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死生にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり。始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。ということで、これは今回ね、吉田松陰のパート3だね。
前回のが、昇華尊塾が没になってなければ3回目ってことで。
なんだよ、没って。
いや、あれ大丈夫かなと思って。
いや、だってどっちみち流すでしょ。
いや、わかんない。ちょっとね、もう1回聞いてみて。流す方向では行くけども。
え、何?流さなかったらじゃあこれパート3って言いつつパート2になるわけ?
そうそう、それはもうリスナーの皆さんも察してください。
あー、ってことらしいんで、よろしくお願いします。
これさ、今言った死生にしてって、死生ってさ、真心とか言い方するんだけど、
真心を尽くせば相手は必ずわかってくれるよっていう申しの言葉なんだよね。
で、これね、吉田松陰って申しにかなり影響を受けてるところがあって、
結局さ、吉田松陰って最後は処刑をされちゃうんだけど、
処刑をされる前に長州から江戸に送られる時に、申しのこの1句を墨で書いてね、手拭いに縫い付けて旗見放さず持ち運んでたんだって。
だからこれね、結構関係の深い言葉なんだよね。なんか吉田松陰らしい言葉だよね。
あんまり意味がわかんないけど。
だから最終的にはさ、結局この人ってさ、報われなかったっていうかさ、要はもう何かを成し遂げたわけでもないわけ。
でもいつか必ず誰かがわかってくれるっていうような、そんな思いがあったんじゃないかな。
なるほどね。でもそう考えると確かにそうなったよね。
そうそう、この先がね。ということで今回は吉田松陰の本当にその晩年を話したいと思います。
はい、お願いします。
時代背景からなんだけど、これがね1858年にアメリカのハリスが来て、日米就航通商条約を結ぶところがあるんだけども、
これがまあいわゆる不平等条約ってよく言われるんだけど、これさ幕府ももちろんさ、積極的にその条約なんて結びたくないわけ。
だけど何だろう、こう外圧がやっぱりかかってて、その中の一つにアローゴ事件があって、
アローゴ事件っていうのは英仏と神との戦争のきっかけになった事件なんだけど、
そうそう、これによって英仏が勝って天津条約が結ばれたんだけど、
このアローゴ事件っていうのは当時イギリス領だった香港船席の船が、神が海賊の容疑で立ち入れ検査を行ったの、この船に対して。
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で、船員を逮捕したっていう事件なんだけども、これを後日にイギリスは戦争を仕掛けたわけなんでね、神に。
フランスはフランス人選挙士が殺害されたっていう事件があって、それを理由に一緒にイギリスとフランスで神に戦争を仕掛けたっていう、アロー戦争なんかって言われるんだけど、
このアロー戦争が終わって英仏の勝利に終わるんだけども、この艦隊が日本に向かっているっていう情報がハリスの方に届いたって言われてるんだよね。
で、これアメリカの方もさ、今日本と収購通商条約結ぶって時に英仏に邪魔されるわけにはいかないわけ。
だから急いだわけ。逆にこの英仏が向かってるよっていうのを逆手に取って、幕府に対して、今アメリカと早く結ばないと、もっと不利な条件で英仏と条約を強引に結ばざるを得なくなるよみたいな。
っていうアメリカが、だから先にうちと結んどけば、その間に取り持って入ることもできるよっていうふうに、ちょっと焦らせたわけよ。
とも言われてるんだけど、幕府の方も急いだわけよ。本来だったら天皇の許しを得たかったんだけども、一応許可願い、直拒っていうのは出してたんだけど、受け入れられなかったんだよね。
なかなか返事が来なかった。で、もう独断で幕府がその条約に調印して、これによって幕府批判が高まったんだよね。
これさ、天皇の方もさ、当時孔明天皇だったんだけど、孔明天皇って結構異人嫌いっていうか、外国人が日本に来るっていうのは本当に嫌いだった人だったんだよね。
そういうのもいろいろあって、直拒は出さなかったって経緯もあったんだけど、だからある意味幕府はやるしかなかったってところはあったんだけどね。
で、これに幕府に対して反対する人たちが増えてきた中で、1859年に安政の大獄っていうのが起こるんだよね。
これは幕府に反対する人たちを弾圧した事件なんだけど、対象者はもう100名以上って言われてるね。結構大規模な。
で、その尊王攘夷の活動で目立ってた梅田雲平っていう人がいるんだけど、この人が最初に捉えられて、そっからどんどん他に捉えられていくんだけども。
吉田松陰っていうのは最後に捉えられた人だから、まだ長州にいたわけ。
で、実はこの安政の大獄を知って、ますます松下尊塾の中で倒幕派運動っていうのが強くなっていく。
その中で江戸にいた文科生が長州の吉田松陰のところに来て、水戸藩とか薩摩藩の一部が大牢の安政の大獄を仕掛けた、
尊王攘夷の暗殺を計画してるっていう情報を得るんだよね。
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で、そこで大牢の下に老中っているんだけど、老中真部昭勝っていう人を殺す計画を吉田松陰は文科生ら17名と立てるんだよ。
これは真部昭勝って尊王攘夷の命を受けて、京都で幕府批判を行っている尊王攘夷派を捉えてたりしてたの。
だから襲撃する計画を立てたんだけど、長州に大砲の貸し出しとか申請してるのよ、吉田松陰この時。
もちろん長州ってその時はまだ完全に倒幕っていうふうに走ってないから、藩としては。
だからもちろん却下されて、江戸にいた文科生とか高杉晋作とか久坂玄瑞にもこの計画に加わるように手紙を出したんだけど、
そこでも今はまだ時期が早いって言って断られるんだよね。
だからここで意外と文科生との意見の食い違いが晩年見られる。
もちろん賛成した17名もいるんだけど、そこで吉田松陰が言った言葉で、忠義とは鬼の留守の前に茶を飲むものではないって言って。
いろいろ言葉がすごいよね、選択が。
だから最近お茶飲んでないなってこれ聞いて思って。
いやそこかよ。
いやだから重みがあるよね。
あと変革に最も邪魔なのは消極性だみたいな、そんな結構過激な発言もしてるんだけど、
こんな中でこういう動きを長州藩が察知して昇華村塾っていうのを閉鎖させたのよ。
要は後半は政治結社というか幕府批判の運動が強く見られたから。
しかもさらにその後吉田松陰は長州藩の牢獄に入れられる。野山獄ってとこにね。
その後に野山獄の中でいる中で幕府が長州にこんな過激な奴がいるっていうのを聞きつけて江戸の牢獄に呼ばれるわけ。
でもこれは本当にもういよいよ最後かもしれないっていうのを察するわけ。
このまま野山獄から本来だったら江戸に直行しなきゃいけないんだけど、文化政だった福川才之助っていう人がいるんだけど、
この人が気を利かせて江戸に連れて行く前の夜に家族の元に吉田松陰を一晩だけ一緒の時間を作ったの。
これでお母さんの滝さんとかがお風呂で背中を流すとかいうそういう回想録もある。
どうかもう一度無事な顔を見せておくれってお母さんが言って、はい見せましょうと思って。そんな会話もあったり。
このお母さんって84歳まで生きんのよ。杉滝さんって言うんだけど。
そうそうだから幕府倒して明治時代も生きてるんだよね。だからその先を見てるっていうか。
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だから色々吉田松陰とのエピソードも残ってたりするんだよ。
この福川才之助って要はちょっと勝手なことをしたわけじゃん。
だけど長州藩は福川才之助に対して命令を聞き間違えただけだろうっていうことで何の刑にも処さなかった。
だからここからも読み取れるのが長州藩って決して松陰を悪者扱いにしてるわけではなくて、やっぱり特別な思いがあったんだと思うんだよね。
だけど結局目をつけられて江戸に行かなきゃいけなくなって、この江戸の牢獄に入るんだけど。
江戸の牢獄にいる時に高杉晋作も江戸にいたから書物の差し入れとか教えを最後までこういうように言ったんだよね。
だけど途中で長州藩の方があんまり深入りしちゃうと高杉晋作含めて長州もちょっと危ないかもしれないから帰国命令を出す。
だから最後は会えてないんだけど、ここで高杉晋作が松陰に手紙を書いた言葉でちょっと有名なところがあって、
断じたるものどう生きどう死んだらいいのですかっていう質問をするのよ、高杉晋作が。
それに対して吉田松陰が死して腐朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて退行の見込みあらばいつでも行くべしっていう言葉を残すのよ。
これ死んで長残る見込みがあればいつ死んでもいいって。ただ生きて大きなことを成す見込みがあればいつまでも生きればいい。
要はさ、死ぬか生きるかっていうのは問題じゃないって言ってるんだよね。何をするかが大事だっていう。
これをねちょっと聞いてちょっとずれちゃうんだけど、シェイクスピアのさハムレットでさ、
to be or not to be that is the question っていうとこあんのよ。
生きるべきか死ぬべきかそれが問題だって、まあいろんなこれも役があって解釈があるけど、
これってあのハムレットが生きるか死ぬかってこう葛藤の中で言った言葉なんだけど、これとさ真逆じゃん。
なんか生きるか死ぬかは問題じゃないっていうような感じなのよ。
このなんか死性感って結構現れてる言葉なんだよね。吉田松陰の。
まあそんなわけで、江戸でね尋問をね受けるわけよ。
でこれ何の疑いでそもそも吉田松陰って江戸送りになったかっていうと、
梅田雲平っていう人、さっきあの一番安政の大国で最初に捉えられた人なんだけど、
この人と会ってなんか密談をして食わ立てようとしてたんじゃないかっていう容疑が一つと、
あと京都五所で落とし踏みをして区芸や反爆活動する人たちを先導しようとしたんじゃないかっていう疑いの二つなんでね。
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まあ落とし踏みってあの人目につきやすいところにこうわざと落としておく、文章落とすみたいな。
でもねこれ松陰は全く身に覚えもないことだった。
要はあの梅田雲平って人も考え方がね合わないからそんな食わ立てもしてないし、落とし踏みっていうようなこういうコソコソした行為って吉田松陰っていうのは嫌いなんだよね。
だからしてないっていうふうに言うんだけども、その後にこういろいろ尋問を受ける中で幕府に対して自分の意見をね正直に話したんだよね。
この人なんかすごい正直な人といえば正直な人なんだけど、その中でさっき言ってた老中の真部昭勝を襲撃しようとする計画をしてたって言うんだよ。
これが決定打になって吉田松陰って死刑になっちゃう。
だからすごい正直に生きてる人ってことだよね。
まあそうなんだろうね。
これね、8名が残死か切腹で殺されてるんだよ。安政の大国で。その中の最後の一人が吉田松陰だ。
29歳で残死刑って首を切られて亡くなってるんだけど、この首を切った人の証言だとなんかすごい堂々と立派な態度で、最後なんかもう首を切る人にそのご苦労様って言って最後迎えたらしいですね。
そうなんだ。
っていう証言がある。
でさ、吉田松陰とか橋本さないっていうのも殺されてるんだけど、この人たちがさ、なんか誰か幕府の人捕まえて、例えば殺したりとかしたんかって言ったら、まだ何もしてない状況なわけよ。
だけどその幕府っていうのはその革命思想が怖かったんだよね。だからもうあえてその強硬な手段を出たんだよね。
で、この吉田松陰の遺体って伊藤博文とか伊藤孝義とか何人かの文科生が後々引き取って埋葬してる。
へー、あ、そうなんだ。
そうそうそう。で、この遺骨が今は現在東京の瀬田側にある松陰神社にあるんだよね。
これ処刑されるね、2日前に執筆したって言われてる竜魂録って知ってるかな。
わかんない。
竜魂録っていうのを書くのよ。
竜魂って、とどめるに魂って書くの。これいろいろな言われ方あるんだけど、これがとどまる魂なのか、返り点を打って逆から魂をとどめるのか、どっちなんだろうみたいなのも言われたりするんだけど、
やっぱ自分は後者の方かなと思ってて、魂をこの世にとどめておくっていう聖人の力強い意志が魂をとどめるの方があるじゃん。
とどまる魂よりも魂をとどめるみたいな。
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あー。
そうそうそうそう。
分かる分かる。結局とどめる方が主体になるか、自発的かその結果的なものかっていう違いが出てくるよね、たぶんその順略すると。
そうそう、高杉晋作の自生の苦みたいに似てるよね、自発性が出るかっていうような。
そうそうそうそう。で、この竜魂録なんかも本当にね、いろいろ書いてあって、文化性に対して投げかけてる言葉とかも多いのよ。
日本にいる同じこういった志を持った人ともっと通じ合わなければならないっていうような、要はだから長州の中の内輪だけでやってたら革命っていうのは実現しないから、
そういうのも伝えてたりするし、あと今回さ、吉田松陰だけが処罰を受けたわけよ。
真鍋明勝の、例えば17名文化性が計画に参加してたんだけど、その仲間は誰一人も罰せられてないわけよ。
それは吉田松陰が喋らなかったからっていうのもあるんだけど、これに対して竜魂録で、どうし諸君よ、その意味を深く考えよって言ってんだよ。
だからもう後に続いて欲しいという意志が現れてるんだよね。
でさ、吉田松陰って言うとさ、なんかパッと顔とかイメージ浮かばない?
え?どういうこと?
要はさ、この時代って写真ってまだ発達してないわけよ。
でも吉田松陰って言うとさ、肖像画が結構出回ってるわけよ。
この目が切れ長でさ、ちょっとほっそりした。
これって文化性の松浦将棟っていうのが描いたの。
だから今こうやってみんなが、吉田松陰って言ったらこんな感じっていうイメージが湧くわけよ。
この前行った靖国神社の優秀館の中にも肖像があったけど、そんな風に広まってんだけど、これね、江戸に送られる前に松浦将棟って方が7から8枚ぐらい描いたのよ。
今ね、現存してるのは6枚あるんだよね。
だから少しパターンが変わってあるのよ。
このね、松浦将棟っていうのも絵師を目指してたの。絵が上手かったから。
で、画業に必要な監視を習いたくて、吉田松陰のとこに行くわけよ。
だから監視って別に吉田松陰得意でもないから、教えられない立場だったんだけど、
このなんか彼の熱意に惹かれて、だったら一緒に学び合いましょうっていうので、松下尊塾で一緒に学んでんだよね。
まあなんかそんな感じ、だから自分が教えられなくても教え合うことはできるからっていうような、なんかそれこそちょっと松下尊塾の真髄というか。
そうだね、教え合うなんていいね。
そうそうそうそうそう。で、この松浦将棟っていうのは文化祭の中で一番早く切腹をして亡くなるんだけどね。
という、ちょっと最後はあれなんだけど、これにね、後に続くっていうのもあるんだよ。松浦将棟の死に。
っていうのがあって、吉田松陰って最後ね、21回申し入って墓に書いてくれって言って亡くなるわけよ。
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これ21回申し入って聞いたことある?
ない。わからない。
吉田松陰って呼び名もあるけど、21回申しっていう呼び名も最後言ってたの。自分のこと。
これ何かっていうと、多分聞いてるだけだとイメージつきにくいかもしれないんだけども、この人元々は杉っていう名前だったわけよ。杉家に生まれたから。
だから杉ってさ、漢字で書くと紀変二三本線じゃん。で、その杉の左側ね、紀変は十二八って書くでしょ。
あー、そうだね。
そう、だから十八だとして、で三本線でプラス三で二十一なのよ。
で、あと吉田松陰の吉田も、吉は上がね、十を書いて横に一で十一じゃん。
で、十一に対して田んぼの田だね。田んぼの田も四角の真ん中は十じゃん。
だから十一足す十で二十一だ。
結構ちょっと強引なところあるんだけど、これで自分のことを二十一回申しって言ってるの。
なんかよくわかんねえな。
これはね、きっかけは野山国かな。で、夢で見たらしいんだよね。
二十一回申しだっていう。
申しっていうのは虎に武士の詩なんだけど、この人虎太郎であり虎二郎になったわけじゃん。
その虎というか、虎ってこの人生まれながらに体が弱かったから、虎のように丈々しくありたいっていう意味も込めて申しっていう。
二十一回申しって、これね、山口県の萩に今でも松蔭二十一回申し秤って書かれてあるんだよね。
へえ。
そうそうそう。ぜひよかったら見てみたいけどね。
ちょっと遠いもんね。
そうそうそうそう。でね、これね、二十一回申しって、二十一回俺は実行するぞっていうこと言ってるんだけど、何を実行するのかっていうと、
過去に三回だけ自分は今もう実施してると。
それはこれ一回目で言ったけど、通行書手形の発行待たずに東北に遊学の旅というかに行ったっていう。
それも脱藩になったわけだけど。
行ったのが一回と、二回目がこの幕府に対して憲法書を送ったんだよね。
この西洋諸国の状況を踏まえて、今後日本がどう対応すべきかっていうのを自分の意見をまとめて版紙に申し出たわけ。
これが二回目と、最後三回目がこれも触れてるんだけど、下田東海っていう自分は言ってるんだけど、
アメリカ船に潜入して海外渡航しようとした。これが自分がやった三回だって言ってて、あと18回あるから自分はあと18回やるぞって晩年言ってたんだけど。
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そんな人です。
でもさ、このさ、さっき言ってさ、アメリカ船で海外渡航したかったわけよ、この人は。海外学びたかったわけ。
だけどさ、皮肉にもさ、吉田松陰が処刑されてからさ、1ヶ月半後にさ、関林丸っていうのがさ、出港してんのよ。
勝海州とか福沢基地とか乗ってさ、これでアメリカ行ってんだけどさ。
吉田松陰もさ、関林丸に乗れたかわかんないけど、外国にもうちょっと待てばやっぱ行ける時代が来たわけよ。
実際にさ、佐久間松山の下で弟子として吉田松陰いたんだけど、佐久間松山からそういう外国に行けるような話が出てたのよ。
だからなんだろう惜しいなっていうのもあるし、でもやっぱこの人はそんなの待ってらんないっていうような感じだったんだろうね。
なんか気が短そうだよね。
まあね、最後は門下生とも意見が食い違ってね、行き急いだというか死に急いだっていうのかな。
でさ、結局その後さ、1860年に大浪の井井直介もさ、三戸老子らによって桜田門外で暗殺されるわけよ。
そっからどんどんどんどんその討伐運動って盛んになっていくんだけど、っていうのが吉田松陰でした。
この人ってさ、自分がさ、思い描いた日本を大きく変革した世の中っていうのは見ることなくなくなっちゃったじゃん。
だけどなんかその後にかなり強い影響を残したというか、討伐へ向かう志士たちを排出したっていうのは間違いないなっていうような人だよね。
そうだよね。
そう、そんな感じです。どうでしょうか。
吉田松陰はあれだよね、なんかすごい残念な人っていうイメージがやっぱり一番強いね、俺の中では。
なんか能力があっても生かしきれないで死んじゃったっていう感じじゃん。
結局生かしたのはその人を育てる部分だけでさ、育てた人たちはどんどんどんどんさ、こういうふうに名を残していったわけじゃん。
本当はいっぱいいるじゃん、吉田松陰と関わって名を残した人なんてさ。
そうだよね。
たださ、当の吉田松陰自体は何をやったかっていうと何もできてないじゃん、結局のところは。
確かにね。
そう、だからそういう意味でなんかちょっと残念な人だなって、もったいない人だなとは思う。
だからその人を出したっていうところはもちろん何かをやったりになるかもしれないけど、でもこの人が何かをやったはないじゃん。
確かに。
だからすげえもったいないよねっていう、残念だねっていう。
なんかさ、この明治維新ってさ、一気に幕藩体制からひっくり返したわけじゃん。
で、こんなこと自体も世界で見てもあまり少ない例なんだけど、しかも結構な短期間のうちにひっくり返ってるわけよ。
これもその吉田松陰がいなかったらこんなにもこういった明治維新っていう形では起きなかったんじゃないかっていうのもなんかいろいろ研究されてるんだよね。
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まあそんな感じでした。
はい。
この人ってさ、女性関係って全く見られないんだよね。
そうなの?
ないの。だから何だろう、本当に愛したのは日本っていう国そのものだったのかもしれません。
いやあ、いい話でした。
最後まで聞いていただいてありがとうございました。
はい、ありがとうございました。