日本語と他の言語のニュアンス
今夜もお茶漬けナイト。
夜食くらいの時間帯、口寂しく、また心も満たされていない。
もやもやしている時に帰ってきてくれたような気分で聞いてほしい。
そんなポッドキャストです。
そうね。
なんか、ネットフリックス見ててもそういう時あるよね。
なんか、英語で聞いて、日本語のサブタイトルみたいな時、すごい脳内が大混乱みたいな。
ほんとわかる、それ。
多分、この日本語のニュアンスで言うと、もうありがとうございます、翻訳の人たちみたいな。
このニュアンスで伝え、もうここの部分難しいよな、みたいな。
お伝えしたいよな、みたいな感じじゃないけど。
わかる。
なんか、原文だからね、伝わるストレートさ。
あるある。
英語だからなのかなって、ちょっと最近思ってて謎なんだけど。
字幕は本当にすごいよね。
これは本当にセンスというか。
確かに、英語だからなのかな。
俺の場合は、英語と日本語だったら、一つの映画の中で両方聞いて、その意味の違いとか、みんなその違いを楽しめるけど、他の言語は一切わかんないから、その楽しみ方をすることが他の言語だとできないから、比較できないけど。
確かに英語だからっていう可能性もあるね。
そうだね。
英語話者の人から聞く村上春樹の作品の感想と、スペイン語話者の人から聞く感想って、なんとなくニュアンスが違うんだけど。
多分、結構感動ポイントは見てんねんけど、どう伝えたいかわからんけど。
うちは別にスペイン語話者じゃないからさ、スペイン語で聞かへんねんね。
でも、全員語話者の人が頑張って英語で私に伝えてくれるニュアンスが、多分スペイン語で読んでるときの感覚で伝えてくれてるのもすごいわかって。
多分、自分が話しじゃなくても、なんとなく伝わる雰囲気みたいなんで察してはいる。
でもエリはね、フリーリンガル。
本のデザインと出会い方
どうなんだろう。
なんか、若いあるきは英語でも見たり英語でも読んだことないから、ちょっとわかんないけど。
なんか、ちょっとふと思ったのは関係あるかわかんないけど、さっきの本の出会いに近い感じだけど、
イタリア住んでてすごいびっくりしたのが、結構普通に本屋さん行くと、
吉本バナナとか、結構ね、日本の作者の本が普通に売られてて、結構みんな読んでる。
で、なんかこう、いわゆるクラシックというか、古典系とかじゃなくて、結構現代作品がいっぱいあって、
新しい作品とかも結構いっぱい出てて、なんかね、それがびっくりした。
で、そのね、その本のカバーとかデザインとか結構イタリアってこだわってるなーって見てて思ったんだけど、
なんかね、いい感じにこう、すごい綺麗なデザインのものとか、シリーズとかがあったりして、
なんかやっぱね、本屋に行った時に手を振りたくなるような本が結構いっぱいあって、
私も買ったことあるんだけど、なんかすごいそれも、やっぱ本の出会い方と関係あるかなと思って。
本を読む前に手に取ったデザイン、カバー、感覚、どういう存在なのか。
なんかそれをもしかしたら、本を読む前の何かに関係あってもおかしくないかな。
うーん、すごいね。なんか本の内容さ、本当は多分本の内容で売りたいと思ってるだろうけど、作者的には。
手を取ってもらうためにその本の内容をさ、見た目で伝える移行もまた存在するわけだもんね。
デザインとかで手を取ってもらえるような移行がさ。
そうだね、だって全然本屋の雰囲気違うもんね。
アメリカに住んでたこともあるから比較すると、全然本屋の雰囲気って日本の本屋さんの雰囲気と、
私はそんなにイタリアのいろんな本屋にいたわけじゃないけど、
例えばミランド住んでたときのミランドの本屋さんとアメリカに住んでた頃とかと、
全然それぞれ雰囲気が違って、
時間があったからそのときのデザインとかも違うかもしれない。
やっぱりその空間の中で会う、出会いと、やっぱその部地域にその本を買ってるっていうのって、
何か関係があるのかなって。
分かる?いきなりカラフルやもんね。
なんか、日本の書店でも最近さ、原本と言ったら変だけど、コピーが売られてるとき、
なんかその洋書コーナー急にカラフルやもんな。
確かに。
イギリスでもそう思った。
めっちゃカラフルやんみたいな。
もしこんなカバーやったら楽しく幼少期読んだかもしれへんって思ったと同時に、
日本のアニメがヒットしてる理由もよくわかって、
子供のときにたくさん本を楽しむ文化が、
もちろん読まへん人もおるけど、
イギリスに生まれたときは、うち子供がさ、めっちゃ楽しそうに本を選んでるの見てショックやって。
へー。
なんか日本であんま見たことなかったよな。
子供が喜んで見てるやつって恐竜とか、小学生向けの雑誌とか、何やらな。
簡単に言ったらコンテンツのないものと言ったら変なんだけど、
チャレンジじゃないもの、彼らにとって。
けど、イギリスの本屋さん、全員じゃないけどさ、たまたま見た子供たちはさ、
次どれ読もうとか、親にさ、これやったら私でも読めるとか確認したりさ、
なんかへーみたいな、みんな楽しそうと思って。
へー。
なんか、YouTubeのiPadとか見て、本屋さんでYouTubeの見てる人みたいなのいっぱいおるけど、日本じゃんみたいな。
なんかそんなの見たときにさ、
まあなんか日本やったらアニメは腐るほどあるし、もうめちゃくちゃいっぱいある。
なんかもう選んでも選んでもたぶん全部見切れんくらいあるやん。
イタリアさ、そういう環境にないんかなーとかって思って。
うーん。
なんかすごいショックだったの。
うーん、面白いなー。
そうね。
さっきさえりがさ、イタリアの本屋さんに行ったときにさ、日本の現代作家の本を置いたってやったら知ったじゃんか。
うんうん。
イタリアの人たちはそういう本を、そういう本っていうのはイタリアで出版されているイタリア人による本だけじゃなくて、世界中の本を日常的に読んでいるってこと?
うーん、なんかね、世界中っていうかね、日本人の作家が売れてるような感じだった。
あった?
あったとか。
そうなんだ。
世界中みたいな感じじゃなくて、売れてる最近出た本みたいなのが、本屋に入ったらすぐ目につくところに置いてあるじゃん。
で、ぱって見ると、イタリア人の作家と混じって、吉本マットとかあったりとか、分けてるわけではなくて、売れてる本として置かれてたりとか。
うん。
そうだね、だから、うん。
なんかこう、なんだろうね、なんかすごく不思議だった。
初めて見た時に、え?みたいな、なんか、え?みたいな。
不思議だよね。
日本の作家の作品イタリアで売れるって。
うん。
そうだね。
好きだなと思って。
なんかアニメもそうだけど、日本って実はコンテンツ強いのかな。
でもそう。
本の楽しみ方と文化
不思議だよね。
でもさ、さっき言うの話じゃないけどさ、子供の時にさ、こう、海外の人たちはそうやって、なんかこうナチュラルに本に楽しむ、小っちゃい頃から本に楽しむ文化があるけど、日本人はどうなんだろうって思ったりしてさ。
なんか俺感覚的には、なんかもう小っちゃい頃にそんなに本読む、喜んで本屋さん行って手を取るっていうのをしてる光景は想像できなくて。
どっちかっていうと与えられるものみたいな感覚なんだよな、なんか。
うん、わかる。
だって宿題多いもん。
本を楽しんでる時間とかない?
そうだね。なんかさっき言うの話聞きながら思ったけど、なんか本って義務的な匂いすんだよね、なんか。
わかる。
私は未だにそれに苦しんでるわ。
そうだね。
そう。
俺20代の時にね、その本が義務的であるっていうのを脱却した時期が明確にあったんだよ。
えー。
そう、でもそれまではやっぱね、読まなかったもん。義務的な匂いがしてたから。
どうやって脱却できたの?
でもそれは結構俺は強烈な目的意識だった。自分を変えたいとか、なんかもっとこう成功したいっていう目的があって、そのために本という手段を取ったっていうので猛烈に読んだ時に。
まあ最初は目的ドリブンでやったんだけど、読んでるうちにこれは本ってめっちゃ楽しいなって気づきがあってから、なんかその義務的な匂いがなくなってたんだと思う。
けどさ、そうでもしないと多分もう義務的な匂いなくならなかったことを想像すると、なんかその子供の時にその本を楽しんで手に取れるような状況だったら、それはなんだろう、もっと豊かになりそうだなっていう感覚的な思いはある。
そうだね、いやーめっちゃ刺さるわ、ちょっと今親としてもさ。
刺さってる、刺さってる。
刺さるよー、なんかあるあるだけど、なんか本をさ、一回だけ読み聞かせとかさ、もうするといいみたいな、ゆうさん。
ゆうね。
無理矢理読ませてるっていうのはないけど、でもまあ私がね、ちっちゃい時に読んでた絵本がまだあったりして、それをだからお母さんからもらったりとか、絵本は結構家にあったりとかで、なんかまあまあ絵本あるんだけど、
目につくような高さに置いてみたりとか、あとね、ちょうど子供用のなんか本棚みたいなのがあって、そこにこう選んで5冊ぐらい置いとく、それで勝手に手取って言うとしみしみみたいな感じで。
でもさ、なんかそれもすごく、なんだろう、楽しんでほしいっていうふうに思うけど、でもやっぱ同時に親としての学習意欲みたいなのが培ってほしいなみたいなさ、なんかそういう思惑ももちろんあるわけじゃん。
それがさ、いつ向こうから義務として。
うん。
うん。
いじられるか、そわそわ。
うん。
むずいね。なんかこの前のさ、もうすでにポッドキャスト上がってるけど、コミュニケーションをさ、結構手段で捉えてるんじゃないかって話あったじゃんか。
でもエリーが紹介してくれてたけど、イタリアの人ってコミュニケーションってもはや手段じゃなくて、なんか人間の一部というかナチュラルにやってるものみたいな話あったと思ったけど、
子どもに本や宿題を強制することについて
なんかそれと同じような話だなって思った。なんかその本をその手段、なんかこう、なんだろう、賢くなるためのものみたいなさ、なんか手段として捉えていくとなんか義務的なものとして捉えていっちゃうけど、本当に楽しいものみたいな、それ自体なんか普通に楽しいもんなんだよっていう捉え方していくと、自然となんかやってくれるのかなって思ったり。
そうだね。
そうだね。やっぱ自分がさ、楽しめるかどうかっていうのも大きいんだなって。
そうだね。
いや、ほんとそうだよ。楽しめるもの。なんかさ、例えば運動だってそうじゃんね。
じゃあ小さい時からさ、しっかり運動させることによって、なんかこう、例えばスポーツ選手になるかもしれないとか、それかもうちょっと手前でもいいんだけど、体が強くなるからとかさ、なんかそういう手段としてスポーツをさせるというよりかは、それ自体楽しいっていうふうに思ってもらえたらもうさ、自然とやるじゃんね。
そうだね。
そうだよね、ほんとそう。なんかそこがすごく、だからなんかさっきのさ、ゆうが言ってた、キリスだっけいたときの子供がさ、本屋でこの本がんみたいなさ、それも、なんていうんだろう、やっぱその自然と、もちろんなんかそういう子もいるだろうし、そうじゃない性格の子もいるかもしれないけど、やっぱそれに気づけるかどうかっていうのもあるよね。
なんか無理やりそうさせるんじゃなくて。
なんか、そうね、なんか別になんだろう、本を読むことのメリットが何かにもよるけど、なんかもう別にyoutubeで学べるんやったらそれでもいいと思うし、
多分なんか本、なんかそのうちが感動したのは、なんか多分youtubeとかそういったコンテンツだと、何が自分にとって挑戦できるものなのかっていうのはわからない気がしていて、
基本的にはこのコンテンツ作ってるってことはある程度わかりやすい、ターゲット等がいて、そこのメンバーがわかるって思えるような言語で多分お伝えしてると思うんだけど、
本って必ずしもそうじゃないやん、なんか一応さ年齢とかさ、英単語どのくらいのレベルとかさ、目安つけてくれてるところもあるけど、
私が感動したのは、その子供たちが自分にとってチャレンジ、次のチャレンジを探してる感覚が好きやって、
本を読むことが目的というよりかは、なんかその次に読める本があるっていうチャレンジを楽しんでるみたいなのが、なんかうち的にははぁーみたいな、そんな感覚とかもうこの時ないでーみたいな、
じゃあなんか今その、なんていうの、うちのニブリングスたちですね、なんか年老いたち、ニブリングスたちにクリスマス毎年本送ってんねんけど、うちからしたら読むか読まへんかはあなた次第やけど、
私はチャレンジさせてんねんな、なんかさ、ちょっとまた今度クリスマスが、私クリスマスのために生きてるってくらいクリスマス好きやねんけど、
そうなん?
そんな話はあんの?
教えていいの?
ちょっと楽しいけど、
このニブリングスたちに毎年、何の本をあげるか、今年のテーマは何かとか、っていうのを決めてて、で、それに対してどの本にするかみたいな年齢に合わせはすんねんけど、
なんかやっぱこう、たぶんやねんけど、うちのお姉ちゃんたちって、たぶん挑戦とか、本に関しての挑戦とかさせへんと思ってて、勝手に。
なんかもう小学生とか幼稚園生の人生めっちゃ忙しいやん、みたいな。
なんか、どこで家族愛学ぶん?みたいなくらいさ。
忙しくって、宿題とかで2、3時間やってて、マジで?って。
なんだろうなって。
あるやん。
うちは宿題好きじゃなかったし、反対派なんだけど。
何よりこう、まあその子たちがさ、宿題あって、やっぱやることあって、もしかしたら習い事あるかもって、
なんかそんな忙しいスケジュールの子どもたちに、なんか私が誕生日プレゼントでチャレンジさせるのはなんかもう酷なわけ。
だけど、サンタさんなら誰も傷つかへん。
贈り物だれだれさんがくれたからとかじゃないし、サンタさんやからっていうので、挑戦させると。
本や絵本を楽しむことの重要性
やっぱりさ、ちょっとトゥーマッチに学歴主義みたいなの、この考えすぎてる感はあるよね。
やっぱさ、子ども自体にどれだけ勉強してさ、どれだけ学歴トップにいくかみたいなのが、
社会人になってからの人生を決定づけると考えすぎてる気がしてて。
だから、子どもの頃からやれ、本を読み聞かせるべしとか、なんとかするべしみたいな。
全部手段として捉えていくみたいな。
今の優の話もそうだけど、宿題多すぎるとかさ。
なんかこう、たぶん小さい時は子どもに対して選択権がないんで、
もう完全にレール敷いて、でもそれはたぶんレールを敷こうとしてる親も良かれと思ってやっている。
それはなぜかというと、やっぱりその結構、権威主義強めな社会だからっていうのはある気がするよね。
そうね、なんか読み聞かせ、うちめっちゃ好きやねんけどさ、子ども自体に。
読み聞かせがさ、なんかマサイが言ってくれたみたいに、将来の学歴のためかもしれへん。
いいと思う?こういうかもしれんけど。
なんかうちは子どもの時にさ、なんか、この人と一緒にこの本読んだなっていう思い出になるかわからないけど、そうなったら嬉しいなとか、
なんか絵本とか本の良さってさ、なんだろう、私の中ではさ、たぶん今後何年かも書店にあるものやと思ってて、
なんかそのエレギンチにさ、ジェネレーションを超えた絵本があるみたいに、
なんか絵本一個持ってたら、なんかそれが自分のものになって他の人のものになったりするかもしれへんし、
なんか普通に思い出があったら、自分で大人になって買うかもしれないし、
なんか幸せな思い出の一つになるといいなと思ってて、
なんか本当に、なんか豊かさみたいなのをさ、与えることが難しいなって思うからさ、
うん、ね。
だからなんかね、ちょっとでも、なんか本を楽しむっていうよりか、その時間を楽しんだツールが本だったくらいが、
私はなんか心地いいなって、
今まさに言われて、そういう感覚もあるんかと思った。
結局でも本の読み聞かせも、やっぱり、
まず親が楽しんでやっているとか、子供も楽しんで聞いているみたいな、
楽しさ、豊かさみたいなものが目的でやっている人のほうが、
人生豊かになる気がするけどね。
なんかもうさ、義務感だけでやってたらそれ伝わるじゃんね。
そうなんだよね、ほんとそう。
今週はここまでです。また次回をお楽しみに。