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スピーカー 1
私の志は、夜明けに輝く月の他に知る人はいない。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。これはね、尊太郎の言葉だよ。尊太郎がよく女性を口説くときに使う言葉。
スピーカー 1
いやいや、そんな言ってないし。
スピーカー 2
いや、なんかたまに言ってないでも、こういう言葉。
スピーカー 1
違うから。
スピーカー 2
違うの?
スピーカー 1
これはね、あの、久坂玄瑞です。
スピーカー 2
来たね。これ、今日のテーマ、まさかまさかの久坂さんですか?
スピーカー 1
久坂玄瑞。この人、書いた書物とかあるんだけど、すごいよね。
言葉の使い方とかね、本当に、こんでが若い青年が書いたものなのかっていうものいっぱいあるね。
スピーカー 2
あの、なんて言ったって優秀な人だからね。
スピーカー 1
うん、そうだね。
スピーカー 2
いや、来たね。また幕末かける尊太郎。これはね、来たよ。
スピーカー 1
来てないんだよ。
スピーカー 2
だから来るんだって。毎回そうじゃん、来てるんだよ。
スピーカー 1
いやいや、ちなみにさ、長丸、久坂玄瑞のさ、肖像画みたいなの見たことある?
スピーカー 2
あるある。あるっていうか、思い浮かべる顔はさ、髪こう束ねてて、なんだろう、ちょっと斜め向いてるぐらいの感じのやつ。
スピーカー 1
あ、やっぱそれだよね。あの、ハチマキみたいなの巻いてさ。
スピーカー 2
あ、そうそうそうそう。そのイメージ、そのイメージ。
スピーカー 1
そうだよね。おそらくみんなそれじゃないかな。
これってね、久坂玄瑞の肖像画なんだけど、玄瑞が亡くなった後に明治2年になって、玄瑞の自分は子供だっていう、6歳のね、秀次郎っていうのが現れて、
で、この秀次郎ってあの、京都の島原って玄瑞がいた時のその愛人の子供だったらしいんだよね。
そうそう。で、風貌がね、玄瑞に似てたってことでね、この秀次郎モデルに描かれたのが、あの多分みんなが知ってる久坂玄瑞の肖像画なんでね。
スピーカー 2
じゃあ、実際はその、もしかしたらもうちょっと違う顔してるかもしれないってことなんだ。
スピーカー 1
そうそう。これはね、あの玄瑞を元から知ってる人から似てるっていう声もあるんだけど、いや全然似てないっていう声もあるから、本当はもしかしたら全く違うかもしれないね。
スピーカー 2
おー、まあなんか歴史あるあるな話な気はするけどね。この顔実は違う人でしたみたいな。
スピーカー 1
そうそう。だから玄瑞をこう見て、絵描きの人が描いたわけじゃないんだよね。
スピーカー 2
えー、そうなんだ。
スピーカー 1
そうそうそう。この人、まあ身長もね、約180センチぐらいで、色白で、まあイケメンだったから結構モテたらしい。
スピーカー 2
あー、やっぱでも小ヶ太郎じゃん、それ。
スピーカー 1
全然違うな。
ということで、あの、ちょっと彼の生い立ちから遡って話していきたいと思います。
はい。
彼はね、1840年に生まれて、陽明はね、秀サブロって言うんだよね。
うん。
この1840年ってさ、時代背景で言うと、イギリスと新朝との間にアフェン戦争が起こった年で、
まあ西洋の脅威をさ、日本も感じて、その後西洋列強が日本に訪れて、開国を迫られていくっていうような、そんな時代に入っていくんだね。
うん。
で、久坂家っていうのは、長州藩、毛利家に使える医者の家系だったんだよね。
うん。
で、久坂玄瑞は3人兄弟の末っ子で、2番目のね、お兄さんはね、3歳で亡くなっちゃうんだよね。
うん。
で、玄瑞に大きな影響を及ぼしたのは、1番上の兄、久坂玄瑞で、
うん。
彼は玄瑞とね、20歳ほど離れてるんだけども、玄瑞っていうのは、その幼い時から弁学に優れていて、尾形公安が開いた敵塾の塾頭にもなるんだよね。
うん。
で、さらにね、覇気のね、医学館の渡航役っていうリーダー的な存在になって、その頃ね、天然痘の感染予防の研究を行って、そのね、成果によって長州藩ではね、天然痘の流行を防ぐことにも成功してるんだよね。
うん。
そんなね、優秀な兄玄瑞っていうのは、将来も有望視されていたんだよね。
うん。
で、その一方でね、兄の元気は、乱学をこう学ぶ中で、西洋列強に対抗するために法術とか、その軍事学を学ぶ政治運動にも関心を示していたんだよね。
うん。
ただね、あの玄瑞が14歳から15歳にかけてね、どんどんその家族が次々と亡くなってしまうっていう悲劇が起こった。
うん。
これ、お母さんもお兄さんもね、病気で亡くなって、で、お父さんもさらに亡くなってしまうっていう、立て続けに家族がいなくなっちゃったんだよね。
うん。
で、そのため、久坂玄瑞は15歳にして、久坂家の党首となったんだよね。
うん。
で、この時に名前を、さっきから呼んでるんだけど、名を玄瑞っていうふうに改名するんだよね。
スピーカー 1
うん。
で、この頃さ、医者に玄っていう名前をつけることが多かったんだよね。
うん。
あの、杉田玄白とか、兄の久坂玄輝もそうだし、今で言うと米津玄師とか。
スピーカー 2
いや、違くないか。
スピーカー 1
それはね、違うんだけど。
そうそう、名は対を表すじゃないけど、玄っていう言葉が使われたんだよね。
うん。
で、家族を失った玄瑞っていうのはさ、医者の道を目指すために弁学に励んで、藩の医学教育を受けるために厚生官にも通うんだよね。
うん。
やっぱりその、政治運動にも関心を示すようになってきて、それはさ、兄玄輝の影響もあっただろうし、玄輝と交流のあった浄土新州の住職、月正から直接指導を受けたりっていうこともあったんだよね。
うん。
で、この月正って人はさ、熱烈な尊の上位思想を持った人で、尊の上位っていうのは、天皇を尊重して外国勢力を日本から排除しようっていうような思想なんだけれども。
で、この頃さ、玄瑞にしてもさ、医者の家に生まれた人って、政治運動に関心を示す人って幕末多いんだよね。
うん。
そう、例えば桂小五郎、後の木戸孝義だけどもそうだし、宮部定三とか村田増六、梅田雲平とか、結構流し入れてる人たちってみんな医者の家系なんでね。
うん。
そう、これってなぜかって、当時医学って言っても、オランダの医学、卵学を学ぶことで世界情勢に精通してくるんだよね。
うん。
で、西洋列強のさ、脅威に対してさ、このままじゃいけないんじゃないかとか、そういう危機感も覚えて行動を起こすっていう人が幕末には多かったんだよね。
うん。
久坂玄瑞っていうのはさ、17歳の時に九州に留学の旅に行くんだけれども、そこでね、熊本のね、宮部定三を尋ねるんだよね。
うん。
で、話していく中で彼からね、長州にいる吉田松陰から学ぶべきだっていうようなことを言われて、で、その後玄瑞っていうのは、吉田松陰にまずね、手紙を書くんだよね。
うん。
で、玄瑞のさ、ちょっと時代背景は、アメリカのペリー艦隊がこう日本に来て、幕府は日米和親条約を締結した、少し後のことなんでね。
うん。
で、松陰はさ、ペリーの艦隊が来た時に、実際にこう乗り込もうとしたところを捉えられて、自宅禁止を受けてた時なんだよね。
で、そんな松陰に玄瑞は手紙を書いて、彼はね、いろいろ書いたんだけど、幕府がアメリカの脅威に屈して開国したことに激しく非難するような内容を書いたんだよね。
例えば鎌倉幕府の執権、北条時宗が元の使者を切ったようにアメリカの施設も切るべきだっていうような主張をしたりとか、そういう内容があったんだよね。
うん。
松陰はね、手紙でね、「議論不反にして資料占領。」っていうような言葉を返してるんだけど、議論不反ってもう上っ面だけで資料が浅いっていうような、そんな言葉もあったし、
さらにね、「自分は深くこの種の不味を憎み、最もこの種の人を憎む。」っていうような、玄瑞を完全否定するような厳しい言葉を送ったんだよね。
うん。
これには狙いがあって、松陰は玄瑞に大きく期待していたから、だからあえて突き放して、それに対してどう返ってくるかっていうのを試したって言われてるんだよね。
これで反論せずに、玄瑞が逃げてしまうようならそれまでだっていうような考えで、彼は厳しい言葉を送ったんだよね。
で、彼の思惑通りね、この玄瑞は松陰の手紙を見て怒り狂って、猛反発の手紙を書くんだよね。
その内容はさ、自分の考えがいかに妥当かっていう内容が含まれてて、彼ってその文章の中にいろんな引用もするんだけど、
例えば古い言葉で、我一歩退けばすなわち彼一歩進むっていうのを引用して、日本が一歩進めば列強は一歩退くんだっていうような、そういう言葉も書かれてたんだよね。
それから何度か手紙のやり取りを繰り返されて、最終的には松陰は玄瑞のこの主張の正しさっていうのを認めるような内容を書いたんだよね。
スピーカー 1
うん。
そうそう、玄瑞この時さ18歳、で文は15歳の時なんだよね。
うん。
そう、若い。これ文ってさあれ、花模唯っていう大河ドラマで2015年ぐらいにやってたやつの主人公になった人だよね。
あー。
まあ彼女は彼女の間ですごい壮絶な人生歩んでいくんだけど。
スピーカー 2
あれ誰がやってたっけ?ちなみに。
スピーカー 1
あれ、井上真央。
スピーカー 2
全然シューナルじゃないじゃん。
それは。
スピーカー 1
ふざけんなよ。
しょうがないでしょ。
スピーカー 2
ふざけんなよ、久坂玄瑞って。
スピーカー 1
いやわかんないよ。久坂玄瑞がちょっと色ゴン飲みすぎなのかもしれない。
スピーカー 2
いや井上真央でしょ。
スピーカー 1
いやいや。実際にさ、わかんない。文も本当は美人だったかもしれないよ。
スピーカー 2
久坂玄瑞が美人だったってこと?
スピーカー 1
そこは。
で、その後さ、安政の大学っていうのが起こるんだよね。
うん。
これはさ、日米就効通商条約が朝廷の許可なしに無断で幕府が結んだってことに不満を持つ人たちが幕府を批判し始めたんだよね。
で、大老の井直介がさ、そういった人たちを処罰をして、その中に吉田松陰も捕らえられて江戸の牢獄へ連れて行かれるってことがあったんだよね。
で松陰はさ、牢獄の中で文科生なんかに手紙を書いて、老中暗殺計画とかも提案をして、同志とかに賛同するように送ったんだよね、手紙を。
ただ玄瑞とか高杉晋作もそうだけど、仲間内で協議した中で、今は行動を起こさない方がいいっていうような考えで、それを松陰に手紙で送るんだよね。
でこれに松陰は怒り狂ってさ、玄瑞と松陰の中ってその時一時的に悪くなっちゃうっていうのもあって、最終的には玄瑞が反省した内容を送ってるらしいんだけども、結局さ、松陰が生きてる時に松陰の意思に報えなかったっていうのはあったんだよね。
で松陰は獄中で相撲屈起っていう思想を唱えるんだけども、この相撲っていうのが草木に潜むものっていうような、身分を問わず志を持った人がいつか立ち上がって新時代を築いてほしいっていうような、そんな思想を唱えるんだよね。
そんな中、結局吉田松陰っていうのは処刑をされてしまって、玄瑞っていうのはその後、松陰の意思を受け継ぐように政治運動へ没入していくんだよね。
彼は西洋の兵学を学んだりとか、改革を望む他の藩の若者とかも積極的に考慮を持ったりとかして、どんどん政治運動へ傾いていくんだよね。
彼がしたこといくつか色々あるんだけども、例えば一党千申し合わせっていうのを提案して賛同社を募ったんだよね。
これは具体的には賛同社が写本を60枚ずつ書いて、月末に松下村塾に持ってくるんだって。
不足する場合は1枚につき5問の現金を納めなきゃいけなくて、写本するのは松陰の著書だったりとか、見届額なんかそういうもので、目的は結束を図ることとか、ここで得た資金を政治活動に使うっていうのが目的だったんだよね。
これには結構賛同社も多くて、今日名も残る山形有朋だったり、高杉晋作、伊藤博文、木戸孝吉とか、そうそうなメンバーが加わってるんだよね。
さらに彼の有名なところで改乱条理っていうのを長州藩に憲法書として提出するんだよね。
この改乱条理っていうのはざっくりとした内容だけど、就効通商条約を破棄して和親条約の状態まで戻すっていうような内容が書かれてたりとか、
さらに日本が軍事力をつけて、対等な条件でもって西洋列挙と条約を交わすんだっていうような内容と、
あと西洋列挙が反対するときは、その時は戦うっていうようなことが書かれていたりとか、朝廷を政権の中心に置くんだっていうような内容も盛り込まれてるんだよね。
スピーカー 1
これね、それまでは長州藩っていうのは公開演略策っていうのが主流で、海外と交易をしていって国力を高めた上で諸外国に対抗しようっていうような考えだったんだよね。
この両者は極端に言えば、公開演略策が海国策みたいな感じで、海欄定議が上位を訴えてるんだよね。
この二択を迫られたときに、お風呂にするの?私にするの?みたいなことになったんだけども、
スピーカー 2
お風呂にするの?
スピーカー 1
ごめん、いいんだけど。
源氏の上位論っていうのが、その後長州藩の主流の考えになっていったんだよね。
そういった意味で、彼のやったことってかなり大きいんだよね。
その後、長州藩って品川の御殿山に建設中のイギリス公使館に放火をして、これは高杉晋作が主導で行われたんだけども、
源氏もここに参加していて、はじめこの焼き討ちするときに源氏が反対して、そのことで高杉と揉めるっていう芯もあるんだけど、
結果、源氏も自ら実行して長州の上位運動が行われたんだよね。
その後、源氏とかの尊能上位派が朝廷の三条・真根とみらと繋がって、徳川家持が京都へ上落した際に、幕府に上位の実行をいつするんだっていうのを迫ったんだよね。
徳川家持は上位の期日を5月10日っていうふうに決めたんだよね。
ただ幕府はこれ5月10日になっても実際に実行に移さずに、長州藩業、ただその5月10日っていうのを守って、実際に関門海峡にいたアメリカ商船に砲撃をして、
その後もいくつかの外国船を砲撃して上位を実行したんだよね。
ただこのことでアメリカとかフランス軍艦とかに反撃を受けて、一時長州の放題が占拠されるっていう場面もあって、散々な目に遭うんだよね。
その後時代は8月18日の政変って言われる、朝廷内で旧神的な上位論派と、そうでない派閥があって、
この旧神的な上位論派が三条・真根富とかそういった面々なんだけども、
彼らは武力を持ってすぐに外国勢力を追い出そうとする考えがあって、天皇が自らこう政治を行って上位を実行するんだっていうような考えだったんだよね。
そうでない派閥っていうのは、公明天皇とか中川の宮とか代表されるんだけども、今すぐに外国を追い出すのは現実的じゃないよね。
幕府に政治を委任する形で、おんびんに上位を望むっていうような考えがあったんだよね。
朝廷内でこういった意見が分かれて、旧神的な上位論派が勝手に長州と結束し始めて行動し始めたんだよね。
それに不満を持った公明天皇っていうのが旧神派を排除するよう合図とか薩摩の協力を得て空出たを起こすんだよね。
長州派を京都から追放して旧神派の九家十数名がその外出禁止だったり面会禁止なんかの処分を受けるんだよね。
ただその命令に背いて、三条三根とみとか含む7人の九家が長州へ向かうっていうようなことが起こったのが8月18日の政変なんだよね。
これさ、朝廷と歩み寄ろうとした長州が逆に公明天皇に拒絶されてしまうっていうような事件なんだけども。
さらにその後京都で尊能浄一僧の志士たちが池田家で談合してた時に新選組に襲撃にあって多くの同志を失うっていう事件があったんだよね。
これらをきっかけに起こったのが金門の変または浜国御門の変って言うんだけども。
ここに現在は長州派の地位を回復させようと短眼書を持って朝廷に提出しに行くんだよね。
ただ朝廷から拒絶されてしまって、そのことで木島又兵衛とか強硬派が武力を持って進軍するんだっていうことを言って、
これに対して現在は当初長州側から戦闘を開始するってことに反対をしていて、木島に卑怯者だっていうような言われ方もするようなやり取りが残ってるんだよね。
でも結局現在っていうのも指揮官として加わってこの金門の変が行われる。長州軍っていうのは約3000名で京都の御所へ向かって迎え撃つのは藍津、桑名とか薩摩の軍勢で、
一時は長州が御所内部まで侵入して勢いがあったんだけども薩摩の軍が救援に入って形勢が逆転するんだよね。
それでも果敢に戦う久坂は足に弾丸を受けて引きずって布切れを当てているってことが目撃されてたんだよね。
高塚査定で最後その窮地の中である寺島中佐部郎と共に自害したって言われてる。この戦いでわずか1日で長州っていうのは惨敗に終わるんだよね。
そんな久坂玄瑞って最後25歳って若さで亡くなっちゃうんだよね。その後長州っていうのは孔明天皇の怒りを買って長州征伐っていうのが行われたりとか、
さらに関門海峡を封鎖したことによるイギリスとかアメリカオランダフランスなんかの襲撃を受けて、結構この時どん底に落ちるんだよね。
そんな流れに入っていく中での久坂玄瑞の最後の禁門の編だったんだけども、振り返るとこの久坂玄瑞によって長州藩がその開国路線から旧神的な上位路線に傾いたっていう影響は彼のやったことは大きいと思うんだよね。
一見この無謀に思える長州単独での上位で外国戦に砲撃したり焼き討ちしたりとか、禁門の編にしても長州対多数の藩っていうような構図でもう勝ち目なんてないわけじゃん。