1. 空地的ジンブン学
  2. #17.5 [ゲスト]壹岐くんとTwit..
2023-08-24 41:19

#17.5 [ゲスト]壹岐くんとTwitter文化について考える。

初めてのゲストに同人・壹岐くんを迎えた二回目。

ネットミームの人たちは「実存」?/僕たちもネットミームになるかもしれない/コムドットの「地元ノリを世界へ」は私小説的/当たり前の表現を疑う/Twitter短歌(#tanka)について/Twitterに奥はない?/Twitterで良しとされていること/んぽちゃむ・おぱんちゅうさぎを読み解く

壹岐くんのXアカウントhttps://twitter.com/ikiyuutaro

サマリー

彼は、Twitter単価とハッシュタグ単価について話し、言葉の意味が独自のネットミームになりつつあることについて考察しています。また、彼はツイッターとネット的なカルチャーについて考え、ツイッターの表面的なアーキテクチャーと奥の内容の乖離について述べています。また、彼はツイッターの社会化されない部分やツイートにおける自己憐憫についても考えています。彼は、おぱんちゅううさぎとチーカーのキャラクターを通じて、不条理に対する熱と受け入れの姿勢についても言及しています。最後に、彼はツイッターについての考察とツイッターの影響について話し合っています。

言葉の意味の変化とネットミーム化
本当だからだは実存ですから。物事の理由が本当だからだになるのは実存でしょ。
そういう意味で、でも実存的ではあるよね。そもそもネットミームになる人っていうのがさ、何としまう人ってのはさ、実存だよね。
だから普通にさ、この意味合いが外れた、このグロテスクなものだよね。
社会化されていない人が何かによって映ってしまったから、あれはネットミームになってるんだよな。
でもさ、そのさ、意味合いが外れていった木としてのネットミームに対してさ、我々は応答してないわけで。
だから東大学部おじさんは笑えないんだよ、結構。見てて。
本当なの? 東大学部頭が悪いのか?
その人の叫びは本当なんだよ。 その人にとっては本当だからね。
そこを笑えないでいいんだよね。でもやっぱビッグウェーブは笑える。狙ってるから。
幸せならOKですもん。 幸せならOKですもんを狙ってるじゃん。
そういう意味で、バキバキ童貞ですもんを笑える。 バキバキ童貞ですは実存なんじゃないの?
バキバキ童貞ですもんは、そもそもあの時の時点でグンピ芸人でしょ。あれも狙ってるじゃん。
でもグンピはそういう人なんだよ、昔から。
あれはグンピにとっては実存なんだと思うよ。
だってグンピにとって童貞が実存じゃなかったら今YouTubeやってるよ。
説得力あるぞ。 だってグンピは実存がネットミームになってしまったことに対して問題提起して続けてるわけじゃん、YouTubeで。
でもやっぱバキバキ童貞ですってワードセンスによるミーム化じゃないの?
だからグンピは実存を解決してるのかもしれない。
そういう意味だとオールウェイズ語学的に高いジローは実存なんだよ。
あれは実存だよ。
ネットミームと実存の関係
だって食えなかったんだもん。 食べたくてたまらないジローが来たらさ。
破壊されてしまって。 食えなくてインタビュー求められて答えてるの。
だからそのジローを食うという行為自体が実存だから。
それはずっとずれてくるかもしれない。 それはお前の趣味やん。
俺にとっての実存じゃないかい、ジローが。
なんで実存トークから始めてんの。
ネットミームを言うと普通に風光の話になってくるわけじゃん。
異常の排斥の話になってこない。 炎上もそうだけど。
それをさ、我々もネットミームが足りるわけで。
それを我々に無視することだ。
振り返り日記になるってよく言うけどね。
振り返り日記になることもそうだし、
一回り日記になるの説明しなくても大丈夫だもん。
俺らが街中でイベントが起きたときに
ふと振り返ったらそれが動画で撮られてて
振り返り日記になる可能性は十分にある。
俺はやっぱりDUER1700が結局
手前の野球部の高校生に焦点が当たったっていうことが
面白い3割で怖い7割だよ。
うんうん、わかる。
最近このね、この前コードケースで喋ったけど
ライブカメラとか話したことあるし。
あのね、この前ね、どっかね、どっか行ったんだよ。
タルコだったかな?階段でさ、
女子高生2人がTikTok撮っててさ、
俺、何してるんだと思って見ちゃったらさ、
2人の真ん中のカメラがこう見えてさ、
2人の、振り返ったら俺が映っちゃって。
振り返り日記になる。
やばい、これアップロードされたら俺、
見むるぞ、と思って。
でもさ、でも本当に我々がさ、
ちゃんと注視すべきはさ、
振り返り日記になることなくて、
ドア1700日記になることなんだよ。
俺らの中にもドア1700があるわけで、
そこを俺らが勝手に社会化してるわけで、
そこにちゃんと向き合わない限り
ダメなんだと思うよ。
Twitter単価の象徴としてのハッシュタグ単価
遠い話だね、これ。
というわけで、こちらです。
松澤です。
中村です。
というわけで、
アキセキ人文学をやってるわけなんですけども、
今日はまたスペシャルゲスト、
息井隆一さんまた。
1回入れると4エピソード連続で息君。
そう。これ含めて3回か。
そうだね。
コムドット的に言うと、
今日は何?
今日は何?
コムドットね。
コムドット話はごめん。
いいや。
マジ?
余談が長いね。
マジ?
コムドットってすごくない?
何か?
地元の理由を世界で見る。
確かに。
YouTubeの最大の理由だよね。
YouTubeってでもそうだよね。
地元の理由を世界へだよね。
なんか、自分ちんの庭で飼ってる犬とかのものが一番最高だよね。
でもさ、詩小説みたいなもんじゃないの?
地元を地元として追求していくと世界に届くっていう。
そうか。
そうしない?
だって西村健太とかそうだよね。
まあそうか。
その地元の地元としての追求が、
それぞれにとっての、リスナーにとっての地元になり、
ってことでしょ?
そういう意味じゃさ、
最近YouTubeとかって原文一致しちゃってるんだよね。
明治の作家が自分たちの書きたいことをちゃんと書けるように原文を一致させたわけじゃなくて、
田舎で閉めるからね。
田山家族が。
むしろさ、
今やYouTubeって自然に最初から原文一致してしまってるんだよ。
でもSNSとかって全部そうじゃん。
自分の言いたいことの場に文法があるってこと?
文法と言いたいことが逆転してる気がする。
そこに対する困難がなくなる。
言い表せないってことに対する困難がなくなる。
でも言い表せることしか言ってないのかもしれないしね、YouTubeとか。
なんなら広告収入とかの段階で言い表せることをいかに面白くやるか。
言い表せることの範疇しかやんないよね。
だから俺に最近自分が書く小説は原文を不一致させてくるわけだと思ってる。
むしろ。
自分が思ったことを書いてるときに、書いてしまうのが結局レトリック的に書いてるんじゃないかっていう。
自然にいろんな入ってる文章の流れで書いちゃってるんじゃないかっていうのがあるから、
そういうとこを本当にため息はつくものなのかっていうのを検証しかなきゃいけないんじゃないかっていう。
ため息は本当につくのか、ため息は出るのか。
退出されるのか、生まれるのか。
こういうとこをちゃんと突き詰めたから、それこそ実像を書けないよね。
そうですね。でも俺も自分に対して反省として思う。
普通に純文学文法で書いてるだけっていう説は全然あるんで。自分に対しては。
とこ難しいところで、自分の問題を文学とかの問題に置き換えることによって書けるものってあるじゃん。
なんだろう、自我の形成によって文学に影響を受けてるから、自分のテーマと文学のテーマがこんちゃくちゃになってるじゃん。
でもそのまま書くとさ、っていうことでね。
一瞬ミームになってるよね。
そうそうそう。
ミームになってるのも、なんかあったらこう書く問題になっちゃってるから、
一瞬ミーム的に自分の中にある文章の蓄積を出してるとこが可能性があるってことです。
難しい。難しいっていうかでも、普通に疑っていくしかないんだろうな、普通に自分の文章と。
だからサラッと書いた文章を疑うってことですよね。
てことで、ハッシュタグ単価ね。
すごい話。
飛びすぎ。
今の話はここで打ち切りですけど。
許してあげる。
ハッシュタグ単価について話そうかしら。
ハッシュタグ単価?
ハッシュタグ単価ね。これ、いきくんの持ち寄りテーマですね。
まあいいしね。
持ち寄りというか、いきくんとお話したら面白いかもねって言ったら。
そうです。
今度、雑誌を作ることにして、シート単価の。
そこで、土層館のテーマでTwitterとシート単価っていうのをつけたんだけど、
多分そこで一番デカいのってあれだよね。
ハッシュタグ単価と私性っていう、サッカー性みたいなのの関係っていうのが多分ね、
横になっちゃったっていうのはもしかしたら考えていくべきなのかもしれない。
ハッシュタグ単価ってそもそもどういうこと?
まあ単価にハッシュタグつけてるんだよね。
まあそうね。
T-A-N-K-A
そうそう。
一瞬そこで、単価じゃないじゃないですか。
感じの単価じゃないんじゃないですか。
軽くなったのかな?
てかなんか、もともとそうだったかそういう話はわからんけど、
タンクがより社会化されたというか。
なんだ?
何かに組み込まれた感があるよね。
それネットの一部になったよね。
そうだね。
夜しか眠れないみたいな。
ああ。
公文あるじゃん。YouTubeのコメントだったり。
ああ、ネットビーフになった。
その分的になりつつあるのかもしれない。
そうだね。
そうなのか、でも。
ティームというにはちょっとまだ広がりがあるんじゃないか。
長さがはまったっていうのがある。
ああ、それは。
ファスト距離じゃないけど。
そういう感じになりつつあるから、
その短さっていうのがピタッてはまったのかもしれない。
ネット単価にあまり詳しくないからなんだけどさ、
Twitter単価ってどういう単価がいいとされるみたいなのある?
結構単価ってさ。
文脈ってあるんですか?
単価って割と文脈系のとこ。
ああ、単価クラスターも怖い。
そうだよね。単価クラスターも怖い。
いや、怖いところにステートメント出していくのがこのポーズキャスト。
誰に巻き込むでお前。
でもあれじゃあ一番有名っていうか、
そのTwitter単価を象徴するもので、
本当に私でいいムズボーラだし、
傘もこんなに持っていくし、
だからなんだろうね。
だからなんだろうね。
大入りみたいなもんで。
正直言っちゃうと。
お題人になってるよね。
お題とかない別に。
でもあれらしいけど、
そういう変わったことがあったりして。
難しいね。
だから真空でしか持ってない。
っていうのはすごいずっと思っちゃう。
その心は。
真空でしか持ってない。
ちょっと言っていいのかな。
だからダウキウチンっていうのもいいじゃない。
だからこんな。
なるほどね。
そういう組み替えみたいな。
生活における視点のずらしみじゃん。
そうだね。
だからヒールだよね。
いかにうまくこういう今生きてるのを、
物語的に語るかみたいなところで、
技じゃない。
当たっててもともとうまい下手が結構取り出させる。
フォーカス当てるジャンルじゃない。
他の文芸より。
技巧ではあったわけで。
でも現代単語ってそうなのかな。
ニューフェイブとか。
俺はあんま詳しくないんだけど。
松崎とか。
ちょっと話一回戻していい?
真空でしかのダウキウチン的なやつとか。
俺がドリカムくらい言ってるんだけどさ。
ドリカムくらい何度も言ってるんだけどさ。
真空でしかがクイックジャパンで
視聴者から大喜利のお題で大喜利もらって
どれが面白いか選ぶってやつなんだけど。
ツイッターのアーキテクチャー
なんで2人がこれが面白いかって話をするんだけど
そこの話が面白くて
純優勝者しか入れない部屋に何があったみたいなお題なんだけど
純優勝と書かれた椅子があるっていう。
これは優勝したところには優勝者って椅子があるっていう
ないあるあるを一個ずらしてるんだっていう。
そこが面白いみたいな話をしたりしてるんだけど。
あと令和ロマンの秋元先生っていうネタで
秋元康の曲を
実はAKBが歌うより秋元康が歌った方が感動するっていう
そもそもない話の前提のネタなんだけど
それでAKBがいるその上に
そのレイヤーの一番上に秋元康のJPEGを置くっていう動きをするんだけど
なんかこのツイッターとかネット的なカルチャーって
すごいアーキテクチャーなんだよね。
構造っていうものがすごい出来上がってて
それこそ愛美術的なさ
そういうレイヤーとかの話をどうずらしていくかみたいなのがあって
一瞬パズルだよね。
右にずらして左にずらして
そういうパターンなんだけど
意外と多層化しててレイヤーになってるっていうのが
ネット的な考え方なんだよ
それか単価にも
そういう意味で単価もずらせるようになってる
そういう意味でネットにおけるカルチャーっていうのは
全部ずらしかもしれないよね
何かが出来上がった後のずらし
あとネット的でもないかもしれない
それが前提になってる気がする
日常生活のように
俺最近頭の中で思うことあるじゃん
140時以内にまとまってるんだよ
俺は結構
っていう感覚があって
むしろそういうネット的な考え方がもっと身体に
日常にまで定着してる感があるから
そういう風に僕は考えてるかもしれない
最近の芸人とかも
ボケとして作ってるんじゃなくて
自然こう
秋元康のJPEGが見えるみたいなことが
それの状況を想像するときに
すごいIT的な
出来上がり方をしてるかもしれない
イメージの出来上がってる
だからこう
ツッコミするときに
ニコ動の赤米的に考えちゃう
そういうネットの構造みたいなのが
ストラクチャー
身体に入り込んでる
意外と神話性高いのも
身体と
ツイッターの文脈と共感
眠そうな目してると思う
眠いんだよ
頑張って
ツイッター単価の話もしますか?
そういうところあるんじゃない?
ツイッター単価にもある
ボット
e単価ボットみたいな
あれがすごいおすすめに
流れてくるようになったっていうのは
歌手として読むんじゃなくて
1個の単価
1個の歌がバッてきて
それにハマればハマっちゃうみたいな
手軽そうだよね
手軽な発信のフォームとしていいのかもしれない
でも最近のツイッター単価には
フォームとしての文脈が出来上がっちゃってるかも
なんか感じるよね
それも一部の話なんじゃないかな
ツイッター単価は文脈だよね
文脈はある
それこそさっきの
本当にこんな話でいいのか
下の国で買い可動みたいな
それが結局ツイッターの海の中で
遊ばれるように入るようになってるじゃん
俺さ
オギバヘルギーが
好きなやつがあんのよ
戯れにボタンを外す妹よ
悪意は人を美しくする
でもどこにも入らない
それ1個としてキツリとしちゃってるんだよね
キツリとしちゃってると
ツイッターじゃ入らないんだよ
確かに
入れ替えることで自分ごとに引き寄せられるのか
共感みたいなのが大きいよね
ツイッターである意味みたいなのが繋がるよね
ツイッターって共感じゃん
全体的に
子育てしてるお母さんが
夫が家事しないのずっと愚痴ってるのとかも
共感の意味
漫画とかが伸びるわけだ
何なのか最近思うのは
ヤシロアズキは本当じゃないから
本当じゃないと思ってさえも
共感によれば成立してしまうというのが
ツイッターの空間なんじゃない?
ポスト取るっすよね
でもそれに対する不信感はあるわけで
難しいっすね
ヤシロアズキが出たことでちょっと複雑か
でもタンカーにもそういう不信感は若干あるかもしれない
ツイッターのハッシュタグタンカーに対して
ツイッターポエジーと文芸活動
普通にそういう風に
作り手が容易すぎじゃね?みたいな
上手い言葉で言うのは難しいんだけど
でも俺は最近このツイッターで思うのは
共感を呼ぶ文章の作りってあるじゃん
ツイッターってだいたいコスメとか
株とか投資術とか
自己啓発系のツイートとか
あるいはポエジーな文章だってそうだけど
全部それぞれが
それぞれの万発系の文法があるじゃん
それに乗っけてツイートしてるじゃん
それに乗っけてツイートするようなアカウントが
それに乗っけてツイートしてるっていうのが
常に万発し続けてるっていうイメージで
そういうことによって
実体からどんどん乖離してるなっていうのが
特にツイッターポエジーで思うんだよね
ツイッターポエジーって
ほとんどツイッターポエジーの分別が出来上がってて
こういうポエジーが
跳ねるよねっていう
みんなに見られるよねっていうのがあって
俺に回ってくるようなのは
跳ねてるだけで
そういう跳ねてる文法があるんじゃないかっていう
ツイッターポエジーを
強く発信しているグループが
そこでツイッターポエジーの文明化が出来上がってるから
本来の彼らの私生活のポエジーが
そこに回復されてるんじゃないかっていう
俺結構ツイッターの単価とか
ハッシュタグ単価とかあんまり
好意を持ってるわけじゃないんだけど
その理由は普通にそういう意味で物足りないからだと思うんだよね
個人に立ち入ってく力がそういう意味でないというか
なんかこう
それはなんか自分が古い人間である可能性も全然あるけど
そういう意味でツイッター単価で
私の部分が薄いのかもしれない
薄いからこそ
薄いからいいんだろうね
でもやっぱ一種快楽的ではあるじゃん
サイトはもう基地ではないわけだ
ツイッター単価って一種さ
流しちゃっていいんだよね
作ることができる
タイムライン
それでさ俺はこれずっと言ってるけどさ
もしかしたらもう誰か言ってるかもしれない
先行で誰か評価が言ってるかもしれないけどさ
タイムラインってさ上と下はあるけど奥がないんだよ
奥がないから下がれないんだよね
だから単価が言ってることの奥に入れないから
すごい表面
そういう意味で表面的になるんだと思うんだよね
ツイッターっていうアーキテクチャが
それこそ奥のことはツイートできないよね
なかなか日常的には
奥のことをツイートするとそれは普通にもう
釈迦化されてない部分になるからこそ
それこそやっぱ
普通にこのね中高生とかやっぱ
インスタとかツイッターとか変なふうに使ってる人
普通に笑われるじゃないですか多分
そういうことは多分奥のことを考えちゃって
喋っちゃってるからなんだよね
でもやっぱそういう意味でさ
一個さ今の自分が立ってるこの場所が揺らがないってことが大事なんだよ
多分ツイッターなんか
ツイッターっていうプラットフォームが揺らがないってこと?
いや自分が読んでる自分が
読んでる自分が
だから自分の今までの方を
回り抜いたりしちゃいけないんだよ
ツイッターなんか
あと自分と作者っていう空間がないほうがいいのかもね
その距離がもう
ツイート見るっていうので
距離が近ければ近いほうがいいのかもしれないですよね
薄いほうがいいっていう距離感が
でもそういう意味でマジでTikTokと一緒かもしれないよね
ツイッターなんかが
そういう短い動画がさどんどん繋がっていくだけでさ
そのためにこう薄いさ
オーガズムがあるわけじゃん
でもツイッターなんかとか
その単価っていうものが流行ったのがさ
やっぱり奥がないツイートに対するカウンターでも
あったんじゃないかなと思ってたんだけど
奥がないツイートに対するカウンターとして
ツイッターなんか始まったんだ
ちゃんとしたそれでは回収されない感情を
出すっていう感覚を
だからツイッターが先にあって
ツイッターなんかが後からついてきたっていう
ツイッター法人とか
そういうイメージ
でもそれすら文脈が出来上がっていって
また奥行きがなくなってるみたいな
そうだよね
ツイッターにおける文芸活動みたいな
詳しくわかんないけど
始まってからだいぶ経ってるからね
形外化してるところも全然あると思うし
ツイッター単価からちゃんと
回収出してる人がいる?
カウントマホー
カウントマホーが
本屋さん行くと
カラーで漫画みたいな感じの大きさの
回収っていうのは
ここ数年でグッと増えた
売れる本だからそれって
売れる本の見た目だよね
佐々木篤が言葉と出してる出版社なんだっけ
書士官官房
書士官官房は結構出してる
そうそうそう
書士官官房とかも結構出してる
官官房はねめらない木っていう
単価目標があるから
そこのレベルっていうか
あとなんか新芸過尽みたいな
そうそうそう
どうなんだろうな
単価はね
勉強不足だからちょっと下手なこと言えないけど
そうなんだよね
意気込みにとって単価がどうなのかってぐらいでいい
ツイッターとか
現状認識
俺らもそれぐらいでしゃべってる
俺らもそれぐらいであるところまで落ちてるわけで
そうそうそう
ポッドキャッセルはな
でもやっぱその
身近なアートフォームだったのかな
平原とかの若いのがそういう扱いだしね
そもそもね
戦後じゃなくて明治とかのさ
過人とかさ
なんだ
西洋史に対してさ
やっぱり自分たちの立ち位置を持たなければいけない
って言うので
歌単価とかから始めたわけじゃん
ポイジンの営みを
それによりもだから
その営みが割ともう
境外化って言い過ぎながら
境外化してきてんじゃないかなって
普通に戦争終えて
境外化っていうか
その営みの先に
たどり着いちゃったんじゃないか
感はあるよね
それは普通に家庭で終わっちゃったというか
だから新しくにウェーブタッカーって言われるようになったわけだし
実続になってるわけじゃない
力んだものばっか読んでるには疲れてるよね
聞くことが
正直
ツイッターの社会化と不条理
最近俺持ってけセラーフを聞いてる
うん
ごめん
でもツイッター
ツイッターっていうものについて考えてた時に
ツイッターっていうものについて考えた
ツイッターってやっぱこの
社会化されない部分っていうのはどうしてもあるわけで
ツイッターにおいて社会化される部分もあるんだけど
このツイッターにおいて多分もたらされるのは
そういうのを抜きにした言葉なわけで
それはそのツイッターのポイジーとしてよく思うのは
ツイッターってやっぱ器用アーサーが評価されてるよね
っていうのはすごく最近感じるんだよね
器用アーサーどういう器用アーサー?
俺においてのタイムラインなんだけど
俺のフィルターバブルの中においては
器用アーっていうものが評価されてるっていう
器用アー
どういう器用アーだからイメージちょっと
やっぱ中間とかもそうなんじゃない?不条理に対する
器用アーっていうのがあるよね
強い姿勢よりもそっちのほうが評価されがち
不条理を解決したりとか
抵抗するというより
ただ不条理を受け止める
不条理に受けて普通にチーカー的に
はっわーってなるっていうのが
藤原チーカーで
藤原チーカー踏んでね
チーカーってキャラはいねえからね
藤原とチーカーは全部身じゃない?
なんだっけあの猫みたいなやつ
全部身じゃないわ
父と父が
父と父が
もう行こう
行こう
っていうのが
そのはっわーみたいなのが
最近のツイッターなんじゃないかな
多分最近の
最近の皆さんって疲れてますから
最近のツイッターって二極化してんだよ
会社で理不尽なことがあったに対して
器用アーサーやおぱんちゅううさぎとチーカーのキャラクター
ブチ切れたスッキリエピソードと
会社で理不尽なことが起こった
でもこういうことがあった救い
っていうこの二極化
なと思うんだよね
そういう部分に対しては
でもやっぱ器用話と優しさと
美読っていうのが
全部合わさってんだって
ツイッターに対して思う
最近のこの社会の価値観として
器用話であることが
いいとされてないかっていう
排斥されているじゃない
いろんな人間が
そこに対して敏感であるっていう
排斥されてることが
あるいはマイノリティであることが
救いになってるんじゃないかっていう
なるほどね
ことは社会に対して思いますね
まぁでもツイッターは
器用話のメディアで
あるべきなのかもしんないけどね
俺最近さレジ打ちのバイトしてるんですよ
業務はレジ打ちなんだけどさ
いろいろ結構さ
めんどくさいとかさ
クレーマー対策の客とか
結構くるんだよ
でもさ
にこやかにさ
社員さんみんな対応するじゃん
で終わった後みんなで
グチグチ言うんだよ
結局さこうすることでしか
人って心の平衡を保ちないんだよね
例えばさ
そこでさ
すごい態度悪いからさ
もう来るなとは言えないじゃん
一旦バサミになってるから
会社とお客さんの間で
だから結局その人たちは
そういう
その人たちが嫌がった時に
裏の作業スペースとかで
いやほんとにヤバい客でしたね
ほんと来ないでほしいよねとか
そういうことを言うっていうことでしか
保って
保ってるんだよ
なんとかしれない
そういう意味ではさ
ツイッター
最近言っちゃったけどさ
ツイッターってもんがさ
どんどんさ
ツイッターのデモとかあるじゃない
そういう風になってってさ
どんどんこう
それこそ公共空間になってさ
社会が入り込みすぎちゃってるってことが
実は問題なのかもしれないな
そうかもね
そういうレジューラーの作業場であるべきなのかもしれない
ツイッターって
結局飲み会の後と電車の帰り道で
あいつシャバかったなとかさ
あいつウザかったなっていうこの
あいつイキってねみたいなことが
あるわけですよね
ツイッター的なわけですし
でもこの
もはやツイッターはこの
なんか例えば
許せないことがあったとか
こういう場があったってことに
そういう場に敏感であるっていうことだけが
美徳になってないかなと思う
そうだね確かに
感受性が豊かであることは
別に美徳じゃないと僕は思ってる
ただ個性であって
それが優れたことではあると思うので
もちろん想像力を持つことは大事だけど
でやっぱ
そういう自分が想像力がある
っていうことの自己肯定に
やっぱツイートってあるんだなっていう
だからこそ気を合わせたの肯定なんだなっていう
気を合わせた美徳がすごく最近繋がってるなっていう
強い言葉に対する恐怖感っていうのは
あんだなっていう
おぱんちのチーカはどっちが好き?
難しいね
おぱんちのチーカは
ぼちゃむ
かわいそうにかながら
かわいそうにかながら
おぱんちのチーカは
アイスを落として
スパイスを落として
焼きそば買えなかったら
帰ってきたら作ってくれる人がいるみたいな
そうそうそう
俺はおぱんちかな
おぱんちおぱちゃんはかわいそうに
で対して
チーカはどっち派なのかっていうのは
いろんな人間とか
ツイッターに対するスタンスが出る気がするんだよ
どっちにも乗り切れてねえなあ
俺は
おぱちゃんのほうが好きなんだけど
コンセプトとかとして
優れてるのはチーカだと思う
チーカは
物語性があるから
神話なんだよね
神話だね
偶話だしね
おぱんちゅうさきってすくいもないし
おぱちゃんはすくいがあるけど
おぱんちゅうさきってもっと生活だもんね
そうそうそうそう
カニ公正みたいな感じ
プロレタリアだよ
おぱちゃんのすくいも
カリサメのすくいじゃん
あれ不気味だよね
すくいの作り方
すくわれてるようですくわれてないんだよ
その場しのぎっていう感じ
その場しのぎを重ねてるだけ
おぱちゃんって怖いよ
おぱちゃんも怖さあるよね
おぱんちゅうさきは
ずっとアンガールズ的じゃん
わりとその後
自己憐憫と不条理の受け入れ
ジャンガジャンガしないだけじゃん
怖い
今怖いしかない
お前誰?みたいな感じ
田中と山根が
何かこう
あっ!ってなる瞬間が起きて
それが最後のコマになってて
アンガールズは
ジャンガジャンガって言うけど
おぱんちゅうさきは言ってないみたいな
延長というかつながってるんだよね
し続き
そういうとこある
生活に起きることをやってるわけで
アンガールズもあれはあるあるネタだから
おぱんちゅうは基本あれか
おぱんちゅうはいいことしようと思ったら
裏目に出る
いいことしようってか
いいことしようの前に
生活してたらぐらいのレベルじゃない?
生活してたらどんな感じ?
その中にいいことしようも含まれてるし
ちょっと良かれと思ってとか
良心がある
おぱんちゅうさきはめちゃくちゃ良心がある
上で普通に生活してんだよ
もう圧力だよね
いつの間にか
最新作4日前はあれだね
崖でカップルに写真撮ってって言われて
おぱんちゅうが撮ろうとしたら
おぱんちゅうが崖ギリギリになっちゃう
不条理ではあるね
おぱんちゅうって普通に
普通に不条理だった
作者がかわいそうに
おぱんちゅうは不憫だよね
不憫だよね
不憫、器用は
社会の
みんなの自己認識になるかも
生贄なんだよ
何かをかわいそうだと思う
ということで満たされる誰かのために
生贄なんだよ
おぱんちゅうって
おぱんちゅうっていう存在が
自分を憐憫することに対しては
なんとなく後ろめささとかあるけど
おぱんちゅうを憐憫している
自分っていう図を
成立させるための
わら人形なんじゃない
そういう意味でツイートがそうじゃなくなった
数々のツイート
タイムラインがおぱんちゅううさぎじゃなくなったのかもね
そうかもね
いろんなツイートが
おぱんちゅううさぎじゃなくなったことで
おぱんちゅううさぎっていうシリーズが
いろんなツイートが
おぱんちゅううさぎじゃなくなったことで
おぱんちゅううさぎっていうしっかりした
コマの漫画が
そういう
自己憐憫になっている
メッセージとして力の強いものじゃないと
自己憐憫とかに
自分を導けない
そういう意味で
ああいうキャラクターなんだよね
チーカーとかもそうじゃん
チーカーってもう明らかに不条理だから
草むしりけんっていつ浮かんだと思う
浮かんないね
草むしりけんってずっと落ち続けてる
本当にそろそろ浮かれるかなと思ったら
ずっと落ちてるし
うちの親父がずっと見てるんだけど
やっぱ普通にね
自分の不条理のために見てるの
と思った
だからね
うちの親父がやたら好きなのは
普通に不条理社会で働いていくらなの
俺そんな好きじゃないの
まだ全然学生だなと思う
こっちは若者だからね
不条理に抵抗をしたいと思えるし
不条理に対する熱があるからね
そうだね
不条理を解決しなければならないって思ってるけど
うん
不条理を受け入れていくことなんだよね
そういう意味じゃん
ムパチャンって何も解決してないけどこれでよしっていう態度だもんね
受け入れていくことなんだよ
だってムパチャンは全然納得できないもん
どうしたら作ってくれてたから
オッケーじゃないじゃん
拾わないといけないじゃん
拾うときのいろんなやっちゃったとか
見決めたとこがあるじゃん
あったらオッケーっていうのが一種さ
大人になるってことなんじゃない
合理性に改修されるってことなんだ
合理性に改修される
合理性にしか改修できないってことなんじゃない
だから
パーフェクトであることを
あれないってことを受ける
ってことなんじゃない
分かる
全能ではいれない
だから
全能であれないけど
システムに
システムは回り続けるっていう
そしてそれが
俺らを生かしてくれる
そんなに
批評的にいろいろ書かなくてもいい
このヤクソバ
ツイッターとオルタナティブ
ヤクソバは何になるの
象徴していて
何も喋ってねえじゃない
ツイッターについては
喋れない
ツイッターについては喋らなくちゃいけない
ツイッターというやっぱ空間
アーキテクチャ
ツイッターランクから
悪影響を受けてる
俺はツイッターに対する
オルタナティブとして
裏赤持ってるんですよ
田中を宣伝します
それもまたツイッターに飲まれてる
でもツイッターに
飲まれていく中で
俺のツイッターっていうのを掲げる
っていう意味で
オルタナティブは
内部にないとオルタナティブじゃない
オルタナティブロックって
でもロックじゃん
オルタナティブロックをやりたい人が
映画撮り出したら話にならないもん
でも俺はオルタナティブツイッターを
やってるわけです
ノートもオルタナティブにやってます
ノートって普通に
全然違うから
俺がやってるノートってノートじゃないから
ノートの話する?
藤原くんウィーザーだもんな
村上春樹ノート問題だ
その話はいいわ
一回分になるよ
ちゃんと読めて大丈夫
クラスターみたいな話あるわ
ノートは
140字で
収まらず
エッセイでも
小説でもない
思考の可能性みたいなのを
書いてるだけで
日記だね
俺が中高
大学入るまでキャンパスノートに
入り続けたのとあんま変わらない
ツイッターは
140字で
収まらないこともあるから
ツリーするし
その後
ツイッターでもう一つ
別に公開アカウントなんですけど
一種のネタ調であり思ったことを書いてる
っていうアカウントがあって
田中っていうアカウントなんですけど
別にリンクは販売してない
振り捨てたい思いもないから
フジワラのツイッターのプロフィールに貼ってありますけど
思ったことをそのまま書くっていう
その中でも田中の文法が出来上がってて
田中の文法あるよね
田中は毎日一回とか二回とか見てると
文法を感じるようになってきた
それがまた一種の
小さいミニツイッターになってきてるんだね
でも俺は
自分で思考するときに文法が必要なわけで
文章を書くには文法が必要じゃない
それと同じように何かを語る上での文法を
自ら作り出してって感じだよね
言葉とツイッター
最近借り物の言葉って
自分で文章を書くときによく使ってるじゃないですか
そもそも言葉自体借り物だよね
感情とかの前に
共通の言語だからね
コミュニケーションとしては
ありがたいことではあるんだよ
言葉にならないことを
言葉にならないことを
言葉にしていくことが大事なんじゃないの
っていうのはシンプルな言い方だけど
でもそういう意味で言葉を捉え直し続けるっていうのは
文学なんじゃないの
詩とかは特にそうでしょ
ツイッターって文体がない方が
いける
でも
言葉を問い直すってことで
言葉が届かない領域があることを認めることが
大事な気がする
特に映画学科で
実習の説明してるときに
動かないとわからないことってあるんだよ
それさ、説明しろって言うじゃん
今の世の中
ちゃんと説明して
マニュアル作ってやれよってことになるじゃん
でもマニュアル作ったところで
100書けないんだよ
それは100書こうとするんじゃなくて
100書けないってことを
引き受けることが大事なんだ
引き受ける
イデアとの脅威っていうか
SNS社会になって言葉が
強いじゃん
どんどん強くなることで
言葉にできないものってなくなってきてるよね
言葉を信頼しすぎてて
言葉が先行して
データベース的に仕組みを読み取ってるから
自分の言葉にならない感情を
無視しちゃってる
ツイートできない感情について
ハイメグラスじゃないかもしれない
そこに対する前近戦ではあるんだけど
サブスク回避されてない音楽が
無視されつつある
似てるよね
そういう流れあるよね
そういう意味で
このBOTCASTも
書き言葉じゃ書けないことやってる
中間だよね
絵がないっていうのがありますよね
音声だけなんだよ
音声なら
営業飲んだりしてもOKだからね
そうだね
どうしようも営業飲めないからね
営業飲んじゃダメかもしれない
言えるからね
それにも書いてある人もいるけど
営業飲むことを書いてる時点で
営業飲むとは
距離がある
ツイッターって営業飲まないな
俺営業飲んでるやつをツイートしない
営業飲んだりしないね
ツイッターって
3点リーダー
3点リーダーを
なんていうか
アームってすごい
余白
あとダッシュとかね
ダッシュは明確か
小説ではまだやってないけど
田中とかノートでは
文章を
工夫してやってますけど
というわけでね
無理だよ
正直BOTCASTをね
って話になって終わるかなと思ったら
思いのほか
しばらく喋るな
終わろう
俺真剣に喋ってたら
時間分からなくなっちゃう
集中しちゃって
俺BOTCAST撮った後
夜めっちゃ疲れてるから
分からなくなる
俯瞰と集中は両立しない
これ以上疲れるから
お疲れ様でした
スペシャルサンクス
41:19

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