口つけた振りだけして回してたらしいんですよ。
ちょっと軽いいじめみたいな感じですよね。
ちょっとそうですね。
ただ、石田光内の順番が来て、光内はそのままグイッと飲み干して、
おかわりって言ったらしいですね。しかも。
すごい、それは何ですか、友達思いの石田光内さん。
分かんない。喉渇いたのか分かんないんですけど、
とにかくそれで、やっぱりそうなるとね、太谷義都宮的には自分をみんな避けているのに、光内だけは受け入れてくれた。
そうですよね。
はい。ということで、さらに友情が深まったのではないかっていう。
はいはい。
まあね、どっちにしろ秀吉に近いところにいた二人で、しかも頭のいい二人だから通じ合うものがあったんだと思うんですけど。
あーそうですね。二人とも戦略家という感じだったんですかね。
でですよ。それがね、あざとなったと言いますか、なんと言いますか、関ヶ原の後。
太谷義都宮は本当は家康と一緒に、合図の方の、合図成罰ですね。行く予定だったわけですよ。
で、その時に挨拶があったら石田光内が居場として、沢山城に挨拶に行ったら、光内からちょっとあの、
俺は家康とちょっと戦おうと思ってるんだよねみたいな話を聞かされるんです、急に。
え?ってなって。無理無理無理無理って。やめとけって。
もう分かってたんですね。
そう。太谷義都宮からすると光内が今の家康に歯向かうなんて無理だよ。やめとけと思いとどまれと。
めちゃくちゃ説得するんですけど、逆に光内もいやいやちょっと考えてみろ、いけるって言って。
説得、お互いお互い何回も何回もこう話をした上で、分かったと。折れたのが太谷義都宮。
そういうことがあったんだ。石田光内があってなると、やっぱりちょっと先は分かってたんですかね。
たぶんね。光内が弱いというよりは、家康の勢力がそれだけ強かった。
そっか、その頃はもう。
ってことだと思います。
ええええ。
頭いい人ですからね。
先は見えてたんですね。
見えてたんだと思う。かなりこれは厳しいぞと。
それでも石田光内につくことにした。だったら少しでも勝率を上げなきゃいけないっていうことで、光内にある助言をするんですけど。
お前は普段から王兵な態度を取ってるから、みんなイエスの方に行っちゃうんだよと。
お前が上に取ったら誰もついてこない。だからトップは、毛利テルモとか浮田秀井に任せて、お前裏方に行けって。
すごい、そんなことが。
すごいですよね、これ言っちゃうって。
言える。
でもこれを光内が聞き入れるんですよね。
なんかお互いに信頼関係があったんでしょうね。
だから多分大谷が言うなら、そうなんだろうって。じゃあ裏方に行ってするよって。だから総対称は毛利なんですね。
なんかそういう裏に男同士の友情があったのかなと思うと、ロマン感じますね。
ロマン感じますよね。
なんとか勝つためにやっぱりそこはね、知的を作りに使って戦略を作るわけですよ。
その中で小林川秀明、怪しいなと。結果的に本当に裏切って勢が負けるわけですけども、この小林川の裏切りを実は予想してたんですよね。
あいつ怪しいなって思ってたから、ちゃんと対抗策を考えてたんですよ。
4つの部隊用意して、もし小林川が裏切ったらお前はここを抑えろっていうのをちゃんと用意してたんですよ。
実際その時が来た。その4つの部隊が裏切っちゃって、大谷義次を攻めてきたと思うんですよ。
えーって言って。
そうですか。それで結局義次は。
そう、これはもう無理だ、突破は無理だってことで自害しちゃいました。
なんかちょっと人柄が良さそうなので悲しいですね。
ちょっと感情が入っちゃいますね。
本当に石田三成についてなければ語り継がれた人になってたと思うんですけど、ここで散ったっていうのもまた一つかっこいいですよね。
そうかもしれませんね。ミステリアスなまま散ったっていうところが。
いいですよ。
いいですね。
ミステリアスの原型となった病気なんですけど、これ諸説あって、基本的に皮膚病っていうことでハンセン病ではないかって言われてるんですけど、
最近ちょっと別の、実は梅毒だったんじゃないかとか他の皮膚病だったんじゃないかっていうのがいろいろ検証されてます。
いろいろ出てきてるんですね。
どちらにしてもやはり顔がただれてしまうような病気を患っていたっていうのは間違いないですけど、どんどんそれが悪化してきちゃって、
当時に訪れたのが草津温泉、群馬県の草津温泉ですね。
訪れてるのが1597年なのでまさに関ヶ原の数年前ですよね。
その時にはかなり悪化してたみたいで、多分草津温泉を訪れたっていうのは、さっきも言いましたけど、
ゆきむらの性質が娘っていうこともあって多分真田とも関係が深かったはずなので、
当時草津って真田の所領なんですよ。真田の部下が収めてたので、
まあ勧められたんじゃないかなと。
この時点ではね、秀吉も家康もみんな草津知ってるので。
古くから草津温泉って有名だったんですね。
武将はみんな草津は知ってるんですよ、なぜか。
ここから名古屋金継に会ってて、お手紙書いてるんですよ。
草津温泉から。
その時に目の病気が進行しててもあんま見えないと。
だからお手紙書いて、最後に武将とかって署名して、家王っていうその人しか書けないサインを付けるんですけど、
それがちょっと据えられないと。
なので大筆で有筆で済ませてごめんねみたいなことを迷ってます。
リッチリですね。
そうですね。
ますます人柄の良さそうだなって。
どんどん好きになっちゃう。
悲しくなってきますけど。
目が見えないで言うと草津温泉って地蔵の湯っていう郷土浴場が今もあるんですけど、
その前にお地蔵さんがいるんですよ。
そこが眼病に効くとする目洗い地蔵っていうのが今も。
目の病気に効く。
あったりとか。
あと源頼朝の頃から草津温泉っていうのはもちろんあったんですけど、
一番多分最初に草津で有名人ゆかりって言うと源頼朝になるんですけど。
鎌倉時代から。
そうなんですよ。そこに薬師如来の権下である子供が現れて、当時雷病って言ってたんですけど。
昔はそうですね。
雷病の病気からも救われるよみたいなことを他の病気と一緒に言ったっていうのが残っているので、
昔から皮膚病っていうのがあってそれに対する薬がない時代から草津の湯はそこにいいよっていう風に。
それだけのパワーがあるって。
草津って強い共産性なので今だと肌弱い人は逆にちょっとやめとくわみたいな人も多いんですけど。
実際に明治時代以降は本当にハンセン病の患者が集まったので、
その療養のための地域が決められてたぐらい皮膚病の治療があります。
今はもう完治可能なのでわざわざ草津に行くことはないんですけど、
藤野病とされてた時期にはそういうこともありました。
温泉療養村みたいな感じになってたんですね。
草津は結構そうで。
今ちょっとなくなっちゃったんですけど、時間湯っていう温泉療法が。
時間湯?
つい最近までありまして、あくまでも民間療法ではあるのでエビデンスとかはなかったんですけど、
草津ってお湯がすごく熱いんですよね。
それは湯揉み症とかやってます。
糸で揉むことで柔らかくして温度も下げるんですけど、
そこにみんなで一緒に入って決まった時間でガバッと上がるみたいなのを繰り返すことで、
肌と体に刺激がいい具合に入って皮膚炎が改善されるみたいな療法があって。
そういうのがあって。
実際結構最近でもアトピーがひどすぎて、もう諦めてたけど草津がいいって聞いて来た人が、
本当に時間湯をしっかり療養することで治ったんですっていう人は、私何人か知ってます。
アトピーって本当にいろんなこと試して、本当に最後の最後っていうところありますもんね。
ただ残念ながらエビデンスがない方に入るっていうようないろんな理由で、
今の市長が2019年にまず油腸制度、油腸酸という管理制度を廃止して、
それだと当然できなくなるということで、時間湯がなくなってしまいまして。
なくなっちゃったんですか?
はい。2021年は時間湯って名前自体もなくして、電燈湯っていう名前に変わっちゃって、
もっと低い温度で体験ができるぐらいのが残ってるんですけど、全く同じものではなくなってしまいましたね。
その時間湯っていうのは、誰でも行けるようなものだったんですか?
一応だもん、管理が必要なので、行ってクエアにできるわけで予約して油腸酸と話をして、
じゃああなたはこれをやりましょう、あれをやりましょう、みたいな形でやる。
本当にそういう民間療法だったので。
本当に何か医療に通じたようなものだったんですね。
そうなんです。ただその医療行為っていう風になってしまうと、ちょっと危ないというか問題があるということで、
残念ながら今はできなくなってしまったんですが、ただ草津温泉さっきも言った通りすごく協賛性なので、
肌弱い人は一回入るだけだったらちょっと危ないというか、刺激が強すぎるので。
湯上がりのお湯を忘れずにって感じですかね。