00:04
義に資すとも、不義に生きず。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
それ、何か聞いたことあんの?
あ、本当に。
なんか、これは松平片森のことをよく言うときに、この言葉が使われるんだよね。
あー、なるほどね。
そうそうそう。
ただね、ちょっと調べると、彼の言葉じゃないかもしれないんだけど。
うん。
そう、彼のことをこうやって、一言でまとめるとこんな感じなのかなっていう。
あー、なるほどね。でもまあ、それはわかる気がするけどね。
ね、義ってまあ、忠義に従ってさ、たとえ死んだとしても、自分の忠誠に背かないというかさ、
うん。
まあ、この人はその幕府か徳川家に最後まで一緒にさ、戦ったというかさ、
うん。
まあ、そんな忠義の人だなっていう。
まあ、そうだね。
そんな言葉だね。
まあ、早速今日のテーマはね、松平片森をちょっとやりたいと思います。
なんか言葉と内容が初めて完全にリンクした気がするよ。
いや、そんなことないよ。
そんなことないかな。
で、松平片森って言ったら幕末の最後の合図班の藩主として有名なんだけど、
うん。
この人ってさ、写真とか見たことある?
あー、はあるね。
ね、多分ね、京都守護職になった時に撮られた写真が結構世に出回ってるんだけど、
うん。
まさに結構な、なんかイケメンな感じだよね。
まあ、なんかあれでしょ、あのー、絵星みたいなの被ってる写真じゃない?多分それって。
あー、そうそうそう、なんか鎧みたいな着て。
そうそうそう。
なんか今で言ったら塩顔男子みたいな感じだよね。
まあ、なんかね、そうだね。濃い顔ではないね。
そうそうそうそう。
まあ、ということで合図班主、松平片森について話すんだけども、
うん。
まあ、彼って言ったら幕末に合図班、藩主として徳川家村族のために奮闘して、
うん。
で、結果合図班っていうのは新政府軍の標的にされて悲劇的な運命をたどるんだよね。
うん。
で、彼ほどこの幕末の激動に巻き込まれていった人っていうのは、いないんじゃないかなっていうぐらいの人かなと思って。
うん。
で、今日このテーマをね、やろうとしたのは、
そもそも前に新選組の会をしたと思うんだけど、
うん、だいぶ前だね。
だいぶ前ね。
で、この人ってさ、後の新選組になる老子たちをさ、京都で合図班預かりとして引き取った合図班の藩主なんでね。
うん。
で、その時に自分も深く掘り下げなかったんだけど、
うん。
そもそもなんで合図班が京都を守っているのかっていうのを、今日はちょっと中心にやりたいなと思うんだけど、
うん。
なんか、さらっとさ、そこは触れずに言ったんだけども、
03:01
うん。
後々自分もちょっと気になってきて、
うん。
合図班って言ったらさ、だって今の福島県の辺りじゃん。
うん。
だから、とてもじゃないけどさ、京都近くないからね。
まあ、他にもいるからね、そんな京都に近い人だったら。
そうそうそう。だからなんだ、藤子藤代と藤子ヘミングぐらい近くないから。
あのごめん、ぜんぜんわかんない。意味がよくわからない。
なんかね、漫画家とピアニストみたいなね。
ああ、そういうこと、ちょっとわからなかったな。
まあ、逆にちょっとわかりにくくしてたらね、片付けない。
なんだ、片付けないって。
で、合図班、松平固森のちょっと老いたちからさらっと行きたいんだけども、
うん。
まず、松平固森っていうのは徳川御三家の一つ、尾張徳川家の四藩、四藩っていうのは文家っていう言い方もするけど、
うん。
にあたる身の高す藩主の子として生まれたんだよね。
うん。
だから、結構な名門の血筋なんだよね。
うん。
で、陽明っていうのは慶井之助なんだけど、
うん。
その六男として生まれる。
で、後に兄弟っていうのは、母親戦争の中では敵味方に分かれるっていう、まあ結構ね壮絶な形にもなってくるんだけど、
うん。
で、松平固森自身は幼い頃から体がどっちかというと病弱だったんだよね。
うん。
で、武道にこう熱心に取り組むっていう感じではなくて、例えば外行ったりすると、もう喉を痛めて風邪をひいちゃうような、そんな幼少期だったし、
うん。
それはね、ちょっと大人になっても、京都守護職になっても結構そういう病気がちなところはあったんだよね。
うん。
で、一方その時、父親の弟に当たるのが藍津藩主の片高だった。
うん。
彼は子供に女の子が二人いたんだけど、男の子に恵まれなかったんだよね。
うん。
で、この藍津藩っていうのを存続させるには、男の子を養子に迎える必要があったんだよね。
うん。
そこで、その養子として慶之助に決まるの。
うん。
彼が後の松平片森なんだけど、
うん。
だから、12歳で藍津藩に養子入りして、18歳で藍津藩主の片高っていうのがなくなっちゃう。
うん。
ちょっとなんかこの片高っていうのが今ちょっとハマってんだけど、
なんでだよ。
それなんか、がだるかなる高みたいなバレ地とちょっと言いにくいじゃん。
なんだそれ。
うん。
片高。
確かに、たたって漢字あたりがちょっと言いづらいね。
ね。でもなんか、いいんだよね。こう、陰が踏んでてさ。
よくわかんねえけど。
まあ、そうそう。要するに、片高の養子は片森で、下高な俺を高すから、花高々にしてくれ。ありがとう。マジで感謝。
そりゃもう、今、即興で作ったんじゃないっしょ。
06:00
いやー、すげえな。やっぱね、仕込みが半端ねえよ。
いや、これあの、ちょっと昨日からラップのさ、なんか見たらちょっとさ、ラップ面白いなって思っちゃった。
ああ、片高なんかいけないかなみたいな。
片高でいけないかなって思ってた。怒られるわ、これ。
いや、真面目な人にはちょっと怒られそうだね。
ちょっと戻そう、戻そう。で、そこで、9代目として、松平片森が合図藩主になるんだよね。
うん。
だから、もう18歳の頃だよ、その時。
ああ。
そうそう、若い時になってるんだよね。
うん。
で、この時はさ、幕末だから海外の船が頻繁に日本へやってくる時だったの。
うん。
で、そのためさ、幕府っていうのは海岸の警備を必要としたのよ。
うん。
で、そこで活躍したのが合図藩で、暴走半島だったり三浦海岸とか、北のさ、唐太なんかにも出兵して、幕府のために精力的に働いてるの。
うん。
で、それとさ、軍事訓練なんかも幕府の老中の前で行ったことがあって、
うん。
合図藩のこの兵士の整頓具合とか熟練ぶりっていうのを披露して、合図藩のこの軍事面の実力っていうのも示されたんだよね。
うん。
一方、西側のちょっと京都なんだけれども、
うん。
この京都は過激な尊王攘夷思想を持った人たちが集まってきていて、殺人、もはやテロだね。殺人テロが行われてたの。
うん。
で、尊王攘夷っていうのは、ちょっと改めて説明すると、尊王っていうのは天皇を尊重して、攘夷っていうのは外国人を日本から排除したいっていう、この2つが組み合わさって尊王攘夷っていう言い方をするんだけども、
うん。
で、特に1858年に結ばれた日米収購通商条約、日本とアメリカとの貿易を取り交わす条約において、幕府は天皇の許可を得ないまま締結をしたことに対して、
うん。
過激な尊王攘夷派の行動がさらに加熱をしていくっていうことになる。
うん。
で、天皇のいる京都でさ、その幕府派を狙った殺人などが多発していくんだよね。
うん。
で、幕府はこの抑え込みのために新しく作ったポストが京都守護職になる。
うん。
で、このポストをさ、誰にするかっていうのを幕府は考えるわけよ。
うん。
たださ、こんなポストどこの藩もやりたくないわけだよね。
うん。
テロをさ、抑え込むってことは、まあそれだけ恨みを買うわけだし、
うん。
出兵にあたってさ、藩の財政も逼迫するわけよ。
うん。
うん。
そんな中、京都守護職に藍津藩、そして松平固守がなるんだよね。
うん。
で、これはなぜかっていうと、一つ目はさ、兵力の高さなんだよね。
ああ。
藍津藩っていうのは兵力が高いっていうことで有名で、
うん。
これはさ、松平固守が藩主になって急に兵力が高くなったわけじゃなくて、
09:03
うん。
藍津藩のさ、まあ5代、6代、7代の3代に仕えた、まあ家老、田中春中っていう人がいて、
うん。
この人の下でさ、軍政改革を行って、藍津藩っていうのは長沼流兵学を取り入れて、
うん。
毎日ね、訓練を実施して、2年に1度は郊外で全軍挙げて一大訓練を行うっていう、あの力の入れようだったの。
うんうん。
そう。で、江戸時代っていうのはさ、どちらかって言ったら大規模なさ、戦もなくさ、
うん。
兵力をさ、こう高い水準にしておくにはさ、実戦さながらの訓練が必要だったんだよね。
ああ。
うん。
そこで藍津藩が取り入れた訓練で、まあ有名なのは追い鳥狩りって言うんだけど、
うん。
これはさ、騎士とかさ、鴨をさ、数百羽放って、その鳥を兵士が叩き落とすっていう訓練なんだ。
うん。
そう、この時代としては画期的な、まさにその兵士が実際に鳥だけれども叩き落とすっていう実戦的な訓練で、
他の藩とか、美都藩などもこれを模倣して訓練を行ったりしていくんだよね、この先。
へえ。
そう。またあの、ロシアのレザーノフっていうのが、カラフトとかエトロフ島とかに入魂してた日本人を襲撃した事件があったんだけども、
うん。
これに対しても幕府は藍津藩に、機体、兵士を500人ほど出して出動せよっていう命令を出すんだよね。
うん。
で、それに対してさ、藍津藩っていうのは約3倍の1600人ほどの兵力を送り出したって言われてて、
うん。
そう。結果さ、ロシアは帰った後で戦闘っていうのはなかったんだけども、
で、こんな具合にさ、藍津藩っていうのは兵力が強い藩として幕府より注目されていて、で、また信頼もされてたんだよね。
うん。
だからさ、日本の海岸防備にも真っ先に頼りされたのが藍津藩だったし、
うん。
ペリーがさ、裏側に来航した時に、その艦隊をこう包囲して動きを封じようとしたのも藍津藩の船だったんだよね。
うん。
常にね、国防の第一線に立ってるっていうのが藍津藩なんだよね。
うん。
で、次にね、2つ目の要因というか、幕府との関係性なんだよね。
うん。
で、もちろんさ、兵力の高さからの信頼もあるんだけども、
うん。
あの、例えばさ、クゲとかからはさ、薩摩藩を京都守護職に押す声もあったんだよね。
うん。
そう。だけど、幕府っていうのはこれを嫌ったんだよね。
うん。
薩摩っていうのはもちろん強い藩なんだけど、戸様大名なんだよね。
あー。
そう。幕府っていうのはさ、各大名との関係っていうのがさ、3つに分かれていて、
うん。
審判、不代、戸様って言うんだけど、
うん。
で、これはさ、1600年の関ヶ原の戦い以前から徳川家の家臣だった大名を不代って言って、
うん。
で、それ以降に家臣になったものを戸様って言うんだよね。
うん。
だから、薩摩や長州藩っていうのはこの戸様に当たるんだよね。
12:00
うん。
それで、あの、徳川家康のごく近い親類の大名っていうのは審判って言われるの。
うん。
で、ここに藍津藩っていうのが入ってくる。
あー。
そう。だから、幕府っていうのは京都守護職っていう大事なポストを戸様大名からじゃなくて、審判から選ぼうとしたんだよね。
うん。
まあ、今で言うと何だろうな、ちょっと難しいけど石原よしずみみたいな感じかな。
ちょっとよくわかんないな。
誰、誰が今トップなんだって話しちゃう、それ。
いや、でも、まあ名門のさ、なんてね、おじいさんは石原雄二郎だしさ、
うん。
ね、お父さんは石原慎太郎だし、
うん。
塩顔男子だし。
いや、塩顔じゃないでしょ。
少なくともそこは違うと思う。
そうそう。まあ、だからさ、こういうふうにさ、完全にさ、あのなんだろう、
ここの中にさ、例えば石原さとみがさ、この隙間に入り込むってことはまあできないわけよ。
あ、石原つながりか。なるほど。
そうそう。
ちょっとね、あの、考えちゃった。なんで急に出てきたって。
ちょっと高度なんだけど、
うん。
ね、この隙間にっていうのが、あの、石原さとみはただ好き屋のCMもやってるってところも考えてほしいんだよね。
いや、誰も考えないよ。
まあ、いろんなね、ことがあると思うけど。
ああ。
で、例えばさ、この審判の中で越前家っていうのも兵力の高い藩で有名だったんだよね。
うん。
だけど、越前の国の福井藩の藩主、松平義永っていうのは、
うん。
彼は後の松平春学なんだけど、
うん。
すでにさ、政治総裁職っていうポストについてた。
うん。
だから、藍津藩がまあ京都司法職にこう打診をされるっていうところにもちょっとつながっていくんだよね。
うん。
で、京都司法職になった要員の3つ目っていうのが藍津藩の家訓なんだよね。
ああ。
で、藍津藩っていうのは1代目の藩主っていうのが星名正幸っていう人で、
うん。
家訓っていうのはこの時にできた家訓で、
うん。
第1条2、これちょっと実際の文より今の現代語訳した文なんだけど、
うん。
ちょっと読み上げます。
はい。
第1条、徳川将軍家については一心に忠義に励むべきで、しかも他の諸藩と同じ程度の忠義で満足してはならない。
もし徳川将軍家に対し背くような藍津藩主が現れたならば、そんなものは我が子孫ではないから決して従ってはならない。
っていう風に第1条に書いてある。
うん。
で、家訓っていうのはさ、今で言うとさ、憲法のようなその藩にとって絶対的な存在なんだよね。
うん。
で、これができた経緯っていうのが徳川第二代将軍、徳川秀忠まで遡るんだけど、
15:02
うん。
実はさ、この徳川秀忠だって性質とは別に愛人が多くにいたんだよね。
うん。
で、その愛人との子供が後に藍津藩の1代目藩主になる穂下正幸だった。
うん。
そうそうそう。今だったらこんな関係大変なことだけど。
なんで今だったらなんだよ。
いやいや、ねえ、大変だよねこれね。
まあ、小片郎はね、やっぱこうモテるからちょっといろいろいるんだろうけど。
だから俺は例えなくていいよ。
あ、そう。
あ、そう。
いや、大人はそれを望んでるから。
望んでないだろ、そんな。
あ、そう。
で、えっと、穂下正幸っていうのは徳川家康の孫に当たるんだよね。
うん。
そう、だけど性質との子じゃないから、待遇っていうのはそれほど良くなかったっていうのがあった。
うん。
ただある時、穂下正幸っていうのが徳川秀忠の子供っていうことが3代目の将軍、徳川家光になった時に知られるんだよね。
うん。
で、この家光っていうのはこれを知って穂下正幸っていうのを可愛がって、
うん。
両地だったり、屋敷を与えたりとか手厚い待遇をしたんだよね。
うん。
で、そんな徳川家光が亡くなる時に、子供の徳川家綱の貢献役を頼むぞって穂下正幸に言って亡くなっていった。
うん。
で、こういうことがあって、徳川家光のこのしてくれた恩義というか、信頼っていうのもあったし、そういうのでできたのが藍津藩の家訓なんだよね。
うん。
で、この代々受け継がれた藍津藩の信念が最後まで幕府のためにっていう藍津の姿勢につながってるんじゃないかなっていうふうに言われるんだよね。
うん。
で、政治総裁職だった松平俊学にも片森っていうのは京都守護職になるよう何度も何度も打診されるの。
うん。
だけどすんなり受けたわけじゃなくて、何度か断ってんだよ。
うん。
それはさ、京都っていう遠い地に遠征するってことはやっぱりお金もかかるし、藍津藩の財政っていうのが海岸防備とかさ、いろんな北にも出兵してたっていうのもあったし、
ただでさえ財政が逼迫してるのに、さらにちょっと財政が悪くなるっていうのを懸念してるのもあったし、
うん。
そんな上位派が多い、例えば特に長州と完全に敵対するっていうことがやっぱり嫌なポストなわけよ。
うん。
しかもその片森っていうのはもともと体が弱かったし、この時もね体調が実は良くなかった。
うん。
なんで断ろうとしてたんだけど松平進学はさらにこう推すんだよね。
星名正幸だったら京都守護職を引き受けたであろうって。
うん。
これをね言われちゃうとやっぱり断ることができずに、いろいろなこう悩んだ結果引き受けたんだよね。
18:02
うん。
そうっていうのがあの経緯があって。
なんかパワハラだね今で言うと。
あーそうだね。
うん。
またさその片森っていうもすごく誠実というか真面目な人なんだよね。
うん。
そうそうだからまあならざるを得なかったというかね。
うん。
だから藍津藩っていうのは進んで自分が京都を守りに行くんだって京都守護職になったわけじゃないんだよね。
あー。
そうだから今言ったみたいにちょっと長々と話したけど兵力の高さだったり幕府との関係性で藍津藩のこう代々受け継がれてきた家訓っていうのがいくつも絡み合って京都守護職にならざるを得なかったっていう。
うーんそうなんだ。
そうそうそうでこれね片森っていうのは江戸から約1000名のね藩の兵士を引き連れて京都へ行ったんだよね。
うん。
すごいよね16日かかってるらしい。
あーまあ当時だしね。
しかも1000名っていうかなりの大群でね。
うん。
それでね京都に入って孔明天皇にもね挨拶してんの。
うん。
やっぱりその朝廷と幕府っていうの関係をうまくしたかったし力を合わせて今後もやっていきたいっていう考えを率直にね片森っていうのは孔明天皇に伝える。
でこの彼の人柄というか若くて誠実な彼を見て孔明天皇っていうのは彼のことすごく気に入るんだよね。
うん。
でそれ以降もう絶対の信頼を合図藩主のその片森に寄せる。
うん。
で後にさ直筆の文章を送ってるぐらいで秦は最も合図を頼りにしているっていうこれ滅多にさ直筆の文章って天皇が出すことはないらしいんだけど。
うん。
これ秦漢って言うんだけど直筆の文章。
それぐらいあの彼のことを信頼してたみたい。
へー。
で孔明天皇ってさ上位思想の強い人で有名だったんだよね。
うん。
鎖国を維持したいっていうか新たに海外との貿易をするっていうのは頑固として反対の立場の人だった。
うん。
そうだから日米通商条約で直拒を出さなかったっていうのもあるけれども。
うん。
あのその一方でさ幕府との関係っていうのは引き続き協力して国内の問題には取り組んでいきたいっていうような人だった。
うん。
ただ朝廷の中にはさ長州とさ手を組んで幕府を倒そうとするそう派閥っていうのも存在していて。
うん。
実はこの朝廷中っていうのは意見が分かれて結構複雑な関係性になってた。
うん。
でこれはさあの江戸時代の朝廷っていうのはさ幕末までさ政治的経済的にもさ幕府からさ完全に抑えつけられてたっていうのがあったんだよね。
うん。
でこれに不満を持っていたまあ現れもやっぱりその長州と手を組んで幕府を倒そうとするっていう派閥が出てきたっていう現れだと思うんだよね。
うん。
21:00
で結果さこの幕府を倒そうってする勢力が勝って明治維新っていうのが成功するんだよね。
うん。
でそのさ成功の要因のさ大きな鍵っていうのはさ倒幕派っていうのはさたださ殺人っていうかテロリズムにひたすら走るんじゃなくて。
うん。
朝廷工作をした点っていうのが大事なポイントだと思うんだよね。
うん。
そう要はさ朝廷内に歩み寄って味方につけたんだよね。
うん。
で話はさちょっと京都に入った時に戻って。
うん。
京都に入ってさしばらくして江戸からさ来た約20人ほどの老子が京都の治安維持のために働きたいっていう風に来るんだよね。
うん。
そうこれが後の新選組なんだけれども。
うん。
でこの中にはさまあ近藤勲とか肘方俊三たちもいて。
うん。
で藍津藩っていうのは彼らを京都守護職配下に組み入れたんだよね。
うん。
それは少しでもさやっぱり治安維持のために力になってくれるっていう人たちが欲しかったっていうのもあるし。
うん。
何よりその彼らの武道の腕舞いっていうのもちょっとやっぱ興味を持っていたところがあったんでね。
うん。
で松平勝盛の前でね実際にね試合がね行われた。
うん。
新選組の中でね腕試しというか。
うん。
で組み合わせ結構すごくて代表的なのがね肘方俊三対東道平助とか。
うん。
長倉新八対斎藤初めとか。
うん。
そうそう山並圭介対沖田壮二とかね。
うん。
すごい実際にね見てみたいよねこんなね。
そうだねそれこそ斎藤初め長倉新八どっち強いんだろうとかって感じだよね。
でここすごいよね要はさこの2人ってね新選組の中でも強いってよく言われんじゃん。
うん。
でこの激しい戦いっていうの実際に高森は見て新選組の強さっていうの改めて確認したって言われてんだよね。
うん。
そうそうね今で言うとこんな組み合わせなんだろうね船越栄一郎対松井和夫みたいな。
それダメでしょ多分。
いろんな意味でちょっとねちょっとダメだけど。
それねちょっといろいろダメだと思う。
でも見てみたいよね見てみたいっていうかなんか複雑だなそりゃ。
あんま見たくねえなそれは。
まあそんな風にそのそんな風にっていうのもちょっとあれだけど。
うん。
あの合図っていうのはその京都を守るためにこうどんどんどんどんこう力を入れていくんだよね。
うん。
でまあちょっとこっからはねあの今回京都守護職員に合図班がなんで京都を守ってるかっていうのが中心に話したかったことだったから。
うん。
あのさらっとちょっと晩年まで話したいんだけど。
うん。
この後さ8月18日の政変っていうまあ代表的な出来事があって。
うん。
これはさ過激のさ尊能上位派の徴収だったりそれを支持してた久保をさ京都から追放した事件なんだよね。
24:05
うん。
これにはさ薩摩っていうのも合図に協力してこの時はあの一緒にその圧力をかけて実現をしたっていうのがあって。
うん。
であとは池田谷事件とかこれもまあ新選組が中心になって徴収とか過激な尊能上位派を捉えたりとかした事件なんだけども。
うん。
であと金門の変もそうだし第一次徴収成罰でも徴収っていうのはこの時は幕府優勢で圧倒的にこう負ける戦いになるんだよね。
うん。
だけどこっから先っていうのがあの薩摩が徴収とまあ同盟を結んだっていうこともあって。
うん。
あの第二次徴収成罰では幕府の劣勢の状態で急戦となるんだよね。
うん。
そうで極めつけっていうのは孔明天皇っていうのが36歳の若さで突然亡くなるんだよね。
うん。
この病名っていうのは糖素っていうまあ天然糖だねっていう風に診断されてるんだけども。
うん。
糖素っていうのはさ熱とかさ頭痛とかオートの症状が出てきたりするんだけど。
うん。
でその後さ赤い反転のような発疹がさ体中にできたりとか。
で致死率はさまあかかると20から50パーぐらいって言われてる病気なんでね。
うん。
そうで現在でさ予防接種によってさ1977年に完全に根絶したウイルスっていう風になってるんだけど。
うん。
まあこの時は結構その糖素っていう病気っていうのは実は流行ってた時もあって。
うん。
で孔明天皇っていうのは回復に向かっていたんだけどもここでさ腰体が急変したっていう風に言われてるの。
うん。
これはなんか激しい吐き気とか下痢に襲われて血を吐いてまあ亡くなったっていう言われていて。
うん。
でさまあこのタイミングだしさ暗殺説っていうのもまあ実際言われてたりするんだよね。
うん。
まあちょっとここの詳細はわからないところがあるから次行くけど。
うん。
で松平片森にとってはさまあ大きな存在だったわけよね。孔明天皇っていうのは。
うん。
でこれによってさまあ朝廷っていうのも完全に長州とか薩摩寄りの倒幕派の派閥が周りを固めていくっていうような形になるんだよね。
うん。
そうだから15、6歳でさその時明治天皇っていうのはいたんだけども。
うん。
もう周りをさこういう風にさ完全に倒幕派に固められて倒幕へと傾いていったんじゃないかって風に言われてる。
うん。
でこの後さ大政奉還があって将軍徳川義信が政権をさ朝廷に介してまたさあの王政復古の大号令によって幕府っていうのは廃止されて義信っていうのは政権からもう完全に排除されちゃう。
で実権はあのもう倒幕派に移るっていう。
うん。
もちろんさあの京都守護職っていうのもこの時廃止されてるから。
うん。
でその後さ幕府とその倒幕派で大きな戦いが、倒幕趣味の戦いがあって。
27:03
うん。
あのそれ以後母親戦争に移っていくんだけども。
うん。
合図藩っていうのはこの母親戦争でも最後まで新政府の敵しかもその朝廷の敵っていう風にもされてた。
うん。
で公明天皇からさどこの藩よりも信頼されていたのがさ一気にこう急転するんだよね。
うん。
そうそうで傾りっていうのは倒幕趣味の戦いの時は江戸に吉戸部なんかと一緒に逃げて。
うん。
で新政府に対してはさ最初さ強順って言っても戦わないっていう姿勢をさ取ってたんだけども新政府っていうのはこれを認めずに攻めてきたっていうのがあって。
うん。
だからまあやむなく徹底攻勢をすることになるんだよね。
うん。
でこれさ最終的にはさ他の藩と比べてもさ圧倒的に合図藩っていうのは被害が大きいんだよね。
あー。
母親戦争での死者でも合図藩っていうのは約3000人って言われていて。
うん。
あとはさその仙台藩とかは約1000人ぐらいって言われてて。
うん。
米沢藩っていうのも約300人とか。
うん。
そう数がねもうほんと倍とかそのかなりの開きがあるんだよね。
うん。
そうこれはさやっぱり理由としてはさ京都守護職として合図がさ池田屋事件にしても金門の辺にしてもさ長州藩を取り締まってきたっていうこの積み重ねがやっぱり長州だった。
まあそういう恨みを買った結果になってると思うんだよね。
うん。
でもう一つはさその合図藩っていうのはさやっぱりあまりにさ結構強い藩だったから。
うん。
これをこのままにしておくっていうのは新政府の後々にも脅威になるっていう風に考えたっていう風にも言われてる。
うん。
で合図藩っていうのはさ母親戦争にこの後壮絶なさ合図戦争っていうのもあるけどちょっとここは今回テーマとしては省くんだけど。
うん。
合図のさ獣神たちっていうのは必死にさ塊の除名弾丸をして。
うん。
でそこで新政府っていうのは塊の命は取らないけども首謀者が責任を取るようにっていう風に言うんだよね。
うん。
これであの3人の過労の首を差し出すように求めたんだよね。
うん。
だからすでにこの時さ合図藩っていうのは2人の過労は死んでいて。
うん。
で残りの1人の過労っていう茅野御兵衛っていう人が責任を取って切腹をするっていうのがあるんだよね。
うん。
でこれさあの過労3人の首っていうのがさ他の藩に比べても明らかに大きい処罰なんだけど。
うん。
長州征伐の時にさ長州をさ追い詰めてさ幕府側に対してさ長州はさ3人の過労の首を差し出したんだよね。
うん。
この復讐っていう風にも言われてる。
あー。
もう同じく3人の過労っていうね。
うん。
でしかもさ合図藩っていうのは28万石あったあの領地を3万石に減らされてるから。
あー。
これもさ他の藩に比べて異常なほど厳しい処分なんだよね。
30:01
うん。
でそのまあ結果命は助かった片森なんだけども。
うん。
それ以後はまあ過去の幕末の出来事とか一切語らずにまあ59歳で亡くなったっていう風に言われてる。
うーんそうなんだ。
まあそんなねちょっと合図藩松平片森について今日は話しました。いかがでしょうか。
松平片森自体はまあ有名な人だからさ多分その幕末史をこう見てくるとさ必ず出てくる名前だとは思うけど。
まあその幼少期のこととかはまあまだ全然知らなかったし。
うん。
でやっぱりその新選組の回でもさ名前だけ出てきたぐらいだったじゃん。
あーそうだね。
うん。
まあなんか今日はね逆に大人の人たちもさ名前は出てきたけどそういえば深く知らないなって人ももしかしたらいたかもしれないから。
まあすごく参考になったんじゃないかなって思うね。
なんかどっちかっていうとさやっぱ新選組がさすごいまあ今世の中的にもさ人気があるというか知れ渡ってるじゃん。
うん。
だから実際にそのさ上に立つさあのまあ預かった合図藩の藩主片森っていう存在って新選組に比べるとさ不思議なもんで今知らない人の方が多いのかもしれないよね。
まあそうだね知らない人多いと思うよ実際。
そうでもなんかこの忠義に本当にさ生きたこの冒頭でも言ったさあの名言じゃないけどさ本当に忠義に生きた人っていうそれを貫き通したっていうような人だなと思って。
あーまあそうだね。
なんかね多分どっかでこう幕府を裏切ろうと思えばさ裏切れるところでもあったと思うんだよね実際。
そうそうそういつでもさその京都守護職でもさ辞めてさ帰っちゃうっていうのもできたわけだしさ。
うん。
ねまあもしくは京都に行かないっていうのも選択肢としてあったかもしれないし。
うん。
いやーなんか俺これさちょっと考えててさまあ今の世の中的にもさ勝ったものが全てっていうような感じがあったりするじゃん。
うんそうだね。
例えばさまあ勝つってちょっとあんまイメージわかんないかもしれないけど会社で言えばさまあなんだろう営業成績が全てとかさ実績が全てみたいな。
うん。
そういう世の中ってなんだろうこういう塊みたいにさ自分が決めた忠義に対してさぶらさずに生きるっていうことがなんかもっと評価されてもいい時代になったらちょっと面白いなという個人的な意見。
なんかそれこそあれだね武士の時代とかさそういう古い多分伝統的な価値観的な部分になってくるかもしれないけれども。
だから結局さそれがいいっていうさ価値観なのか悪いっていう価値観なのか完全に置いといてさただ今なんか日本はそういうのないよね。
あーまあねどっちかって言うとやっぱ欧米的な価値観なのかなそれって。
うん。
勝ったもん勝ちみたいな。勝ったもん勝ちっていうか。
33:00
うん。
結果が全てみたいな。
まあそれはほら資本主義の話だからさ結局のところ。
あーそういうことか。
うん。
まあということでね最後にね片森お疲れって言ってあげてください。
なんだそれ。
何様なんだお前はって。
大丈夫あの大人は小片郎お疲れだから。
小片郎お疲れっていうコメントが多分いっぱい来るよ。
それ来ないだろ明らかに。
いやいやいやわかんないわかんない。
わかんないわかんない。
まああのじゃあということで今回のテーマはアイズハン松平片森がなんで京都にいたのかそして京都を守ってたのかっていうようなのを中心に話をしました。
はい。
まあよかったらフォローだったり評価をしてくれたらマジで感謝。
なんでそこの。
それそこも。
そこは何も関係ないただちょっといつも同じような感じだと。
うんマジ感謝。
ありがとう。
よお。