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この番組は、本が好きな人たちが集まり、本から始まる様々な思い、広がりを記録して繋いでいく番組です。
暇と退屈の倫理学は、国分巧一朗という、哲学の大学の先生が書いた本で、忙しい現代人が時間を持ったらどうとかいう話ではなく、でもあるんですけど、暇と退屈はとりあえず違う。
いろんな哲学者が暇とか退屈について考えてきてるんですけど、っていう話から始まるんですけど、退屈って何かと。
なんかその、したいことができない状態を退屈っていうと。何かしたいがそれができない状態っていうのを退屈っていうと。
それって主観的な状態じゃないですか。どれだけ忙しくしてようが、暇そうに見えようが、やりたいことがないとか、やりたいことができないっていうのが退屈で、やりたいことがやられてれば忙しくて、暇がなくて。
まあ、保険的な暇がなくても、箇所分の時間が少なくても暇とはいかないんです。箇所分の時間がいっぱいあっても退屈しなければ暇じゃないんです。
人間が暇とか言えるようになったのって、本当に最近の話だっていう、最近の話をしたりとか。
受領最終生活をしてたら忙しいので、暇だとか退屈だとか言ってる余裕も機会もないと。
人間はそもそも暇に部屋の中でじっとしてるようにできてないと。忙しかった時間が歴史的に長いから。
貴族とかが見せびらかしてるものは、中世も近代も現代も暇なんだと。
例えば中世だったら、自分の一族がせいぜい30人くらいしか住まないのに部屋が300個あったりとか、一人じゃ着れないドレスとか見せびらかしていたと。
近現代になって、そういうのはちょっと良くないよねみたいな。
貴族の豊かさっていうのは、貴族じゃない人たちの労働を搾取して成り立っているっていうことが分かりやすいから、
近代に入っていい車乗るとか、ロレックス巻くとか、あるいは配偶者に贅沢させることでステータスシンボルを見せていく。
見せびらかしたいみたいなことをやるようになった。
労働者も1950年くらいから、暇というか余暇を与えられるようになった。奴隷じゃなくなったと。
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でも、余暇を与えられた労働者は、急に与えられた休日をどうしていいか分からないから、
休日にはこれがいいですよみたいな感じで、資本の側から提案されたレジャーみたいなものを消費すると。
労働者も労働者で、それを消費することで消費者なりにステータスを見せる、顕示するようになる。
それとは全然、消費社会みたいなものに絡め取られていて、
全然自分の本当の意味での余暇みたいなものは与えられていない。
そういうのから距離を置いて、ゆっくりやりたいことをやったりやらなかったり、何もしなかったりするみたいなことを考えてみようぜみたいな感じですね。
うまく説明できなかったけど。
昔の日本の古典のずれずれ暮らしだとか、この状況みたいな。
上半で寝っ転がって、それが一番豊かだと。
そういうのに通じて。
そうですね。もしそれが最高のライフスタイルで、外ことみたいな。
雑誌に載ってみんながそれを真似するようであれば、それは消費されてるってことになるんですけど。
ミニマリストになるために、本棚もテレビもiPadにまとめちゃおう。
だからiPadを買おうみたいな、ミニマリな生活のためにとか言って、
ミニマリな生活が、結局ミニマリな生活をするためのグッズを買わされるみたいなのとライフスタイルのどれになるかが、
それは消費社会みたいなものに絡められているだけで、
まあ、暇になったとは言えない。
言うんじゃないですかね。
Twitterやってる人みんな暇だと思う。
Twitterやってる時間って結構いてる。
かじりついてる時って暇で退屈な時なんだと思う。
自分のことをしない。
浪費と消費は区別しろって著者も言ってて、
お魚を食べるという行為で、浪費は限界がある。
美味しいお魚をタイのお頭つきを何匹買っても、
結局胃袋には限界があるから、せいぜい3匹くらいでお腹いっぱいになっちゃうと。
でも、情報には限界がないから、
食べる食い1位の店でお魚を食べたとかだと、1位って毎回変わるから、
全部行かないと満足できない構造になっている。
全クリがないゲームみたいなことになってるんですよ。
Twitterとかって、分かんないけど、何ファボ化せるとか、トレンドになるとか。
議論のための議論が、これあれやな、退屈はしてるんだな、
暇なくても退屈してて、刺激が欲しくって、
人と喧嘩みたいなことをした。
時間に余裕がない人でもすごく騒ぎするしね。
時間に余裕がないけど、退屈だからっていうのがあるからね。
やりたいことできないっていうか、何もしなくてもいいと思ってないっていうか。
とにかく自分がどうありたいかみたいなのが見つかってないから、
なんとなくイライラするんだろうね。
損なわれた感じがあるんでしょうね。
ウサギ狩りをしてる人にウサギだけ与えても喜ばれないみたいな話があってて、
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彼らがしたいのはウサ晴らしだって、
傷つかないインターネットが欲しいわけだから、
傷つかないインターネットが欲しいわけではない。
傷つくために傷ついている。
当人と同じ暇でも違う暇の場合もある。
その当人の暇と周りの農民の暇と漁師の暇が違うだろうし、
余裕を価値のあるものみたいなだけでもない感じ。
その本、私全然読んでないから今の話だけであれなんですけど、
いろんな事例を出して、その状況を分析して、
作者はこれはこう、これは危険だよねみたいな感じを言いつつ、
どうですかみたいな感じ。
それとも今の人たち、過去の例とかを出して。
いろんな哲学者が暇を語ってきたけど、哲学者の中でも、
いろいろ踏まえて、異常を踏まえて、
みんな、これが僕の思う真の暇だと思う。
で、みんな暇になれたらいいねみたいなことで締めてる。
やっぱり今基本的に忙しい現代だからこその、
その人の暇っていうものの価値を低減するみたいな、
まとめてっていう感じだったからね。
なんかその、貴族は暇があって勝ち長そうに見えるのは、
文化的な繋がりがあったりとか、教養があるから。
成金にはそれがないみたいなこと。
それを身に付けてこなかった成金はそれがない。
で、労働者も近代になっていない。
近代になっていないと良く分からない。
だからやはり難しい。
こう自分たちで見つけていかなきゃいけないよねみたいな。
教養身につけるでも良し。
何もしないでも良いんだって思い込むでも良し。
思い込むっていう。
なかなか簡単そうで難しいですね。
俺、2位とは才能がある、ある人間ができること。
部屋の中でじっとしてはならないです。
仕事がどんだけ辛くて、もう働きたくないです。
辞めても、1年ぐらいそろそろ働かなきゃなとか言って働き始める。
二度と働きたくないですって去年は言ってた。
1年ぐらい働くとみんな何かしなきゃってなるんですよ。
別にそこから、前の仕事うつになっちゃったんですとか、
人生が取ったって良いんです。
それだけじゃやっぱり退屈だから。
難しいですね。
社会に接続していたいっていう、
本能的要求がやっぱりあるんです。
それが欠損していることが、
GOOTの才能なんですね。
別に誰も俺を見つけてくれない。
俺は俺でいられるみたいな。
これしてれば楽しいみたいな。
そう考えると、
どっちがいいっていう問題でもなく、
その人が生きるためには、
暇を必要とする人もいる。
暇が耐えられない人もいるんでしょうね。
どっちがいいかという話は、
決してないと思うんですよ。
でも、自分がどっちか分からないっていうのは、
結構生きづらいのかなっていうのは思いますね。
暇を持て余すことを豊かだと感じられるか、
暇がたくさんあると退屈だって感じてしまう立ちなのか、
それが分からないまま、
バリバリ働いたり、
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飲弁になられて暮らしたりすると、
やっぱりきつくなっちゃうのかなっていう。
だからそれを考える時間は、
一旦どっかで暇にならないとダメだと思うんですよ。
暇の時間が人生のどっか。
若い頃見つけられたらそれで、
モナトリアムとかってそういう時間だと思うんですけど、
そこで身につけられなかったら、
身につけられないまま社会に出てしまったら、
それはそれでどっかで見つけられるといいね、
みたいな話だと思うんですけど。
そういう、僕作家とかでも、
あのモナトリアムな時代が、
今思えば、
自分にとって貴重なあれだったとかって、
よく聞きますもんね。
森見とりみひことか、
ずっと大学生の話をしてますね。
兄弟よほど楽しかったんだな、みたいなね。
なんか全く話違うのかもしれないですけど、
ネットで戦前の写真がたくさんアップされてるのを、
たまたま見て、
子供たちがすごいにかって笑ってて、
大人が結構いぶかしそうな顔して、
カメラを見てる人とか多いんですよ。
疑いの目で。
よく戦前とか貧しい時代は、
まだ今みたい、今ほど殺伐して、
なんか真心があって、
みんなあれだ、みたいな話あるじゃないですか。
それを写真見たら、
なんか全然今と同じだなと思って。
だけれど、
じゃあなんで子供がいつもにこって笑ってて、
大人はちょっと疑いというか、
見返しがあるのかなと思ったら、
子供はにこって笑って、
愛されないと生きていけないような存在じゃないですか。
でも大人は警戒心がないと、
逆に生きていけない世界に生きてる。
そう考えると、
全部行動とかが、
その人がその状況で生きていくために、
しているもので、
なんかそういうくったこのない笑顔がいいんだとか、
こういう生き方がいいんだとかではなく、
常にその状況で、
その人が生存のためにしている行動、
現れたのかなとかってちょっと思ったら、
その暇っていうのも、
現代そういう状況にあって、
そういう今の状況において、
そういう感覚を持った人にとっては、
それが必要で、
そういうことができるけれど、
ある一方、
それができない状況で、
それができない感覚とか脳の人にとっては、
暇がつらいで、
とにかく物を欲しがって、
働いて、
むしろその人にとっては、
それが全体のその脳、
一人一人っていうよりも、
全体の中で置かれた状況において、
とっている個々の、
ただの生存のための生き方で、
生き方でみたいな、
動物とかもそうかなと思って、
猿とか魚とか見てても、
個々がどうこうっていうよりも、
その種が、
そこの環境の周りのいろんな環境の中で、
生きていくためには、
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そういう行動を持って、
そういうことで、
何個かその種が、
個々が生きているというだけで、
実は何か、
そんなにそれに対して意味がある、
人間の動向とか哲学とかも、
もちろんその本の中では、
辻褄があって、
そうだなって納得するものがあるけれど、
全体の大きく見た場合、
何か、
ただただ生きて、
生きるために、
やっているような気も、
しない、
言えない。
そうですね、
生存戦略として、
自分の子より、
何かその、
自分の子を何か、
殺すことが、
群れの大河の一滴というか、
軍隊の中の一部として、
生きていくことの方が、
何かその、
結局は自分が生きながら、
あるいは悩まないで生きれる、
みたいな、
判断をしてもいいと思うんです。
僕はアリぽかで、
働かないアリが何回、
何割かいて、
でも実はその大きなアリの群れの中では、
生きていけない群れが、
必要なピースである、
みたいな感じで見つかる。
だからその人間も、
そういう人がたくさん、
多数派で、
ごく一部の人がそうだとしても、
何かあった時に、
ごく一部の人も全体の中では、
役割として来る。
でも何もなければ役割が全然、
役を立っていないけれど、
どうやってやるのかな、
津波で、
小学校に、
小学校に行ったけど、
先生の言うこと聞かないで、
勝手に自分の意思で、
山へ逃げ返った、
小数派が生き延びた、
みたいな、
なんかそういう感じで、
行動とか、
異端者とかも、
群れの中で、
サラリーマンが絶滅して、
ニートが働き出すから、
俺は荒いシート持ってますけどね。
でも何かの時に、
絶滅するのが、
みんながみんなに、
逆らわずに、
逆らわない人が、
多数派だったら、
逆に、
小数派の極小層の人は、
必ず外れた行動を取る。
そうですね。
もしかしたら、
そういうクライシスみたいなものに、
狼が来た時に、
みたいな話じゃなくて、
もう今来てる、
みたいなことなんじゃないですか。
生存戦略として、
僕は別に、
働き合いで良かったと。
でも、
そうしてるだけでは、
取り戻されていく人たちが、
出てくるような時代になってしまったと。
何も考えずに真面目に働いて、
それで、
生涯年収2億を稼げない人がいると。
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ていうか、多いと。
なった時に、
自分の人生は何のために使うべきか、
みたいなのを、
考えなくても、
幸せに、
少なくとも懐は温かい、
みたいな時代じゃなくなったから、
こういう本が出てきたのかな。
そうですよね。
ここで言う働きありと働かないありが、
この8割2割が、
そういうのを考える時間のある人と、
ない人だったとして、
そろそろ考えないとまずいぞ、
みたいな。
働きありも働いてないありも、
いろいろ変わってんぞ、
みたいなのに気づいた方がいいんじゃないかな、
みたいな時期。
だからこそ、
この本が売れて、
俺みたいな本を読まない人間の手元にも来てるのかな、
と思いました。
働かないありとして、
今、働かないありというか、
考えるあり。
考えるありですよね。
考えてばかりいるあり。
が、
求められている時期なんじゃないですか。
整列して丘にいた人たちに、
何言ったってしょうがないんだから、
しょうがないとは言わないけど、
急に変われないんだから、
ひまわりの出番なんだぞ、
っていうことなんじゃないんですかね、
知らんけど。
暇な人間が、
なんかどうこう。
水木しげるさんも言ってたよね。
水木しげるがね。
何が言ってたんですかね。
働いたら負けだって。
働いたらもう不幸せになるって。
自分はなんか泣きすぎて、
レーサーに呼ばれて、
どんどん不幸になっていって、
みんなそういう人を早死にしたけど、
自分はある時期、
レーサーを辞めた。
ここから急になんか幸せになって。
あの人はゆるいですよね。
手塚も石上も60歳で死んだけど、
俺は90まで生きてる。
なぜかいっぱい寝たからだって。
寝れやいっぱい漫画描けるんだよ、
みたいなこと言ってて、いいなって。
太く短くが幸せか、
細く高くとかって、
それでも分からないですよね。
どっちが幸せって。
でもそれもきっと、
ここにもなんか、
もともとの戦術とかもあるかもしれない。
あるかもしれない。
ここによっても違うし、
そのここを切り取っても、
時期によって違うだろうから、
今自分がどこにいるのか、
みたいなのを見とく目、
みたいなのは、期待と自信ないのかな。
カメが幸せか、
ウサギが幸せかなんて分からないですからね。
キリギースが不幸だったのか、
それもまたおかしい。
一瞬でもみんなに音楽を聴かせて、
それはそれで、
価値は絶対あっただろうし。
キリギースの演奏を
タダで聴くのはありと思う、
みたいな気持ちがありますね。
フリーライダーのあいつらなんですよ。
自分たちが余裕があるときに、
タダで演奏を聴いてるんだから、
冬場、飯食わせてくれるぐらいやれよって。
全然ね、
キリギースのほう、
キリギースは、
キリギースという種に生まれたら、
定めだったかもしれないけれど、
でもまあ、
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キリギースというのは、
自分たちが大人にしたものだから、
それがあっても、
それでも、
その音楽を、
それが、
その、
その、
その、
その、
その、
その、
その、
その、
その、