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核すれば核なるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
なんか、核核ずっと言ってた気がしたけど、何ですか?
これさ、吉田松陰の言葉なの。
あー、吉田松陰ね。
そうそうそう。いっぱい言葉残してるんだけど、この人。
これさ、核すれば核なるものって、こうすればこうなることは、はじめからわかってたけど、
やむにやまれぬ日本男児というか、愛国心に突き動かされて、やったっていうような、そんな言葉だね。
うん。吉田松陰が。
そう、まさにさ、吉田松陰ってさ、結局は最終的に処刑されちゃうわけじゃん。
うん。
この人ね、この読んだ文章っていうのは、その前に黒船に乗って密港して、海外に行こうっていう計画をして、実際に実行に移して、それが失敗した後の言葉なんだよね。
だから、自分の計画、これを実行すれば、その時って鎖国の時代だから、もちろん海外に行こうとするだけでも死刑だったから。
そう、だからもう命もかけてやっていくような、その覚悟の言葉だよね。
あー、なるほどね。
そうそうそう。なんかね、この言葉をさ、見てて、例えばさ、有名なの中心蔵ってあんじゃん。
うん。
四十七死が平手に打ち入るっていうような、あれもさ、打ち入ったらさ、その打ち入った人たちはさ、必ず殺されるっていうのはわかってやったと思うんだよ。
うん。
これとなんか通ずるものがあって、
うん。
で、これ、まあ偶然じゃなくて、実はその大石倉之介って、中心蔵の四十七死の頭の、引いてた人なんだけど、この人って山賀流兵学っていうのを習ってたの。
うん。
で、吉田松陰も実は山賀流兵学を教える環境に育ったわけよ。
うんうん。
そうそう。まあなんかそういう意味でね、ちょっと通ずるものがあるんだよね。
あー、まあそうだね、なんか。
まあ、ということでですね、今日はもうそのまま吉田松陰をやります。
お、吉田松陰来たか。
来ましたね。やっぱりあの、これ幕末の話だけども、
うん。
やっぱ近代史っていうか、この明治維新っていうのを語る上で、やっぱ誰がこう欠かせない人物なのかって言ったら、なんか吉田松陰かなって思っちゃうんだよね。
うんうんうん。
なんか本当にさ、革命の先駆けというかさ、
うん。
紹介石がね、あの明治維新の革命は吉田松陰から生まれたって、なんか後に言葉で残してるぐらいあるんだよね。
そうなんだ。
そうそうそう。でさ、あのまあ吉田松陰って言ったらさ、次にさ、その松下尊塾って有名じゃん。
うん、そうだね。
この中でもさ、やっぱ排出した人ってさ、まあいっぱいいるけどさ、例えば伊藤博文だったり、
うん。
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山縣有朋、木戸隆義、高杉晋作とか、久坂玄瑞、入江久一とか吉田利丸とか、もう早々たるビッグネームなんだよね。
うん。
そう、こんなさ人たちが一つのその松下尊塾っていうところで教わってたっていうところが、いや本当すごいなと思って。
うん。
なので今日は吉田松陰のまあ時代背景からちょっと説明したいと思います。
はい。
吉田松陰は1830年、文政13年に、杉家っていうところに生まれたんですよ。
うんうん。
そうそう。まあその時は吉田じゃなくて杉だったんだよね。
あ、杉さんだったんだね。
そうそうそうそう。で、あのまあ象徴的な出来事というと、この後に1837年に、場所は違うけど、大塩平八郎の乱っていうのがあったんだよね。
うん。
これあの大飢饉がその当時あって、幕府のそれでも圧勝に苦しむ人たちを救済するために、町奉行所のその大塩平八郎が扇動で幕府に対して起こした反乱なんだよね。
うん。
そうそう。これさ幕府にとっても結構衝撃的な反乱でさ。
うん。
今までその苦しんできた農民とかが一騎を起こすっていうのはあったんだけど、どっちかっていうと管理する側、町奉行所の人間が反乱を扇動して起こしたっていうのがあったっていうのと、
その後に1840年から、アヘン戦争ってシンとイギリスの戦いがあって、イギリスが勝利したシンが大敗を帰すっていうやつなんだけど、その後に日本にもさどんどん特に欧米だね、開港要求というか外国船が頻繁に来る時代になってきたんだよね。
で、その後ペリーがさ一番初めに来た時っていうのは吉田松陰っていうのはまあ24歳ぐらいだった。でその後さ日米和親条約でさらに日米就航通商条約を結んだっていうような時代なんだよね。
うん。
で、この日米就航通商条約の時に天皇の許可を得ずに幕府が強引で結んだことによって、幕府への批判っていうのが結構高まった時でもあった。
で、1858年にこのなんだろう、幕府を批判している人たちをこの大老の伊尼介っていうのが安政の大獄って言って捕らえて処刑していったんだよね。
その中の一人に吉田松陰っていうのも含まれるんだよね。実はこの人ね、安政の大獄で最後に処刑された人なんだ。
あーそうなんだ。
そうそう。でまあこんな時代背景なんだけど、吉田松陰のなんだろうなポジションというか、この人あの単純な上位論者じゃないのよ。
上位っていうのは外国を排除したいっていう考えなんだけども、この人いろいろ見識があって学んでいて、欧米と圧倒的な国力の差っていうのは知ってたんだよね。
だから単純に外国を排除しようっていうのは今の段階では難しいっていうのは知ってたし、だから逆にその開国をして海外の情報を積極的に取り入れて、
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この日本っていう国自体をもっと強くして軍備も含めてね、発展させていかなければいけないっていうような考えの人だった。
で、幕府に対してなんだけど、これも初めは幕府を倒すっていう倒幕論者ではないのよ。なんかそのイメージ強いんだけど、むしろその幕府をどうやったら立て直すというか、
外国の勢力に対して立ち向かっていけるのかっていうようなふうに考えてた。だからいわばさっき言った開国論者だったんだよね。
それが最終的に後半になって、幕府のこの曖昧な外交政策っていうのにもう嫌気がさせて、倒幕論者になっていったのかなっていう経緯ですね。
この人さ、いろんな学問を学んでて、すごい失踪の影響をいろんなところから取り入れてるの。さっき冒頭で言った山賀流兵学はもちろんなんだけど、
儒教、特に孟子とか、あと陽明学、美都学とか、あと洋学。洋学っていうのは欧米の学問だね。
そういうような、いろんな派閥を関係なくに積極的に取り入れたっていうのは結構珍しいんだよね。その当時ってさ、この学問って言ったらもうこの学問を追求してるというか派閥というかさ、あってさ、
なかなかいろんなところを積極的に取り入れるっていう人ってそこまで多くなかったのよ。で、ここからちょっと簡単に置いた地から説明したいと思うんだけど、
さっき言った1830年に杉池ってところに生まれて、陽明って虎太郎っていう名前なの。杉虎太郎。そうそう。で、この人一応武士階級なんだけども、下級武士で、
なんだろう、武士だけでは暮らしていけなくて、半分も農民みたいな農民もやってた。そうそう。だからこの人農民の苦しさも知ってたわけよ。
そうそう。で、あの幼い時からね、この兵学師範になるべく育てられたのよ。5歳の時に祖父の山ヶ流兵学の師範やってた吉田大輔っていうところに養子に入るの。
でね、実はね、6歳になってその養子に入ったその吉田大輔さんが亡くなっちゃったのよ。で、家族を継いだんだけど、吉田家の主になったわけ。いきなりね、この幼いながら。
そう、だけどまあそれ以降は一応その学問は、実のその杉家のお父さんでね、お父さんと、あのもう一人ね、お父さんの弟の玉城文信っていう人に教わった。
で、これがね、徹底的なスパルタ教育だったわけよ。なんかね、もう覚えが悪かったら庭に引き摺り出すような、もう壮絶なね、徹底的なスパルタ教育だったらしくて。
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でもなんだろうな、才能ってさ、こういう小さい時から壮絶なさ、あの経験をした人って将来強くなってるよね。
って思って。なんかこれをね、聞いてたら、あの、アニマル浜口みたいだなって思って。
いやいや、なんかさ、その、ほらレスリングってちょっと土俵は違うけどもさ、アニマル浜口も徹底的にスパルタ教育だったわけじゃん。
浜口教皇?
そうそうそう。
いや、知らんわ。
まあまあ、そんな通ずるものがあるかなと思って。
まあ、イメージでいいやん。
そうそう、イメージね。で、まあ、余談なんだけど、この玉城文之信っていう人は、実はね、野木丸助にもね、この後教えてんのよ。
ああ、そうなの。
そうそうそうそう。だからなんか歴史ってこう、意外なとこで繋がってんだよね。
へえ。
そうそう。で、9歳の時に、まあ、浜口って長州藩だったんだけど、長州藩の学校でもう名門というか有名な明倫館で、あの、実は教わる立場じゃなくて、もう教えてたの。
9歳の時ですごくない?
9歳って。
そうそう。まあ、あの、教授ではなくて教授見習いみたいな感じではあったんだけど、もう実際に教えてたの。
へえ。
11歳、まあ、10歳か11歳ぐらいの時に、藩主、長州藩の毛利孝近の前で仏教禅書を講義してんのよ、もう。
で、これがね、あの、あまりにも立派で藩主の毛利孝近が感心しちゃって、その後にね、あの、実際に弟子というか、直々にもう教わるようになったんだよね。兵学を。吉田松陰から。
そう、だからね、藩主にも気に入らせて、もうこの時から若くして一目置かれるような存在だったんだよね、長州藩で。
そう、だから、まあ、才能もあったし、まあ、努力の人なんだろうね。
でさ、このさ、長州藩の毛利孝近って最終的にはさ、あの、長州藩を倒幕へと向かわせる決断をしてる人だから、まあ、そういった意味でなんかこういう繋がりがあるのかなと思って。
で、あの、学問へのね、追求ってこの人やっぱすごくて、着物のね、懐にね、常にね、5、6冊ぐらい本入れてたんだって。
重いじゃん。
そうそう。だから、着物がね、いつも着崩れして、背中のこう縫い目がね、真ん中にあることはないぐらい、そんなね、人だったんだって。
でもね、この人、長州でずっと勉強を続けてて、若くしてその祖父が亡くなっちゃってて、あの、後継人として山田上門っていう人が面倒を見てたんだけど、この人がね、松蔭をその長州だけって留めておくというか、この才能はもったいないっていうことで、世界地図を広げてね、世界の情勢とか、まあ、いろんなこう視野を広げさせたのよ。
で、吉田松蔭自身も21歳の時に初めてこの長州版を出て、旅に出るんだよね。
うん。
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そう、これがね、九州に行った旅なんだけど、長崎のね、平戸にとか、あの、そこら辺も回ってんだよ。
うん。
その時さ、鎖国はしてたけどさ、長崎って唯一海外と開けてた場所じゃん。
うん。
そういう目的もあって行ったんだよね。この時にね、吉田松蔭はね、書いてる言葉があって、
心はもと生きたり、生きたるものには必ず気あり。気なるものは触に従いて発し、感にあいて動く。発動の気は周遊の益なり。
って言ってね。
全然わかんない。
そうそうそう。訳すと、心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがあるって。
そのきっかけは何かに触発されて、こう、生まれるって言ってんだよね。
生まれて、感動することによって動き始める。
旅はそのきっかけを与えてくれるものなんだって言って。
吉田松蔭ってね、あの、この、これだけじゃなくてトータルですごい旅してんだよ。
実はこの後もどんどんするんだけど、九州から北は青森まで歩いて行ってんだよ。
すごい行動力の人なんだよね。
で、この長崎に行った時に、海外の情勢は初めてここで知ったんだよね。
アヘン戦争ってことを、その秦がイギリスとの戦いとか、知る機会があったのよ。
で、あとね、重要なのが陽明岳っていうのにもここで出会うの。
陽明岳ってね、実はね、この時幕府がね、禁止してたんだよね。
そうそう、朱子岳以外はね、割と禁止してた部分があって、
特にこの陽明岳っていうのは危険視してたの。
何でかっていうと、この陽明岳って行動哲学って言われるんだけども、
その中であと人間はね、皆平等だっていう風に説いてるんだよ。
で、このさ、幕府の時代って、四農交渉って身分制が確立しててさ、
皆平等っていうこの学問は絶対そぐわないわけ。
しかもさっき冒頭で言った時代背景の中に、
大塩平八郎の乱っていうのがあったと思うんだけど、
大塩平八郎も実は陽明岳を学んでた。
そういった経緯からも、陽明岳っていうのは幕府は危険視してたのよ。
陽明岳っていうか、大陽明って人が作ったんだけど、
その中に知行合一っていう有名な言葉があって、
知識をつけることは行動することの始まりって言ってて、
いわば、知ることと行うことっていうのは別々じゃなくて、
一つの同じことなんだよって言ってる。
これって吉田松陰も大きく感銘を受けてるというか、
うちの人の行動にも加わっていくんだよね。
その後もね、実は九州の旅、一回帰ってきて、
その後、江戸にも行ってたりするの。
江戸では、美都学だったり洋学っていうのも学んで、
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各地でいろんなところ行って、学問に詳しい人に教えてもらってるんだよね。
吉田松陰って、実は教えてるってイメージも強いけど、
例えば江戸で佐久間松山っていう有名な学者がいたんだけど、
その人の弟子入りもしてるんだよね。
そんなような、いろんなね、実は教え持っていたっていうような人。
その後、東北旅行があったんだけど、これがね、結構問題で、
友達というか、他の別の班の友人と東北へ学問を学ぶための旅っていう風に出かける約束をしてたの。
で、その時ってさ、班から別の班に行く時って、手形がないとさ、通過できないね、基本的には。
で、その通行証の発行を待たずに、通行証が約束の日まで出てこなかったの。
なんで出てこなかったんだけど、友人との約束の方が大切だからっていう風にして、
実はもう脱班覚悟で東北に学びに行ったんだよね。
通行証がなくても厳密に言うと、そんなに厳しくないところもあって通過できてたんだよね。
でもね、最終的にはね、ちょっとね、あるとこで見つかっちゃって、
武士としての身分がね、もう剥奪されちゃうんで、その後に。
だから吉田松陰って一回のこう浪人になるんだよね。
だけど藩主にも結構気に入られてたところがあったから、
この時にね、実は結構御状の判決が出て、実のお父さん杉ゆりの助も育みとするって言われて、
育みって漢詩という処罰なんだよね。
漢詩?
そう、杉ゆりの助の漢詩の下に生活をするっていうような。
だからもう武士ではないんだけど、杉家の下で藩に仕えるっていうような、ちょっと特別な措置なわけ。
なるほどね。
そうそう、特例みたいな。
しかもね、藩主は御状で10年間他の藩に学びに行ってもいいよっていうような許可も出した。
すごいよね。
だからなんかこの藩主の毛利孝近って結構懐が深いというか寛大だよね。
融通が効くというか、なんというか。
そうそうそうそう。
でね、この時にね、実は今まで松蔭っていう名前じゃないね。
ここであの、何だろう、ふるさとの松本村だったんだけど、
要は家具組とするって言われたから、松本村に隠れて住むような、そんな印象になったわけで、
名前をね、そこで松本村の松と隠れ住むみたいな院っていう、松蔭の院って影とか木陰の院だから、
そこで松蔭って名前にしたんだって。
そう、だからなんか昔の人ってさ、名前と呼び名、号っていうんだけど、なんかいろいろ使い分けてたんだよね。
なんかちょっとさ、今の感覚だと考えられないというかさ。
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で、名前もね、その時に虎太郎から虎二郎にしてるからね。
変わんねえじゃん。
そうそう。名前は虎二郎にして呼び名は松蔭だって。
あー、なんで二郎になっちゃったんだろうね。
うーん、わかんないね、全く。
松蔭の方がまださ、筋通ってるんじゃない?さっきの話だと。
あー、まあそうだね。
まあ、あれなんじゃない?あんまりさ、公やけの上級のくらいの人じゃない限り、あんまり正式名称ってどうでもよかったのかな。
あ、その虎二郎の方?
そうそうそうそう。使う機会ってないんじゃない?だって市役所とか行くとかないでしょ。
まあまあまあ、そうだね。なんなら登録もされてないでしょ。
そうそう、たぶんそんな感覚なんだよね。
で、その後だから温城でさ、10年間さ、学びに行ってもいいよって言うんで、江戸にね、また再留学行ってんだよね。
で、またいろんな見識を得て、そこでね、いろいろ学んできた中で、やっぱり日本っていうのはその開国をした方がいいっていう風な考えに変わっていくわけよ。
で、でも開国って言ってるけど、自分は海外をこの目で一回も見たことがない。
で、それで海外にね、どうしても行きたい。でもその時って鎖国だから、行ったら死罪。で、帰ってくるのも死罪なのよ。
で、それだったらさ、結局たとえもし行けたとしてもさ、帰ってきてもその死罪になっちゃったら目的が達成できないわけじゃん。
吉田松陰は海外に行くことが目的じゃなくてさ、海外で得た情報というか見識をさ、日本に持ってきて、その日本っていうものを発展させたいっていう考えだから。
で、その時にね、一つだけね、死罪にならない方法があるんじゃないかって思ったのがあった。
それはジョン・マンジローの例があったのよ。
このジョン・マンジローってさ、トサの漁師だったんだけど、ある日さ、漁をしてて漂流しちゃって、で、たまたまアメリカの捕鯨船に救助されたのよ。
で、そこから日本に帰ることもできないからアメリカにそのまま行って、しかもその捕鯨船に乗ってた人が面倒を見てくれたというか、アメリカの学校にも通わせてくれて、
だから語学もしゃべれるようになったし、アメリカの知識もいろいろ得た中で、だいぶ経ってから日本に帰ってきたわけよ。
その時に死罪になるかと思いきや、幕府ってその時さ、頻繁にアメリカの船が来てたから、アメリカの知識とか語学を持ってる人っていうのは必要としてたんだよね。
なんで、特例というか幕府の、しかも直さんっていう直属になって、死罪を免れたわけよ。
だからそれを知って、吉田松陰も、じゃあ自分も漂流民を装えばいいんだっていうふうに決意した。
それで最初は長崎に行って、ロシアのプチャーチンの軍艦が来てたのよ。
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これも開港要求のために来てたんだけど、自分もそれを知って長崎に行ったんだけど、もう行った時にはロシアの軍艦は帰っちゃってたのよ。
で、会えなくて、ああっていうような感じで、その後黒船がね、1回目来た後の2回目だね、条約を結ぶために来てたのよ。
それを知って、下田のところに黒船が止まってて、これで弟子の一人と小舟に乗って、夜ね、黒船に近づいて、黒船に乗ったんだよね。
だけど、その通訳の人が現れて、今日本とアメリカがまだ自由に行き来できる日がこの後来るから、その時まで待ってくれって言われて。
で、丁寧に返されたポートで返してくれたんだけど、その時にね、小舟で行ったんだけど、小舟が流されちゃったのよ。
というのもあって、その小舟の中に自分の荷物だったりとか、あと師匠というか教わった佐久間商山の手紙も入ってたのよ。
だからそういうのが、もし船がね、後々見つかっちゃうと、結局バレちゃうし、佐久間商山にも影響が及んじゃうっていうのを一番恐れたわけ。
なんで、自ら自出したんだよね、吉田松陰って。
そうそう、そんなのがあって大変なことだから捉えられたわけよ。
実はね、そこでペリーからの探案書というか、実はね、結構感銘を受けたんだよ、この吉田松陰の行動に対して。
要は、自分の命を懸けてまでも外国に行って学びたいっていう、この知識欲にすごい感銘を受けて、寛大な処置をしてほしいような手紙をね、幕府に対して送ってんだよ。
そういうこともあって、実はね、この幕府はね、窒挙っていうふうに言い渡したの。窒挙って自宅での禁止なんだよね。
で、そこで徴収に行くわけなんだけど、実は徴収犯は幕府の寛大な処置に対してもさらに厳しい目線で捌いたの、徴収犯の中で。
それは幕府へのアピールでもあったんだけど、吉田松陰は野山獄って徴収犯の牢獄に1年2ヶ月くらい入れられるんだよ。
しかもね、入れられた後に、その1年2ヶ月の間に600冊本読んだって言われてんだよね。
すげえな。
すごくない?こんな時にも学問を学ぶというか、自分がどうなるか分かんないのに。
でも結局は最終的には、さっき言った窒挙、自宅禁止に変わるわけ。
そこで吉田松陰っていうのは有名な松下村塾っていうのを始めるわけよ。
これから吉田松陰の松下村塾っていうのに入っていくんだけれども、今回はちょうどキリがいいのでここまでということで、
次回は松下村塾について、今まで時代順にやってきたんだけど、切り口を変えて話をできたらいいかなって思っています。
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楽しみですね。
どうですかね、ここまで。
吉田松陰って有名じゃん。名前ぐらいみんな知ってると思うんだけど、
でも実際、処刑されちゃったとか、そういうところが印象強い人だから、
実際何やったって言われてもパッて言える人あんまり少ないと思うんだよね。
そういうところでも、おいたちからこういうことしてきた人なんだっていうのを、
俺も初めて知ったから、そうなんだって結構活動的な人だったんだなっていう印象だね。
そうそう、この人さ、さっき言わなかったんだけど、牢獄生活って長かったんだよ。
実はこの後も捉えられるんだけども、トータルで2年6ヶ月も牢獄生活なのよ。
結構な間、活動活発にしてたっていうよりは牢獄生活がかなり長かったんだよね。
っていうような人。そんな感じで吉田松陰の1回目ですね、っていうのを今回終了したいと思います。
じゃあこれを聞いてくれている人、私も幼い頃アニマル浜口みたいにこんなスパルタ教育を受けてました、
みたいな人がいれば是非コメントください。
いないでしょ。いないよ。きっといない。
はい、ありがとうございました。
はい、ありがとうございました。