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こんにちは、インタビュアーの早川洋平です。今日はですね、神奈川県の海老名市で亀井博さんにお話を伺います。亀井さんよろしくお願いします。
亀井さんは1932年6月17日生まれということで、今81歳でいらっしゃいますね。
今は海老名にお住まいでということで、冒頭、ここのインタビューさせていただく前に、車でわざわざ迎えに来ていただいて、その途中で亀井さんがやってらっしゃる古書店。
古書店、海老名平和書房。
これ何年ぐらい今?
そうですね。定年退職してから5,6年経ってからかな。やりだしてからは7,8年なんですね。
先ほど海老名平和書房も見させていただいて、またその辺のお話も後で聞ければと思ってるんですけども、
早速なんですけども、今回この戦争の記憶というインタビューで、1945年の前後からいろいろお話を伺いたいと思うんですけども、
まさに戦争の記憶っていうところで、亀井さんご自身が今一番最初に思い出すというのはどういうところ、どういう状況か。
私が生まれたのは小学7年ですからね。
ですからいわゆる満州事変が前の年に始まってるんですよね。
ですから私の幼年時代、入児期、幼児期、少年期っていうんですかね。
いわゆる15年戦争の真っ只中ですよね。
戦争が終わったのが中学の1年生のときだったんですよね。
ですから本当にまさにこの戦争の中で子供時代を過ごした、そういった世代なんですよね。
ですから始めからも戦争とは切っても切れない、そういった中で育った世代ですよね。
しかも私なんかは非常に貴重なのは、昭和20年の8月15日に戦争が終わりましたね。
今は中学1年生ですからね。
4月に中学に入って、8月までは、いわゆる当時中学校なんかでも軍事訓練をやっていたんですよね。
軍事教練というんですかね。将来兵隊になるための準備訓練みたいなね。
そういったことも数ヶ月ではありますけれどやっていたんですよね。
具体的にどんなことをやってたんですか。
上級生はみんな工場なんかに行ってましたけど、1年生2年生は残っていたんですよね。
具体的にはやっぱり分裂行進というんですかね。軍隊が並んで行進しますね。
そういった訓練とか、よく記憶してるのはタコス部掘りっていうのをやりましたね。
敵が空襲に来たときに生き残れるように。
自分だけタコが壺に入るようなね。
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そういった穴を掘るようなことをやったりしてましたね。
すみません。細かいことをどんどん聞きちゃいますけど、それは手で掘る?
小さな軍隊用のスコップみたいなのがありましたけどね。
顕微とか言ってましたね。
よく兵隊が陸作に一緒に備えつけて歩行する小さなスコップですがね。
そういったのはみんな揃ってましたからね。
そういったのを使って、自分一人が入るための一種の防空壕って言ってましたけど。
そういったものを掘ったりしてましたね。
戦前の戦争中の生活体験をやってるし、戦後は民主主義の時代になって、
いわゆる青い山脈と言われるような男女共和国が導入された。
そういった私たちは、新生高校になってからの2期目の世代なんですよね。
ですから戦前の学校生活も知ってるし、戦後の民主主義の時代の生活も知ってる。
必要な世代だって思ってるんですよね。
やっぱり今のところをお聞きすると、そこからまたお聞きしたいんですけど、
まさに両方知ってる。教育のところに少し入りますけど、
一番違うのって何が違いますか?
全部180度違うのかなってイメージはあるんですけど。
やっぱり小学校の大学年までは戦争中だったんですけど、
特に典型的なのはやっぱり日本の歴史なんかね。
当時は国史って言ってましたかな。
それは教わったんですけど、
それは新国日本のアマタラス大神の時代から、
いわゆる日本の神話の物語っていうんですかね。
神話そのものは一つの歴史というか事実というような形で教わっていたわけですからね。
天皇崇拝っていうんですかね。
そういった中で教わっていましたし、
世界に勘たる神の国日本というかね。
そういった歴史を絶対的に教わっていましたから、
まさに日本というのは非常に優れた国だというようなね。
そういった思いをやっぱり強く持ってましたね。
まさにね。
亀井さん、後でその話も持ってますけど、
実際ご自身も先生になる。
法政大学の女子校でずっと教鞭を取られててということで、
教育っていうのがいかに幼い頃、
大きくなってからかと思うんですけど、
重要性っていうのはすごく感じらっしゃったと思うんですけど、
その今当時まさにおっしゃってたように、
良い悪いではなく、神の国、天皇陛下神。
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そういうのはその時はもうそういうふうにやっぱり教育があるから、
亀井さんもそれが普通でそういうもんだと。
そこに疑いを持ってたり、
逆になんか違うなって思ってた子供たちとかっているんですかね。
そんな視点で見てなかったと思いますけど。
ただね、子供の頃にね、よく不思議に思ったのはね、
朝の朝礼っていうのがありますよね、学校で。
その時に一斉にね、全校生徒が東の方を向いてね、
東方洋拝っていうのをやるんですよね。
天皇陛下のお住まいの球場に向かってね、
一斉に朝のご挨拶をすると。
それはお辞儀の中でも一番、
最敬礼というね、最も深々とした御礼をするんですよね。
それを一斉に全校生徒が東の方を向いてね、やるんですよね。
その時にね、よく思ったのはね、ちょうど8時前後ですよね。
子供たちはそういった形で最敬礼をしてるんだけど、
その時ね、天皇陛下はどういうふうな状態にいるのかなと思って。
おそらく朝だから便所か何かに行ってるんじゃないかと。
おそらくそういった天皇陛下に向かって、
この深々と礼するのもちょっとおかしいなというのはね、
子供の頃は思ってましたね、それはね。
いろいろ考えることがあったわけですね。
そこから民主主義というか、
なってからの教育も受けてるっていうことで、
本当に違う部分ってたくさんあると思うんですけど。
まさに経験した亀井さんだから聞きたいんですけど、
やっぱりもう明らかに変わったんですよね。
それは変わったですね。
それは先生たちも、前はそういう先生の教育してた人たちも、
そのまま続けて、新しい教育してる先生もいるわけですよね。
ほとんどはそのままに残った形ですね、先前の先生たちね。
同じ先生が変わってるのを見てるってことですか?
うん。ただ私の場合は小学校の時代から、
これは中学に移りましたからね。
だから小学校の時代の先生たちは、
そのまま教員として残っていたみたいですね。
今はここエビナですけど、
大分寺と横浜の方でってことだと思うんですけど、
亀井さんご自身、ご出身っていうのはどこなんですか?
三陰のね、鳥取県の与那子っていう町ですけどね。
そうするとそちらで、つまり当時は、
そのいわゆる1945年前後はどこに?
やっぱり与那子にずっといましたね。
だから中学生、高校生まではずっと与那子にいましたからね。
18歳までは与那子にいましたね。
そうなんですね。
じゃあ戦後5年間ぐらいまでは与那子にいたってことですね。
たぶん13歳ぐらいで迎えられるってことでしょうから。
そうですね。
その当時、僕も与那子の状況は、
勉強ぶつけて全くわからないんですけど、
どういう感じだったんですかね。
そうですね。与那子っていうのは古い商業都市ですからね。
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また三陰の鳥取県の中では鳥取県が一番大きくて、
その次は与那子で、3番目は倉吉っていう町なんですね。
私の家はね、与那子っていう町で、
ちょっとした荒物屋っていうんですかね、金物店っていうんですかね。
そういったのを営んでいたんですよ。
金物って当時、戦中だと色々出さなきゃいけないとか、
作るとかイメージはあるんですけど。
ただ持ち物は、自分の家で私物として使っていたものは、
もちろん芝居とかなんか出しましたけどね。
ただあんまり金物で作った品物はもうなかったですね。
なかった。
つまりバケツなんかにしてもね、
木製のバケツとかね。
それから洗面器っていうんですかね。
あれはみんな木製で作ったね。
そういったものはやっぱり売ってましたね。
それは当時金属とかは貴重だからなのか、
もともと当時は木で作るのか。
いやいや、初めは金属で作ってましたけれど、
みんな武器に使うわけですよ、金属はね。
ですからその代用としてね、みんな木製で作るっていう。
やっぱりそういうことがあったんですね。
代用品っていう言葉がね、非常に流行ってましたけどね。
だから私の家なんかでも粗物をやっていたんですけれど、
やっぱりそういう木製のバケツなんかが非常に多く並べられていたことを記憶してますね。
ご兄弟とか、例えばご家族とか。
昔のところはね、昔はみんなそうだと思うんですけど、
兄弟が多くてね、7人兄弟なんですよね。
私一番下でしたけどね。
ご兄弟で、例えばお兄さんだったりお姉さんだったり、
例えば戦争へ行ってしまったとか。
そうですね。
長男が国鉄に勤めていましたけどね、当時のね。
やっぱり戦争に行きましたね。
中国戦線に行きましたね。
次男が、当時満州で開拓技術というのがありましたよね。
そういった満州開拓のね。
それのね、幹部って先生って言うんですかね。
そういった形で行ってましたね、満州にね。
あ、そうなんですか。
兄貴はわりとできてね、当時、夜名古っていう街では珍しかったと思うんですけど、
大学を出ましてね、仙台の東福大学ですけどね。
そこの哲学を出まして、そこで満州開拓に共鳴しましてね。
それで、いわゆる少年義勇軍という人たちがたくさん行ったんですけどね。
それの指導者っていうんですかね、先生として行ったんですよね、満州に。
そうなんですね。
ですから終戦はやっぱり満州に迎えてましたね、次男はね。
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なるほど。
それから3番目はやっぱり兄貴だったんですけどね。
それは、いわゆるコノイ兵っていうんですよね。天皇を直々に守るコノイ兵っていうね。
それで東京に行ってましたけどね。
当時のコノイ兵っていうのはね、なかなかその街でもね、
わりと優秀でなければね、選ばれていかなかったんですよ。
身内にね、変な犯罪者がいるとかなんとかね、そういったものをみんな調べられましてね。
まあ、わりと家庭が健全だというふうなね、そういったうちの指定がね、選ばれるということで。
だから私の兄貴がコノイ兵になったということでね、
ある意味では非常に名誉なことだというふうなことにおこうと思ってましたよね。
ですから、3番目の兄貴はずっと東京で、いわゆる今の皇居の近くにね、
皇居のすぐそばでね、コノイ兵として勤めてましたから。
いわゆる東京大空襲ね、3月10日の。
あのときは皇居の中でね、やっぱり消火活動にね、勤めたって言ってましたね。
やっぱり当然経験してるんじゃないですか。
本当にそれはまさに火だらけってことだったんですね、東京は。
そうそうですね。
あとはお二人ぐらいがお姉さんが。
姉が二人。その次は姉が二人いましてね。
それなんかもみんなやっぱり戦争中ですから女学校に行ってましたけど、
みんな近くの工場に行って、勤労動員って言うんですかね。
やっぱり軍事工場なんかに行ってみんな働いてましたね。
私のすぐ上の兄貴は二つ上ですけど、まだ中学生ですから。
学校に行ってましたけどね。
そうすると直接、戦争では皆さんはご無事だった?
そうですね。ちょっと不思議なくらいね、みんな無事だったんですね。
二番目の姉貴なんかもね、終戦は満州に迎えてるんですよね。
だから一時、ソ連に抑留されたんじゃないかっていうふうに心配もしてましたけどね。
なんかうまく逃れてね、翌年ぐらいに帰ってきましたね。
今のお話ともちょっと重なるんですけど、
例えば僕今広島中心にいますし、東京大空襲って話もありましたけど、
日本国内で直接戦争を言ってない国民党でいっぱいいるわけで、
例えば広島だったり長崎だったり、直接すごい被害を東京も受けてたりと思うんですけど、
その夜なごとかっていうのはどういう状況だったんですか。
そうですね。私なんかもよく記憶してますけどね。
何回か関西機っていう小型のアメリカの飛行機なんかがやってきて、
ロケット弾を落としたっていうことはありましたけど、
今でもよく記憶してるのは、夜空襲警報っていうのが出ましてね。
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それで私たちが防空壕に入ってますと、
やっぱり高度8,000メートルか1万メートルぐらいの上空をB-29っていう爆撃機が飛んでいくんですよね。
もちろん見えませんけど夜ですから。
音だけは聞こえてきるんですよね。
朝鮮海峡に被害を不切に飛んでいくんだっていうことを聞いてましたけど、
直接爆弾を落とされるってことはありませんでしたね。
ただ何回かそういった戦闘機が来て、機銃装置というんですかね、バラバラ撃つね。
それはやりましたけどね。
それとご存知かどうか分かりませんけど、私のすぐ近くにダイセンという山があるんですけどね。
はい、行きました去年。
あの近くのダイセン駅っていう駅があるんですけどね。
そこでいわゆる日本の列車がアメリカ軍によって狙われましてね、
そこで4,50人確か死んだんじゃないですかね、機銃装置っていうんですかね。
そういった記録みんな立派な本が出てますけどね。
直接すごい何か、例えば自宅の近くにどうこうというのはなかったと思うんですけど、
やっぱりまさに今回の企画で一番お聞きしたいところなんですけど、
当時振り返って、たとえばご家族、ご兄弟が出生されるというか、
そういう時の家族全体の雰囲気とかその時の感情とかってどういうか。
おそらく親父とかお袋は大変心配、不安な気持ちを持っていたんでしょうけど、
私なんかまだ小学生ですからね、兄貴はそういった形でね、
ということは非常に名誉なことだというようなね、
そういった思い出の一つなんて誇りって言うんですかね。
そういったものは抱いてましたね。
その時は表面っていうのも変ですけど、
小学生の中でお兄さんとかの顔を見るわけじゃないですか。
その時お兄様もある意味覚悟はしてると思うんですけど、
そういう怖いとか本当は行きたくないとかそういうのを口に出すとか、
あと顔に出てたとかそういうのって全然なかったですか?
もちろんご本人じゃないのですけど、弟さんから見て。
あんまり感じなかったですね、そういうことはね。
ただ非常にやっぱり国のため、特に天皇陛下のためにね、
つぐすということはやっぱり家族にとっても大変誉れなことだと、
嬉しいことだというのはね。むしろそういった思いが強かったですね。
お袋とか親父はどういった思いで送ったかわかりませんけどね。
実際、空襲警報も何回か軽減されてるとかってあると思うんですけど、
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世の中にいた中で、当然戦争っていうことは幼いながらも意味があったと思うんですけど、
報道で例えば日本が結構もう負けてても当然勝ってるみたいな報道があったと思うんですけど、
その時とかっていうのは、なんか僕も今回いろんな方にインタビューしてるんですけど、
やっぱり結構もう負けてるって気づいてた方もいたりとか、
やっぱり全然わからなかったって方もいたりとか。
子供ですからね。苦戦してるってことは思ってありましたけど、
負けてるとは思ってなかったんですね。
まさに終戦の戦争が終わるまで、やっぱり日本が負けてるとは思わなかったですね。
まさに8月15日の天然火事の極温放送はどこで?
それは当時、私の家は夜名古屋の街でもわりと街中にあったものですからね。
しかも近くに郵便局なんかあったんですよね。2階建ての郵便局ね。
やっぱりあの当時はそういった公共施設のそばの家は防火対策っていうんですかね。
火災なんかを防ぐっていう意味で。
立ち退きって言ってますけど、疎開ですね。家を壊すっていうんですかね。
当時は強制疎開っていうような言葉で言われてましたけどね。
私の家なんかも郵便局の近くにあったものですから、機関が定められていましてね。
その間に立ち退くようにというようなね、そういった指令が上から来ていたんですよね。
ですからその準備をやっぱりやってましたよね。
荷物なんかをみんな他の倉庫に借りてね。
倉庫に持ち運ぶっていうようなことをね、私なんかもやりましたよね。
そしたらね、日本が戦争で負ける8月15日の数日前にね、
立ち退きしなくても延期になるらしいっていうふうなね、そういった情報が流れてきましたよね。
それもいいなというふうに思っていたら終戦ですからね。
もう全く立ち退く必要はなくなったわけですよね。
だからそういった意味では家はそのまま残ったわけですけどね。
ただそれはあれですよね。
他の家なんかは早く来たところなんかはもうすでに壊してしまったところなんかかなりありましたよね。
だから家なんかはかろうじて生き延びたというようなね、そういったあれがありましたね。
そういう意味では、事実はやっぱりわからないですけど、数日前から情報が流れてくるってことは。
立ち退かなくても延期になるらしいよっていうような、そういった情報が流れてましたね。
今だってもとたどれないでしょうけど、やっぱり戦争は負けて終わるっていうのが何かとおくかな。
ただね、私なんかはね、天皇の放送が流れるまではね、
21:02
あれは一つの戦術であってね、つまり時間稼ぎであると。
一応負けたという形をとってね、そのうちまた反撃するんだというようなね、そういう思いを持っていましたよ。
一つの戦術じゃないかっていうのはね。
それぐらいね、不滅を誇った日本が絶対負けるというような思いを持っていなかったんですよ。
それは、それこそ13歳ですから他を見るようになかったかもしれないですけど、亀井さんだけじゃなくて、少なくとも亀井家はそう?そういう感じでした?
だいなり将来みんなそうじゃないですかね。
中にはね、そうではない思いを持っていた人もいたかもわかりませんけどね。
大半の日本人がね、やっぱり負けるとは思ってなかったんじゃないですかね、天皇の放送が流れるまではね。
そういう意味では今、それも戦術じゃないかって思ったっておっしゃってましたけど、
僕のイメージでは、よくある映画とかじゃないですか、その漁港放送の後に、
もうみんななんかもう膝をついてとか、逆に力が抜けちゃってとかだったと思うんですけど、
亀佐そのときは、「あ、じゃあ終わったー!」っていう感じでもちょっと違ってたんですか?
いや、やっぱり、あの人もご存知だと思うんですけど、
夜、敵の飛行機が飛んでくるときに、明かりを出さないようにということで、
透過感性っていうのをやっていたんですね。光を出さないように。
それは毎日やっていたんですよね。
ところが8月15日の天皇の放送以来、そういった透過感性っていうんですかね、
夜、暗くしなくてもいいというふうなことになったんですよね。
そういった町内化を通してね、そういったお触れが伝わってきたんですよね。
そのときのやっぱり、そしてパッと電気がついたね。
その明るさっていうのはね、今でもよく覚えてますけどね、
やっぱり戦争のない世の中っていうんですかね、やっぱり平和ってものがどんなにいいものであるかっていうことはね、
やっぱりしみじみ感じましたね。
そういった思いが、終戦直後はやっぱり複雑な思いでしたね。
子供ですからね、戦術上一応幸福の形をとっておいて、
また反撃するんじゃないかっていう思いと、
いや、やっぱり戦争は負けたんだと。
その証拠には、夜、赤々と電気つけてもいいっていうふうなことになったと。
そういった思いが作想していましたね。
そうそう、その思いのところだと思うんですけど、
それこそ戦争が終わるまでは、もちろん国を信じてるし、
お兄さんたちもお国のために生きてたわけだし、
亀井さんご自身も、そのとき逆に描いてた将来っていうのは、
例えば将来自分も国のために兵隊になるんだとか、
その辺って何か描いてた?
ありましたね。
やっぱり中学の入学試験なんかもね、
今みたいに割と面接が中心だったんですけどね、
将来何になるかっていうことを先生聞くんですよね、
高等指紋なんかのときにね。
私は子供のときからね、家族みんなそうなんですけど、
24:00
やっぱりうち上はみんな金眼なんですよね。目が悪いんですよね。
ですからおそらく軍人にはなれないだろうと。
科学を持って国に尽くすというのは、
そういった意味で、軍事兵器を作る、
科学者になりたいなんてことをね、
高等指紋のときに言った記憶をよく覚えているんですよね。
目が悪いので兵隊にはなれないけれど、
そういった科学を持ってね、敵をやっつける、
そういった科学者になりたいってことを答えた覚えがあるんですよね。
大難にしそうになりそういった雰囲気がありましたね、当時の子供たちはね。
そういう意味でね、さっきおっしゃってたように、
その後で戦争が終わったほうがいいっていうのはあると思いますけど、
そこでしばらくはそういう今おっしゃってたような複雑な…
そうですね。
戦争が終わったっていうことを受け入れる程度に
少し時間がかかったっていうふうに今お見受けした気がします。
その辺がある程度自分で…
当時は結局難しいかもしれないですけど、
終わったんだって本当に、
そういう複雑なことが一つになったときってどのくらい時間がかかった?
そうですね。
何かきっかけがあった?
末っ母さんなんかが日本に乗り込んできましたよね。
だからやっぱり一つか二つくらいはそういった思いを持っていたんじゃないでしょうかね。
アメリカ軍がやってきてやっぱり親中しましたね、東京なんかにね。
やっぱり負けたんだというような思いを実感としてね、
持つというようなことになるわけですから。
やっぱり終戦後1ヶ月くらいはその辺複雑な思いでしたね。
錯綜してましたね。
その戦争終わるまでの間っていうのは先の空襲警報とかもありましたけど、
普段学校でさっきの多項ズボンとかいろいろやってる中で、
神様ご自身の感情っていうか、
だから日本は勝ってる、苦戦してる、勝ってる、
お国のためにっていう、
僕はやっぱり戦争って清酒で、
毎日命の危険を感じて、
すごく幼いながらに毎日すごい息がめいるとか、
死の危険を感じて夜も眠れなかったとかっていうイメージがあるんですけど、
どうでした?
私は田舎ですからね。
今は大きくなりましたけど、
その当時は人口5万ぐらいの小さな町ですからね。
東京大空襲とかいろいろな空襲を受けて、
日本の都市がやられたっていうことは聞きましたし、
それから大阪なんかで空爆を受けた人たちがね、
夕凪のほうに帰ってきて、
中学校なんかに編入してきて、
大阪の話を聞いたことはありますけどね。
ただ実感としてはやっぱり田舎ですからね、
あんまりそういった危機感っていうんですかね、
27:03
持っていませんでしたね。
まさか日本が負けるっていうことはまずね、
持たなかったですね。
鳥取なんで少し近いと思いますけど、
広島8月6日、長崎9日、
その当時広島の人たちもその時は分からなかったっておっしゃってましたけど、
少し離れた夜中からどういうふうに、
情報ってやっぱり新聞とか。
さっきも話しましたように、
私の一番上の兄貴がね、当時は軍隊で病気したのかな。
それで軍隊から退いて、
広島の国鉄に勤めてたんですね。
当時ね、広島の鉄道教習所かな。
そういうところがありましてね。
やっぱり鉄道の学校の教師みたいなことをやってたんですよ、兄貴はね。
広島の近くに矢野っていうところがありますよね。
あそこに結婚してすぐだったかな。家庭を持って。
広島に帰っていたんですよね、教習所まで。
8月15日の時には広島の駅に降りたところで、
死爆したんですよね。
この辺がものすごく熱くて振り払ったんだけど、
なかなか治らなかったっていうことを言ってましたけどね。
それで広島に行ったということは、もちろん私たちは知っているわけですから、
兄貴はどうなんだろうかっていうのは思いは持ったんですけどね。
ただ情報としてはあまり世の中の方には伝わってこなかったんですよね。
新しい新型爆弾が落ちて、
広島は大変な被害をこむったらしいよっていう話は聞いてましたけどね。
まさかいう全市を壊滅的な状態に置くような、
被害をこむったという形ではあまり受け取ってなかったですね。
それだけ情報も抑えていたんじゃないかね。
実際それで8月15日の終戦を迎えていたと思うんですけど、
今回いろんな方の話を伺う中で、
やっぱり当時戦時中もちろんつらいし、
でも意外と戦後間もない方が食糧がないとか、
そこからがゼロからで大変だったという方もいらっしゃるんですけど、
亀井さんは直接の爆撃を受けたとかないとおっしゃってましたけど、
当然今のような平和な時代ではなかったわけで、
今振り返って、戦中でも戦後でもいいんですけども、
戦争にまつわることで、
本当にこれだけはつらかったなというか、
それは物質的なことでも精神的なことでもいいんですけど、
もしあるとしたらどんなことがあったんですか。
ただ一つ思い出として持っているのは、
私が小学校の4年生の時に、
30:01
教わった担任の先生で、小沢隆明という先生がいたんですよね。
非常に優秀な先生でしたよね。柔道2段くらいかな。
鳥取の師範学校を一般で卒業したとかって、
なかなか立派な教師だったそうですよね。
それが半年くらい私たちを教わって、軍隊に行ったんですよね。
鳥取にそういった連隊がありまして、
鳥取連隊に入会されましてね。
私はおふくろと一緒に訪ねて行ったこともありますけれど、
その後満州に行くということでね。
それでその先生が鳥取から下関から満州に行くんですよね。
参院選を通って満州に行かれるそうだということでね。
夜7時か8時くらいですよね。
参院選を通過するから私たちの学校の生徒たちはね、
みんな鉄道の周辺にいて先生を送ろうじゃないかということでね。
みんな鉄道の線にそばに待っていたんですよね。
だから参院選通ってきたんですよね。
先生が顔を出すかなと思っていたらね、
みんなブラインダが閉まってるんですよ。
やっぱり軍隊が移動するっていうことは秘密っていうんですかね。
軍事上のあれで知らせたくなかったんですよね、上のほうが。
ですからせっかく先生が顔を出して覗いてくれるんだろうと思っていたら、
全然わからなくて、
ただブラインダから流れるような光が見えるだけで通過して行ってたんですよね。
その時の思いはね、やっぱり印象として非常に残ってますね。
いい先生でしたがね。
その後結局先生は満州からフィリピンに行ってね、
フィリピンでキリコみたいな体調下なんかでね、
結局死んでしまったんですけどね。
22歳くらいだったかな、で亡くなったんですよね。
先生って言っても若かったってことですかね。
うん、若かったですよ。
そっか。
その前非常に強いですよね。
そういう意味でご家族はもちろん無事で、
すごく近しいというか、方でやっぱりそういう経験されてるわけですね。
実際ね、亀井さんとお呼びしてますけど、亀井先生でもいらっしゃったと思うんですけど、
実際、法政大学の女子高科。
もう30年くらいやってらっしゃったんでしたっけ?
そうですね、35年やってましたかね。
それは何を教えてらっしゃったんですかね。
社会科ですけどね。
その辺っていうのはさっきね、冒頭で教育っていう話をしましたけど、
何か志したというか、いろんなことがあってだと思うんですけど、
教育というか、そこは思いがあったんですかね。
私は初めからね、おそらくサラリーマンなんかには向かないだろうし、
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あまり好みじゃなかったんですよね。
せいぜい図書館か学校関係か、そういうことを希望してたってことはあったんですよね。
それがたまたま就職できたもんですから、35年間いたんですけれど。
実際ね、今ここの古書店の名前も「蛇の平和処方法」って出てますし、
ここにも社会科学、現代史、共同主義、戦争平和ってキーワードもありますけど、
当然その戦争を経験しても、その後教育者になったとしても、
その戦争とは直接タッチしない方もいっぱいいるわけで、
そこがそのテーマとして、やっぱり亀井さんが掲げてずっとここまでやってらっしゃるっていうのは、
何がきっかけとか何が突き動かしてるんですかね。
やっぱりだんだんとね、この戦争体験者がなくなっていきますしね、
今の閣僚の安倍さんなんかにしてもね、直接はあんまり戦争体験ないですよね。
ですから、ましてや今の若い人たちは全く戦争体験がないと。
やっぱりだんだんそういった戦争体験がない人たちが増えてくるというとはね、
ある意味では非常に危険なことだし、
やっぱりそういった若い人たちにね、そういった体験をね、
私は直接戦争体験はないけれど、それでも半分くらいは経験したことがあると。
それを何らかの形でね、伝えたいという思いは根強くあったんですよね。
そういったことから、一番それが如実な形で残っているのは、
まあ広島、長崎じゃないかと。
広島に行くということでね。
広島はテーマとして選ばれましてね。
毎年広島に行くようになったんですよね。
せっかくなんで、この昭和志を学ぶ高校生たち、
広島研究旅行と昭和志学習、編著で亀井ひろしさんと書いてあります。
これはどういう本なんですかね。
これ結局ね、毎年ね、
広島に行って帰ってきた生徒たちをね、
広島の感想を書かせてるんですよ。
それをやっぱりこういった形でね、文章にしましてね。
ずっと残してたんですよね。
それを全部っていかないものですから、
その中の比較的いいものを選んでね、
本にして出したんですよ。
だいぶ前になる。
1,2年くらい前ですかね。
これ聞いてる方にもお分かりだと思いますけど、
亀井さんが法政大学女子校の先生として、
そのご自身の高校の生徒たちに平和学習として毎年広島に連れて行って。
私の学校は修学なもんですから、
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いわゆる選択講座っていうのがありましてね。
その選択講座の中に昭和の歴史という講座を設けましてね。
それを選んだ生徒たちを連れて行ったんですよね。
当時は修学旅行ではなかったものですからね。
いわゆる研究旅行という形で、
講座ごとにいろいろなところをね、
奈良、京都に行くとかね、そういった形でやっていたものですから。
私の場合は広島にということでね。
当然ここでね、その当時の高校生たち、
今も結構お母さんになったりとか、
もう20年まだ結構ね。
もう50代くらいになってるじゃないですかね。
と思うんですけど、その方たちが何を感じたかとか、
いろんなことを書いてあるんですけども、
まさにその、煽動する役として、
上さんずっとこれをやられてて、
それでまさに教育者として感じたこととか、
その広島ってこともそうですけど、
その逆に伝えた彼女たちが、
その時、やっぱりこういうことを当然書いちゃうってことは僕はわかるんですけど、
実際やられてみて、なんか感じたこととか、
その後彼女たちのなんか人生に変わったものが。
そうですね。
まあなんか、そうしてしまえばね、
みんなそれぞれ忙しいものですから、
そうなかなか考慮はありませんけれど、
まあやっぱり広島に行った一つの体験がね、
何らかの形でね、
ああ生きてるなというふうなことをね、
まあ例えば年賀状のね、はしはしなんかを通してね、
感じることはありますね。
例えば。
やっぱり広島の、何ですかね、
あの、記憶は忘れないとかね。
それからまあ子供たちにもときどき話したりなんかしていますとかね。
そういったことをちょっと書いてくれてる生徒たちもいるんですよね。
まあ当然戦争から68年たって、
まさにその時代生きてた亀井さんもそうですし、
当時、ここにも1995年なつ広島とか、
93年なつ広島ってありますけど、
その当時の経験した女子高生だったり、
その人の親だったりは、
ひょっとしたらまた戦争知ってたか知らないか、
ちょっと微妙な年かもしれないですけど。
つまりですね、どんどん時代変わってきてるわけじゃないですか。
実際今見ていて、
直接あれですか、今もまさに僕のような戦争を知らない世代とか、
もっと下の世代、今でいう高校生とかと、
普段フレア機会っていうのは、やっぱり昔よりは減ってるんですか?
それとも何か定期的にどこかでそうですか?
いやいや、もう全然減ってますね。ほとんどありませんね、接触はね。
なんとなくでも、世の中のテレビ新聞見てたり、
直接じゃないにしても、普段子供たち見ることはあるわけじゃないですか。
なんか感じることってありますか?
まさにその戦争っていうキーワードを考えた時に。
どうですかね。
まあやっぱりシンプルに、僕自身も含めてですけど、
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やっぱり経験してないし、
自分の親も戦争終わった直後に生まれてるのは直接は経験してないので、
やっぱり経験にまさに勝るものはないと思うので、しょうがないと思うんですけど、
どんどんやっぱり薄れてるっていうのは感じるんですけど、
それはやはり亀さんと。
やっぱり感じますよね。
どんなところで感じますかっていうのも。
私のとこなんかもね、孫が女の子ばっかりですけど、
上の子は高校3年生、それから1年生ですかね。
あんまりそういったこと自体は話題になりませんしね。
むしろどっちかっていうと今風のね、テレビでギャグやるような、
ああいうものが話題になってきてますしね。
それこそやっぱり今回ね、こういう企画させていただくと、
意外とそのお子さんだったりお孫さんも話を聞いたことがなかった。
おじいちゃんおばあちゃんから。
だからすごくありがたいって話聞いたんですけど、
実際、例えばお孫さんに教えてって言われたり、
お話したこととかっていうのは今までは。
一緒に住んでるわけじゃないものですからね。
私の場合は、さっきも話しましたように、
息子がね、そういったカメラマンの職業をやっていましてね。
ベトナムに行ったりするものですから、
なんか話してばよるようなんですよね。
ですから、普通の子供さんよりも
息の中はね、そういった問題に関心を持っているようなんですけれど。
しかし、そうしろくじとね、
戦争のことばっかり話すわけにはいきませんから。
折に触れて、ちょっとやっぱり話すってことは大事なことだと思いますね。
それこそね、今日どういう形でお役に立てるかわからないですけど、
今日ここでインタビューしてたお話も、
そのお孫さんは全部は知らないこともあるかもしれない。
ほとんど話してないですね。
じゃあまあね、何らかの形でせっかくなんでって思いますけど。
ただ私もね、広島に行って鉄道に勤めていてね、
被爆を受けた一番上の兄貴にね、
あんまり話せなかったですね、自分の体験はね。
で、いつか世界、いわゆる世界という雑誌がありますよね。
あれに戦争体験の中に広島の体験を書いて載せてね、
世界に載ったことはありますがね、
大江健三博士が多少批評、感想を書いてましたけどね、
パンフレットで出してましたけどね、
ただあんまり話せなかったですね。
兄貴なんかはね、被爆直後、広島に入ってね、
自分の同僚たちの何ていうか、
白紙作業というかね、そういうことをやったようなんですけどね、
ほとんど話せなかったですね。
やっぱりそれはね、複雑というかね。
実際こういうお話がかかってても、
広島の方たちはやっぱり、
普段そういう、例えば語り見たことやってても、
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もう終わったと数日具合悪くなっちゃうとか、
すごい強烈な体験を持ってらっしゃる方がいっぱいおっしゃるので、
間違いなく僕も含めて、知らないので当然かもしれないですけど、
どんどん戦争を体験された方が少なくなっていて、
必然的に肉性で語るものにもなさるものがないので、
そういうことを受けていない人たちが世の中に増えていくので、
薄れるというのはある意味、必然かなと思うんですけど、
その中で、やっぱり戦争はない方がいいっていうのは、
これは100人が100人思うことだと思うんですけど、
実際今、日本世界を見ていて、
そういう意味で、第一次世界大戦終わってから見てきて、
今、日本っていうのは、ただちに戦争とかじゃないと思いますけど、
よくなってるというか、このまま行くとまた、
みたいなこととか感じる部分ってありますか?
感じますね。やっぱりね。
やっぱり国防という言葉が出ると非常に危機感を感じますね。
必ず国防という言葉がね。
戦前なんか非常によく言われたんですよね。
国防って言うと、一般の人たちが聞いた限りでは、
国を守るということは良いことじゃないかというふうな思いを持ちますからね。
ただ、国防という名に隠れて、やっぱりね、
侵略していったというのが戦前の歴史ですからね。
だからそういった意味では、国防とか、
秘密保護法とかね、ああいった言葉を聞くと、
ちょっと危険な傾向だなということは思いもしますね。
まあね、いろんな意見があると思いますし、
自衛のために必要だという意見もあったり、
これだけで話したら、僕も正直わからないところがあるので、
もう10時間やってもたぶんわからない部分だと思います。
ただね、やっぱりこの戦争の記憶自体で、
当時体験された方が何を思っていらっしゃるか、
それについて極端に言えば、
自衛はそれでも必要だとか、国防は必要だという、
そういう論議じゃないですけど、
それでもないよりはあった方がいいと思っていて、
今は僕自身の自戒も込めてですけど、
やっぱり知らない、あと無関心だから、議論にすらならない。
だから、やっぱりこうやって直接経験されてて、
しかも教育者としてもずっとやっていらっしゃった、
亀井さんの話ってすごく貴重なんですけど。
でもあんまりそういった難しい問題は避けて通るという風な不調はありますからね。
それは非常に危険なことだと思いますよね。
ただね、私ね、日本が負けた中国の驚きが2つあるんですよ。
1つはね、まあ、新国日本が負けたっていうね、つまり驚きね。
それが1つとね、もう1つはね、
あの時代にね、そういった戦争に反対した人たちもいたんだってことをね、
みんなの老軍ぶち込まれてたんですけどね。
数少ないんですけど、そういった人たちにもいたというね、驚きですね。
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それはやっぱりね、今でも強烈な驚きとして持ってますね。
それこそ周りでもいました?少ないっていうことであれば、夜な午でも戦争とか。
いましたね。いましたけれどね、もうみんな、
あれは変わり者だというふうに形に見られてましたね。
それもまたいろいろ論議あるでしょうけど、
でもやっぱり考え方によってはすごく勇気のある人たちで、
一番怖いのはもちろん議論した上でどうこってあるんですけど、やっぱり無関心が一番。
政治もそうでしょうけどね。
現実的にそれこそこれだけでも絶対結論出ないと思いますけど、
戦争体験された、体験というかその時代に生きた、
亀井さんからその、やっぱり平和とか、まさに今後の平和戦争という記憶がありますけど、
完全に戦争ゼロにできるっていうのは難しいかもしれないですけど、
そういうために大切なこと、必要なこと。
これやっぱり聞いてる方って、
僕今33なんですけど子供いますけど、
いい意味でですけど、このインターネットと地球が続く限り、
この肉声で僕たちがいなくなっても、
まだ生まれてもない人たちにも聞いてもらえると思うんですよ。
この人たちに対して、やっぱりまさに実体験してる。
亀井さん、そしてそのある意味、教育者というか、
研究者って言っていいかわかんないですけど、
実際いろんな方、広島行ったりとか見てきて、
何か伝えたいこととか、伝えられることって何がありますか?
やっぱあれじゃないでしょうかね。
今でもやってるんですけど、
日本国憲法9条の精神じゃないでしょうかね。
それが生かすってことじゃないでしょうかね。
国際的な色紛争はありますよ。
ありますけど、それはあくまでも武力によって解決するんじゃなしに、
話し合いって言うんですかね。
時間かかったとしても決して武力ではなしに、
話し合いによって解決するというような、
まさに憲法9条の精神が支柱にならないとならないんじゃないかと思います。
最近ね、僕も聞いてて今読まなきゃなと思ったんですが、
憲法9条が本に出てますね。
結構いろいろ考えなきゃいけないから。
そうか、今思い出しましたけど、高校生からの時って、
憲法を暗記させられましたね。
そうですね。
いいか、暗記がいいか悪いかあるけど、
受験のためにはね。
でもそのくらいでも憲法を大事にっていうことを、
暗記がどうかはありますけど、
でもあったら全然忘れちゃってるから。
そうですね。
あんまり暗記は身につかないですよね。
そういう意味でね、今回の企画、
憲法もそうだし平和戦争もそうですけど、
とにかくいろんな意見あっていいと思うんですけど、
まず考えて知らないと。
なのでね、本当に今日お忙しい中、
上さんにお話伺いましたけど、
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もう責任を持ってこれを世の中に伝えたいと思いますので。
やっぱり無知っていうことが一番危険ですよね。
戦前の日本人というのは大半が、
そういった政治的な問題についてはね、
無関心ではなかったかもわからんけど、
日常的に議論することはなかったですよね。
逆に僕らだけじゃなかった。
なかったですよね。
いわゆる床屋談議といわれる、
そういった形での議論はあったかもしれませんけどね。
それましてや女の人なんかはね、
国民の大半を占めている女の人は、
そういった政治なんかについてはね、
口挟むんじゃないっていうふうな時代はしたからね。
挟めなかったし、無知だったか挟めなかったかというところは、
どっちがどっちであるかもしれないけど、
結果としては、意図的じゃないにしても無知だったってことですよね。
知らなかった。
だから、おかみの言う側に従うというのはね。
そういった意味では非常に違いを感じますよね、戦前と戦後のね。
知ることはちゃんとできるわけですからね。
全部知れないにしても、
こうやって僕みたいに、やっぱり昔はありえないですよね。
ゼロからですけど、やっぱりこういう、
いろんなインタビューとか、形を変えて、
いろんな方に話を聞けるわけですから。
あいった、最近問題になっております。
秘密の保護法なんていうね。
あいったのが通るとね、やっぱりちょっとね、
言いたいことが言えなくなる。
その名前自体がいつも言ってない。
そういう感じの並びを感じますよね。
分かりました。
今回もそうですけど、知ること、伝えること。
そして、やはり最後に言わせていただいた、
憲法9条。
いろんな考えがあるにしても、
まず改めて読み直すこと。
分かりました。
本当にね、おかみさんもいつまでもお元気でいてください。
ということで、今日は神奈川県海老名市の亀井博さんにお話を伺いました。
亀井さん、ありがとうございました。