2024-03-17 26:25

#期待はずれの救い 24/3/17

マルコ11:1-10からの礼拝説教。2024年3月17日録音。神様の助けが必要な時に期待が外れるようなことがあるかもしれません。今日の聖書箇所で記されている、十字架に向かうイエス様も群衆が期待した救い主の姿と違っていたのです。キリスト教の暦ではイースターの1週前の日曜日を棕櫚の日曜日(パームサンデー)と呼びます。今日の箇所がちょうどそこに当たります。まずこの箇所にある旧約聖書の背景について学びましょう。1.王なる救い主としてのエルサレム入城、2.「私たちをお救いください」、3.期待に反した不思議な救い、の3点を取り上げます。


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マルコ11章1節から。 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山の麓のベテパゲとベタニアに来た時、
イエスはこう言って、二人の弟子を使わされた。 向こうの村へ行きなさい。
村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない転ばが繋がれているのに気がつくでしょう。
それを解いて聞いて来なさい。 もし誰かが、なぜそんなことをするのかと言ったら、主がお入りようなのです。
すぐにまたここにお返ししますと言いなさい。 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に転ばが繋がれているのを見つけたので、
それを解いた。 すると、そこに立っていた何人かが言った。
転ばを解いたりしてどうするのか。 弟子たちがイエスの言われた通りに話すと、彼らは許してくれた。
それで転ばをイエスのところに引いて行き、 自分たちの上着をその上にかけた。
イエスはそれに乗られた。 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、
他の人たちは葉のついた枝を野から切ってきて敷いた。 そして前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。
こさな、祝福あれ、主の皆によって来られる方に。 祝福あれ、我らの父、ダビデの来たるべき国に。
こさな、意図高きところに。 こうしてイエスはエルサレムに…失礼しました。
10節までですね。 それでは今日はこのところから、期待外れの救いと題して聖書からお話をします。
皆様おはようございます。 今日は3月の17日ですね。
昨日でしたかね?気がつきましたら、 日の入りと日の出の時間がどちらも5時50分でした。
それで旬分の日は今週の水曜日20日ですね。 どんどんこの日が長くなってきている。
旬分の日の後の最初の日曜日がイースターですけれども、その前の1週間前、 実は今年で言えば本当は来週なんですけれども、それをキリスト教の小読みでは
こちらの絵にありますように、 シュロの日曜日、パームサンデーと呼びます。
これね、イエス様がロバに乗っている絵ですけれども、 それが今日の聖書の箇所に由来したキリスト教の小読みなんですね。
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で、それはパームというのはシュロですね。 今今日読んだ聖書の箇所にありますように、イエス様が王なる救い主、
王なるメシアとしてエルサレムに入る。 エルサレム入場と言われてますけれども、その時に群衆が歓声を上げて、シュロの枝を
道行くイエス様の前に、ロバに乗ったイエス様の前に敷き詰めた。 その日曜日ですけれども、その後の金曜日に十字架にかかるんですけれども、
その前の日曜日をお祝いするというか、覚えるのがパームサンデー、シュロの日曜日です。 本当は来週なんですけれども、私たちの教会はそういう教会の小読みで動いてないので、ただたまたま
今日そういう箇所に当たったということで、今日もここから学んでいきます。 3つのことをですね、今日取り上げます。1つ目は
この今日の出来事の背景にある旧約聖書の記述についてですね。 2番目はですね、この中の
群衆の叫んだ穂様という言葉に関わること。私たちを救いください。 最後は、期待に反した不思議な救いという
そのことを見ていきます。 1番最初ですね、まず最初。大なる救い主としてのエルサレム入場、このイエス様のお姿です。
11章の1節2節に書かれています。 繰り返しになりますが、さて一行がエルサレムに近づき、オリーブ山の麓のベテパゲと
ベタニアに来た時、イエスはこう言って二人の弟子を使わされた。 向こうの村へ行きなさい。
村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない転葉が繋がれているのに気がつくでしょう。 それを解いて引いてきなさい。
ここのイエス様の言動、実はこれが旧約聖書の 言ってしまえばメッシアがやってくるという約束の聖書の言葉に
由来していることなんですね。英語でthe law is the law needs itと書いてあります。
なぜ、いつものように旧約聖書の背景を見るかというと、この旧約聖書の背景を見ることによって
クリスチャンである方であればイエス様が救い主であるというのは当たり前。 イエスがキリストであるというのは当たり前なんですけれども、実はそれは
厳粛な神様の計画。 イエス様がこの世に現れる千年近く前にもそのことが聖書に予告されていたという
そういう背景を知る。 また
実はですね、それをクリスチャンの人も再確認することによって
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私たちはですね
聖書を新しく知るその喜びとかですね 楽しみということをですね知ることができる。また
私たちはですね、もしイエス様信者クリスチャンであるならば 聖書を深く知ることによって
当たり前のように信じてきたことがですね、自分の背景 信仰のですね背景にこれだけ広くて深い旧約聖書のベースがあるんだってことを知ってですね
自分の信仰もですね深く根差すことができる。 そんな理由もあって
取り上げます。ちょっと前置きが長くなりましたが、とにかく今日の出来事の背景にある 旧約聖書のことを出来事を見ていきます。
まずイエス様はですね、これまで3度エルサレムで十字架にかかる 受難に遭うということを予告して、ついにですねこのエルサレムに入る
それが今日の場面です。そして この後すぐにですねいよいよイエス様が囚われていく
そういうところに迫ってきたわけです。 その危険なエルサレムにイエス様がいよいよ足を踏み入れたという場面ですね。
で、その時にですね エルサレムという言葉がその鍵ですけどもう一個大事な言葉で
オリーブ山と書いている。 このオリーブ山ということはですね実は
旧約聖書にですね、救い主がやがてやってきた時に オリーブ山に立つという予告が書かれているんですね。それがゼカリア書という旧約聖書の
中にあります。 14章の
4節ですね。ちょっと読める方だけでいいので、この真ん中の部分読んでみましょうか。 ゼカリア14-4-a、その日から3、その日主の足はエルサレムの東に面する
オリーブ山の上に立つ。この主というのはやがてやってくる救い主のことです。 それがオリーブ山の上に立つということからここでわざわざ
まあ マルコですけども、マルコもですねイエス様がオリーブ山のふもとに来たと書いてあります。
それだけではないんですね。同じゼカリア書のその後にですね ロバのことが書いてあります。今日ちょっと詳しく触れませんが
イエス様はこれまでの奇跡のようにですね 不思議な力を持って、やがて起こることを弟子たちに告げたわけです。
これこれこれどこに行って、こうすれば知らない人のコロバを連れてくることができるよ。 主というのはイエス様ですけれども、主なる神様がそこに乗るんだと言えば返してくれますよ
ということを不思議に予告して、それが実現します。 その
特にコロバに乗るというところが、実は旧約聖書のやはり同じ ゼカリア書の9の9、9章9節で予告されています。
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救い主はロバに乗る、コロバに乗ってくる、ですね、読んでいますね。 娘シオンよ、王位に喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。
みよ、あなたの王があなたのところに来る。 になるもので勝利を得。ニューワなものでロバに乗って。メロバの子であるロバに乗って。
普通ですね、当時多分イスラエルでも ローマの支配下になったので、王様とかですね、権威者が
戦争の勝利を祝うためにやってくることをよく見たと思うんですね。 で普通どうですか皆さん、勝利の王様が城に入るって言ったら何に乗ってきますか?
私この間犬散歩したらですね珍しい動物がいて、犬かと思ったら小豚だったんですね。
まさに豚に乗りませんけど、普通王様とか勝利の凱旋した人は馬に乗ってきます。 でも王様なのにコロバに乗ってきた。これ不思議ですよね。
それがわざわざ書いてる。なぜかというとイエス様はニューワな王なる救い主だからなってことを表しています。
ここでもその出来事が一致しています。はいじゃあそんなところですね 旧約聖書の
この部分だけでも一致が見られるわけですけれども 2番目の点でもう少し私たちの生活や信仰と関係あるところから旧約聖書との一致を見ていき
ましょう。2番目、それは私たちを救いくださいという祈りや叫びです。
コロバに乗ったイエス様、人々がこの王様の凱旋をですね祝うように引き物をして、また王様が乗る馬に乗せるように自分たちの着物をオルバに乗せました。
そしてそのイエス様が進んだ時に人々はこう言いました。 そして前を行く人たちも後に続く人たちも叫んだ。
読める方はここから穂さなから読んでみましょうか。穂さな祝福あれ 主の皆によって来られる方に祝福あれ
我らの父ダビデの来るべき国に穂さないと高きところに。 これ今日のところですね。
実はこの穂さなという言葉を聞いたことあるかと思いますけれども、それは 主を救ってくださいという意味があります。
これはですね皆さんがよく知っているハレルヤとかアーメンと同じで
旧約聖書の神様を礼拝するヘブライ語はそのまま 礼拝の言葉になって残っていることです。
ちなみにアーメンはその通り、ハレルヤは主を褒め称えよ。 穂さなは主を救ってくださいという旧約聖書の意味です。
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でこのヘブル語の穂さなという言葉を彼らは使いました。 そしておそらく叫んだ群衆もですねその意味が分かって
あ、ついに約束の救い主なる王がやってきた。 王よ私たちを救ってくださいという叫んだと思います。
で実はこの同じ言葉が 今のマルコの11章9節から10節ですけれども
旧約聖書イエス様が登場する千年近く前に 500年近く前に書かれたと言われている詩編の118編の25、26節に書いてあります。
黄色でわかるように書いてありますが詩編だけ読みますね。 ああ主をどうか救ってください。これが穂さな。
保守はアナーという言葉です。 ああ主をどうか救ってください。そしてああ主をどうか栄えさせてください。
祝福あれ主の皆によって来られる方に私たちは主の家からあなた方を祝福するという 救い主がやってきた時に人々が叫ぶである声
それが ある面予告的に書かれていてイエス様のこのエルサレム入場の時に実際それが起こっている
ということがわかります。 そしてこの
主よ私たちを救ってくださいという穂さな叫びや祈り これはですね2000年前にこの当時の民が叫んだ言葉です。
でもどうでしょうね。 皆さんも教会に出入りしている人ならなおさらイエス様私を助けてくださいって祈ったことがあるかと思います。
でその2000年前にこのイスラエルの地で民が叫んだイエス様に対する祈りがですね今の私たちの 祈りと同じだという
その不思議な一致と言いますかね。まあ皆さんどうもわかりませんけどそれがですね何か厳粛な一致
私たちと2000年前の彼らとの間に繋がりがあるんだなというそういうものを私は感じたわけです。
不思議なことですね。 何がともあれ私たちもまさに檻にかなってイエス様に向かって救い主イエス様
私たちを救ってください今お願いしますと祈ることができます。 まあ最近ね
いろんな震災を始め災いが多いことからあるいは スポーツのねあのいろいろゴールのところとかで祈るということが一般の人にも広まってきて
います。ぜひですね私は牧師として皆さんに勧めたいのは誰に祈るかという時にですね 的をしっかりしていると祈りが通じるようにですね
イエス様という救い主に向かって祈ってみてほしいですねイエス様 私を救ってください
なぜならイエス様救い主です。 ほさなという言葉にはですね今私を救ってくださいという切迫した思いもあるわけです
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それが2番目ですね。最後 そして
しかしですねその救いというのは期待に反した不思議な救いだということなんです 実はですねこのほさなと叫んだ群衆にはですね一つの誤解がありました
それは何かというと彼らですね 今ここにイエス様がエルサレムの繁栄を文字通り回復してくれると思ったんですね
で当時このイスラエルはローマの支配下にありました 詳しく言いませんけれども搾取をされていた
非常にまあ苦しめられている まああんまり深くここでは触れませんけれども
そういう中で救い主がダビデの最大の救い主が自分たちを救うという希望があって イエス様がローマの圧勢から回復してくださるという願いを込めてですね
今私たちを救ってくださいこのローマの圧勢からって願いで祈ったんです でもそこには誤解があったんですね彼らはダビデのように軍事的な力によって
ローマの圧勢から自分たちを救ってくれるそういう救い主オーダーとイエス様のことを 理解していました
しかしそれはまあずっと生死 この礼拝説教聞いている方はわかると思いますけれども
イエス様が3度ご自分についてこういう救い主だって言った 救い主の姿やありようとは違ったわけですよね
柔軟のメシア 逆に命を捨てることによって人を救うというメシアだったんですね
まあ後で見える方はマルコ10章45節見てほしいんですけれども イエス様は
使えられるためではなくて人に使えるためにこのように来て多くの人の贖いのために 自分の命を捨てるためにこの地に来た
そういう救い主だと言っておられます それはこの群衆の期待と相反するものだったんですね
これからイエス様はまあここでの時間軸ではその数日後の にですねイエス様は逮捕捉えられて
生やしたてられたユダヤの群衆の指導者 民に群衆の政治的宗教的ユダヤの指導者たちに捉えられて裁判にかけられるわけです
そしてイエス様をこうやって歓喜の声で迎えた群衆がですね 十字架につけろって一緒に叫ぶんですね
まさに期待を抱かせながらもう裏切る がっかりしてですね人々はそのイエス様を捨てるんですね
十字架につけろ 指導者として
この捨てられた救い主ということがやがて起こる だからイエス様はここでは
あえてロバの上に乗っていますけども騒ぎ立てる群衆党は裏腹にですね 沈黙を保って静かにロバに乗って進まれたわけです
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実はその アンバナンスというか不思議さがですね先ほど見た
コサナーという言葉の紙編118編の直前にですね予告されているんですね 紙編のさっき118編
25節26節見ましたけどその直前の 2223節にこういう言葉があるんですね
家を建てる者たちが捨てたいしそれが要の意思となった これは主がなさったこと
私たちの目には不思議なことだっていうことでこれあの英語でコーナーストーン 角の石って言うんですけども当時石造りの家だったんです
でその時にですね四隅に大きい石を置いて柱 壁をですね支えるそういう金銘子コーナーストーンというのがこう
当時石造りの家に 市長に長方際なんですねでもここで言ってるのはそういう建築師たちが捨てたような
石が 金目の意思として使われたそれが不思議だってどういうことかというと捨てられた
死んだイエスという男が人々の救いのためになくてはならない 救い主だったそういう不思議さを実はこの言葉が予告しています
今日は取り上げませんけれども丸子の11章で実はそのことイエス様はよくあの 取り上げていますね
ぜひですねここで私たちが知っておかなければいけないこと それはですね
イエス様が王なる救い主としてエルサレムに入場した時にですね 王として高いくらいにつくのではなくてイエス様がつく高い場所というのは実は十字架
の上であったってことなんです そして
そのことがですね 神に呪われたものとして十字架の上で捨てられた男が実は神であって救い主だと
いう不思議なことが起こっている そういうメッセージがここに込められているわけですね
実はですねこの不思議という言葉ですけれども この不思議という言葉は
この 旧約聖書ではですね皆さん知ってるかなぁの出エジプト
ディズニー映画でねキングオブプリンスなんてもう世の障害書かれていますけど 出エジプトの奇跡を指しますそれから始まったいろんな
あの神様の人間が思ってもいない不思議な救いの 奇跡や出来事を指して不思議と言うんですね
21:08
である学者はですねこんなことを書いているんですねちょっとこちらに 言いができなかったんで皆さんレジ名のそうですね
下から 2ページ目の下から12段落目ですね
3段落目かこの不思議な救いの体験は 出エジプトの奇跡から何度見られたことでしたそれをある学者は構成解説しています
イスラエルの民はこうした不思議な体験を通して 絶望を希望に変えてくれる神
人間には不可能と見えることを可能にしてくれる神への信仰を深めた ということがこの不思議という言葉に込められている
まあここから私たち何を知ることができるか 私たちはですね神なるものイエス様に救いを求めて祈ります
で時に叫ぶかもしれません でも実際の問題としてその祈りが答えられなかった
あるいはまあ 違った答えが与えられると思ったりですね
まあそういうことがやっぱまああるんですね まさにこの
イエス様を迎えた群衆のように 違った答え期待と違う答えが与えられたり沈黙のままであるであるということが
祈る人にまあまあ起こることがあるんですね しかしその時にこそですね
イエス様は十字架の救いを始め 私たちの思いを超えた不思議な形で救いを授けてくださる
そのことにですね思いを馳せていただきたいんですね 人間の知恵を超えた神様の救いの技ということがある
そのことをですね 後の使徒パウロがですねこう書いている
これに飛びと当てた第一の手紙2章の8節9節にその こと書いていますね
まあパウロは イエス様を無知上に十字架につけた人たちのことをまず取り上げて
そしてその 技の不思議さを書いています
この知恵をこの世の支配者たち いわゆる十字架による救いですねこの知恵をこの世の支配者たちは誰一人知りませんでした
もし知っていたら栄光の種を十字架につけはしなかったでしょう ここからちょっと読める方しかしから読んでみましょうか
しかしこのことは目が見たことのないもの 耳が聞いたことのないもの人の心に思い浮かんだことがないものを神は神を愛する
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者たちに捉えてくださったと書いてある通りでした この不思議な神の救いがイエス様の十字架にありますし私たちが祈る時にも実は
そういうことが起こるということです そして実はそのような経験をした人をですね
周りの人はこのように呼ぶとまあちょっと書いてありますけど旧約聖書の四辺 で
そういう 思いもよらない不思議な救い所体験した人のことを周りがこう呼ぶとですね四辺の71
てあげますちょっと難しいけど頑張って言ってみましょうか 私はから3はい私は多くの人にとって奇跡と思われました
あなたが私の力強い酒所だからです あなたっていうのはまあ神様
救い主という 神様救い主が力強い酒所であるということはですね
まさに周りから見たら不思議な奇跡と思われるような救いを実は体験した人なんだ ということです
まあそのような思いを超えたイエス様の救いのことに期待しながら日々歩んでいく お互いでありましょうお祈りします
天の神様あなたの名前を賛美いたします あなたは不思議な形でイエス様の十字架そして復活によって私たちのために救いの道を
開いてくださいました私たちが歩む道には理不尽なことが起こったり 祈っても答えられないことがあるかもしれません
しかしどうかその時に諦めることなく不思議な救いを成してくださる そのイエス様の十字架とイエス様の救いのありを見上げながら祈りまた歩んでいく
そのようなお互いであり教会でありますようにここに集まれたお一人お一人をどうぞ あなたが豊かに祝福して導いてくださいますようお祈りいたします
この願いと感謝を私たちの救い主 主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメンそれでは1分ほどその場で黙祷しましょう どうぞ神様の言葉に応えて心にあることを祈ってください1分だけ黙祷します
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