00:01
こんにちは。
こんばんは。
O沢イズミの雑談放送第22回。
O沢イズミとは、
原作担当のO沢イズミと、
作画担当のO沢イズミが、2人で同人漫画を描いているO沢イズミです。
今回は、
うん。
映画の話。
感想、考えたこと。
キシベロハンは動かない、懺悔室。
うん。
見ました。
見た。
面白かったよね。
うん。
見た後は、結構、面白かったのかどうか分からなかったっていうか。
なんか、もやもやがちょっと残って。
これがどういう話なのか分からないなっていう感じで。
1週間くらい考えて、ぐるぐるして、
ようやくまとまったので、しゃべることにしたっていう感じです。
一応あれですね。
ジョジョの奇妙な冒険のスピンオフが原作。
漫画があって。
漫画が原作で、それがNHKでドラマ化されていて。
で、
去年?
うん。
映画?
第一弾?
去年?分かんない。
一昨年かもしれない。
うん。
ルーブルへ行く。
うん。
映画一弾があって、今回は映画の第二弾。
第二弾。
うん。
まだ上映してるし、見てない人は是非見てから聞いたほうがいいと思う。
ネタバレします。
ネタバレしかないし、
せっかくだから最初見て自分がどう思うかみたいなのが結構大事じゃん。
何も知らずに見るっていうのはその時しかできないからさ。
それで他の人の感想を聞いたりとかして自分で考えたりするのが楽しいみたいなとこがあって、
我々も見た後一週間ぐるぐる考えててそれが楽しかったっていうことなんですけど。
ということであらすじ。
まずどんな映画だったか。
うん。
今回イタリアのベネチア側舞台、オールベネチアロケみたいなのをしてる。
そうなんだ。
ロハン先生が仕事でイタリアに行って、その教会に行った時に人の懺悔を聞いちゃうんだよね。
うん。
なんていうのあれ?国会室?懺悔室?
まあ一応懺悔室。
タイトル的には懺悔室だけど。
お互い顔を見ずに自分が思っている罪悪感みたいなものを神父さん。
03:04
神なのかに話す部屋。
うん。罪の告白をするみたいな仕組みがあって。
そこに男がやってきて。
うん。イウラアラタがやってきて。
彼の告白を聞くことになるんだよね。
うん。
その人はタミヤさんっていう人で、若い頃に。
なんか日雇い仕事みたいな人?
うん。日雇い仕事みたいなものをしてて。
そこにやってきた不老者みたいな人に食べ物を壊れて。
だけどその人に真仕事をさせて。
押し付けられてるんだよね。昼休み仕事。
その押し付けられた仕事をその人にやらせて。
病気をしてた不老者は仕事をしようとして死んじゃうわけだよね。
階段から落ちて。
階段から落ちて。
タミヤさんが殺してしまったみたいな形になるんだけど。
その時にお前が幸せの手帳にいる時に絶望させてやるみたいな呪いをかけられて。
許さねえって。
そこからの人生でやったら幸運が舞い込むようになった。
子供とかが生まれてすごく幸せになった瞬間に不老者の外場さんが現れて。
だけどそこはタミヤさんの工夫で呪いを欺いて身代わりを立てることで身代わりに死を肩代わりさせてタミヤさんは生き延びるんだよね。
ただそこでまた身代わりになって死んだ人から呪いを受けて2人分の呪いを抱えてその先の人生を生きることになってしまったと。
その身代わりになった人がまたこいつ許さねえってなって。
それでお前の幸せじゃなくてお前の娘が幸福になった時にお前に絶望を与えるぞっていう新たな呪いをかけて。
でそこから先そのタミヤさんは娘のマリアが幸せにならないように。
阻止して。
幸せを阻止。
マリアが欲しいものとかも与えてあげないし、不吉なジンクスみたいなものをあえてさせたりとかして。
だけどマリアが成長して婚約者ができるんだよね。
06:05
マリアとその婚約者のロレンゾが結婚してしまうと幸せの絶頂になってしまうからタミヤさんは阻止したいと。
結婚したいマリアと結婚を阻止したいタミヤの葛藤の中にロハン先生が巻き込まれていくみたいなそういう話ですね。
ちょっとうまく説明できなかったけどこの呪いっていうのがやたらと不自然に幸運が身に降りかかってきて、その幸運が絶頂を迎えた時に絶望がやってくるっていうそういう呪いなんだよね。
だからマリアも。
すごい運がいいんだよね。あらゆる。
一番欲しいものを買い与えられない父親からは、だけどその後に別の形で偶然欲しいものが手に入ったりとかっていうことが連発するような人生を送ってきている。
タミヤさん自身も最初の外婆さんの呪いをかけられた後に遺産が転がり込んだり、自分のやってる事業がすごい成功したり、土地や株やいろんなものの値段が上がってすごいお金持ちになって、
目に見えない運命みたいなものが自分を幸運にしようとしてくるみたいな幸福にしようとしてくるのに、何とか対抗しようとする人っていうか。
この親子に巻き込まれたロハン先生もなぜかその幸運が。
ヘブンズドアしてタミヤさんに必要だったかわからないけどヘブンズドアするんだよね。
タミヤさんをヘブンズドアしたことによってその呪いの一端をロハン先生も受けてしまってやたらと幸運のようなものが巻き込むようになってしまう。
話としてはそんな感じで、だからまあその幸運とそのどう向き合うかみたいなスタンスがそれぞれのキャラクターによってちょっとずつ違っていて、そこが面白いポイントだったのかなと思いますね。
パッと見た時は私は最初は、そんな結婚の瞬間がイコール幸福だなんて結びつきはやめてくれっていうのが最初の感想だったんだけど、
09:06
まあ整理してくるとやっぱりそう思い込んでるのはタミヤさんだってことがわかるから、まあ納得しようかなみたいな。
映画全体としてそれを押し付けられると結構苦しいから、そんなイコールじゃないでしょ結婚はっていう。今やもうね、結婚しなくてもいいじゃんっていう人がたくさんいるし。
まあステレオタイプすぎるよね、なんか。
結構ピンポイントなんだよね、その結婚のその瞬間に俺は絶望するっていう思い込みでタミヤさんは生きてる。
まあわかりやすい幸せの頂点みたいなステレオタイプなんだろうなぁと思うけど、なんか雑感みたいなある?
最初に思った雑感としては、なんかロハン先生ちょっと浅はかすぎませんかみたいな感じがあったんだよね。
なんかこの話全体として運命論的なテーマがあるのかなっていう感じがして、
呪いっていうプログラムされたレールの上で人生が進んでいくみたいなことがタミヤさんの人生で、マリアもそこに巻き込まれてるんだけど、
それに対してロハン先生は、いやいやその運命は、運命に身を任せるのではなくて自分の実力でこの人生を切り開いていくのがそれが俺の人生だみたいなことを。
そう、ロハン先生がすごいパワー系に見えるんだよね。
だから、第一にはその切り開けるロハン先生の
パワーを持っているもの。
切り開ける人と切り開けない人がいるんじゃないですかみたいなこととか、
あとはその切り開いてるって自分が思ってるっていうことをそれも含めて、世界のプログラムされた運命の一部だっていう可能性もあるっていうことも考えられるから、
そういうことにロハン先生ほどの人が無自覚。
それでパワー系で押し通す感じになるから、ちょっとマッチョだなっていう感じに見えるよね。
12:02
しかもそのルーブルを見た時に、ルーブルの時はヘブンズドアがもうちょっと結構出てきて、ロハン先生がどうやってヘブンズドアを手に入れたかみたいなこともそうだし、
ヘブンズドアを持ってて、実力のあるロハン先生ですら逃げられないものみたいなのがあったじゃん、ルーブルでは。
自分の過去や血縁やそういうものから自由になれないっていう。
だからロハン先生すら、自分で動向できない力みたいなものがあった。
それがまあちょっと、ロハン先生がピンチになるし、それはどう切り抜けるかみたいなのが面白かったんだけど、今回は割とロハン先生そんなピンチっていうかなんか、っていうね。
俺なんとかできっからみたいなパワー系に見えるっていう。
なんとかできるっていうこともさ、やっぱりヘブンズドアっていうギフトがあるからだし、
そのヘブンズドアもなんで使えるようになったかっていうと、前の映画で若かりし頃のロハン青年が七瀬とかいう色っぽい女性との交流の中で獲得した能力だったりするから、
それもね、なんていうか、人から与えられたものみたいな部分もあったりするよね。
だからそのロハン先生がその自分の人生を切り開いて、自分の力で切り開いていけるっていうことも必ずしもロハン先生の実力だけのおかげではないでしょうって思いますよね。
なんかまた後から出てくるかもしれないけど、ちょっとそこを考えてて思ったのは、今回の映画のテーマになっている運命みたいな、自分の力ではどうにもできない、人知の及ばない力みたいなものを運命と呼ぶとして、
それは私的にはそのたりきっていうものと、
たりき本願のたりきね。
そう、たりき本願のたりき。自分の力じゃないっていう意味でのたりきって呼ぼうと思ってるんですけど、
ありがとう、たりき。
だからロハン先生はそのたりき、運命みたいなものを信じない人として今回出てきてて、
自分の知的でやるんだみたいな。
15:04
だから自分に幸運がやってきた時も、
それをこう跳ねのけたいっていうかふざけるなって、幸運みたいなものも俺には嬉しくないふざけんなって怒る人、自力主義の人って言えるかなって思ってて、
だからそのパワー系に見える、マッチョに見えるんだけど、
でもその私の落ち着いたところは、
ロハン先生は一応その自分の持ってるそのギフトとか特権とかそういうのも含む立ち位置を一応受け入れてて、
無自覚かどうかちょっとわかんないなっていう、もしかしたら自覚してて、
その上で、それを受け入れて、その能力、自分が持ってる能力を最大限に生かそうとしてる人なのかなみたいな。
ロハン先生はでもその能力っていうのは本当に漫画を書くっていうことに特化してて、
なんかいろんなことに巻き込まれたり、
泉くんが持ってくる理不尽な何かとか、巻き込まれがたなんだよね結構、ロハン先生が。
そういうものと対処するときに、漫画を書くことが自分の責任を果たすやり方だっていうふうに考えてるんじゃないかっていう気もして、
だからそのペンで世界に立ち向かう人って。
特権を持ってるからこそ、
だからその力を自分は何もしないんじゃなくて、自分にできることはなんだってなったら、
ロハン先生の中ではそれは漫画を書くことだ、漫画を読者に読んでもらうことだっていうところになってるんじゃないかっていう。
だからロハン先生のパワーってヘブンズドアなんじゃないっていう、
人を本にしてそれに書き込むっていうパワー、紙に何かを書く、物語を作る、
それが彼のできることで責任の果たし方で、世界への対処の仕方がそういう人なんだっていう感じが最終的には思ったかなっていう。
そうだね。いつも理不尽な目にあってるもんね、ロハン先生は。
なんか泉くんが厄介事を持ってきたりとか。
うん。なんかアワビ取りに行ったら襲われたりとかね。
さっき運命を信じないのがロハン先生だって言ったけど、
信じないっていうか運命は嫌をなく波に降りかかってくるでしょ。
ね、ロハン先生はこのドラマのシリーズの中でさ、いろんなこの理不尽、自分のせいじゃないいろんな理不尽に襲われたりしてるけど、
18:10
運命に、理不尽に身にさらされてるとどんどんもう何をやっても無駄だみたいな無力感に、
どんどん虚無ってくるかもしれないけれども、そこはロハン先生は漫画を自分の手で描くっていうことによって、
なんとかこの世界における自分の主導権を持ち続けようとしてるのかなっていう。
戦い方だよねロハン先生。
運命っていうものとどう付き合うかみたいなのがやっぱり一本テーマで、
どっから話そうかなって感じなんですけど、
なんかちょっと飛びますけど、その運命についてちょっと話しておきたいのは、
運命について話しておきましょう。
先にちょっと前提っていうか話しておきたいのが、
今回運命っていうものともう一個考えてるうちに責任っていうものがもう一個大きいテーマとしてあるんじゃないかってなったんですよ。
それの話なんですけど、
なんか昔は、近代以前は、ギリシャ悲劇とか、今回オペラみたいなのも出てきてて、
その辺とも関わるかなと思うんですけど、
因果性を考えた時に、自分にはどうにもならない神、運命みたいなものによってそうなってしまうっていう因果性。
ここで神的因果性と、神と書く神的因果性って呼びますけど、
その時は人間は運命に翻弄される被害者としての立ち位置になるんです。
一方では、その人間的因果性っていう、自分の行為の結果でそうなってるっていう、
自分が加害者になる因果っていう2つの因果性があるとして、
ちょっと抽象的な感じがするから、ちょっと神砕いておくと、
例えば人を殺してしまいましたって言った時に、
それは神のおぼしめしによって私はやってしまったのだっていうのが、
その神的因果性の方。
21:00
そうじゃなくて、
俺が、てかお前がやったんだっていうこと?
殺したいと俺が思って殺したんだっていうこと?
でもなんかそう殺したいって思った、
その思った自分っていうのは、
それって何かによって殺したいって思わされたんじゃない?みたいな。
なんかその思わせた死体、神みたいなものがあるんじゃないの?みたいな。
なんかそれがその一体になってたんだよね。
そのオイリップス王とかも自分でやろうとしたわけじゃない。
お前は父を殺し、母を埋め取るだろうって言われて、
拒否しようとした。でも結果そうなってしまった。みたいな。
両方の因果性が区別されずにあったんですよね。
昔は。
それが近代になって、何が起きたかっていうと、
デカルトみたいな人が出てきて、
事故みたいな、
その能動的な主体としての個人っていうものがすごい目立ってきたじゃないですか。
用語もできたし、意思みたいな。
その意思とか、その行為の主体としての私みたいなものが近代になってバーンって出てきて、
それでその神的因果性が結構どっか行って、
全部人間的因果性に集中してくるっていうか、
あなたの責任の主体って個人に帰属されるんじゃないかっていう、
あなたがやったことでしょっていう現代の自己責任論につながってる部分。
いろんな自分にはなんともできない何かとか、
なぜ自分がその時そう思ってしまったのかわからないとか、
そういうのを飛び越えて、
全部あなたがやったことでしょ、あなたの責任でしょ、あなたが選んだんでしょっていう、
今のこの結果としての自分のあり方を、
全部あなたの責任ですって言ってくる、
その自己責任論みたいなものにつながってくると思うんですけど、
だから本来っていうか違う考え方をするならば、
国文小一郎さんの本とかで出てくるんですけど、
その責任って何なのかっていうと、
自分にはどうにもならなかった、選べなかった境遇、環境、要因、
そういうものもあるじゃん確かに。
だけど自分の人間的因果性、やってしまったこと確かにある。
その両方が見えてようやく自分がやってしまった罪とか行為の結果に対して、
自分が確かに自分もやってしまったし、
でも自分100%悪いっていうわけじゃないっていうのがあるから、
ようやくそこでレスポンスっていう応答するっていうことがその責任のスタートっていうか、
24:06
100%俺が悪いわけじゃないけどすいませんみたいなこと。
そう確かにすいませんでしたっていう。
なんかそれがないと反省するっていうこともできないし、
自分がやったことの責任を引き受けるっていうことが人は多分できないみたいな。
っていうのがここまでが前提としてあって、
その時に名残をかけたタミヤさんは、
だからタミヤさんは近代の人なんですよ。
自己責任論の人だった。
不老者の外婆さんが現れた時のタミヤさんってすごいそこを強調してたと思うんだよ。
お前が不老者になったのはお前の努力が足りないからだろうみたいな。
あそこはヨーロッパにアジア人が行った時に、
それによって差別されることとか、
あるいは逃げられずに病気になってしまった、怪我をしてしまった、不老者になってしまった、
っていうのを自己責任論じゃどうにもできない部分あるじゃん。
環境要因、社会差別、そういうの全部なかったことにして、
自己責任論を本当に自分のものにしてる人なんだよ、タミヤさん自身が。
だからその自己責任論を振りかざした結果として外婆さんが死んだ時に、
そのタミヤさんが内面化してる自己責任論が自分にブーメランになって帰ってきて、
外婆さんが今死んだここで、これって自己責任論で言えば全部俺のせいだよねってなるじゃん。
その罪悪感が無意識の中で自分は幸せになってはいけない、
こんなことをしてしまった俺は幸せになってはいけないってどこかで意識しないところである。
それが呪いの正体っていうか、っていう感じ。
実際その外婆さんは死んで呪いをかけたかどうかは分かんないじゃん、現代社会では。
だけどそう思ってしまったことで呪いになってる、外婆さんの。
トラウマみたいなことだよね。
それはやっぱり自己責任論に元があるなって思ったんですけど。
映画だとタミヤさんが日本人になってるじゃん。
原作は多分イタリア人の若者がアジア人の不老者を殺すっていうそういう話になってたけれども、
27:02
同じ境遇のこの映画ではその日本人のタミヤさんが日本人の不老者を殺すっていうアレンジになってて、そこがいいなと思いましたね。
分かるじゃん、自分が同じ日本人で、同じような苦労をして、
だけど俺は頑張って働いて辛い思いをして働いてるのに、お前は怠けて不老者になって、
そして俺に食べ物を買うのかみたいな時にさ、気持ち分かるよね。
なんかその俺はこんなに頑張ってるのになんでお前はやらないんだみたいなさ。
そこでそのタミヤさんが仮に原作通りイタリア人になった場合は、お前イタリアのマジョリティだろみたいな感じになるけど、
そこを同じ日本人という立場にすることでちょっと。
なんかその不老者をいじめた気持ちがすごいリアリティが分かるっていうかさ。
自分を食うために働いてる。俺だって苦労してるっていう。
やっぱりなんか自分と近しい立場の人がさ、に対してはさ、どうしても自分と比べちゃってさ、
なんかその違いを攻撃しちゃったりとかってことはあるよね。
その立場が上であればあるほどこれは俺の努力の結果だっていうふうに人は思いたいからね。
それでタミヤさんは自分で自分に呪いをかけて、
この映画の世界では外場さんが呪いをかけるんですけど、
そうなった時にその幸せになった時にお前は絶望するだろうみたいな予言っていうか呪いっていうか、
その時点でタミヤさんは決まってる未来みたいなものをある意味信じてて、
それをコントロールしようとして身代わりを立てたり、
その不幸のジンクスをやってわざと自分が幸福にならないようにならないように、
それは幸福になってしまうっていうふうに未来をある意味信じてるから対処するっていう形になってて、
だからタミヤさんはある意味運命とかたりき、呪い含めたりきっていうものを本当に信じてる人なのかなって思いました。
で、その娘のマリアはどうかってなると、
マリアはお父さんから幸せになるなっていう呪いを受けてる人、この人。
30:09
でもタミヤさんは自分で呪いをかけてるから解けないんだけど、ある意味マリアは根拠のない呪いじゃん。
お前は幸せになってはいけないなんてなんでみたいな。
お父さんがそう言ってるだけみたいな。
だからなんとかその呪いを解こうとするし解けるっていうことなのかなって思う気もするんだけど。
でもちょっとその思ったのは、一番欲しいものは選べないように父に行動をコントロールされてる。
幸運や欲しいものはなぜか別の形で常に手に入ってしまうみたいなことで生きてきた人は本当にあんな性格になるのかっていう疑問がちょっと湧いたっていうのが。
ちょっと憂鬱げな普通のっていうか、そんな破綻した人間には見えないよね、マリアは。
でも実際何をもしなくても幸運になるわ俺みたいな感じだったらもう努力もしないし、
自分が選ぶ選ばないに関わらず幸福やってくるから本当はどうでもいいみたいになりそうじゃん。
自暴自棄、もしくは虚無、もしくは私が何をしても無駄だっていう方向の自分の選択に全部意味がないみたいな感じになるっていうか。
そうだよね、すごいにひるな人間になりそうな。
ひねくれた人間になりそうだけどそうはなってないっていう。
マリアはその意味で自分で選択できないっていうか、一瞬その運命っていう幸福みたいなものに流されて生きてて、
ロハン先生が持っている自分の力で何とかできるみたいな、その自力を失っている人っていう感じとして出てきてるのかなって思って。
その自力を失ったマリアがロレンゾと、婚約者のロレンゾと出会うことで変わるっていう話かもしれないし、
初めて、職業選択は一応自分でしてるんですけど、父に反対されても結婚するっていう選択を主体的にするっていう話じゃん。
なんだけど、そうやってその運命、幸福みたいなものに恵まれて生きてきたマリアが、自分の選択を自分のものだって信じられるのがよくわからなくなるっていうのが一個あって、
33:16
ロレンゾと出会ったのが偶然、偶然出会いましたって感じ。
雨宿りしてるときにハンカチ落として、手が触れ合って、運命ですみたいな感じで。
それもものすごく都合がいいよね。
だからこれまでそのマリアの元に、なんかひょんなことでやってきた欲しいもの、いろんなものの系譜の中にロレンゾもいるように見える。
だから、マリアは父親のタミヤの呪いから逃れようとしてるはずだけど、ロレンゾと結婚するっていうことは、結局その呪いの範疇にいるんじゃないかっていうふうに見えちゃうよね、映画見てる限りは。
本当にそれが呪いから逃れるっていうかなのか、もうその中に全部含まれてて、その運命によって選ばされてるんじゃないかっていう疑念が出てくる気がするっていう。
父親の絶対に幸せにさせないみたいな呪いからは逃れられるのかもしれないけど、結局その運命のレールの上に乗ってることには違いないっていう感じがするよね。
っていうふうになっちゃってる気がする、この映画で。だから、それが本当に選択なんだっていう、自力で生きていくっていう。
例えば、偶然ロレンゾと出会うんじゃなくて、運命みたいなものと抵抗する手段として、例えばマッチングアプリでロレンゾと出会うみたいなのがあったらどうだったんだろうとかって思って。
自分で選びに行くってことだよね。
しかもその自分で選ぶってやったら、それも運命のうちかもしれないから、AIとかデータとか数字とか、そういうものに頼る方向で条件検索でロレンゾにたどり着くみたいな。
とか、別のフィアンセみたいな、もっと運命的っぽいすごい人間、すごいフィアンセみたいな、第二のフィアンセみたいなのを登場させて、で、どっちを選ぶかってなった時に、運命の方がフィアンセの方を選ばそうとしてくるけど、それを蹴って私はロレンゾを選ぶんだっていうことがあれば、ちょっと選択感が出てるかなみたいな気もしてます。
36:01
ただ、ロレンゾがどういう人かって考えた時に、私としては、ロレンゾは父がかけてくる呪いに対抗できるホワイトマジックの人って呼んでるんですけど。
タミヤさんがブラックマジックってことですか。
そう、悪い呪いをかけてくるものに対して、ホワイトのマジックを使える人、一番を選んでいいよ、あなたは幸せになれるし、幸せになっていいんだっていう、それを言葉に出すことっていう、それも一つの呪い、呪術の一つなんで、幸せにあなたがなりますようにって祈ること、言葉にすること。
だから、それによってそのホトホギの呪いみたいなものをマリアにかけられる人としてロレンゾがいるのかなっていう気がしてて、そこをすごい見せてほしかったのよ。
私はロレンゾと泉くんのハッピーコンビ二人組が、すごい映画のいいところだと思ってて。
ね、よかったよね。
そこもっと見たいし、そこもっと強調していいとこだと思ったのよね。
マリアとロハン先生が橋の上にいて、そこにロレンゾと泉くんが船に乗ってやってきて、なんて素晴らしい流れなんだ。
俺の大好きなロハン先生となんと婚約者のマリアが一緒にいるなんて最高の景色だぜ、ハッピーみたいなあの瞬間が本当に最高に起きて。
だからそのホワイトマジックのすごい使い手であるロレンゾを、そのブラックマジックの父の呪いと対抗するためにこの人を選ぶんだっていう、そこがもっと見たかったのね。
なぜその父の反対を押し切って結婚を選ぶのか。これまではある意味その父の言う通りに2番目を選ばされて、そうやって流されてきたマリアが、なぜ今回はその決定を押し通すのかっていうところが結構、なんていうの。
ロレンゾと婚約することになった流れとか書かれないから、なんか婚約することにシャシャみたいな感じでスルーされたから、そこかけよ、ロレンゾのホワイトパワーをって思うっていう。
まあでもなんか、君はちょっとロレンゾのこと買いかぶりすぎてる感じも。 ロレンゾ好きすぎる。
ちょっとあるかもしれないなと思いますね。なんかやっぱり普通に映画見るだけだとロレンゾと泉くんはバカみたいなさ、感じ。
てかまあ、俗物っていう感じがちょっとあるよね。なんかその、なんかもう運命とかに対して無自覚で、運命に身を任せて、これはこれでまあいいよねみたいな、結局地元だよねみたいな、マイルドヤンキーっぽさみたいなちょっとある。
39:03
楽天家っぽい感じもあり。
楽天家だし、まあなんかね、普通にね、この。
人生楽しいじゃん。
そうそう、まあね、その、この人生の中でさ、なんかまあいろんなことがあるけど、まあこれはこれであの俺の人生だよなって言って、まあそれを受け入れて正当化して生きていくっていうのがまあ普通の生き方でしょ。
まあこんなもんだよなみたいな。
そうそうそうそうそう。
素直に運命、受け入れがあった人っていうかね。
運命をまあこういうもんかなーって受け入れていっていくっていう、なんかそういう俗物っぽさがやっぱロレンゾにあるなーって思いますね。
なるほどね。
まあそういう俗物っぽさがね、マリアにも必要だったのかもしれないけど。
そして一応最後に泉くんの話をすると、泉くんは、
マリエね。
マリエは、そう、なんかその運命とか幸運とかそういうののいい部分だけ積極的に受け取りに行く人っていう感じで、
無資格にそれができてる人かもしれないんだけど、
タミヤさんが自分に訪れた幸運に見える出来事に対して、
あ、またこれ幸運俺に来たって、だから不幸になることやらないとってなるじゃん。
それってもう自分に起きた出来事をすぐに、これは幸運の元だっていう判断をすぐ下す人なんだよね。
で、同じように娘の幸福イコール結婚だっていう、割と率直な結び付け方をする人。
すぐ安易に決定判断する人なんだよ、タミヤさんは。
でそれに対しての泉くんは、未来って決まってないじゃんっていう。
だから決まってる未来に対処するタミヤさんと、未来オープンじゃんって泉くんがまた対局にいて、
この映画を見てて思ってた、そんな自分に起きた出来事をすぐ判断できるのっていう部分を泉くんが持ってくれてるっていうか、
運命って事後的に分かるもの、身に付けられるものっていう考え方があって、何か起きた時には分かんない。
でも後から考えたらあれって運命的だったよねみたいな。
起きたその瞬間は分かんないけど、未来になってみたらこれもう運命だったかもみたいに思うように、後から分かるみたいな。
42:04
何か出来事が起きた時にそれが良いか悪いかってすぐ判断できないよねっていう採用が馬的な考え方ができるっていうか、
ある瞬間が最高の幸せかどうかは未来になってみなきゃ分からないじゃんっていう泉くんのスタイル。
明日が一番ハッピーかもしれないでしょって泉くんが言ってたけど。
そのオープンな未来に対してすごいポジティブに生きられるんだよね。
その意味で最近流行ってるっぽい判断を先送りにするとか、もやもやしたままにできるとか、
そういう決定しないっていうネガティブキーパビリティみたいな。
そういうスタンスの人として泉くんがいるのかなって思ったのです。
なるほどね。
ある意味その時にマリアの最初に出てきた仮面みたいなものがある方面から見れば幸福だし、ある方面から見たらそうじゃないかもみたいな。
そういう二面性みたいな見方次第じゃんみたいなのはここでマリアの認識っていうか、それが仮面なのかなみたいな。
っていう感じで整理をしました。
いや、よくまとまってるし面白いと思いますね。
いや、これはね、本当に話してるうちにこうなったからね、私のあれではないか。
会話の中で整理してきたやつ。
なんか最近読んだ本でさ、プラグマティズムの結構源流みたいな人のジェイムスっていう人がさ、
なんか1回生まれの人と2回生まれの人みたいな人間の分類をしててさ、
1回生まれの人は全てを幸運として受け取れるめっちゃ楽天的な人。
2回生まれの人はもう全てを悲観的に捉えてしまって、もう1回生まれ直さないと幸せになれない人。
きつい。きついよ。
世の中にはこういう2種類の人がいるって言ってて、
なんかそれで言うと、このイズミ君とかロレンゾは1回生まれの人。
タミヤさんとかマリアとかは2回生まれの人っぽいのかなって思いました。
なんかそれ2回目がそのネガティブ受け取りなのが面白いね。
1回目がハッピー人間だった。
そしてそのなんか、こういうのをどう受け取るかみたいな時に、
45:07
忘れてはいけないロハン先生は、
幸運がやってきた時に、その映画の中では花束を渡されたり、
あと店で頼んでもないのにすごいオードブルみたいなものがサービスですみたいなことを言って置いてかれたり、
あのオペラのチケットをもらえたり、あとあの宝くじ、当たってる宝くじを拾いそうになったり。
それに対してそのロハン先生は、何が幸運か俺が決めるんだっていうスタイルなんだよね。
だからあんま嬉しそうじゃない。
イズミ君はラッキーって受け取るじゃん。
うわー美味しいみたいな。オペララッキーみたいな。
あとロハン先生は、いやふざけんなみたいな。
そんな世間一般の幸せを俺にもたらしたところで、俺の幸福は俺が決めるっていう。
あの宝くじを足で踏みつけるシーン、最高だったよね。
お気に入りシーンね君の。
よかったよかった。
舐めるなふざけるなっていうスタイルで幸運に対処するっていうのが結構面白くて。
やっぱさ、食べ物がもらえるとかさ、ただでオペラに行けるとかさ、あと大金がもらえるとかさ。
そういうことが当然幸運だっていう価値観を押し付けられてることに対してロハン先生は舐めるなって言ってるんだよね。
切れてるの。そこが面白いね。
なんか私とかもさ、ポイント嫌いなんですよ。
ポイント。
集めたりするのね。
そうそうポイントカードのポイントですね。
それなんで嫌いかっていうと、やっぱりそのお得であることが当然正義でしょみたいな価値観を押し付けられてる感じっていうか。
このアプリをダウンロードするといいことがありますよ。
このポイントを貯めるといくらお得になりますよ。
人はそのお得とかっていうことによって、企業とかが仕組んだように行動しちゃうけど、それに抗いたいんですよね、私はなんとなく。
マリアがこの選択は本当に自分の選択で疑わないけど、電車の中ずり広告みたいなものが、私東京に行くとすごい思うんだけど、
これが今あなたたちが欲望してることでしょみたいなことをすごいダイレクトに広告っていうものは見せてくる気がしてて、それすぐ気持ち悪いなって思うんだけど。
48:08
脱毛しろとか、そういう自分の欲望すらもコントロールされてるような気持ちになるみたいな。
その一個がお得は正しいでしょ、お得みんな嬉しいでしょっていう決めつけみたいなものがやってくると、ふざけんなってなるでしょ。
そう、なめるな、ふざけるな、なりますよね。
もちろんね、みんな自らの判断で選んでるなんてことは、それはありえないんですけど、
でもなんか操られてるかもしれないけど、それでも私はこれが欲しいみたいな、なんかそういうためらい?葛藤?みたいなのはちょっとあってもいいよね。
なんかこう、スマホとかもさ、結局その自分で考える前に動き出すことを要求するというか、
考えなくていいようにその短い時間でやつぎばやにその動画を提示してくるとかそうなんだけど、
それに無自覚すぎると、あれ?これ私本当にこれやりたいんだっけ?みたいになる時があるっていうか、
なんかみんな楽しくて言ってる何かが、私も楽しそうに見えてやるけど、あれ?楽しくない?楽しいのかこれ?
いや、みんな楽しそうにしてるから楽しいかもみたいな、なんだろうこの感じは?みたいな時あるっていうかね。
なんかツイッターでウォッチしてる人でさ、なんかその流行り物を順番に渡り歩いてるように見える人がいてさ、
なんかそういう人のことを見るとさ、なんか本当にあなたはそれが好きなんですか?みたいなことを思っちゃうんだよね。
そのスピード感が羨ましいようでもあり、でもちょっと怖い。
旗から見るとちょっと、切層ないっていうか、なんか流行に乗るっていうことが第一前提にあるみたいに見える。
なんか欲望させられてる感じがする。
いろんな広告やそういうものが次はこれ、次はこれみたいなね、なんかサジェストしてくるじゃん。
YouTubeもNetflixとかもこれを見た人はこれを読んでいます。
そういうのにこう疑いなく乗っていける人っていうか。
51:02
アルゴリズムとかもそうだし、なんかやっぱツイッターだとみんなが盛り上がってるみたいなのも可視化されるじゃん。
みんなが盛り上がってると見てみようかなみたいなことになって、見たら見たって多分面白いんだと思うんだけど、
なんかもともとそれ、なんか本当に見る必要あったんだっけみたいなこととか、
まぁちょっと、それはね、自分にも全然無関係ではない。
もちろんそういう風にして選んでるものも私自身もたくさんあると思うけどね。
流された先でなんか自分にフィットするものが見つかるみたいなこともあると思うし、
でもやっぱなんか肌から見るとちょっと不気味な感じがしちゃう。
あの最近で言うとさ、備蓄米の発売になんかめっちゃ並んでる人とかもさ。
本当に備蓄米を食べたいなっていう。
なんか話題らしい。なんかすごいテレビから備蓄米って聞こえてくるし。
あれの行列並ぶのとか本当恥ずかしいよね。
本当に自分は食べたいのか興味あるのかみたいな。
本当にその古い米を食いたいのかわからんが流行ってる。
流行ってるっていうか、なんか話題とか気になる、興味、関心。
まぁみんなが欲しがるものが欲しいと思っちゃうってことなんだと思うんだけど。
もちろん本当にあの、全然米が本当にない。
この備蓄米を買えなかったら、今日食べる米も明日食べる米もないんだっていう状態で
本当に切実な気持ちで買いに行ってる人がいるのはもちろんね、あると思うんだけど。
でも全員がそうかって言うとそうじゃないだろうっていう感じっていうかね。
なんか行列とか見て、なんか気持ちが慣れるのもそういうことなのかなって。
なんかご飯屋さんとか行って、もともと食べたいと思ってそこに行ったら行列ができてて、
気持ちがないってやめるみたいなこととかはさ。
逆の人もいるんだろうけどね、本当に。
あ、並んでるってことはそれだけ上手いし人気なんだっていうことで並ぶモチベーションになる人もいるんだけど、
でもかえってそれは俺の欲しいものじゃなかったなみたいな時があるっていうか。
やっぱそれはなんか私の育ち方みたいなことと関係してるのかもしれない。
結構みんながポケモンとかやってる中でさ、私はポケモン買い与えられずに育ったからさ。
みんなが、その時もちろんみんながやってるから欲しかったけど、それが手に入らなかったんだよね。
だから、みんなが欲してるものを私はあえてそれを避けるんだっていうことで自分をある時から保つようになって、
54:05
そういうことがこの行列嫌いにつながってるのかもしれないね。
なるほどね。
とかその、お得ですよ、みんなやってますよ、みんな買ってますよみたいなものがやってきた時に、
それはいらない、じゃあいらないって避ける方向に行っちゃうっていう。
お得に対する嫌なのはやっぱり操られたくないみたいな、そういう。
そのシステムの中で、システムに抗いたい。
システムの重力に逆らわずに行ったら、もちろん何千円お得みたいなさ、そういう方向に行くんだけどさ。
それって企業の思う都合だし、その企業に操作されてるその通りに動きたくはないなみたいな、そういうこと。
でも、みんなが欲しいものをあえて避けるみたいなのって、ある意味で親から受けた呪いみたいなところもあるから、
そこは呪いを解くためにあえて行列に並び、備蓄前を買ったりした方がいいのかもしれない。
でももちろんね、それこそこの映画を見に行ったのがさ、見たかったから見に行くっていうか、
それをね、前伝とかを見たりして、やってるなら行こうってなってみたりしてるから。
やっぱりそれを思い出して、やっぱりどこまでが自分の選択で、どこまでが自分の意思なんだろうっていうのはどんどんあやふやになるものだよね。
まあジョジョなんていうのもね、なんか結構ちょっと上の世代の読んでたものっていう感じがある。
もちろん今も連載してるけど。
結構その一般教養の一部としてジョジョみたいなものがあって、一般教養を備蓄する感じでジョジョを読んでた部分もあるかもしれない。
その果てにこのキシベロハン動かないよう、見た自分がいるってことを考えると、やっぱりそれも元をたどれば別に自分が見たかったわけではないのかもしれないよね。
57:00
さっきちょっと思い出したのが、若松さん、時々百分の一書とか出てる。
若松英介さん。
若松さんが前に自分が欲しい本はあんまり新刊書店にはないんだって。
自分が欲しい本は古本屋にあるから古本屋が好きだみたいなことを言ってて。
それも新刊書店に行ってその場に出てきてるもので、たくさんの人が今読みたい本はこれでしょうみたいな感じで、新刊代に流行みたいなものがそこに出て買え買えっていうやつをかけてくるじゃん。
それもだからそれを興味を持って買うっていうことは、一応その推し出された欲望みたいなものに乗って買うみたいな形っていうか。
それに対して古本屋に行った時には、わりとこれが今推しの古本ですみたいな置き方ってあんまないじゃん。
全部の本が結構、わりと均等に自分にとって本当に読みたいって今思う本はすごい棚の奥の奥にあるかもしれなくて、積んである下にあるかもしれなくて、
それをディグールっていうか、自分の興味関心を探しに来る本を見るじゃん、私たちは。
その感じっていうか、推し出してくるものじゃなくて、自分で探しに行ってるし、自分が今読みたいものは自分にしかわかんないんだって気持ちが多分古本屋さんの中にあるから古本屋さんが好きみたいなのが出てきたと思って、それを思い出しました。
新刊書店に欲しいものがないっていう感じはちょっとわかるね。
もちろん新刊書店にも行くし、こういう本が出るってなった時には読みたいなと思って、古本屋さんに行くことはもちろんあるんだけど、だけど古本屋さんには古本屋さんの抗えない魅力があるよね。
自分で選んでる感はあるよね。
今出てるわけでもないし、流行とかでもないし、絶版になったり。
でも、私が読むタイミング、あるいはその本を手に取る、買うタイミングは今なんだよな、みたいな本との出会いを求めてるっていうか。
本を自ら選んだっていう感じもあるし、そういう時さ、運命の出会いっていう感じ、表現で言ったりするよね。
1:00:08
一期一会みたいな言い方する時もある。
実際、巡り合うべきして巡り合ったっていう喜びがあるよね。
だから今日の話で言うと、運命に身を任せる喜びみたいなのもあるのかなって思いました。
それはなんか結構宗教的な感覚とも繋がる気がするけど、なんかそのでけえ宇宙と俺が一体になってるみたいな。
でかい話になったとか。
いやでもそうでしょ。
禅とかもそうでしょ。禅仏教とかもさ。
この大宇宙の大きな流れの中に自分がその一部としているんだっていうことがわかったっていうのが悟りでしょ。
自分のコンディションを思うよね。古本屋に行く時って。
その時自分が読んでる本とか、ちょっと興味が向いてる方向とかで同じ棚を見ててもピンとくる本が全然その時その時で違う感じ。
あとはその時は何とも思わなかった、昔は何とも思わなかったのに、今の自分が見たらタイトルがすごい見えてくるっていうか、そういう感じあるよね。
分かる分かる。
ですごいコンディションが悪いとどの本を見ても全然ピンとこなくて、今日は何も欲しいもんなかったみたいな日もあるもんね。面白いよね古本屋。
ある意味、言い方悪いかもしれないけど、すぴってる瞬間。
古本屋においてね。
すぴってる時は出会うね。
でも分かるね。
来た来たみたいな。
今日この本読んでるみたいなね。
てかそのタイトルが自分の目に留まったっていうことはある意味あるんだよね。なんかがそこに自分と本の間に。
そうそうそう。
最終的にやばいところに落ち着いて終わりそうじゃないこれ。
でもなんか古本屋好きな人は分かる気がするなこの感じ。
そんな感じですか。
最終的に古本屋の運命の話になって終わって面白い。
ということで。
懺悔しつつ面白かったです。
面白かったですね。
なんかね、見てどういうことを考えたかって全然人によって違うんだろうなみたいなことを思うから、ぜひ。
1:03:04
なんかあったら教えてほしい。
そうですね。
我々はここに落ち着いたけど。
全然違う見方をしてる人が絶対いるし、別に私たちの見方が正しいとかじゃないし。
孤独してる可能性めちゃくちゃあるよね。
一回しか見てないし、映画作った人の人を読み取れてない可能性は多分あるけど。
でもまあ、いろいろ考えて楽しかったなって。
一人で映画見ただけだと多分。
ここまで考えない私も。
ここまで考えない。
おれんとうといずみくんのハッピーコンビが最高だったみたいなことで多分終わるんだけど。
今回は敢えてちょっといろいろ考えてみたっていう。
いろいろ語れる余地があるっていう意味ではやっぱ面白かったんだろうね。
そんな感じで。
大丈夫かどうかわかりませんが。
ちょっと今日は同人とはあんまり関係ない話だったかもしれないですけど。
次回ぐらい、前回出した本のコメンタリー回みたいなの。
なんかやろうかなと思ってたら残り質がちょっと面白かったから今回。
天板が変わりました。
じゃあ今日はこんなところですかね。
宇都宮BCLアジア優勝おめでとう。
あ、そうだね。
今回見たらあれ聞けたね。
すごい美しいみたいなやつ。
ちょっとだけ聞けた。
これはとても難しい。
言ってた。
I don't know わからないみたいなことも言って。
最高ですね。
じゃあ終わりにしようかなと思いますね。
ここまで聞いていただいてありがとうございました。
あとありがとうやん。
おやすみなさい。