祖父の思い出と家族の絆
おはようございます。OKファームのOKです。このラジオでは、脱サラ指定農業歴13年を超えた私が、新規就農者やフリーランスの方向けに、マーケティング情報や気持ちがちょっと楽になる話をお届けしております。
今日は雑談というか、8月15日ということなので、年に1回、2回ぐらいは、こういう戦争に関わるものの話をしてもいいのかなというふうにも思ったりしているので、
僕の祖父の体験談とか記録が残っているものについてお話とかをしていこうと思うんですが、
ちょっと視点を変えてですね、タイトルとして【文字という発明の偉大さを感じたお盆】というテーマでお話をしていこうと思います。
2つの出来事を軸に、この戦争というものと文字というものを絡めてお話をしていこうと思うんですが、
1つ目は、去年亡くなった僕のじいちゃんの、OKじいさんという名前で、95歳まで畑に出ていて、インスタとかXとかでじいちゃんの写真を投稿していたということで、
有名な、有名なのか、OKじいさんの発言がありましたということとですね、そのOKじいさんは昭和3年生まれということで、16歳の時に多分終戦を迎えていると思うんですが、
ロシアの捕虜になってですね、シベリア抑留という大変な経験を1年半ほどした後、日本に帰るというね、大変な人生を歩んでいるので、
それを少し紹介しながら、この文字というものについてお話をしてみようと思います。
まずですね、発言ですね。広島県の方では発言と言うんですが、あなたの地域ではニーボンと言いますでしょうか、アラボンと言いますでしょうか、いろんな表現があるんですが、
まあちょっと発言という言葉で統一させてもらおうと思います。
昨年の8月に亡くなった祖父の発言があったんですが、やっぱりそういう時ってなかなか会えない親戚と会えるので、
放養を済ました後に食事会みたいな感じでね、ゆっくりお話できるのは5年10年に1回かなっていうレベルの、
じいちゃんの親戚といろいろとお話をさせてもらう機会がありました。
じいちゃんが元気なうちは年に1回ぐらい、じいちゃんが作った野菜とかお米を持って、その親戚の家にお米とかを持って行っていたので、
その時ちょっと軽く挨拶とかをすることはあったんですけども、ゆっくり話をするレベルというのでは僕もかなり久々にお話させてもらったという状況でございました。
やっぱりそういう時、じいちゃんが亡くなってという節目で、亡くなって1年という節目でする話なので、やっぱり話の軸はじいちゃんになるわけで、
えーそんな出来事あったんですか?みたいなのとかね、じいちゃんが若かりし頃の思い出とかもね、いろいろ聞かせてもらうことができました。
今回僕が人生で初めて聞いたのは、じいちゃんがシベリアの浴流を経てロシアから海を渡り、
日本に帰って、初めて実家に帰ってきてお母さんと話をした日っていうのを目撃しておられた方がその親戚の中にいらっしゃって、
当時その方は10歳ぐらいだったそうなんですけども、ドラマでよくあるようなセリフですよね。
お母さん生きて帰ってきて申し訳ありませんっていうね、死なずに帰ってきましたっていう挨拶をしたそうです。
これは僕はじいちゃんからも聞いたことがなかったし、多分僕の母は聞いたことがあったのかな?
でも僕は母から聞いたことがないので、もしかしたら僕の母も聞いたことがなかったんじゃないかなというふうに思うんですが、
お母さんにそういうね、生きて帰ってきてすいませんみたいな話をした後、お仏壇に手を合わせてその後26時間ぐらいぶっ続けで寝ていたということをね、
そのご親戚の方がおっしゃっていて、そんな出来事があったんだね。
じいちゃんもやっぱりそういう思いがあったりとか、そういう言葉を自分のお母さんに言ったんだねっていうことをね、聞いてなんかちょっと胸が熱くなるというか、
ちょっとね、涙腺が緩むようなこともあったりしました。
で、ちょっと話の軸はずれるんですけども、やっぱり祖父が亡くなったということで、
助手席簿っていうね、戸籍等本とかあるじゃないですか。
あれの亡くなった方バージョンのものが、席を除くと書いて、助手席簿というのがあるんですけども、
それをね、うちの父母が役所に提出したりというもので取らなければいけなかったので、それを持ってきていてですね、
この助手席簿ということを取ることになると、ご先祖様のお名前とか、親戚の名前とかいっぱい出てくるので、
せっかくなので掛け図みたいなものをしっかりこの木に作ってみようかということで、
うちの母とかね、僕の子供も一緒になって親戚の方の誕生日を聞いたりとか、
今までの経歴みたいなものをね、お話を聞き取りをする時間というのがあったんですね。
うちの母がこういうのを結構こだわるタイプで、以前も定期的にそういう親戚メモみたいなものをね、
チラシの裏みたいなものであるとか、ノートみたいなものに結構取っていたんですよね。
やっぱりそういう言葉で、あの時このおじいちゃんはこんなことを言っていたよとか、
あの親戚のおばちゃんとこのおじいちゃんがこうなんだよっていうことを言ってくださるっていうのは、
もちろんめちゃくちゃ重要な情報なんですけども、言葉とか記憶っていうのは、
よくも悪くも簡単に塗り替わってしまうんですよね。
親戚によっては、あのおばちゃんいつもこう言ってるんだけど、
でも実際はこうだから、あのおばちゃんの言ってることとちょっと違うからねっていうことがあったりするじゃないですか。
なので、人の記憶っていうのは結構適当だよねというふうにも思ったりするんですけども、
正しい記憶、正しい間違ってない情報をいただいたものをちゃんとメモしておくことができれば、
それはもう記録として確実に残っていて、極端に解釈間違いみたいなものがなければ、
正しい状態のままで後世に引き継いでいくことができるんですよね。
なので今回親戚の方にヒアリングしていく中で、
母がね、以前メモしていたものを僕も横目でチラッと見ていたりしたんですけども、
なんかこのおばちゃんの言ってること以前に母が取ったメモと合っているなみたいなことを見ながらですね、
やっぱこういうメモがあると、人々の思いとか記録みたいなものを受け継ぐときに役に立つなということで、
文字のありがたみ、それこそ助手席簿もそうですよね。
何年何月にこのうちのじいちゃんの親父が亡くなっていますとかね、
誰々さんが結婚してこの家の戸籍から外れていっていますみたいなものとかもちゃんとわかる。
僕らはこの令和のように生きていてもそれを把握することができるので、
やっぱりじいちゃんのご先祖様もそうですし、
じいちゃんの経歴みたいなものも親戚の方とかの記憶とかからで立体的に見えてくるようなことがあるので、
本当は文字っていうものの偉大さみたいなものについて再確認することができましたというのが一つ目のお話です。
シベリア抑留の実体験
そして二つ目がじいちゃんのシベリア浴流の時のお話ですね。
去年の本にも少し紹介したかなと思うんですが、じいちゃんはですね、
満州というところで、今は中国の領土というべきなのかな、
当時は日本領だったのでそこへ開拓団として中学校を卒業、今でいうところの中学校を卒業したと同時に、
その満州に渡ってですね、そこで自分の土地を持てるように活動していたそうです。
仕事とか、ロシアとの国境付近だったので、そこの警備みたいなこともしていたのではないかということなんですが、
その終戦を迎えた時にロシアがその満州の方に攻め込んできたので、
捕まったじいちゃんはロシアに連れて行かれて、1年半ぐらいかな、2年弱ぐらいかな、
捕虜になり、マイナス40度の中、強制労働、木を切らされていたそうで、
他の方も炭鉱みたいなところに入っていたりとかね、そういうことをして本当に大変な数年間を送って来られた方がいるということなんですね。
シベリアには行っていないけれど、やっぱりその満州で終戦を迎えた方の中で、
特に女性となるとロシア兵から性的暴行を受けたみたいなものとか、
性的暴行から身を守るためにどういうことをしていたのかとかね、
性的暴行を受けてしまった人はどういうこと、どういう行動をとっていたのか、
消毒をするとか何とかいろいろ本当に読むだけでしんどいようなエピソードとかがあったりするんですけども、
なぜ僕がそういうことを今この場で語れるかというふうなことを言うとですね、
このロシアでシベリアで抑留をされていた方の主旗というものが僕の手元にあるんですよね。
シベリア抑留という大変な環境にあった人のコミュニティ党でも言うのかな、何とかの会みたいなものがありまして、
今はもう生きていらっしゃっても90代、95歳、96歳以上の方しかそういう目にはあっていないと思うので、
今はもうその会としてはほとんど活動はされていないのではないかなと思うんですけども、
じいちゃんが若い頃は定期的に5年に1回か10年に1回かわかんないんですけども、
そういう抑留者の集いみたいなものがあったそうです。
そしてこの今から30年ほど前に平成の初めの頃にですね、
この皆さんからの思い出、思い出と言ったらちょっと言葉は変かもしれませんけど、
満州の時の思い出やシベリアの大変な経験を作文に、文章にしてくださいというものを集めた主旗があるんですね。
ちょっと今数え切れないんですけども、50人かな、下手したら100人弱かなぐらいの方の経歴みたいなものとかね、
作文みたいなものが集まっている分厚い本があります。
参考までにね、これをお盆に家族、親戚でちょっとこんなものがあるんだよということで、
知ってる人もいたり知らなかったりする人もいるので、それをちょっと紹介というか見ることがあったんですけども、
小学生の子供には、悪いけどこれはちょっとまだ今読ませれんと。
内容が本当に無語すぎて、小学生の君たちには読ませられない。
中学生でもちょっとまだ待ってほしいと。
早くてももう高校生、3年生ぐらいになってからとか、大学生とか社会人になってから読むぐらいの方がいいんではないかなということで、
一応釘を刺しておきました。
なんというかね、本当にこれを人が人にしていたのかっていうようなことが、
もうつらつらと皆さんの思い出で書いてあるので、
なんかね、もう下手したら人間不信になるんじゃないかとか、
親としては知ってほしいけど、知らせたくないみたいな心境なんですよね。
で、ちょっと話が脱線しちゃったんですけども、
30年ほど前に書かれた手記ということで、祖父が去年96歳で亡くなったのと同じように、
多分この手記を書かれたほとんどの方はもう亡くなられているわけなんですよね。
でもその方たちがそんな大変な思いをしたんだよっていうことを、
僕が知ることができるのは文字のおかげなんですよね。
しかもありがたいことにこれはもう50名以上の方が、
どうかな?100人ぐらいいるのかな?これちょっと今数えてないんですけど、
それぐらいの方が手記を残してくださっているので、
当時の様子、状況が立体的に見えてくるんですよね。
ほぼ全員に共通している単語が寒さと飢えっていうことで、
本当に寒かった、マイナス30度で寒かった、
マイナス40度になったら寒すぎるから今日は作業しなくていいみたいなね、
臨時休業みたいなものはあったらしいんですけども、
それ以外の時はもう毎日寒い中仕事をしていたっていう方がいたり、
やっぱり寒さで仲間が亡くなってしまって悲しいんだけども、
自分が寒さから耐えるために、
もう亡くなった仲間の防寒具をそのままもらって、
仲間を裸のまま農原、雪原の中にお遺体を置くことしかできなかった。
寒いところなので、お墓の穴を掘ることすらできないので、
そのまま仲間の亡骸を置くことしかできなかった、
みたいなことも書いてあったり、いろんな方からしました。
あと食べ物に困っていた。
文字の重要性
ここに関してはロシア系の方も全然食べるものがなかったということで、
日本人ばっかりが大変な雨に遭っていたわけではないんですけども、
そういったことも含めて、やっぱり食べ物がないっていうのは
本当につらいことなんだなっていうことが伝わっていきます。
少し目線を変えて、無事ロシアから解放されてですね、
京都の舞鶴港だったかな、京都にほとんどの人は、
半分くらいかな、いろんな港に行くパターンがあるそうなんですけども、
とりあえず京都に着いた方の主旗で多かったのが、
松の葉っぱの緑の美しさに感動したっていうね、
涙したっていうような方がすごい多かったですね。
ロシアはやっぱり一面銀世界、雪の世界ということで、
ちょっと僕も正確なところはわからないんですけども、
夏だけ涼しいというか、肌寒い、ちょっと緑がある時期で、
あとのね、日本でいうところの春と秋と冬はもう一面銀世界、
真っ白、凍ったままの世界っていうところなので、
日本に帰って、まず松の緑の美しさに感動した、
涙したっていうね、生きて帰ってこれたんだなっていうことをね、
松の美しさっていう言葉を書いてらっしゃる方が多かったので、
やっぱりこの緑の色っていうんですかね、白の世界から緑の
文字の重要性
ところに移って日本に戻ってきたっていうことを感じる方も
いらっしゃったんだなっていうことが伝わってきます。
で、また少し目線を変えるとですね、うちのじいちゃんは
マイナス30度の世界の中で大きな木を切らされていたそうですし、
じいちゃん以外の方で炭鉱の中でね、本当にその炭鉱の中で
なんていうんだろう、炭、鉄鉱石みたいなものとか、
なんとか資材を掘らされるみたいなことをして大変な目に
あってらっしゃる方が多かったというふうに聞いてるんですけども、
その50人か100人かの手記の中で1人お医者さんの助手みたいなことを
していらっしゃったっていう方の手記もあったりして、
その方は比較的暖かいところで、今でいうところの病院の受付とか
看護師さんみたいなことを普通にされていたということで、
捕虜の中でもやっぱりこの運のいい方とか、
比較的暖かい場所で作業できる方とか、理解のあるお医者さんだったんで
そんなひどいことはされなかったみたいなことを書いてあるんですけども、
どんな環境に置かれるかによって同じ捕虜でも扱いが違うんだな
というふうに思ったりもしているところです。
なんというかね、この方の極端な例ですけども、
このロシアの捕虜の手記みたいなものが病院で働かされていた方だけの手記が
僕がその手記を見つけたら、
捕虜って言っても割と手厚く扱われていたんだな
というふうに思っていたかもしれませんけど、
50か100人いる中の1人がそういう環境だったということを見ると、
この人はよっぽど運のいい人だったんだなとかね、
大体の人はこんな大変な思いをしていたんだなということが
やっぱり立体的に見えるんですよね。
これはだから1人が文字を書けただけだったらわからなかったことが、
日本人って識字率が高いと言われますけど、
たくさんの方が作文を残してくださることにより
当時の状況が立体的に見えてくるみたいなことがあるかなというふうに思うんですよね。
なので、もちろん文字が書けなくてしゃべるだけとか、
今回30年前に文字を書かなかったけど、
お話をするだけという方もたくさんいらっしゃったんじゃないかなというふうに思うので、
作文を書いてないのがダメとか、
作文を書いている人がいいとかそういうわけではないんですけども、
やっぱり僕が誰かから聞いた話を、
僕のじいちゃんから聞いた話を、
誰かにまたじいちゃんはこういう思いをしたんですっていうのに伝えることで、
僕というクッションが、フィルターがかかってしまうので、
じいちゃんの思いをそのまま伝えるっていうことがやっぱりできないと思うんですね。
ここら辺は戦後の、戦時中の方の思いを
後世の方に伝える語り部みたいな活動されている方の課題にもなっているところ、
難しさでもあると思うんですけども、
そういったものがやっぱり文字にしてあることによって、
色褪せずにというのかな、変わらずに当時の思いとか思い出を残すことができるので、
これは本当に人類が開発した素晴らしい発明だなというふうにこの度感じることとなりました。
文字ができてから何年でしたっけ?平安時代にはもうありましたよね。
その前も竹か何かに文字が書かれているみたいなものが日本でも残っているみたいなものがありましたけど、
すいません、細かいことは忘れたんですが、
1000年、2000年くらいの前の人が発明したものが今も続いているというふうに思うと、
めちゃくちゃいいものを作ってくださって、私たちはそれを享受しているというのかな、
使わせてもらっているみたいなことをちょっとふと思ったりしたんですよね。
若干ちょっとオーバーな表現に聞こえたところもあるかもしれませんが、
ちょうどね、じいちゃんが亡くなって1年目の発凡ということで、
そういう不死命と親戚との出会いがあったということもそうですし、
やっぱりこの8月15日前後になるとですね、
8月6日は僕広島県民なんで原爆の犠牲者に対して黙祷したり、
8月9日も中崎に黙祷したり、
15日もね、今日も家族でちょうど時間が都合が良かったので、
12時にも黙祷させてもらったんですけども、
やっぱりそういう不死命とでも言うんですかね、
この8月の不死命になると、
なんかね、いろいろ考えてしまう中途半端な言い方になっちゃったら、
いろいろ思いを馳せることがあったので、
こういったものを知らせてもらえる文字ってありがたいよなというふうに思ったので、
そういうお話を今日はさせていただきました。
ということで今日は完全な雑談会となったんですが、
文字という発明の偉大さを感じましたというテーマでお話をさせていただきました。
もしよかったらですね、これもSNS等の文字の力ということで、
コメントの力というものにもつながるんではないかなというふうに思うんですが、
あなたのおじいさんであるとかお父さんであるとか、
戦争体験記みたいなものとかね、
中にはシベリア浴流という単語に、
親戚のあの人がみたいな体験がある方も中にはいらっしゃるんじゃないかなというふうに思いますので、
お話しできる会議のものでも構わないので、
もし思うところがありましたらコメントや他のSNSのDMで教えていただけたらと思いますので、
よろしくお願いいたします。
気づいたら20分喋っちゃってるな、いつぶり長めになったんですが、
お付き合いいただきましてありがとうございました。
それでは最後になりますが、皆様腰痛にならないように肩を上げ下げしたり、
腰を回したりしながら体をリラックスさせてあげつつ、
今日やるべきことに向かって頑張っていってみてください。
ここまでのお相手はOKファームのOKでした。
また遊びに来てください。
ほいじゃまたの。