戦時中における日本の子供たちはどう過ごしていたのか?
今とはまるで違う環境下で過ごしたお話をしています。
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<過去の関連回>第89回「戦時下の食事」第二次世界大戦時の飢餓に苦しむ日本https://open.spotify.com/episode/6T3Tp3m7W4v23uNQKaSbJm?si=0CTLtcfSS6yvQ6h-kXeR1w
サマリー
このエピソードでは、戦時中の子供たちの生活が描かれ、特に国民学校とその教育内容が取り上げられています。子供たちの娯楽である紙芝居や食料品の不足、そして学校での特別な教育プログラムが彼らの生活に与えた影響について深掘りされています。戦時中の日本の教育制度における国民学校の実態が語られ、特に厳格な整列の指導や教科書の改訂、戦争の影響による学生生活の変化が焦点にされています。戦時下の子供たちは、国民学校での厳しい生活や集団疎開を通じて、大人たちの戦争の影響を強く受けていました。
戦時下の子供たちの娯楽
たった今、笑って散った友もある。
始まりました。大人の近代史、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
なんか戦争っぽいセリフかな。
そうですね。まさに戦時中の、これ大正翼三回が出した戦時中の兵庫だね。
ああ、そうなんだ。
そうそう。今日は戦時下の子供たちをちょっとテーマにやっていきたいと思います。
なんかちょっと難しそうなテーマだね、それ。
いや、難しくはないかもしれない。
これね、子供たちの太平洋戦争っていう、山中久史さんっていう方が書いてる本があって、
これをちょっと元に今回は話したいと思います。
この方はね、1931年に生まれて、幼少期を戦時下の中過ごしたんだよね。
そんな体験から多くが書かれてたりとか、あとは周囲に体験を聞きに行ったりとかして、
そういったものをまとめて本に出してたんだけども、
で、主にね、今回その子供たちといっても、今でいう小学生ぐらいの子たちのお話になるかなと思います。
まずね、戦前もそうなんだけども、戦時中の日本でね、
子供たちの娯楽といえば、一つに紙芝居があったんだよね。
で、紙芝居屋ってさ、何で収入を得てたと思う?
紙芝居屋の収入?
そうそう。
えー、なんか聞いたことあった気がするけど、全然ダメだわ、わかんない。
これは、あの、飴とかを売ることで収入を得てたんだよね。
あー、副業みたいな感じか。
そうそう。あの、紙芝居を見る料金とかは取らないで、
うん。子供が集まって、そこで売れるっていう感じか。
そうそう。だからなんか、飴を買わずに見る子供をただ見とかいう言い方したんだって。
いいじゃんね。
そう。ま、露骨にこう、嫌な顔して追い払う紙芝居屋もいたり、そういうのもあったんだって。
うん。
で、時代がね、どんどんこう、1941年とか過ぎていくと、紙芝屋が売ってた飴の代わりにね、
せんべいとか、のしいかとかね、す昆布とか、どんどんどんどんこう、品物がね、質素になっていったんだって。
なんか、ちょっと悲しいね。
国民学校の教育
そうそう。やっぱり、あの、食料不足っていうのもあったんだろうね。
うん。
それで言うとね、駄菓子屋とか、その当時ね、一銭店屋っていう言い方で呼ばれてたんだけども、
文字通りその、一銭で買える品物っていうのは、この時代ね、どんどん少なくなっていって、
そればかりかも、駄菓子もほとんどなくなってったんだよね。
特にね、甘いお菓子っていうのは、店先になくなっていって、時代がこう、どんどん戦時中に進んでいくと、
例えば、カステラ市って、カステラのさ、そこに敷いた紙があるじゃん。
うん。
そう、それを売ってたりしたんだよね。
うん。
もう、子供はその、かすかに残ったカステラのカスをこう、歯をこすりつけて食べるみたいな、そんな時代もあったんだよね。
なんかね、今でもやるけどさ、それだけしかないっていうのは悲しいよね。
そうそう。この本でも書かれてたけど、カステラの本体は一体どこに行ったんだろうっていう。
まあ、食べられちゃったんでしょう。
ね。あと、発火市っていう厚手の和紙で、口に入れると発火の味とか、かすかな甘みがあるような、なんかそういうものがわずかに売られるようになったんだよね。
だから、なかなかこう、甘いものが駄菓子屋でも手に入らないし、
そんな中、まあ、母親たちはさ、子供たちに、まあ、それでも甘いものを与えたいっていうんで、薬局に行って、朝ダメとか、遠いゼリーなんかを購入して、与えたりっていうこともしてたんだよね。
うん。
あとは、あの、家に闇屋っていうのが来ることもあったんだって。
うん。
これは、あの、闇屋って食料品をこう、非合法で売りに来る人たちで、これはあの、戦時化って徐々に配給制に移行していったから、自由に食料品っていうのは手に入らなくなってきたんだよね。
うん。
なんで、この闇屋からこっそりその母親たちが、他の人にバレないように食料品を買うっていうことがあって、子供たちはそういうのを見ていたんだけども、親にも絶対他の人には話しちゃダメっていうようなことを厳しく言われてたんだよね。
うん。
あとその、靴もね、なかなか手に入りにくくなってくるんだよね。
うん。
そう。で、子供たち、その、学校へ行ってたんだけども、普段、下駄とか裸足で行くことが多くて、で、たださ、遠足とか行事の時なんかは、靴を履いていくから、で、その時に履く靴がなかなか手に入らないってとこで、あの、学校でね、ズック靴っていうのを販売してたんだよね。
うん。
で、これを買って、ただこのズック靴も、行事のこう大切な時しか履かないから、その間、子供たちの足ってどんどん成長していくから、少しね、こう大きめのサイズを購入したりっていうような工夫をしてたんだよね。
うん。
で、感じのその学校に行くランドセルっていうのも、もう本革のものが手に入らなくなってきたりして、当時市販されてたものに、もうサメ革とかアザラシの革、あと食用ガエルの革なんていうのも使ったランドセルっていうのもあったらしい。
なんか、それはそれで高いんじゃねえの?って思っちゃうけどね。
すごいよね。今、絶対見ないもんね。
うん。まあ、ないだろうね。うん。
そう、だから当時もその本革の製品よりも高価に売られてたんだって。
ああ、やっぱそうなんだ。
そうそう。いや、カエルの革ってね、俺ちょっとこれ、ネットでさ、今カエルの革ってあんのかなって思って、ランドセルは見当たんなかったけど、牛ガエルのスマホケース作ってみたっていうのが、誰かがあげてたんだけど。
マジで?いらないな。
すごかったね。
で、戦時中って、さらに軍需品に使う金属類っていうのは不足してって、これは金属回収令っていうのが出されて、いろいろな場所で金属類っていうのは回収されてたんだよね。
ここで子供たちの視点で言うと、その学校の滑り台とか、C層の支点になっていた鉄パイプとかも撤去されて使えなくなったりとか、階段の手すりとか、そういったものも撤去されていったんだよね。
で、この戦時化っていうのは、もともとあの人情小学校、高等小学校っていう名称から、1941年に国民学校に解消するんだよね。
で、これは国家に尽くす人材育成するっていうことを目的に、初等教育が行われていったんだけれども、科目が国民科っていうのがあって、これは国語とか国史とか地理、あと衆心、衆心って今の道徳みたいな位置づけかなっていうのがあって、
あと理数科、これは理科、数学、芸能科っていうのが、これは芸術とか技能とかそういったもので、で、さらに体練科っていう、今で言うと体育だね。
ただね、この体練科って今の体育とはちょっと意味合いが違くて、目的は健康維持ではなくて、戦力としての体力作りだったり精神作りっていうのがメインだったんだよね。
これね、国民学校になって体練科の授業はね、3年生以上はね、2倍に増えたっていうぐらいすごく重要視されたんだよね。
戦時中の子供たちの生活
で、男子はいろんなことやったけども、その中に剣道とか柔道の武道をやったりとか、女子は薙刀をやったりね。
今ではなかなかないよね、薙刀なんてね。
薙刀か、ないね。見たことないもん。
確かにね。で、さらにさ、服装もさ、冬以外はランニングパンツ1枚で、男子はもう裸だったりとか、
あと冬でもね、上半身の上着は1枚取って、で、下半身は夏と同様にランニングパンツ1枚だったりするんだよね。
そうそう。で、こんな中動くからさ、下手をするとさ、もう肝心なものがパンツの横から出てしまうっていうこともあったんだよね。
なんかさ、それさ、俺ら小学校の頃って普通じゃなかった?割と。
あ、確かにね。
なんか小学校の頃さ、そもそも確かに男子は冬でも短パンだったじゃん。
短パンだね。
で、体育座りとかするとさ、ポロリはよくあったじゃん。
長丸はね、まあ立派だからね。
俺はもう尾形郎の3分の1ぐらいしかないから、もうシュシュンってなってるけどさ。
やめろ。でも、まだ、でもパンツ一丁だよ、これは。
まあ、そうだね。それは出ちゃうよね、確かに。
しかも、まあこれさ、寒風摩擦もあってさ、長丸寒風摩擦ってやってた?
やってないね。
あ、やってないんだ。自分はあの幼稚園の頃寒風摩擦やってたの。
そうなの?
あ、そう。あ、ちなみにこれ、自分も寒風摩擦って覚えてたんだけど、寒風摩擦って言うらしいね、正式は。
え?ちょっと待って、ごめん、今何が違った?
えっとね、寒風ってさ、寒いに風邪って自分は思ってたんだけど、
寒風摩擦、乾いた布に摩擦なんだよね。知ってたか?
え?そうなんじゃない?ごめん、言ってる意味がよく分からないんだけど。
寒風摩擦でしょ?寒風摩擦だよね?合ってるよね?これが合ってるよね?
そうそう。自分は寒風摩擦だと思ってた。
あー、昔そういうのやってたから寒風摩擦だって思ってたわけね。
そうそう、寒い中やってたし。
寒い中やるのが寒風摩擦じゃん。寒風摩擦なわけじゃないと思うけどな。
そうそう。これね、ちょっと調べてて思って、
この本には直接書かれてないんだけども、これ太平洋戦争前あたりに導入されたものなんだって。
これ健康法として風邪をひきにくくなるみたいな、そういったこともあって、
この時代必ずと言ってやってたんだよね。
国民学校の整列指導
ちなみにさ、ちょっと俺知らないんだけどさ、これ効果あんの?本当に。
いやー、これはね、どうだかわかんないんだけど、
俺は個人的に昔から風邪ひかないんだよね。
だけど、その幼稚園の子みんなやってたけど、やっぱり風邪ひく人はひいてるよね。
まあ、関係ないってことかな。
そうだね。調べたことないからどうなのか。
あと、今やんなくなったのはいろいろあるんだけど、皮膚に炎症が起こっちゃったりとか、
あんまり皮膚に良くないっていうのと、あとはもうプライバシーの問題というかね、
倫理的なもので結構、もうやんないところがほとんどだよね。
そう、だって俺ですら知らないっていうか、やってるのを見たことすらないもん。
あ、そっか。
うん。
でも、やってるところはあるんじゃないかな、まだ。
えー。
場所によっては。
で、あと、毎回さ、この大連科の授業で行われたのは、正常歩っていう、普通に歩くんだけども、
これがね、毎回やらされてきついっていうのを言っていて、
もう、状態はすごくまっすぐ、頭もまっすぐ、きれいに歩かなきゃいけないね。
そういう訓練で、ただ手は脱力して、力を入れすぎないような、なんかそういうことをするんだって。
これでなんか、例えばガニ股のことかウチ股、なんかのこういう個人の癖っていうのは、
強制的にこう、この正常歩で厳しく治すように言われて、
で、これがさ、なかなかその激しい、こう走ったりする運動じゃないから、
寒い中でもこう、さっき言ったように薄着でやるから、結構その体が温まるっていうわけでもなく、
すごく寒くて、ただ辛いっていうことも言ってたんだよね。
うん。
で、あと、うちらの時代もあったけど、
整列っていうのはこの時代、特にもう今とは比べ物にならないくらい、すごく厳格に指導されたんでね。
前柄習えだったり、右柄習えとか、もうこれ集団行動の代表的なものだけども、
これちょっと調べてみたら、もともと幕末の軍隊に導入されたものなんだってね。
教科書の改訂と影響
そうなんだ。
そうそう。で、これが戦時中の学校でも、この整列指導っていうのは厳しく行われて、
常にこう緊張感が張り詰めていたんだよね。
うん。
前柄習えとかね、やるよね。
今はやるのか知らないけど、まあ俺らの時は当たり前にやってたよね。
ね、やってるよね。今はどうなんだろう、確かに。
なんか、これ海外とかだとやっぱ珍しいんだってね。
ああ、こういうのなんか日本っぽいよね、すごく。
そうそう。だってもう毎回確かにね、行事が体育祭とかね、運動会か、必ずひと言ってほど何回も練習させられたもんね。
そう、ずれてると怒られてさ、何なんだよとか思ってさ。
まさに集団行動だね。
うん。
で、あと教科書がね、この時代ね、無償じゃなかったんだよね。
うん。
さっき言ったように、この時代国民学校になって教科書も改訂したんだよね。
うん。
で、兄弟で例えばさ、持ってた教科書とかが使い回しができなくなって、また買わなくちゃいけないってことになって、
貧しい家庭とか、結構この経済的打撃もあったんだよね。
うん。
で、これね、どう変わったかっていうのをちょっと調べてみたんだけども、
なんか、例えば挨拶のページでは、お父さんへの呼びかけがなくなって、お母さんただいまとかになったんだって。
うん、なんで?
その背景にやっぱ、母子家庭が当たり前になったんだよね、この時代。
ああ。
父さん寂しいね、これね。
戦争いってるからね。
うん。
で、運動会の冊子絵なんかも、子供たちが戦争ごっこしているものになったりとか、万歳してるような冊子絵に変わったりとかもしてるんだよね。
戦時中の教育と訓練
うん。
それからね、戦時中、1941年にね、反対で集団投稿するっていうのが始まったんだよね。
うん。
それまではね、好きに友達と投稿してたりしたんだけれども、班長がこう、引率して、その班で二列横帯でこう、しかも喋っちゃいけなくて、無言で投稿しなきゃいけなかったんだよね。
うん。
で、投稿時には、あの班長がこう、服装とか所持品検査なんかもして、ボタンは取れてないかとか、爪は切ってあるかとか、耳の裏に赤がついてないかとか、なんかすごく厳しく見たらしい。
うん。
耳の裏に赤がついてないかってすごいなって思って。
見てわかるんだ。
わかんないけど。
こっちはわかるだろうけど。
まあ、全部が全部ね、いろんなケースがあるだろうけど。
うん。
で、学校へさ、着くと法案殿っていう小さな建物があって、そこにね、再敬礼するんだって。
うん。
これ、あの天皇とか皇后の写真が収めてあったりとか、教育直後の写しなんかが格納されてるとこなんだよね。
うん。
で、その他にもあの、二宮健次郎の像に必ず礼をしたりとか。
うん。
うちらの時もあったけど、やってないよね。お辞儀したことないな。
うーん、お辞儀はしないな。
そうそう。で、さらにね、あの、四大節っていう、紀元節、天朝節、明治節、元日っていう、戦前の祝祭日があって。
うん。
で、これに合わせてさ、あの、学校で式典を行ってたんだよね。
うん。
で、この時に法案殿から、天皇皇后のその写真、御神絵っていうんだけども、が公道へ移されて、
その時に君がよとか、教育直後の朗読なんかも行われたり、校長の話っていうのもセットで行われてたんだよね。
うん。
かなりね、この式典は厳格に行われて、式の最中、あくびをしちゃいけないとか、咳払いとか、鼻をすする音すら許されない、その静寂の中やるんだよね。
うん。
で、この天皇皇后のその写真の覆いがこう外れる瞬間、目線を上げることすら禁じられてたんだって。
うん。
それぐらい天皇を威敬するっていうような教育が行われてたんだよね。
うん。
で、さらに国民学校の教師たちってすごく大罰が激しかったんだよね。
うん。
大勢の生徒の前で殴ったりとか、突き飛ばされたりなんかっていうのは頻繁にあったらしくて、
だけどそれに対して親が教師にクレームをつけるっていうことなんかほとんどしなくて、
もうそれが当たり前というか、教師のその大罰が厚い指導なんだっていうような、そういう感覚だったんだよね。
うん。
で、教師側もね、一応その親の職業、例えば親が記者とか弁護士とかだったら手加減するっていう教師も中にはいたらしいよ。
なんかそれはちょっと違う気がするけどね。
そうだね。そこはね、生々しいね。
で、教師に職員室で例えば呼ばれた場合っていうのは普通に入るんじゃなくて、入り口で何年何組、何々名前言って、何々先生のお呼びで来ましたみたいな、
すごくはっきり言わなきゃいけなかったんだよね。
うん。
で、そこで先生の誰かがよしっていう許可が出たら、何々入りますって言って入室するんだって。
うん。
で、必ず敬礼もすることが義務付けられてたりとか、なんかすごい生徒と先生のこの今の位置関係と全然違うなっていうのを感じるんだよね。
まあこれは、だって俺らの時と今とでもかなり違うなって思うしさ、多分それよりもさらに厳格だったわけでしょ?
いや、すごいと思うよね。
うん。
そうそう。だって教師に逆らうっていうか、口応えするってことはもうありえない時代だろうね。
まあ、そうだね。
で、学校で避難訓練っていうのもさ、行われるんだけども、やっぱ戦時中っていうのはすごく実際に空襲への備えっていうのもあるから、この訓練っていうのは重要視されたんだよね。
うん。
で、例えば防空頭巾の常時携帯っていうのはしていたし、避難訓練ではその生徒がさ、廊下に完全にもううつ伏せになって、これなんか書いてあったんだけど、両手の人差し指、中指、薬指を目で押さえて、親指で耳の穴を塞いで、小指で鼻を塞ぐんだって。
なんで鼻を塞ぐの?
これはね、爆弾が破裂した時の爆風を防ぐ目的なんだって。
へえ。
そうそう。まあ、耳とかはね、耳の鼓膜が破れないようにっていうのもあるだろうし、目はあの眼球が飛び出さないようにっていうのもあるらしい。
うん。
で、この戦時中ってさ、あの、例えば1940年からね、中等学校とか女学校なんかは筆記試験を廃止して、内診書とか身体検査と口頭諮問が中心になったんだって。
うん。
口頭諮問ってね、この試験官からいくつかの問いかけに対して答えるっていうようなものだったんだけど、ただその問いかけに対して絶対に反論してはならないっていうのがあったらしいんだよね。
うん。
例えば、あの、日本の兵隊は何と言って戦死しますか?それはなぜですか?みたいな、そんな質問もあったりとか、これ答えにくいよね。
ちょっと全然想像がつかないんだけど、天皇万歳っつってとかそんな話でしょ、多分。
あ、そうそう。なんかもう従順な姿勢とか態度が最重要視されたんだって。
うん。
で、さらにね、あの、1943年にね、連合艦隊司令長官の海軍大将山本勲が戦死したっていうのがあって。
うん。
戦時下の子供たちの生活
で、この人は真珠湾攻撃を指揮した人でも国民にこう司令渡って人気だったんだけども、この戦死したっていうことがすごく大きな衝撃で、子供たちもね、学校でその山本勲のブロマイド、肖像写真がこう販売されて、ほとんどの子供がね、なんか購入したって言ってたんだよね。
うん。
すごい時代だよね。軍人さんの写真をこう販売されて、しかも買うっていうね。
うん。
今で言うと、まあポケモンカードとかかね。
いや、なんでブロマイドなんだからアイドルでいいじゃん。
アイドルか。
なんでポケモンになっちゃうんだよ。
いやいや、みんななんか買ってそうじゃん。
いや、ポケ買ってそんなみんな買ってんの?
いや、わかんない。どうなんだろう。
で、あと本当に戦争の終盤、1944年頃から国民学校の初等科、3年生以上の児童は保護者の申請によって集団疎開が実施されたんだよね。
うん。
で、これ子供たちとそれに因素する先生が地方に疎開をしていったんだけども、これ疎開先の環境もまちまちで、地方だからといって食料が豊富でみんな親切だったわけでも必ずしもなくて、
言ったら子供同士のいじめだったりとか、教師の暴力なんかもあったところもあるし、
それまで子供たちにとって学校って厳しいものだったから、家帰るとすごく自由に過ごしていたんだけども、それが疎開に行ったことで、
常に集団生活しなきゃいけないから、常に監視されて自由がないっていうことになったんだよね。
実際、あと食料も乏しいところも多くて、それで家に手紙で空腹を訴えようとしても、教師たちがその手紙を検閲するから全て書き直されて家族に伝えるってこともできなかったんだよね。
こういった家族とも離れて過ごすってことに子供たちもなっていったんだけども、
さらに戦後、実際に親たちを失った戦災故事っていうのは約12万人いたって言われてるんだよね。
戦時中の子供たちって今とはまるで違う環境で過ごしたんだなっていうのも思うし、
本来であればもっと子供らしく過ごせるこの時期を大人たちが始めた戦争によって過ごすことができなかったっていうことも感じたなと思いまして、いかがでしたでしょうか。
戦争の影響と文化
そうだね。やっぱり当時を生きてない身からすると、こういう本だったり、あとは結構やっぱり戦争を取り扱っている作品、映画だったりアニメだったり漫画だったり、そういうので知れる情報がやっぱり全てなわけじゃん。
今日ワタロウが話してくれたことって、例えばジブリで言ったらホタルの墓とか映画あるじゃん。あれとか、あと漫画で言ったら裸足の源とか、多分その辺超有名なやつだけど、やっぱりその辺の描写に通ずるものもすごくあって、
確かにそういうのあったなって、記憶の片隅にあった映像っていうか、シーンがフラッシュバックされて、確かになんか大変だよなーみたいな、一言みたいに言っちゃって申し訳ないんだけど、今の時代ってそういう意味ですごい恵まれてるなっていうのは本当に思いました。
そうだね。じゃあ、ということで今回は戦時間の子供たちについて話しました。もしよかったら、私もぬくみずよいちのブルマイドを持ってますとか、そういうのでもいいので、ぜひコメントいただけたら嬉しいです。
なんでぬくみずさんなんだよ。
いやいや、男らしいから。
まあね、好きな人は好きだと思うよ、俺は。
ということで、最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。
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