キセキの石と歯ブラシ
藤原です。 松崎です。 中村です。
というわけで、空地的ジンブン学なんですけれども、最近ですね、うちの学校で有識事態というか、俺にとっては放っておけない問題が一つあって、
1年生に入った時から、中庭にキセキの石って名前らしいんですけど、モニュメントがあるんですね。
真ん中にベンチが、食堂前にベンチがあって、その前に木があって、その下にあるんですけど、
緑の台の上に、白い石、歯に見えるとはよく言われるんですが、白い石が置かれているというモニュメントで、
それは結構うちの学校のシンボル的じゃないですか。あれがいつどういう流れで、誰の作品でとか全く知らないんですけど、
キセキの石って名前なのも知ってるんですが、そういうのが1年間ありまして、撮影の時にモニュメントだからどかせないよとか、
芸術だからっていうふうな話もあったんですが、それに最近歯ブラシが置かれるっていう結構大きな出来事がありましたね。
日経中話題になりましたね。 どうなの?日経中話題になってるの?
まあでもツイッターで話題ですよ。 これは別問題なんですが、ツイッターが社会だと思いつききないか若者問題ってあるよね。
ツイッターでも前にSNSの向き合い方って書いてしゃべりましたけど、
1万リツイート行けば民意だと思うなよって思ってたんだよ。 そこは難しい。
ツイッターで話題で1万リツイートとかのワイドショーが取り上げて民意みたいにしてるのは普通に意味わかんないから。
メディアがツイッターの社会だと思ってるよな。 あと同時に、最近の一種、批評家とかはクラスターがあるじゃん。
だいたいみんなネットとかで繋がってたりするから、意外と同時にそういう批評家の方がツイッターのことを問題意識の根底にあったりするっていうのがややこしい話だよね。
でもそれはそれでフィルターバブルも多少起きてるわけですよ。
まあその話は置いといて、でその歯磨き、歯ブラシが置かれてその奇跡の石を歯ブラシとして捉えるっていう。
それを教授がこういうのができるから日比谷は面白いとか言っててね、俺は本当に何もかもが信じられなくなるっていう。
アカデミーに対する不信感がね、私は芸術を得る大学としての不信感がすごく募ったんですが、
まあ今日はなんかその、俺は自分の中でやっちゃったなっていうので、一回歯ブラシをぶん投げるっていう。
やってましたね。それはツイッターでニュースにはならなかったね。
こっそり戻されて固定されてたもんね。
うん、こっそり戻されてセロテーブルで止められてました。
2本になったらしい。俺歯ブラシぶん投げたんですけど、苛立ってる。
あれが悪口っぽくなるけど批評だもんな。
あれが良いとされるのってなんかあれだよな、あの赤ちゃんの絵画、子供の絵画がいいみたいな話だよな。
ちょっとわかる?言いたいこと。
いや違うよ。この話はね、意外と難しい話がわかるんだよな。
俺藤浦側どこがいいんだよ、この話は。
批評の役割と冷笑系の話
一種さ、モニュメントっていう権威性に対する折れたなってことも捉えられるわけじゃん。
歯ブラシをぶん投げる。
だからさ、それさ、ダダイズムでさ、1930年代だっけ?
ベルギーとかだっけ?
すべてがさ、既存の芸術家に対する反抗としてさ、ポリス・タンタラドが有名な詩人だけどさ、
やったのはさ、もうひたすら汚いワードを道歩いてる上品なおばさんたちの前で言い続けるとか、
まあさ、それが良いことかわかんないけどさ、少なくとも芸術の歴史には一種そういう面があってさ、
一種そういう権威に対するオルタナティブを提示してってさ、
価値観を揺らすみたいな意味ではさ、
そういう意味で捉えたら悪くはないんじゃないかっていう気もしてきたんだよね。
確かに俺もそう言われてみると、歯ブラシを置いて、その奇跡の石っていうモニュメントを、
まああれは一種大学科研院として扱ってるじゃん。
あれに対するオルタナティブとしてそれを和愛称化したりとか、まあミーム化したりとか、
ミームじゃん。だってあれを歯って言ってるのは。
二次元の中のミームなんで、そういうミーム化と捉えるっていう意味では確かに面白いかもしれない。
そういう批評性もなくはないんだよ。
でもさ、その、ごめん、苦情の話を繰り返しちゃうけど、それがすごいとされている理由はそこじゃないじゃん。
学校で。
いやそうなのかな。俺はなんか教授本みたいな、そういう文脈な気がしてきちゃった。
そういうこと?
そういうこともあるんだと思うんだけど、
でもね、この今ちょっと裏テーマも言っちゃうけどさ、
これ批評が敗北しつつある世の中でちゃんと批評っていうものをさ、
ねだやさないようにしようっていうのも一個あるじゃないですか。
最近さ、その知ってる?Twitterでライターの人が喋ってたじゃないですか。
BTSの批評があったじゃないですか。
知らない。
あったんだけど、BTSの批評を書いてるとファンダムから、これどういうソースがあるんですかとか、
あと本当にファン、公式の許可取ってるんですかとか、
そういうバックラッシュとか、そういう批判とか、
そういうトンチンカンなことばっかり来るから、書きたいけどやめたみたいなこと言ってた。
あー見た見た見た。
それに対してこの、シーナリンゴールを書いたときに、
シーナリンゴールに許可取ってるんですかって言われてアゼンとしたみたいなツイートを見ました。
だからさ、ファンコミュニティっていうのが一瞬押しとかさ、
これは別に俺が言ってることじゃなくてもっとさ、みんな言ってることだから。
前提としてやります。
で、その上でさ、だからさ、何かさ、批判みたいなのがさ、
単純に好きなものに対する悪口みたいなのがさ、入れかかってたりしてさ。
何かを論じることと悪口が一緒になってる。
そう、だからさ、批評っていうものがさ、そういうすごい真実さがあるよね、かもしれない。
特にそのさ、なんかアカデミーによって担保されてない部分っていうのがBTSの批評とか、絶対。
そうそうそうそう。
そこがなんか弱くなってるよね。
そう。サブカルチャー批評とかってさ、
世の中で流行っててみんながそういう批評的に捉えないものが、
実は一種今の社会をさ、何かをさ、描いてる風に読めるよねっていう。
それが描いてるんじゃなくて、
その批評家という個人が、自分の中でいろんな現代思想とかのとか、それこそ日々の実感とかさ、
いろんなことの通して出力したものが批評であって、
作品そのものをちゃんと読み解いてるかどうか別として、そこにちゃんと思想があるわけじゃん。
っていうことがなんか忘れられてるなっていうのがあって、
あとさ、これもツイッターとかの話になっちゃってさ、
カルチャーのそういう話ってちょっと、ツイッターの中からライターが出てきたりしてさ、
そういうとこ切り離しづらいけどさ、
フォロワーが多くてイニスが多いさ、霊嬢系のカルチャーアカウントってあるじゃん。
霊嬢系。
それこそ何かこう、何だろうね、金子屋の聴いてる人を揶揄するとか。
あー。
あるね、音楽系のカルチャー。
音楽だと、金子屋の信仰する人もいれば、金子屋の聴いてる人をバカにする人もいれば、
あれは最近のね、流行りのJ-POPとかね、それはありますね。
俺この前見たのが何だっけな、今なんかツイッターの音楽ラスターでさ、
なんか、ギターロック話題になってて、
おー。
すげー話だな。
ギターロックはこうだ、ああだ、みたいなことを勝手に定義してる奴らばっかりのウッドロックみたいなのがあるじゃん。
そういう奴らばっかりのウッドロックを受けるみたいなツイートがあって。
俺こういう冷笑系がね、やっぱね、批評殺しているなと思うんだよね。
うんうんうんうんうん。
分かる、めっちゃ分かる。
評論家だけがそういうことをすればいいわけじゃないですか。
各々が何かちょっとしたスタイルのことさえして、ちゃんと考えるっていうことが大事なわけじゃん。
そうだよね。なんならカルチャーを接種している人が各々の文脈で各々の語り口があることでカルチャーを発展してるわけですしね。
だからそれぞれの思想みたいなのが冷笑系のそういうものによって勝手に統一されちゃうじゃん。
そこでも育たなくなっちゃう。全部全てが。
そうそう。だからいろいろそれぞれの定義があって、定義することって一種大事なわけじゃん。
ジャンル分けってさ、作家自体がジャンル分けするんじゃなくて、聴いてる人が思想的な意味でジャンル分けしたりするじゃん。
そこに対していちいち冷笑していくっていうのは、なんかすごい批評が進んでいく世の中の一種の象徴的なツイートだなと思ったのよ。
だからさ、この話していいのか分かんないけどさ、マッチャンがさ前シューゲイザーブック回答の話したじゃん。
あれもあれでもアリなんだよね普通に。だからそう、シューゲイザーじゃないと言われているバンドが、シューゲイザーじゃないと言っているバンドをシューゲイザーと分類していいんだよな。
それが批評の役割なわけじゃん。
それでどういう一種、そういうふうに社会っていうものを分析っていうのか、それではシューゲイザーとはってなるから、論じていくか、語っていくかっていうことなのに、
っていうのがあって、そういう意味でだからもっと個人がそういう話をしていくことが悪口になって批評なんだよっていうのを言っていたいんだけど、
で、話に戻るけど、
歯ね、モニュメントね。
モニュメントの歯はつまらないよね、単純に。
作品自体が?
歯に、歯ブラシを置くという行為がつまらない。
なんかね、もっとひっくり返すとかが面白い。
なるほどね。
なんだろうね、なんかね、多分ここをどう論理的に喋るかっていうことが批評になっていくんだよね。
だからこの俺は、それ一種最適的だから、すごい芸術の流れに乗っ取っている。
割と正しい行為ではあると思うんだよ、歯ブラシを置くこと自体に関しては。
でも俺は何か釈然としてないんだよね、歯ブラシに関して。
いや、俺が釈然としてないのは、そういう文脈としてこう、
賄賞化とかミーム化とかっていうのにも感じられないんだよ。
うん、そうだね。
単純でいたずらとして、例えば日芸においてはたぶんひっくり返すとかも一個のムーブだけど、
ひっくり返したらいたずらだと思われると思うよ、大学は。
っていうので大学に対する不信感がある。
っていうのはあるな。
いや、これさっきちょっと話したけど、子供の絵がいいって話と近いと思うね、あれ。普通に。
だからそのさ、いたずら的なさ、割と言い方悪いけどさ、幼稚な理由で置いたとするじゃん。
で、それが認められてすごいってなるっていうのは、
その、純粋な心、自我が芽生える前に描いた絵がいいみたいな話と同じじゃね、結局。
その、世界に対してどう考えるべきかってとこまで言ってないのに、それが評価されてて、
で、こっちが批評としてさ、それをさ、自分の文脈で考えるのはすごい良いことだけど、
それにしてはなんか強度が弱いよな。
その松崎が言った意味では批評性はあるけど、なんか思いとっては批評性がないように感じられるんだよね。
でさ、だからさ、これがさ単純に文句とか悪口にならないようにさ、
ちゃんと批評的っていうか、自分の文脈で喋るとさ、
やっぱりこれはさ、俺がこの次のアキシが一応快楽の時代文革の復権と言ってさ、
ニヒリズムと人間復興
振ってしまえば人間というものがニヒリズムにどんどん向かいつつあるんじゃないかっていうことにおいて、
俺は最近思うんだけど、何かを快楽するっていうことが無意味なんじゃないかっていうか、
なんかそこがなんかこう表現とかですごいこう、少なくとも何かポジティブな表現ではないよなっていうのが最近の俺は思う。
なんかね、それは例えばネットミームとかに対しても思うけど、
なんか、一種そういう全てを無意味にどんどんこう、無意味化していくみたいな。
意味が無くないものだとしてこう、そこで戯れていくみたいなことに対する嫌悪感がある。
だからね、何回も言ってるけど、つまり人間復興しないといけないと思う。今の文化は。
もっとさ、少なくともこの世が生きるに値するってさ、アジカンドゴッチが言うけどさ、
そういうことをさ、だからアジカンドゴッチ風に言えば何度でもオールライトと叫ばないといけない時期が来てる気がする。
これが何でかっていうことをもうちょっと解像度詳しくしゃべればもうちょっといいんだけどさ、
でもなんかこう、そういう意味のなさみたいなのを開き直って受け入れるっていうのは、なんか幼稚なのっていうのが最近の俺のカルチャーの流れとして思う。
そうだね。
だからポストモダニズムの受け入れ方が問題だよな。
ポストモダニズムって結局今さ、ロマンチストの考え方になってるわけじゃん。
リアルからかけ叶えたとこにあるものだから、そこにどうやって自分の世界を適応させていくかってなると、
なんかやっぱり距離を置いてこの冷床に行くっていうのは、まあわかるよね、その世界に対しての接し方として。
それに対して俺もあんまりそれ好きじゃないんだけどさ、もっと感情的な話になっちゃいそうだわ。
結構でもそういうとこあるよね。ここは別に俺感情的な話になってもいいとこだと思うけど。
普通にアートとか文学が現実へのレジスタンスであるべきだと思ってるから、不条理の。
ハンブラージュを置くという行為の先がないんだよね。それをただ解脱して萌実化したところで何も解決しないんだよ。
あれ普通に置いた人がステートメント出してたら話変わってる。
だからステートメントを出してほしいね。
ステートメント欲しいかもしれない。
あれ結構ね。だからそういうところが、さっきから俺が話してるところ。
なんか話戻るんだけどさ、詩の授業とかさ、自分のゼミとかで詩を見るとさ、
いわゆるさ、みんなが見ていいと思う詩の結構高い割合としてさ、自動文学的な詩、かねこみすず的な詩っていうのがあるんだよ。
かねこみすず的な詩っていうのは、実論とかそういう詩とは違って、戦後詩とは。
手を触れにくいのよ、ところがあって。
それはなんか、なんだろうな、自我がない状態で言葉を連ねてるから、そういう状態を強制的に作家も作るから、
批評とかがすげーやりにくいよね、自動文学っていうのは。
だからなんだ、それをやるということは、だからそれに自ら乗らないということなんだよ。
だからそういうこと、ステートメントを出さないということは、
あれも自動文学的なとこあると思う。
世界を変えることに手台がないというか、わかる?歯ブラシを置くことに。
ステートメント出すのとだいぶ違うじゃん、そこは。
責任感がないかも、歯ブラシを置くということは。
それがいいとされるのは、多分間違ってると思う。
あれ批評としてやってるならね。
批評としてやってないなら、悪質な悪戯だと思うし。
いやーでもあれは日芸の雰囲気を見てるだけで、そういった人に話を聞いたわけでもないですが、
ただの悪質な悪戯には感じるんだよ。
だからあれ、俺の答えとしては普通に許されざるべきだと思う。
あれをこっちで自己解釈して認めてはいけないと思う。
あれはやっぱ奇跡の石っていうモニュメントを無意味化した行為だと。
だから松崎猫ってめっちゃわかるな。
ただ我々がその歯みたいだって言ってたじゃん。
俺も言ってましたよ。
いつから歯医者になったんだ、うちの学校はとか言ってたんだけど。
それを言うことと、歯ブラシを置くことは全く違くて。
歯ブラシを置くことで、あの奇跡の石っていうモニュメントに対する、
あるいは一つの作品っていう芸術に対するリスペクトの無さっていうのはすごく感じました。
だからその開脚とかに近いけどさ、世界に対して自分がどう接するかって話じゃん。
世界が自分どの場所にあってってさ、
なんかあれ見るとさ、なんかすげー話飛躍しちゃうかもしれないけどさ、
そのさっきも話したけど、世界がさ、なんだろうな、
自分の外脈そのままなんで他者がいないんだよね。
わかるかな。
変えることに手代がないんだから、他者を変えてしまうことに。
確かにね。
そうそう。
芸術と批評
まあ大学の。
俺の文脈でめちゃくちゃ話してる。
大学のさ、あんなに人数がいる大学でさ、
そのね、みんなが見る中庭のモニュメントに何かをするっていうのは。
で、そう、それでなんだろう、そうだね。
他者がいない。
で、責任も取る。
そう、子供は責任取りませんから。
だからすごく匿名性のある行為だしね。
そう、だからそういう意味で幼稚だな。
形式が幼稚だなと思う。
匿名である言葉っていうのはあるかもね。
うん。
やっぱりステートメント出すか出さないかで話が変わってくると思うな。
そんなん誰がやったかってことを明記する。
そうそう。
あれやっぱり責任を引き受けないっていうのがやっぱりその不信感がある。
自分の中で。
っていうところかな。
そうね。
もうちょっとだからさ。
やっぱ点だからってのもあると思う。
点?
それがもっと大学内でいろんなことに発展していったりして。
つながり、つながっていったらいいんだ。
活動と行動としてあったらいいんだ。
うん、それがないからね。
あとね、ゴダールはなんでおもろいのかっていう。
それなんでそれ以外のなんか、例えばロシアワンギャルドとかの実験映画が今見てつまんねえのかっていう話もあってさ。
結局ゴダールの映画ってさ、一種映画の既存の文法を破壊してるわけじゃん。
そうだね。
一種ゴダールっていうのはさ、つまんない作品もあるわけよ。
あるね。
それもさ、破壊しすぎてるんだよ。
破壊した結果残ってるのが興味だけだから。
でも例えばさ、ゴダールがさ、分かりやすい例でさ、これ俺が言って欲しいのはないけどさ、言われてるのはさ、カットバックするときに聞いてる方の顔を撮るとかさ、これってさ、破壊だけどさ、そうすることでさ、俺だなっていうのは何かが見えるじゃん。
てか、その聞いてる人の表情を撮るっていうのは、それはゴダール以降の映画のカットバックにおいては最も重要とされてるんだよね。
その会話においてどっちが大事なのかっていうのは、ゴダール以降では話を聞いてる人の表情を撮ったりする。
例えば別れ話をしている。
別れ話をしてるとき別れ話をする人を撮るのか、それを聞いてる男の話し合う女の表情を撮るのかっていうのは作家にとって最も重要な話になった。
ゴダール以降ではね。
確かにそこめっちゃ気使ってるかもね、映画って。
そうですよ。我々もカットバックする上で大事なことですから。
全然話違うと思うけど、タルフォグスキーとか見ててめっちゃ面白い。
例えばゴダールのあらゆる破壊する手法がさ、面白いゴダールの中で見てて面白い、名作と呼んでる映画においてはさ、ちゃんと機能してるわけじゃん。物語の面白さとかカタルシスとか、描こうとしてることに関して。
それあくまでもさ、言ってることがもちろん踏み入れるようになってきちゃう。
でも破壊の先に残るんだよね。破壊が目的じゃなくて手段になっているように感じられるっていう時点で名作になっても面白い。
その先までを描ききれてるんだよ。
そうだね。ゴダールの破壊がね。
だからさ。
まあ確かにゴダールの破壊がちゃんと目的があるのってゴダールの商業映画とかじゃん。
ゴダールの商業映画じゃない映画は破壊だけなんだよね。結構。
だからゴダールの商業映画ってやっぱ面白い映画だよね。
いずしも単純にさ、ロマンスがあってさ、ドラマがあってさ、っていうことがあるわけじゃん。
ときめきとかさ、環境とかによって壊せないものがあったときに。
だからさ、なんだろうな、あとあれだよね、ルネマグリットのさ、ペンの絵描いてこれはペンではないっていうのさ、
それは何かこう、思考のさ、転換、切り替えるスイッチとしては有用だけどさ、それ以下でもそれ以上でもないんだよ。
それがなんか、なんだろうね、すっごい、それは大事なことの始まりではある。
だから歯ブラシを置くということも何か始まりではあるかもしれないけど、
責任と意味
その先に何かが続かないと、それは結局ニヒリズムに一歩進んでることになると思う。
あの行為自体をニヒリズムとして受け止められてもおかしくはないし、
それがニヒリズムを蔓延させることに繋がるかもしれないよね。
そして俺は、俺という個人の思想として、ニヒリズムから逃げないといけないのも今の時代。
人間というのは簡単に、今ニヒリズムで走りやすいし、だから何回も言ってるけど、
この好調子を持たなくても生きていける時代になってしまってるじゃん。
そういう中でさ、どんどん不誠実なことが広がり続ける中で、確かに芸術はそれに加担していいのかと。
だから一瞬歯ブラシを置くことは、そういう芸術の流れ的に見たら正当な行為かもしれないけど、
今の時代でそれを選択するっていうことは、すごい良くないことなんじゃないかっていう風に俺は思う。
だからさ、もしこれを本人が聞いていたとしたらさ、これは悪口だと思わないで欲しいし、
これは論争なんだよ。そうため、論争ため。
ちゃんとなんか、うわぁ、松崎なんか俺のことなんか文句言ってんなじゃなくて、
ちゃんと対等に対話することが大事だと思う。
今我々が話していることが、まあちょくちょくポッドキャストでしゃべるような大学への悪口とか、
大学腐ってんなみたいな、そういう話だと受け止められたら、それは批評が死んでることになるよね。
だからこれは批評なんだよ。
一つの。で、それは、ちゃんと嫌なことじゃなくて、自分の思想に立った上で、
なんでこれが良くないと思うのかってことをこっちは誠実に喋ってるから、
もしこれが悪口だとか、なんか言ってたぜみたいになったら、それは批評の解剖だよね。
だからその分ね、責任引き受けていくってことだよね。僕が。
だから松崎は、まったく我々は今、あれを受け取った側としても責任をちゃんと果たしてるわけですからね。
確かにあれを匿名でやるって行為と、何らかのステートメントを出さないということ、
あれを歯ブラシを置くだけに留まっていることっていうのは、一個責任感がない。
これは悪口ではなくて、批評的な意味の批判だよ。
で、俺はあれが良いとされることにも問題があると思う。
やっぱりその周りの見てると。
それはその、良いと言ってる人間に責任感がない。
それはでも生徒の遊びとして見てる先生の意見なのか何なのかわからないんだけど、
キセキの石に対する考察
もうちょっとなんかなんだろう、
自分の歴史の中でちゃんと話すべきだと思うし、そこ放棄したら終わりな気がする。
悪口だけがおもろいよね、みたいな。
そうそうそう。
そういうふうに良いとされてるところがちょっとでもあるかもしれないから。
文化でチンコを出すのは面白いのとは違うんだよ。
そういうふうな面白さじゃなくて、
なんでおもろいのかってことまでちゃんと考えないといけない。
あれは芸術作品に対してやってる行為ですからね。
我々が廊下でなんか変なことやってると、
っていうのとは全然違う可能性ですからね。
あそこに歯ブラシを置くという行為は。
それ自体が何か影響っていうものをさ、
波を生み出してしまうわけじゃん。
そこに意味が存在してしまうんだよね。
だからそれを悪口だけ的な意味での面白さだけじゃ済まされない話だから。
そこに対してじゃあ、もし悪口だけ的な面白さでもいいんだよ。
でもなんでその面白さが支持されるべきなのかとか、
それでもちゃんと干渉者は考えないといけないと思う。
確かにそういう目線は、
我々やツイッターの反応ではあんまりないようには感じられたよね。
そうだね。
結局ね、あんなオープンな場所なのに悲しい感じだけどね、割と。
もうちょっと話されるべきだと思うけど、なんだろうね。
かなり大きな出来事だと思うよ。
普通にこれは日本大学芸術学部の姿勢が問われてると言ってもいいと思うよ。
そうだね。
そもそもあれがなんで置かれてるのかって、生徒の目とかでいいけど。
奇跡の石。
てかあれ、何?
でもさ、正直置いた本人と俺らの共通してるのはさ、
まずあれ何なんだよっていうのがあるよね。
そこは共通してる。
そこは分かるよ、俺も。
そこは俺も置いたことには大きな問題が伴うだけで、
あの歯何なんだよとは俺も思ってたよ。
あの歯何なんだよに対して行うアクションで、
あの歯を無意味化させるっていうことは、今の時代においては、
何か俺にとってあんまりポジティブなアクションじゃないなと思うって話だよね。
いや分かる分かる、俺は分かるよ。
あの歯何なんだよとは俺も思ってるよ。
だからさ、あの歯に対する説明も欲しいんだよな。
そう、あの歯が何なんだよ。
確かに歯ブラシを置いたことに対する責任も欲しい。
てかこの話はその前提が今忘れてたな俺ら。
あの歯何なのかっていうことが、
あの歯があそこに置かれるっていうことの文化的な意義とか、
そこが生み出した影響みたいなことに対して、
まず、あれは何なんだよっていう。
あれが何なのかまず大学説明してほしい。
ちょっとさ、これなんかさ、
一回さ、普通に大学当局に問い合わせてみる。
歯が何で歯ブラシを置くことをどう捉えてるのか。
当局に問い合わせてみますか、俺。
当局って言わないでくれますか?
あの、ヘルメット被りそう。
え?当局じゃないから。
まじで?
全部なんか当局だと思ってるよ。
大学のあれ。
そんな会議室でみんなで集まってみたいことないだろ。
なんかあいつら当局でしょ。
なんであいつら全員当局だよ。
ずっとお前の家なんだよ。
おもろかった。
松崎一日一回絶対面白いこと言うから。
すげえ褒め言葉。
いつも言わないで俺暴れると思う。
松崎って一日一回ホントに面白いこと言うよ。
それはさ、置いておいてさ。
だからさ、なんだろう。
どの立場が言ってんだって思う人もいるかもしれないけどさ。
どの立場が言ってんだよりいいんだと思ってる。
みんながみんなの立場で
ちゃんと物事を言っていけばいいんだと思う。
で、そこで何かずれが起きるなら
やっぱそこは
ちゃんと論争をするべきだと思う。
それがさ、前回藤原が言ってた
当事者意識みたいな話だよな。
自分の立場で何か考えなくちゃいけないっていうの。
そこ離れてもダメなんだよな。
離れることできないんだから結局。
そこで何か変な
謎の客観性を持って
そんたくしちゃいけないし
ちゃんと自分の視点から
どういうふうに世界が見えてるのかっていうのを
ちゃんとそれぞれが
けらいなく言ってくるのが大事だと思う。
松崎は文化の話で
文化の干渉者としての話だけど
俺はその社会の不条理に対しては思いますよ。
我々が
全員ぶっかたかに苦しんでいて
不条理と向き合う必要性
全員戦争と疫病に苦しんでいて
悲しいニュースがあってっていう
不条理に対して
我々がどうしていくのかっていうのは
我々自体も不条理は存在するわけで
病気とか
置かれた社会的状況とか
それに対してどう向き合っていくのかっていうのを
各自が各自で
ちゃんと話していくことが最も大事なんだ
と思うんだよ。それこそ
当事者意識の問題としては
震災文学でよく言われたんだよ。
震災文学でこの人が被災者じゃなかったら
どうしようっていう話があったとか
あと本当に
どこまで被災した人が
書けばいいのかとか
でも
東日本大震災っていうのは
俺の考えでは
各自がそれぞれの体験を得たと思うのよ
東京にいる僕も
かなりの体験を得ました。
でもそれは誰かと比べるものでもないんですよ
その体験を
各自がちゃんと語る必要がある
それが最も
風化ないしは
そういう意味でニヒリズムだよね
対抗する手段だと思う
俺が俺のことをちゃんと語る必要がある
とは思っている
俺の感じている社会に対する疑問とか
俺が叫んでいる事故をちゃんと語る必要がある
とは思っている
なんか
自分の話をするわけで
コロナの時って
高校生生活を送っていたわけだけど
自分と世界が急接近する感じがあったのがわかる
当事者として
そうだね
俺その時結構
世界になりたかったけど
そういう風になるじゃん
でも世界になれずに今生きている
というのが俺にとって重要なテーマで
海になれなかったというか
言葉として言えば
だから
そういう意味で
世界になれなかったものとして
世界について書く必要があるんだよね
それが多分
俺の統一意識だわ
ていうか
さっきキツネジョーで話したような内容になりますけど
俺が例えば
裕福な家に生まれて
わりかし知的エリートで
今裕福な家に生まれてるからこそ
芸術をやれていて
っていう意味で
何かを書けるような人間でもあるわけだし
っていう意味で
トムヨーク的ではないけれども
ポジショントークではない世界に対する
当事者意識がある
なんかこう
それは俺のせいでウクライナ戦争が起こったわけではないが
ウクライナ戦争が起こったことや
今
第三世界の苦しみに対する
当事者意識は持つべきだと思う
そのことについて
語っていくべきだと思う
それはだからちゃんと生活に対して責任を取るってことなんだよな
今我々が
我々が生きる同時代に対する責任ってことだよね
それは誰しもが
引き受けるべき責任であるから
引き受けるべきというか
そこを
芥川賞とか
今の文章は分かっているのかなとは思う
なんか
当事者意識という言葉が
俺もね社会における
精神科に入院したことで社会における弱者になった
試しがありますが
例えば俺がそれを書いたとして
精神科に入院した経験があるから
評価されたらそれは全く間違いない
それは消費だからね
そういう消費の仕方とか当事者意識の考え方
っていうのは全く間違いない
どんな作品も同時代性を
はらんでいるわけで
どんな作品をその同時代に対する向き合い方として
評価するかなんだよ文学っていうのは
文学っていうのは
いろんなやり方があって
だからこそ完璧な物語が必要だっていう
意見もあるし
でもそれも一緒の
現代に対するオルタナティブであるわけだから
そういう面が評価されなくなったら
終わりだと思いますよ文学は
結局だからさ
世界が自分をはらんでいて
自分がはらんでいるみたいな考え方になるんだよね
そういう相互関係にあるから
それこそ松崎の言ってる批評みたいな話かもしれない
文化に対して
それぞれがそれぞれの語り口で
語っていくことの重要性っていうのは
それは
俺は
ツイッターとかなんて
あんま見てないですし
批評とかっていう概念も
あんまり僕の中では勉強不足ないんですけど
社会の不条理に対してそれぞれの語り口があるべきだ
っていう
自分の語り口で
もちろんさ
今ハンチバックの作者を
批判してるわけじゃなくて
でも彼女は彼女なりに
自分の不条理と向き合って
ちゃんと書いたから評価されてるわけで
それがパッケージとして意識されて
当事者意識って言われるようになったら
終わりなわけだから
だからといって
そういう当事者意識がないと
ダメなのかってわけじゃなくて
だから我々はアクタカー賞取れないのかって
そう思うんじゃなくて
自分の不条理とちゃんと向き合う必要がある
ただ不条理を認識するきっかけにはなります
俺の経験から言って
病気っていうのは
でもだからといってそういうわけじゃなくて
生活者として日常に起こってる問題
ね
こうミスする日が1日足んねえとか
そういうとこに対してちゃんと向き合うべきだと
そういう意味でツイッターって怖いんだよな不条理が統一されちゃうから
わかる?言葉が固いから
そういう意味で批評の言葉って
柔らかくあるべきだからさ
なんか
そのツイッターで解約的なものが
こう受け入れてるのはなんとなくわかっちゃう
だからこそ
俺は文学はもっとコロナについて書く必要があると思います
わかる
結構最近の新人賞の作品はね
大抵のことがコロナのことをちゃんと書かれてますから
うん
あのー
ちゃんと結構目を澄ましてが良かったのと一緒だよね
うん
ちゃんとあの時代のことを書くべきだし
我々が当事者として
ちゃんとマスクをしてたあの時期について語る必要があると思う
うんうん
で今はそれ以降のことをちゃんと書く必要があると思うわけ
うん
だから
俺が
高校時代に
まぁ一種フィクションとして作るなら
話は別だけど
俺が高校時代
教学のことを書いたら嘘なのと一緒で
俺が高校生の教学の恋愛を書いたら嘘なのと一緒で
うん
その俺より2個下が君たちの世代
うん
高校時代のマスクなしで書くっていうのは完璧なフィクションとして
以外だったら嘘になっちゃうと思うんですよ
うんうん
それが直接的な形であることは別としてね
うんうん
これ一種姿勢の問題として
姿勢の問題として
俺やっぱフィクションを書く目で嘘を書きたくないってのがあるんだよ
やっぱりそんなそうだね
うん
それは最近のアクター合唱の話で
まぁ色々結構
ネット上でも脳争起きてましたけど
まぁそういう
結論に至ったかな
うん
個々人が個々人なりに
精一杯考えることが大事で
その結果何かに対して起きる
批判は悪口ではなくて
その人なりにね
文脈と資材があっても
立つもんだから
そこに対して何でもいいけど
するべきは批判
批判でもない何で
炎上させるのか
一対一の適切な論争
話し合いなんだって
そうだね
そういう意味で炎上っていうのに対抗していきたい
って思うし
これちょっと他人気本願だけど
大学と批判の風潮
大学って場所
芸術大学って場所はそういう環境をちゃんと作るべきではあるよね
大学において
それができてないっていうのは
何だろう
良くないところかもしれない
こんな
最近は論争を避ける不思議がありますね
ローバーみたいなのも流行ったし
本当にちゃんと何かを論じる
何かを考えるっていうものが
どんどん軽視されてるんじゃないかもしれない
それがだから新体制がなくなっていくみたいな
話にもつながってる
どんどん我々は何かを語ってる
情報共同体の中で落とし込められていって
何かを考えたり
何かに到着意識を持つこと
あるいは政治とかが
掃除討伐みたいにさ
誰かに任せた
誰に任せたらいいじゃん
個々人の責任と批評
してるわけだし
その中で我々は個人として
社会に生きる人間として
やってくる
文化に対して見ている人間として
何か責任感があるっていうのは
もちろんある
そういう意味で変えるかもしれない
これはね
悪口ではなくて批評である
ということで
終わりたいですね
我々は
もちろんそれにまつわる大学への不信感もあるけど
あの行為においては
あの行為を
悪口言ってるわけじゃない
そしてここさんにも全く同じ
意見ではない
それぞれの考えがあって今ここで喋ってる
松崎とヒロトと
セットで取られることあるな
俺も逆にあるよ
それはあると思う
共同体と個々人の関係
普段一緒にいるっていうのもあるけど
松崎の評価が下がれば
俺の評価も下がる
俺がやらかせば
お前らのあてつけが来るわけだよ
そういう意味では
共同体だけではあるけど
そこで恐れちゃだめだよな
こっちが
ちゃんと個々人で
それぞれの視察の違いもあるっていう
それを受け止めた上で我々喋ったんですかね
我々はそれぞれの
圧力を乗り越えて喋ってるわけです
そうですね
ということで
長くなりました
というわけでお疲れ様でした
お疲れ様でした