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スピーカー 1
うん。
で、ブラジルに実際行った人の特徴っていうのは、もう本当にその経済的に行き詰まった人が多くて、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
特に農村部の人が多かったんだよね。
うん。
そうそう。またはね、あの、社会的迫害を受けてた人っていうのもいて、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
例えばさ、まあ、潜伏キリシタンの方とか、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
あとはさ、明治になってさ、琉球王国から日本に併合された沖縄の人なんかも多かったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。で、日本政府がさ、ブラジルへの移民政策をこう推奨するためにね、
ブラジルにはコーヒーの木がおいしげっていて、これは金のなる木だっていうようなキャッチコピーで魅力的にこう紹介したんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
あ、ちなみにちょっと、全く余談だけど、自分はね、あの、コーヒーが苦手なんだよね、昔から。
スピーカー 2
ああ、言ってたよね、そういえば。
スピーカー 1
あ、言ってた?なんか飲むとね、なんかしないけど、あのカフェインのせいなのか、頭痛くなるんだよね。
スピーカー 2
あの、ほら、一緒に最近旅行行ったじゃん。
スピーカー 1
あ、言ったっけ?
スピーカー 2
あの時俺はそう、コーヒー飲んでたけどさ、飲まないから飲まないのって聞いたら、俺あんまり得意じゃないんだよね、みたいなことは言ってたでしょ。
スピーカー 1
そうだ、長村逆にコーヒー好きなんだよね、飲んでるよね。
スピーカー 2
俺は好きだよ、朝とか絶対飲むし。
スピーカー 1
あ、そうだよね、昔からコーヒーと女性は好きだったもんね。
スピーカー 2
あ、まあそれは嘘じゃないからいいや、ツッコまないけど。
スピーカー 1
で、あの、この移民のさ、募集にあたってはさ、日本政府と移民したい人が直接こうやりとりするわけじゃなくて、
スピーカー 2
移民会社っていうのが間に入って、この移民を募集して、船でブラジルへ運ぶっていう流れだった。
スピーカー 1
そうそう、で、これでね、あの1908年にブラジルへの移民を乗せた、カサトマルっていう船が神戸港を出港したんだよね。
そう、で、それはね、穏やかな夕暮れ時でした。
スピーカー 2
で、この、
スピーカー 1
いや、このなんか、情景を思い浮かべてほしいなと思って。
スピーカー 2
まあいいや、はいどうぞ。
スピーカー 1
で、この移民がさ、日本で初めてのブラジル移民団で、780名いて、165の家族からなってたんだよね。
ただね、この時ね、その募集した移民会社っていうのは財政危機だったんだよね。
だからこれはね、本当はね、この第一回の時も900名以上集めないと財政的に厳しいっていうことがあったんだけども、
募集期間が短かったっていうのもあって集まらなかったんだよね。
そうそう、で、そこでね、この移民会社は、そのブラジルに向かっている船の中で、移民に対してね、金を持っていることは危険だからっていうのを説明して、移民の所持金を船の中で預かってるんだよね。
で、こうしてね、52日間か、長い航海を経て、ブラジルのね、サントス港へ着いたんだよね。
そしたらさ、移民の人はさ、お金を返してもらおうと移民会社に言ったんだけども、なんとそれは返してもらえなくて、もう無一文の状態でブラジルで過ごさなきゃいけないってことになっちゃったんだよね。
そうそう、なんかこれ翌年にはね、ちょっとだけ返したっていうのはあったんだけど、その後ね、結局この移民会社は倒産しちゃってるんだよね。
そうそう、まあそんなことがあって、この移民の人たちはね、まずブラジルへ着くと移民収容所ってとこに、一箇所に集められる。
で、そこからこう割り振られて、多いのがこの各地のコーヒー農場へ割り振られたんだよね。
そうそう、で、なんか俺ここでさ、もう移民収容所って名前が出てきた時にさ、なんか親っていう風にもう思ったんだよね。
スピーカー 2
収容所だもんね。
スピーカー 1
うん。
で、この移民たちはさ、そもそもブラジルまでの渡航費用にさ、1人150円以上払ってきているんだけども、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そのほとんどの人が、そのお金を払うのにも日本で借金をして、なんとか用意した渡航費用だったの。
スピーカー 2
うんうん。
スピーカー 1
で、それをさ、ブラジルに行ったら稼げるっていう思いで来ているのに、全然現状、話が違うわけなんだよね。
スピーカー 2
うんうん。
スピーカー 1
これにね、移民の怒りは爆発をして、騙されたっていうふうに感じて、農場からね、脱走するっていう人たちも多く出てきたんだよね。
うん。
ちょっともうこのさ、脱走っていう言葉なんだって思って。
スピーカー 2
まあ収容所とね、やっぱセットだよね、脱走っていうと。
スピーカー 1
そうそうそう。で、農場ではさ、これ仕事中はずっとね、監視員がついていて、監視されているような状況なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、それ以外の時間もね、農場主は逃げられると働き手を失うから、常にね、こう逃げられないように警戒をしているっていうような状態だったの。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、だからそのためにね、脱走するにも準備が前々から計画しなきゃいけなくて、警戒の目を盗んで、こう夜に何とか逃げ出すっていうようなことをしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、脱走した移民はね、新しい働き場を求めて、新たな農場に行ったりとか、まあ別の仕事を探したりとかいうふうにしたんだよね。
うん。
で、これちょっとさっきからあった、もうこれ奴隷なんじゃないかっていうようなふうにちょっと思ってたんだけど。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはね、あのブラジルの背景を見るとちょっとわかってきて、もともとさ、ブラジルはさ、インディオって言われる先住民族がいて、1500年くらいにさ、ポルトガルが来港して、その後さ、ポルトガルの植民地になったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ブラジルの気候はさ、サトウキビの栽培に適していて、その栽培をさ、先住民族のインディオを奴隷として働かせたっていうのがあって。
うん。
で、その後さ、アフリカから大量に黒人奴隷が連れてこられて、これもまた働かされているんだよね。
うん。
で、19世紀に入って、ポルトガルから独立を果たしたブラジル帝国っていうのができる。
うん。
で、その頃はさ、新しい産業として、このコーヒー栽培っていうのが盛んに行われるようになったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その労働力として、またね、引き続き黒人奴隷が使われたんだよね。
うんうん。
そう、で、やがてさ、西洋諸国とか、あの奴隷制の批判が高まってきて、奴隷解放の動きが起こってきたんだよね、世界的に。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その流れでブラジルも1888年に奴隷制をようやく廃止した。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはね、世界で最も遅い奴隷制の廃止で、アメリカよりね、23年遅いんだよね。
うん。
あの、こうしてさ、まあ、約300年ほどブラジルでは続いた奴隷制で、正確な数は分かってないんだけど、600万人近くぐらいの奴隷がブラジルで働かされたんじゃないかっていう風に言われてるの。
うん。
で、このさ、奴隷の労働力があって、ブラジルの砂糖とかコーヒー産業っていうのはそれまで成り立っていたんだよね。
うん。
で、そんな奴隷制が廃止されて、まだ20年ほどしか経過してない時に、日本人移民っていうのがやってきた。
うん。
そう、だからさ、ブラジルにとって奴隷の労働力の代わりが必要で、それを移民に頼ったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そのためさ、ブラジルの農場主は依然として、移民は奴隷の代わりぐらいにしか考えていないっていう風潮があった。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、結果、第1回のさ、カサトマルに乗ってきた日本人移民っていうのは、1年後に最初の農場に留まった人っていうのは4分の1だけって言われてる。
うん。
他はね、別の働き場を求めていなくなってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その後もね、そういう実態を知らずに日本からね、移民が引き続き送られ続けたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、日本人移民はさ、現場で苦しい現状を打破するためにさ、農場経営者とさ、交渉して、空いてる土地を使って、自分たちが食べる作物を生産して、トウモロコシとかさ、豆なんかの栽培をすることで、出費を抑えようとしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、実際にね、自給体制がこう確立して、あとその、コーヒーが豊作であったとしても、結果ね、やっぱり収益を上げることは難しかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはね、やっぱり農場労働者として、地元の経営者の土地で働いてる限りは、この仕組みの中ではちょっとやっぱ難しかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、まあなんかこれちょっと、なんかサラリーマンも結局そうだよねって、ちょっと思っちゃったんだけど。
スピーカー 2
まあ、小片郎はね、ほら、有料企業のサラリーマンだからそんなことはない結局さ。
スピーカー 1
やめろ、その植え付け、全然違うわ。
スピーカー 2
いや、まあまあまあ、俺よりはって話だよ。
スピーカー 1
まあ、もっとこれは過酷な話なんだけどさ。
スピーカー 2
まあね、うん。
スピーカー 1
で、移民がさ、成功するには、自分たちの土地を持つことだっていうふうに、やっぱ考えは行き着くんだよね。
うん。
で、そこで日本人集団地を作るっていう動きが出てきた。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、こうしてね、あのブラジル最初の日本人集団地ができたのがね、イグアッペ植民地って言われるところなんだけど、
うん。
これはね、あの日本の資本家とかが資金を募ってできた、あのブラジル宅職会社っていうのが、
ブラジルの、そのサンパウロ州政府との間に5万ヘクタールの土地を契約をして成立したんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この農場ではさ、もちろんそのさっき言った監視員とかがいなくて、常に監視されるっていうこともなくて、
自分たちの自由に農業が行えるっていう、まあ希望があったんだよね。
うん。
たださ、その土地っていうのは、まだ未開拓の場所で、まずはさ、開墾してさ、あの農作業ができるようにしないといけなかったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
その土地っていうのはさ、今まで別の経営者が、こう開拓しようとしたんだけど、断念して、あの撤退してきた土地だった。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そのね、原因はね、マラリアだったんだよね。
スピーカー 2
おー。
スピーカー 1
そう、キャリーじゃない方ね。
スピーカー 2
それマラリアね。
スピーカー 1
ははは。
すごい。
スピーカー 2
ははは。
いや、わかるだろ、それぐらい。
ははは。
スピーカー 1
あ、そう。
で、このブラジルのさ、まあ風土病としてマラリアっていうのは結構あったんだけども、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
特にこのイグアッペ植民地っていうのは、マラリアに感染する人が多かったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それはね、この土地が海岸からも近くて、沼地のような湿地帯が続いていたんだよね。
おー。
で、日本人はさ、逆にその水辺に近い方が土地は肥沃で、作物を育てやすいっていう考えで、まあその土地を選んだんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただこう、やっぱマラリアっていうのはさ、マラリア原虫っていう寄生虫を持つ特定の蚊に刺されることで感染していくんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、その蚊っていうのはさ、水辺の近くは多く生息してるから、多くの人がこのマラリアに感染しやすい場所だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
なんかね、当時の開拓者には結構十分なマラリアの知識っていうのはなかったみたいなんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、マラリアになるとさ、激しい寒気とか震えが起こって、高熱が続いたりとか、頭痛、嘔吐なんかの症状も見られたりするんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それでさ、抵抗力が落ちてる時に別の病気を併発して死亡するっていうケースもあったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、当時のさ、移民っていうのは食事も十分にとれてなくて、マラリアに抵抗する体力を維持することが難しくて、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
また、医者とかさ、医療体制も整ってなくて、薬もないような状況だったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それでさらにさ、十分に回復してなくても、働かないと暮らしていけないから、無理をして働きに行く。
で、それでまたさ、亡くなるっていった悪循環が起こってたんだよね。
うん。
そう。で、これでね、犠牲者どんどん多くなって、1日3人亡くなるっていう日もあったりとか、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
その家族の中で誰かが1人は亡くなってる、もしくは全滅してるっていうケースがこの土地で見られたんだよね。
スピーカー 2
うんうん。
スピーカー 1
それでもさ、生き残った人たちで米やトウモロコシなんかを諦めずに育てて、ようやくね、初めての収穫を迎えたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そしたらね、またある悲劇が襲ったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはね、収穫目前の作物が全てダメになってしまったんだけども、それはなんでだと思う?
スピーカー 2
なんで?
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
患罰とか?
スピーカー 1
あー、それはその後出てくる。
スピーカー 2
あ、そうなの?
スピーカー 1
でね、1920年代に入ると、政府がね、国策としてブラジルへの移民を、さらにこう推奨していくんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、渡航費用の援助なんかもするようになって、移民の数っていうのは、こうますます増えていったんだよね。
で、ただね、あの、その後ね、ブラジル政府っていうのは、ナショナリズムを強く打ち出すような政策を行うようになって、
その中でね、1934年に、移民二分制限法っていうのが成立するんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これによって、日本からのブラジルの移民の数が制限されて、で、しかもその頃ね、日本は満州への移民を推奨するようになった時期と重なって、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ブラジルへの移民の数っていうのは、こう徐々に減っていったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう、こっから先はね、ちょっと詳しくは、満州移民の回を聞いてもらえれば、ちょっと説明してたりするんで、よかったら。
スピーカー 2
そうだね、あの、小片郎のね、人気回の、まあ、てか小片郎回はみんな人気なんだけど、満州も結構ね、やっぱり人気だったしね。
スピーカー 1
いやいや、そうでもないんだけど、で、その後ね、第二次世界大戦が起こって、ここでね、ブラジルっていうのは、アメリカなんかのその連合国側を支持したんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはあの、当時ブラジルにアメリカとかイギリスの資本が進出していて、まあ、それによって産業がこう目覚ましく発展していったっていう背景もあったって言われてる。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そのためさ、この戦争中ってのは日本とは国交を断絶してるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、こうしてさ、1941年までで戦前のブラジル移民っていうのは終わってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、それまでの間に約年18万人くらいは日本からブラジルへ渡ったって言われてる。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。で、戦時中に、そのブラジルに既にいる日本人は様々な規制がかけられたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
例えば講習の場なんかで母国語を話すことだったりとか、祖国の国歌を歌うことっていうのを禁止されたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
あとはさ、日本語教師をしてた人が突然逮捕されたりとか、日本のラジオを聞いてるってだけで逮捕されたりっていうのもあった。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それでさ、日本っていうのはご存知の通りその第二次世界大戦で敗れるわけだけども、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
遠く離れたブラジルにいる日本人っていうのはさ、日本の情報がなかなか入ってこないこともあって、
ブラジル側の情報からで日本が負けたっていうことが信じられない人も多くて、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはさ、敵の謀略だって言って信じない人たちがいたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ここにね、あの日本人の中でも日本は、いや実は勝ってるって認識してる人たちと負けたって認識した人たちで別れて対立が起こってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この争いはさ、激化していって死者まで出てくるような大きな対立になっていったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、このことがさ、勝ち組とか負け組って今使われるようになってる、その語源って言われてるんだよね。
スピーカー 2
ああ、そうなんだ。
スピーカー 1
あ、これ知ってた?
スピーカー 2
いや、知らない。
スピーカー 1
いや、俺もこれさ、あ、へえ、そうなんだって思って。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
だからさ、あの長丸がよくさ、将後は勝ち組だよって言ってるけど、
ははは。
それはさ、もともと実は日本が戦争に勝ってるんだって考えてる人たちのことを指すんだよね。
スピーカー 2
へえ。まあ小片郎もさ、いわゆるさ、勝ち組なわけじゃん。じゃあやっぱ戦争に、まあ人生っていう戦争には勝ってるわけだからな。
スピーカー 1
なんだそれ、また複雑になってくんな。
スピーカー 2
俺はほら負け組だからさ、人生っていう戦争には負けてるわけじゃん。
スピーカー 1
いやいやいや、それまた違うからね。今だから使い方が違うんだよね。
スピーカー 2
まあそうだね、そういうことになるよね。
スピーカー 1
まあ今日は本当にこれだけでも覚えてくれたら嬉しいです。
スピーカー 2
小片郎が勝ち組だってことね。
スピーカー 1
そこじゃねえよ。
スピーカー 2
あ、そこじゃない。
スピーカー 1
で、戦後さ、日本は戦争によってさ、まあ町とかは荒廃してさ、経済はまあどん底に入るんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
だからさ、また生活できない人とかがブラジルへ渡るって人たちも戦後出始めてきた。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まああの、ちょっとそれからさらに先だけど、戦後のさ、前小野田博夫さんの回でもやったけど、小野田博夫さんなんかも戦後にブラジルへ渡った人だよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。まあそっからさ、日本っていうのは高度経済成長してきて、ブラジルへ行くその移民の数っていうのは減少していって、まあ今に至るっていう流れがあるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
でね、戦前と戦後で、約ね、今までに25万人を超える日本人がブラジルへ渡ったっていう風にされてる。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それがさ、今では2世とか3世とか、もっとさらにいってさ、まあ世界で最も大きなこの日系社会を作っているっていうわけなんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。で、現地のね、あの、今そのブラジルの日系人って優秀な人が多いっていう風に言われていて、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
実際にさ、ブラジルでの大学進学率なんか見ても、日系人の割合って高いんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。これね、まあちょっといい言葉じゃないんだけど、ブラジルではね、大学に入りたかったら日系人を殺せって言われるぐらい、まあそのぐらいそう優秀なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そうそう。で、政界とかさ、弁護士なんかにもなったりとか、様々な分野で日系人は今でも活躍をしているんだけども、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それはさ、まあこれまでさ、日本から渡った移民が、まあ決してさ、最初はいい条件でないその環境の中でもまあ必死に働いてさ、まあブラジル社会から信頼を得て、まあ築き上げてきたものが今に至るんだよね。
スピーカー 2
うんうん。
スピーカー 1
で、日本でもさ、まああの神戸祭りでさ、サンバパレードが行われてるんだけど、
うん。
それはさ、神戸の人がサンバのコスチュームがただ単純に好きだからっていうわけじゃなくて、第一回の移民、第一回のさ、移民戦、笠戸丸がさ、神戸港を出発してからさ、まあ神戸の港っていうのは、その後もブラジルとの交流が頻繁に行われてきた地域なんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まあそういうのもあって、あのサンバパレードが行われてるってことを今日は伝える回でした。
スピーカー 2
ああ、小片郎ね、サンバとか大好きだもんね。
スピーカー 1
やめろ、俺。
スピーカー 2
ダンス好きじゃん、そもそも。
スピーカー 1
そうだけど、俺サンバ踊ったことないよ。
スピーカー 2
でもほら、結婚式にベリーダンサー呼んだぐらいじゃん。
スピーカー 1
それは俺が呼んだんじゃないわ。
スピーカー 2
そう?え、なんかね、あんな露出の高い、やっぱ小片郎だなって思ったけど。
スピーカー 1
それ俺関係ないわ。
スピーカー 2
あ、そう?
スピーカー 1
そう、まあということで、今日はブラジル移民についていかがでしたでしょうか。
スピーカー 2
いや、やっぱりね、何だろうね、日本にずっといるとさ、なんか日本に移民ってさ、昔全然いなかったわけじゃん。
で、今でこそさ、中国人だ、ベトナム人だとかさ、まあ、何だろう、アジア系のさ、移民、まあ移民って言うとちょっと語弊あんだけどさ、
方が結構増えてんじゃん、今実際。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
そう。なんかさ、だからその感覚もあるから、日本人がさ、その、移民してるっていう感覚結構ないんだけどさ、
だって今さ、日本人が移民するとしたらさ、シンガポールとかそういう話でしょ。
スピーカー 1
あ、まあそうだね。
スピーカー 2
そうそう、税金逃れでしょ、どっちかっていうと。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
で、やっぱりさ、そのお金、日本でさ、その、今の暮らしから考えるとさ、その、食い物がなくてとかっていうことには絶対ならないわけじゃん。
あの、お金さえあれば少なくとも食い物は買えるしっていう。
スピーカー 1
そうだね、もう食べていけないっていう思いでする人っていうのはほとんどいないだろうね。
スピーカー 2
うん、まあだからね、そういう時代もあってさ、結構多くの日本人がさ、まあ南米だったりとかさ、そういうところに行って、まあ、やっぱりさ、移民一斉って特に大変だったわけじゃん。
あの、アメリカのさ、日系人の話の時もさ、ちょっと言ったかもしんないけどさ、とにかくやっぱ一斉って苦労してんだよ。
スピーカー 1
あ、そうだね。