洋画家というのも多かったので。
当然日本人というか当たり前ですけどこの辺にいる人たちも西洋絵画を見る。
今だったら西洋美術館に行けばいいやとかいろんな美術館があるけど見に行く場所って言ったらほぼここに来るじゃないですか。
戦争の時に松方コレクションが新宿郡に接種されてそれを返してもらうために日本は西洋美術館を建てることを条件に返していただいたという。
それがだから60数年前ですもんね。だって60周年展この前やってた。
でもこっちは今90何年。
なるほどとしては。
そうですね。
隣で。
美術館の流れよりかは早いですね。
30年も早いってことですもんね。
はいそしてこの今銀座の本店以外にも他にもあるんですよね。
日東画廊さんは。
日東画廊はパリの方のフランスはやはりフランスで日本の画家たちがみんな勉強に行ったってこともあったり。
それも両方ですけどやはりパリに開けようということでパリには開けて。
それからその前ですけど大阪店では一時期ありました。
パリに行ったのは何年くらいなんですか。
パリに行ったのは1973年から開けております。
もうじゃあ40年50年経つってことですね。
はいそうでございます。
ですねそろそろ。
で大阪も一時期あって。
で名古屋とそれから福岡に今やっております。
そうですよね。
さらにあと八丁堀に現代美術を扱う。
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それもやっております。
そうですよね。
それはここの画廊はどっちかといえばクラシックな画廊と皆さん思ってらっしゃるから。
やっぱり現代美術は現代美術で違うところでやる方がまた違うコレクターの方たちとか愛好家の方たちが集まりやすいということで。
で八丁堀で別な空間でやらせております。
日東コンテンポラリーアートNCA。
でも言っても藤田さんは当時はコンテンポラリーだったわけですもんね。
まあそうも言えますね。
現代アートというかそういうことで。
でもあの僕前も伺いましたけど戦争の時があってその翌日にもうお店が開いてたっていうエピソードもありますよね。
あの主人の家族はみんな野尻湖に長野県の野尻湖の湖畔に疎開をしてたんですけど終戦になったって言った途端に主人の父はすぐ東京に出るって言って。
それでなぜか主人を連れてきたんですよ。
6歳の男の子なんだけど。
でも当然やけの原という。
だから主人はねそれを全部見たと言っておりまして。
そしてこの前のビルが新中軍の宿舎になってたんですって。
当時はですね。
その戦争直後。
それなのでもうすごい車がいっぱい停まってたり、それから私どもの我老にもお土産を買いに来らせたんですって。
何にもやけの原でないから新中軍の方が時刻の帰りになるのにお土産に絵を運用機で運んで行ったって話です。
へー。
ということもあったと聞きますけど。
なるほど。でもそれを見越してってのもあって。
でも父は心配だったんだと思います。
どうなっちゃったかってことが我老が。
だからその障害っていうだけじゃなくて早く帰ろうと思って帰って。
そして開けました。
そしたら9月早々ぐらいに三菱節子さんがいらして。
はいはいはいはい。
それでせっちゃん無事だったのかっていう話になって。
そしたら私うちは焼けなかったのよって言ってらして。
その時三菱さんどちらにお住まいだった?
あのね、世田谷かどっかあちらの方。
結構三菱節子さんってね、私は知ってるだけでもフランスでもパリからフォンテンブローの先のサンスの先のところにお家を持つとか。
それから東京でも茅ヶ崎の先の山の上に持つとか。
割とね、結構ね。
元気なところに住みがちな。
そう、住みがちな。
あ、そうなんですか。へー。
だからそういうところでお目にかかった記憶がありますね。
そしたらいらしたんで焼けなかったっておっしゃったもんですから。
それで父がじゃあ展覧会やりましょうって言って。
戦後第一弾展覧会が三菱節子展です。
へー。
皆さん焼けたが出された方も多い中で三菱先生はそういう風に焼けないで済んだという話でした。
その時はでもお客さんもやっぱり普通に見に来られてたの?
やっぱりでも私は思うんだけど、それこそ先の心の問題じゃないですけど、そういう時って何かこう心を豊かになるものが欲しい時だと思うんで、きっといらしたと思いますよ。
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特に今年実感しましたもんね。コロナになってやっぱり美術館が閉館しちゃった後、やっぱりみんなすぐ美術館とかギャラリーに行ってたなと思うんで、やっぱりそれも大事なんですね。
だから広島美術館の、県の方じゃなくて広島銀行さんが作りになった平柄の方。
あれの作りになった当時の銀行の東取は、戦争の原爆の時にたまたま銀行にまだいらしてなくて助かった。
疎開先の、出ようと思った時は土管だったんですって。
ということは他の社員とか同僚は。
亡くなった方もあるけど、そういう生き残った何人かの中で、彼が言ってらしたけども、その中で原爆で全部焼け焦げた中に赤い肌が咲いてたんですって。
すごくそれが心を和んだと。やっぱり人間は心を和ませるものが大切だから、美術館という発想になったし、また広島がすべてのものを失ったから、美術館も文化というものの拠点として大切だと思って作る気になったというお話が伺ってましたけども。
広島美術館さんにある今作品の、結構大半というか、ここで買われたっていう。
ほとんどうちです。
はい。
はい、なんかその当時の戸取様が、主人と非常に意見というか、絵の方向もあったのかもしれません。
それで、そういうことで主人が見つけてきては、お選びになってという感じですって。
あれですよね、意外と知られてないけど、僕らが普通に日本国内で見てる作品が、西戸がろうさんからお嫁に行ったものも。
多いです。
多いですよね。
序章ですから。
そりゃそうですよね。
広島美術館さん、あと見れるとしたらどこ行ったら見れます?
私はやっぱり大原美術館も一つの歴史を持っていらっしゃると思いますね。
それから広島美術館、そういったどこでしょうね。
あとホラー美術館、箱根にある。
これもうちがずいぶん、エラの色々とした作品を探しに行ってエラに来たところですね。
コレクターさんだった方がこちらに寄ってたって言いますもんね。
はい。
あとあれですよね、さらに日曽さんは、さっきもちらっと出ましたけど、笠山日曽美術館という日曽がやってる美術館があるってことですね。
そうでございます、はい。
なかなかギャラリーが美術館をやるってあんまりない気がするんですけど。
そうですね。
ただ主人の父は、一番初めのきっかけは、やっぱり主人の父がちょうど年取ってきた頃に、市長さんが何となくいろいろと父に、一緒に文化のあれを笠間でやろうよという持ちかけを出さって、
芸術村を作ろうとか、そういうプロジェクトもあったんですね。
その一環として、美術館もここにあった方がいいねっていうことで作ったんですけど、それは2階建ての小さな美術館でした。
当時はですか。
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当時、はい。
で、主人の芸術村の構想も、あとで市長が変わられたりとか、そういうことで全部、なんか第三セクターがちょっと形っ気になって、それでうちの父が結局それを継ぐ形になって、
今もですが、そこに北斎三陣の北鎌倉にあった建物を移築して、クラブハウスとして移築したんです。
そうなんですね。
芸術家たちの集まる場所で。だから当時はね、ずいぶんそこで夕食会やったりとか、みんなの集まりやったり、講演会をやってもらったりとか、いろいろ使いましたけども、
今はこの建物をあんまり普段に使わないで、みんな一般の方がお見せしているのは、一つには北斎三陣の他の館は全部北鎌倉焼けちゃったんですね。
そうなんですか。
もう唯一残っているので、だからなるべく火も出さないように、そんなところで食事会などはしないようにして。
昔はやってたけど。
はい。でも大事にしておりますけれども。
あれですよね、最近その庭園も整備されたという風に伺います。
すぐにこの間出来上がりまして、今までは収容して歩くのに、そんなに簡単にちょちょっと行って、帰ってきて戻ってしまったのを、全体を見れるような感じに、またお年寄りでも歩き良いようにとか、そういう配慮をして。
だからずいぶん同じ敷地なのに広くなりました。
ちなみにシーズン、どのシーズンでもいいと思いますけども。
春と秋。
春と秋、ぜひ春と秋。
そうですね。なぜかって、笠間という土地柄が京都に似てるんです。
あ、そうなんですか。
周りが山に囲まれた盆地なんですね。
そういったもんですが、夏はすごく暑くなりますし、冬はとても寒いんです。
だから京都と似ておりまして、その代わり桜が綺麗、秋の紅葉が今すごく綺麗でした。
だからやっぱり四季がちゃんと楽しめる。
そうです。やっぱり夏と暑さと冬の寒さの、これがあるとやはり紅葉も綺麗なようですね。
だから新蘭和尚が二十年間笠間にいたんです。
そうなんですね。
東関東を布教して歩くのに、笠間に寄ったらすごく気に入っちゃって、そこに二十年間住んでいらして、そこから東関東の布教をしていらしたそうです。
そうなんですね。
多分それはおそらく気候が京都に似ていた。
そうか、自分の。
そういうところもあったんじゃないかと思います。
それから案外知られてないんですけど、赤尾老子、赤尾行く前は笠間藩だったんです。
そうなんですね。
笠間から赤尾に添付した時に少し黒鷹を削られてらっしゃるらしいんです。
その頃から幕兵のちょっとしたあれは終わりになったのではないかと。
全員を連れて行かれなくて、家来の一部は笠間に残したという話が残っています。
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そうなんですか。
そうですよね。江戸に近かったのがだいぶ左線じゃないけど、京都まで行っちゃった。
だから非常にその頃から幕府に対しての多少の思いはあったと思いますけれども。
ですから笠間っていうのはそういう意味でもいろんな歴史が。
焼き物だけじゃないんですね。
焼き物も大使館にとても盛んですし、そういうふうに歴史の中でもいろんな出来事が入っています。
そこのでも範囲だったわけですもんね。話を逆回る。
あと笠間で西尾美術館も何度か行かせてもらったんですけど、パレット館という他の美術館にはない?
あれは世界中でうちだけだと思っています。
というのは1点とか2点のパレットある作家の美術館だと大抵飾ってらっしゃいます。
でもうちは350点、それも350人の作家ですから。
それぞれだから作家さんにパレットを譲っていただくってこと?
そうです。だから初めの時にはちょうど40周年で父がたまたまユトリロ展をやったらば、ユトリロのパレットが来たんですよ。
絵と一緒に展示するのに。それはペトリデスという当時のユトリロの画賞さんに差し上げたものだったんです。
でそれを見て、画賞が絵のコレクションはなかなかお客様にお売りしなきゃならないから、できないからパレットはいいアイディアだと思って。
それでその当時知っている作家の方たちに150人ぐらいに私パリからパレットを買ってきて、
そしてそれを持って行って、すみませんこれと交換して今使っていらっしゃるのを頂いた。
できればそれにちょっと絵を描いてくださいと。
ですからいろんな大きさのがあるのはそういう意味で、買ってきたパレットに描いていただいたんじゃなくて、
それは差し上げて古く使っていらっしゃるパレットを頂いて。
行くとびっくりしますけど、本当に壁一面に飾ってありますもんね。
今はもう最近はもうあそこに入ってないと、いわゆる画家としてプロでないぐらいの有名なパレットコレクションになりました。
報道している感じですもんね。
最近は買いっこじゃなくても頂くので、一番初めに150点ぐらいはパリから買ってきたパレットを持って行ってお願いして頂いたという。
これは世界的なコレクションになるということですね。
これはやっぱり私は世界でこういうのは画賞だからできたこと。
もう一つは世界の画賞さんというのは5人ないし10人ぐらいの画家と付き合っていらっしゃる方が多いんですね。
コントラ制度といって、その代わり他の画賞には出さない、そこだけをメインにしてという取り決めをしながら、
その作家を検証するとともに、商売的にもその画賞さんだけとか、そういうシステムもあることも。
まあだいぶ今はそれが薄れてますけど、昔はそのペトリデスさんにそういうトリロとか、そういうのがあったんです。
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吉本工業とこの芸人たちが。
同じでございます。
今はざっくり何人扱っていることになるんですか?
大体、太陽展というのが毎年やっているんですけど、それが大体130人。
それが太陽展という毎年やっております。春にやると秋とに2回やって、太陽展と日動展とやるんですけど、
それが大体網羅して付き合っている先生方にお願いしているので130人といいます。
めちゃくちゃ多いですね、そう考えると。
ですからパリの5人10人とは違います。
違いますね。
それが日本のマーケットのやり方の違いだろうと思いますけれども、ただうちの場合は原損で130人なんですよ。
他の画廊さんは、原損はそんなにたくさんはやっていらっしゃらないと思います。
物工はいろいろたくさんやっていらっしゃいますでしょうけれども。
うちはそういう意味では長谷川寺院がさっきほど申し上げた選挙史から画廊になったので、非常に白愛主義だったですね当時。
だから当時の画廊さんというのは偉い先生だけを扱っていたらしいんです。
なるほど。
でもうちは画家でありプロであれば広くお付き合いしてくるというやり方を今もしていますけれども、
それだから反対言えば今までやってこれたのかもしれないと思うんです。
景気のいい時悪い時、戦争がありいろんなことがあったと思うんですね。
でもそういう時にいろんな画家の方と付き合ってきたから、それなりに商売をさせていただけたんじゃないかなと思うんですけれども。
今なりだから若手もってことですもんね。
そうです。今は昭和会というのはちょうど主人が画廊に入った時にパッと周りを見たら自分よりははるかにお年上の先生方が、主人のお父様がやってたんだから。
そうしたら自分の時代になったら先生方が皆様この世にいらっしゃらなくなった時に、
今から育てなきゃということがあって、昭和会と。
その時昭和が画廊に入ったのが40年なんですよ。
だから40歳じゃないですか。昭和の一番。元年の方でも。
だから40歳以下の若い人をやろうと。
いうのには昭和生まれとすればずっと若い方ばっかりになるじゃないですか。
当時は明治生まれ大正生まれはもう外して、昭和生まれ。
今でいうと平成転やるようなもんですね。
また今度は令和になるかもしれない。
そういうことだったんですね。
それで昭和会という名前をつけたのは、昭和生まれの作家、若い作家の対象にしたいということで。
そうしたら偉い先生方もその考えに賛同してくださって、
林武さんだとか、そういう皆さんが審査員になっていただいたりしてスタートしております。
でももう今、昭和会の1回目の人たちなんか、今はもうベテランになっている。
文化勲章です。
そうですよね。
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奥谷博史先生が第1回で、今や数年前に文化勲章を受賞なさっています。
でもこれは奥谷先生が文化勲章になってから付き合い始めるようだと、また違うということですね。
もう本当に若手の時から。
そうです。奥谷先生なんかは愛知芸大の教鞭を捉えたんですけど、もともと点数の少ない作家なので、
それで学校で教えていらっしゃると、どうしても絵が、
制作の時間が取られるから。
というふうに主人が行くときに言って、
先生方の一緒に住んでいらっしゃるようなアパートみたいなのがあったんですよね。
そこで主人が、やめろやめろコールをして、
先生がちょっとここで大きな声でその話はしないでほしいとおっしゃって。
借金取りがなんかやってるみたいな。
もう先生やめましょうよ、ここの、それ以外もう画家一本にしましょうよって、
大分先生にそんなお話をして、
先生が今でも笑って、あの時は徳岸くんが来て、
あんまりそんな話をすると周りの先生方に困ったんだよなっておっしゃって。
職場まで押しかけてきてみたいな。
でもそういうぐらいの付き合いをちゃんとするんですね、画家とその画家と。
そうですね、お若い時からずっとあれしておりますので、
別にうちが独占しようという感じではないんですけれども、
やっぱり結構メインに考えていただいていることは多いです。
やっぱりこの画家に対して、例えばアドバイスもしたりとかも、
画廊の仕事としてあるんですか。
聞かれればそういうことはありますけれども、私たちの基本姿勢は、
先生の画業に関してはあまり口を挟まない。
理想じゃなくて、
昔ですけれども、今はそんな時代じゃなかったけれども、
当初はパリへ留学したい。
そうすると費用が足りない。
それから向こうでお金を送ってほしい。
いろんなそういうサポート、それは随分してまいりました。
でも画業そのもののこういう絵を描いてほしいとか、
ああしてほしいということはあまり、
先生の方が迷って何かの第三者としてどう思う?
というふうに聞かれれば言いますけれども、
やっぱり画家は自分のポリシーが終わりになるから、
そうじゃない部分でのお手伝いはしたい。
生活サポート部分のという、
そういう関係性があるんですか。
そして展覧会を定期的に何年に1回という形で開催していくとか、
そういうことだとか、
また少し地方で紹介することにお手伝いをしたりとか、
そんなことです。
そしてさらに今回ちょっと伺いたいなと。
先ほどチラッと言うと徳石さん、旦那さんですけれども、
徳石さんが継いだわけじゃないですか、2代目の。
清子さんはどのタイミングで日曜があるとか変わるということになるんですか。
主人はしみども銀行さんに1年入れていただいて、
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修行した後で、もうちょっと銀行にいるつもりだったんですけど、
父がちょっと病気を致しまして、心細くなったのか帰ってこいと言いましたので、
それで戻ったのが昭和40年なんですね。
そして私はその頃専業主婦だったんですけれども、
子どもを育ててたんですが、
ただ海外に年に1回か2回は絵の買い付けも含めて、
当時パリへ留学していた画家の方たちに何人もいらしたので、
その方のサポートもあって、
行く時に主人の父と両親の意向で、
子どもを預かってあげるから一緒に行きなさいと言われて、
だから画廊には出ていなかったんですけど、海外が先だったんです。
それは別にギャラリストさんとして行っているわけではなくてということですね。
画廊で働いているわけではないのに、海外の方は先にですから、
いろんな画家の方に目にかかったり、
それから画家のサポートをしたり、また美術館も行ったり、
そういうことができたのは、行かせてもらったので、
ですから子どもたちが、
私が画廊に出るようになったのはサンバーマンが生まれた時からです。
そうなんですね。でも元々。
一生は46年から、6年から7年、お正月ぐらいから出ていたのかな。
でもそれまで、もともと美術の仕事とか、美術に携わってはいたんですか。
全く。
じゃあこの業界に入る時は、全く素人というか、入ったんですか。
佐藤の父がね、実業家だったんですけど、
大変、戦前から日本画を好きでね、
日本画の先生について、アマチュアとして、
日曜日ゴルフの誘いがなければ、家で絵を描いているような人だったので、
全く絵画というものが、遠い存在ではなかったんですね。
お正月なんかは、会社の方が新年にいらっしゃるんで、
そうすると毎日朝から書き初めをやって、
私もそばで色紙にいたずら書きを書いたりしてたような、
そんな家庭環境ではあったんですけど、洋画ではなかったんです。
主人と結婚して、私は元々ね、私の佐藤の母を見ていると、
実業家の家というのは、母子家庭になるんですよ。
そうなんですか。
今はだいぶ世の中変わりましたけど、
大抵宴会は毎晩あり、日曜日は接待ゴルフ。
そうすると夏休みは、私と母と弟は葉山の別荘に追いあられて、
父だけ東京に残っている。
まるで母子家庭だと思ったんですね。
だから私ね、会社員の妻になるのはやめとこうと気候の中に入る。
だから八百屋さんでもいいから、夫婦で働けるところがいいと思ってたんです。
それは最初から思ってたんですね。
だから絶対に、姉なんかは親の言う通りに、
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そういう同じ会社の人と結婚してますけど、私はしないかと思っておりましてね。
それで結局そう思ってたところに、ちょうど主人と知り合い、主人にプロポーズされたから、
その当時はね、今の画廊の半分の画廊だったんです。
私が付き合ってた時は。
そして大阪も名古屋もなかったんです。
だからこのくらいの小さい画廊なら、ちょうど私が思ってた。
名古屋みたいな感じで立つイメージ。
ちょうどいい。だから願い通りだわと思っておりましたら、
ちょうど私が結婚して、その辺から七丁目に本店が作って、大きいのを作りましたしね。
それで市政権展開も始まっちゃって、だんだん大きくなっちゃって。
話が全然違った。
というわけで、そんな感じで。
だから私としては、どちらにしてもこういうお客様と相対であえる。
そして夫婦で働ける。
それはちょうど主人が両親で働いてましたから、
それは盗取するのは非常に流れとして不自然じゃなかったし、
女性が働くということがまだ少ない時代でしたからね。
今と違って。
今はもうほとんどそんな男女ということがないですけども、
そうすると夫婦で働くってことが一番手っ取り早く女性が働ける場所で。
なるほどなるほど。
でも2人の役割分担的なのはあるんですか?
なんとなくありました。
そして主人の両親は昭和初めから母と父とで、母が会計業界だったみたいです。
父が営業してたみたいな。
ちょっとそんなことがあったみたいなんですけど、
私の場合はもうある程度寄稿ができて、経理もおりましたんで、
そうじゃなくて、主人の両親が生きている時は2人で海外に行ったんですけども、
父が亡くなった時に、主人は東京が忙しくなったのと、
責任を持ってやらなきゃならないことと、
ちょうどその頃がだんだん洋画が日本に入ってくるのの、
すっごく多い時期だったんです。
そして亡くなったのは1976年になくなっているんだ。
だからそういう意味で、
その辺から1989年、1991年までが日本の絵画ブームだったんですね。
そうなんですね、その時代は。
ですからそういう意味で、非常に海外の作品を探しに行く、
それから日本に輸入するということの、ものすごく多い時代だったと思います。
買い付けに行くってことですね。
それはお二人で行かれたんですか。
オークションだけじゃなくて、いろいろなコレクターのところを探したりとか、
向こうの画賞から紹介してもらったりとか、
いろんなやり方で絵を集めるのに、私の方が、それからいろんな展覧会が結構、
ピカソ展をちょうど76年、77年くらいに東京都の美術館でやったんですね。
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私どもの画廊の50周年ということでやって、
そしてクロード・ピカソと相談したら、
自分のところはお父さんが亡くなってすぐだから、
まだ遺産創造が終わらないので、
いろんな美術館から借りなさいと言われて紹介してもらって、
世界中の美術館から借りて、東京都の美術館で、
うちの50周年ということでやったんです。
それは日東から主催になったんですか。
主催に入って共催で。
今でこそ何とか新聞社とかがやってるけど、そんな感じで。
東京都の美術館でやってたと思います。
それ何点くらい集めたんですか。
ちょっと後で画録を見ないと。
いろんな美術館から集めて。
そんなことがありまして、
それでいろいろな美術館とのコンタクトができたんですよね。
その関係で。
それで次は今度新聞社から頼まれて、
何とか展をしてできないかとか。
そうやると次々とやって、
結構いろんな展覧会を日東画廊じゃなくて、
新聞社が並んでやるようになって。
そっちもやってたんですか。
それでいろんな展覧会、マチスもやれば、
フィシャガールもやれば、
それから印象派展。
そして当時ソビエトに借りに行ったんですよ。
ソビエト時代のピカソで。
それでそれはピカソに言われて、クロードさんに言われて、
ソビエトは父の初期の良いものを持ってる。
だから借りに行った方がいいっていうので。
当時ソビエトっていうと鉄のカーテンの時代なんですよ。
霊人の鉄のカーテン。
霊人のちょっと後ですけどね。
だから鉄のカーテン、情報がないんですよ。
向こうは情報を出さないので。
それでちょっと行ってみようという。
若いから。
行ってみようって。
それで主人と一緒にまず行ってみたんですよ。
そしてちょうどその前に、
テレビ朝日さんが、
黒谷井哲子さんと向こう何かの取材をなさって、
その時使った通訳さんですごくいいのがいると教えていただいて、
その女性の方を紹介してもらって、
その方とずっとその後も行ったんですけどね。
一緒になったら治療症ができないから。
それで行ってみたら、すごい宝庫なんですよ。
印象派からピカソから、
マジスだって30数点あるし、
ピカソもすごい量持ってるし、
それから印象派、レムブランと、
もうすごくこれ全部東京のどこかの展覧会でやろうと思いました。
それいわゆるエルミタージュ美術館?
エルミタージュとプーシキンと両方行ったんですけど、
というのはトレジャコフとかロシア美術館はロシアの作家なんですよ。
基本的にシャガールなんかはロシア美術館とかトレジャコフなんですけど、
他のヨーロッパの作家はプーシキンとエルミタージュ。
そしてエルミタージュでだからずっと、
特にところがプーシキンは女性のアントワノアさんって、
つい先まで結構長いこと館長をしてらっしゃった女性だったんですけど、
割とフランスには貸すのに日本にはっていうところがあって、
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ちょっと渋かったところが、
エルミタージュ美術館の方は両方じゃなくて、
エルミタージュだけでやってくれるならいくらでも貸すって言われて、
そのプーシキンが入るならプーシキンが貸すのと同じ材料しか貸せないと。
なるほど、そういうのあるんですね。
エルミタージュという名前を代々的に出してくれるなら、もっとやるよっておっしゃって、
そしてエルミタージュ美術館、
じゃあもうエルミタージュ一本できますっていうことにして、
ピカソの後はずっとエルミタージュだけになって。
じゃあ日本で開催されたエルミタージュ美術館展も西尾ガローズ。
随分やりました。
近年のはいろんな方がやってらっしゃると思いますけど、
だからその昔のは全部私どもがやって。
すごいですね、日本の美術界における貢献が。
そこでボッカで乾杯をして、おまけに私すき焼きまで持ってたんですから。
ロシアに?
エルミタージュ館長のお家ですき焼きをやったの。
どうでした?
もう奥様なんか日本に来れない時代でしたから、
主人から聞いてたわって言って感激していただいたのね。
というのはエルミタージュ美術館展は結構日経新聞さんが早くからやってらっしゃいまして、
だから館長は何度も日本においでになってらっしゃると思うんですけど、
エルミタージュはこういう鉄のカーテンの国ですから、
ビザがないといけない時代でしたから私どもも。
なのでそうやってエルミタージュとはすごく仲良くいろいろお仕事させていただいたの。
でも当時最初に行くときなんか全く知らないから冒険ですよね?
はい。まず文化賞に行って、文化賞に日本にソビエトのコレクションを紹介したいと。
そしたらわりと一番初めの文化賞の人がとても親日的な方たちで、
じゃあ自分が一緒に美術館に行ってあげるよって言って、
工藤機に行くのについてきてもくださって。
文化大臣もデミチョフさんとおっしゃったんだけど、
すごくいい方で全面的にサポートしてくださるってことになって、
お墨付きをいただいて、それでエルミタージュとかそういうのに交渉に行ってやったんですね。
ただしね、わりとね、みなさまね、ソビエト人っていうと堅苦しいイメージを持ってたと思うんですけど、
付き合ってみるとイタリア人的なの。
ノリがいいんですか?ラテンのノリなの?
意外にですね。
すごくね、だからあの乾杯で、宴会なんかのとても盛り上がるんですよ。
レンブラントに乾杯とかね、もうそんな感じでくどくどいて。
行ってみないとわかんないもんですね、それはやっぱり。
それでやっぱりちょっと契約をしないといけないんで、絵を選びに行ったり、契約をしに行ったり、
そういう感じでずいぶん、だから40回ぐらいは私結局ソビエトで行ってると思います。
ソビエトだけでですかね。他の国ももちろん行ってるけど。
もちろん行ってますけれども、ソビエトはそのくらい。
というのは、まず説明しに行って、今度は文化大臣に会いに行って、
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その次は今度絵を探し、どれを借りるかを検討して、またそれのための仮承認をして、
なんかね、そういうこと一つの展覧会作るのに何回か行かないと。
ファックスは使わないんですよ、あの人たちあまり。
電話はね、東京にかけたくても1日待ってないとつながらないぐらい、
やっぱり情報開示をしない時代だから、通信の方が発達がものすごく遅れてたんですね。
なので東京から用があっても、なかなか私たちが捕まらないで困ったっていうぐらい、
今はもうそんなことありませんけども、当時はね。
直接会って話す方が早い仕事だったんですね、当時。
そういうと、またその、あの宴会も楽しかったように、割とイタリア的で、書いちゃうと後やってくださってないのね。
手紙で送ってくださいって言っても行方に来ないの。
で私が例えばね、私がそういう意味で行きますって言ったら、
国際西洋美術館の館長が、あ、千恵子さん行くんだったら、これ前から出してる手紙なんだけど何も返事来ないから、
これもついでに聞いてきてくださいなんていうことで、割とそういう嫌いがあったんで、
結局行って目の前でサインしていただいてということが必要で、ずいぶん乾杯と、それからサインをしに行ったりと。
でもそしたらもう日本にほぼいなかったですか、全トータルで。
結構行ってる時はね、ヨーロッパも含めると、でも半年以上にはなってなかったです。
ある時数えてみて、あの変な話、住民税いらないんじゃないかと思って。
日本にいないから。
180何日かいないと関係ないんだそうですよ。
でもそうなんですか、そういうのあるんですね。
パスポートで判が押されてますから証明できますし、数えてみたらやっぱりそこまでは行ってなかったです。
相当行ってるつもりでございましたけど。
はい、そろそろお時間があるってことですか。
日曜から入る時のあれをもう一回伺いたいなと思うんですけど、
入口のドアがすごい彫刻作品なんですよね。
彫刻家のなの。
あれはどこのパイの支店まで全部つけてます。
そうなんですよね。
でも中古版があるからなかなか皆さん入りづらいって言うけど、そんなことはないんですよね。
いなくて、もともと私の父は反対に開けたがろうっていうのを目指しておりました。
だから画家の方もそういう130人でも何でもたくさんお付き合いするのと同じように、
お客様もすごいコレクターから絵を好きなだけの方?
何でも皆さん入ってくださいというのがうちのスタンスです。
ただ歴史が長くなって、名前が大きくなったんで、
皆様入りづらいってよくおっしゃるんですけど、
うちとしてはなるべく開けて入りやすくしたいから、
そのうちに今度自動ドアの方がいいのかなっていう話。
前に立ったときにひゃーって開きますからね。
このラジオを聞いてて、今までに自動ドアの方が入りづらいって思ってる方がいても全然そんなことないですよね。
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絵を買わなきゃならないとかそんなオブリゲーションないので、
単に絵を楽しんでいただいて、絵を好きな人口が増えることが仙台の気持ちでした。
だからそのためには絵というものに触れていただく、好きな絵を見つけていただく、
そういうことで、たとえばうち普段常設にいらしたらいろんな絵がかかってますから、
そういうのをご覧になって、この作家面白いなと思ったら、
またその作家のことをお調べになったり、その作家がどこかに展覧会をしていれば、
今いくらでもネットで調べられますから、そうやって楽しみ方を見つけられたらいいと思うんで、
やっぱり絵画を好きな方が増えてこそ文化国家だと思うんですよ。
だから売買だけの商品としての絵だけの意味ではなくて、文化として皆さんがそういう油絵人形画に、
日本は日本画の伝統は江戸時代でもございましたけれども、洋画の伝統は、
それこそうちが洋画賞として非常に初めの方だったぐらい短い歴史ですから、
その中で洋画の方が堅牢ですから、いわゆる日本画に限るデッサンもそうですけれども、
紙のものは日本の敷けがある家のお蔵なんかにしまい込むと後でシミが出ます。
だからこれはやっぱり日本画は敷き折々にたこの間に描けるのがいいことだったんですよ。
つまり虫干しにもなり、それから敷きを楽しめるということで、それはいい知恵だったと思うんですけれども、
その点洋画は描けっぱなしでも痛みませんので、そういう意味ではまたこの頃洋風のお家も増えてくると、
それから額に入ってますからかけ替えも簡単ですね。
そういうこともありますから、そういう洋画を楽しむ方が増えていただければ嬉しいと思うし、
面白いもので1回1点描けると、それを取り外しちゃうとそこが何かとっても物足りなくなります。
始めからなければ感じないんだと思いますけど、1回描けると何となく絵のない空間というのは寂しいお部屋になります。
例えばこの部屋から全部この部屋がなくなっちゃったら。
そうか。だから1回描けてみるといいんですね。
描けになるとそこに風景だったら窓ができるし、花の絵だったら華やかさができるし、いろんな意味で楽しめると思うんですね。
ぜひだから1回にそがろうに入ってください。
だからあんまり絵も高いもんだってみなさんすごく大物になるんですね。
だから値段聞くと恥かくから聞けないわっておっしゃることあるけど、これもたくさん安いものから高いものまで本当にたくさんいろいろございますから、
そういう点ではそれこそみなさんもお洋服買うのと変わらない金額のものからありますので、
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それから半顔になれば1万2万円の世界ですし、だから高いとおっしゃってもみなさんも車はねお金なんですよね。
車は数年でダメになるんですよね。絵は良いものだったら数年経ったらもっと良くなります。
しかも車はよっぽどのものであるとどんどん値段が下がっちゃいますからね。絵はもしかしたらどんどん上がるかもしれないという。
だからそういう意味でも絵の楽しみ方というのは決してその高額だとか手の届かないものだということではなくて、
もっと身近に考えていただければいいなというふうに思います。
私どもが今度12月の何日かでしたっけ?ミニオン展。
12月9日。
ミニオン展というのは恒例で毎年やっております。もう50年続けているんですけど、これは小さなサイズの絵ばっかり。
ミニオン展はどういう意味?
ミニオンって小さいってフランス語です。
小さいって意味なの?
はい。それでミニオンってことにしたんです。ちょっとシャレてね、フランス語にして。
小さい絵ばっかりを何百とかけるんです。そうすると高い作家でも小さければ安いです。
それから本当に安いものがいろいろあるし、小さい絵だったらどこでも飾れます。
まずそのミニオンで絵を飾ること一つ?
確かに。これは12月9日から何日まで?
27日です。
27日、もう12月ほぼいっぱいやっているということです。
もう恒例で毎年やっているんですけど、いろんな作家のいろんな絵が出ますから、見にいらっしゃるだけでも面白いです。
下から上まで、もう壁2階だけですね。壁を全部小さいので埋めるというくらい飾ります。
だからもうフラット、ミニクルも良し、あと千恵子さんよくおっしゃっているけど、銀座の待ち合わせ場所としても使ってほしいとおっしゃっているので。
ここでお見舞いをなさった方もあるらしいですよ。
それはすごいですね。それは人に連絡を入れたんですか?
そうじゃなくて、後でここでお見合いしたんですよっていうことを。
今の夫とここで会いましてとか言われて。
でも待ち合わせ場所によくお使いになります。
雨の日だって外で待っていればいいんですけど、ここでお待ちになれば絵を見ながら、お待ちになればちょっと相手が遅れてきてもイライラしないで済みますし、
また何かいろんな好きな絵が見つかるかもしれないし。
一瞬今話聞くとパートナーまで見つかるかも。
すごい我老だなと思いました。
とにかく気軽に入っていただきたいというのは、うちの先代からの考え方でございます。
ぜひこれをきっかけに気軽に入っていただきたいなというふうに思います。
はい、ということで今回は以上ということでして、
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次回も長谷川さんのゲストにさらにアートの話を続けていきたいと思います。