2022-06-12 25:18

#109/22/6/12 生みの苦しみ〜 「信頼関係の中で人として成長するには」

ガラテヤ-20からの礼拝説教。2022年6月12日録音。先週見た箇所に続きパウロはここでも親子のモチーフを使っています。ZOOMもメールもSNSどころか手紙すらも気軽に書けないパウロは愛するガラテヤの教会の危機を憂いています。その親子関係に関連し1.パウロに倣うー「私のようになって下さい」、2.最も大切なものを与えるー「目をえぐり出してでも」、3.出産するパウロー「キリストが形造られるために」の3つの視点から学びましょう。

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それでは、お読みします。 ガラテア人への手紙4章12節
兄弟たち、あなた方に願います。私もあなた方のようになったのですから、あなた方も私のようになってください。
あなた方は、私に悪いことを何一つしていません。 あなた方が知っている通り、私が最初あなた方に福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
そして、私の肉体には、あなた方にとって試練となるものがあったのに、あなた方は軽蔑したり、嫌悪したりせず、かえって私を神の使いであるかのように、キリストイエスであるかのように、受け入れてくれました。
それなのに、あなた方の幸いは、今、どこにあるのですか? 私はあなた方のために明かししますが、あなた方は、できることなら、自分の目をえぐり出して、私に与えようとさえしたのです。
それでは、私はあなた方に真理を語ったために、あなた方の敵になったのでしょうか? あの人たちは、あなた方に対して熱心ですが、それは善意からではありません。
彼らはあなた方を私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。 善意から熱心に浸われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなた方と一緒にいるときだけではありません。
私の子供たち、あなた方のうちに、キリストが形作られるまで、私は再びあなた方のために、海の苦しみをしています。
私は今、あなた方と一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。 あなた方のことで、私は途方に暮れているのです。
以上です。 今日はこのところから、海の苦しみと題して見言葉を取り付けます。
みなさん、おはようございます。 梅雨に入りまして、
そしたらですね、昨日は突然またライブのようになったり、また少し寒くなったり、気候の変動が激しくてですね、
みなさんも体調の不調を訴えたかもしれません。 私もちょっと先週、頭痛いこともあったんですが、
体調の不良を含めて、様々な、ちょっとしたり大きな苦しみが私たちに訪れます。
ここでパウロは、ガラテア人のクリスチャンが、
偽教師たちに惑わされて、パウロに敵対しているという、今の状況を憂いています。
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先週、親子のモチーフをパウロは、神様と自分たちの関係にあためました。
今日はですね、パウロは親子の関係を、パウロ自身とガラテアのクリスチャンとの関係の中で、
あるいは家族関係、兄弟というモチーフを、パウロ自身とガラテアのクリスチャンとの間で使っています。
背景を少しおさらいしますが、前に地図を出しましたけれども、
ガラテアというのは、このあたりですね、今のトルコで、今話題のオデーサとかある国会がここですね。
ちょっとこの上の方がですね、ウクライナ共和国になっていますが、その下の方、トルコ。
トルコがね、ロシアとウクライナを仲介しようなんていう話もありますけれども、
この地域の教会にパウロは手紙をあてていますが、
場所はですね、ギリシャ、今のギリシャのこのコリントからあてて書いています。
そして自分が産みの苦しみをして産んだ教会が、信仰の困難に遭っているその苦しみを今味わっている。
今はですね、ズームとか電話とかメール、SNS、いろんな方法で簡単に連絡が取れますが、
この時代は手紙さえですね、紙が高価でありましたし、運搬に時間がかかりました。
ですからこのパウロとガラティアのクリスチャンの距離は、私たちの想像以上にですね、遠くに離れている。
パウロの心配も、いわゆる団長の思いだったわけですね。
そんな中で彼は情熱的に、感情的に訴える、そんな書き方を今日のところでしています。
彼のパッション、また愛があふれるこの箇所、この親子関係、家族関係に関連して3つのことを見ていきましょう。
まず最初、パウロにならう、私のようになってくださいと呼びかけています。
読める方、最初の部分だけ読んでみましょう。
兄弟たち、あなた方に願います。私もあなた方のようになったのですから、あなた方も私のようになってください。
私のようになってください、親が子に模範を示すように。
あるいは兄が弟、妹に模範を示すように、パウロは教えています。
ここで何が問題か、何をパウロは言いたいか。
パウロはかつて立法に非常に熱心でした。
しかしイエス様の福音に出会ってからその立法純正の生き方を捨てて、あたかもそれは違法人のような生き方です。
それをパウロは私はあなた方のようになりましたと言っています。
そして今逆にガラティアのクリスチャンは立法を守ろうとして昔のパウロのように逆戻りしている。
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だからそうじゃなくて昔の私のようにもう一度立法を捨てて福音に生きてくださいとパウロはここで熱弁しているわけですね。
私の模範に従いなさい、自分に習って福音に立ち帰りなさいと強く勧めています。
ピリピリとの手紙3章5節のところでかつての立法に熱心なパウロを自分でこのように述べていました。
私は立法についてはパリサイビと、その熱心については教会を迫害したほどであり、立法による義については非難されるところがないものでした。
読める方はここから読んでみましょうか。
3、はい、しかし私は自分にとって得であったこのようなすべてのものをキリストのゆえに損と思うようになりました。
このように福音にもう一度立ち帰って生きてください、私に習いなさいとパウロは教えています。
2番目、最も大切なものを与える、目をえぐり出してでもと言っているんですね。
パウロはこの今パウロに敵対しているように聞こえてきているガラティアのクリスチャーに対してかつての強い結びつきをこのように述べているんですね。
あなた方が知っている通り、私が最初あなた方に福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
この肉体的な弱さ、それがですねパウロがガラティアに福音を伝えたきっかけになったって言うんです。
で、それが一体何だったのか、実はですねはっきりわからないんですが、いくつか仮説があります。
それはですね、パウロが戦況旅行中にマラリアにかかった。
蚊に刺されて、そしてガラティアを訪れたのはその治療や、あるいはですね少し涼しかったり何か良い場所で
過ごすためだった。でマラリアになるとどうなるか知っていますね。熱が出るんですね。
熱が出ると、今熱出たら大変ですよね。
そのように当時も感染症になったんじゃないかと熱が出た人を恐れられたわけです。
だからパウロが言うように、意味嫌われても構わない。
あるいはですね、熱故に彼は拒否される可能性もありました。
あるいはですね、転換。転換の発作があったという人もいるんですね。もしかしたら。
あるいはマラリアと関係してかしてないか、パウロの目に障害があったという説も有力な、よく言われています。
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マラリアのせいで弱視、目がよく見えなかった。
こんなに大きな地で書いていますってパウロが他の箇所で言っているようにも関係しているかもしれません。
あるいはですね、その故に目つきがおかしくなっていたり、
見た目のですね、目が障害があった、そういうことも言われているわけです。
実はですね、この悪い目つきについて、パウロの反対者たちがパウロを批判していた。
それを機に、理由にガラティアの人々をパウロに撤退するよう仕向けていたという説もあるんですね。
前にも書いてありますが、当時ですね、目線によって相手を呪うという、邪視という呪いの方法があったんです。
横島な視線という。 目で殺すとかあります。
目で呪うということが当時あったようです。
ですから、もしパウロの目つきが悪かったら、当時の異教の迷信の中に生きていたガラティアのクリスチャン、
ガラティアの人々も、パウロの目で見つめられたら私たちは呪われると恐れていた人がいたかもしれない。
そしてパウロの反対者たちがですね、パウロがいなくなった後、ガラティアの人たちにこう言ったという説問です。
皆さん、パウロの目を覚えていますか? あれは神の使いの目つきではありません。
あれは呪いをかける者の目です。そう言って偽教師たちが、
ガラティアの人々の心をですね、パウロから自分たちに向ける。
そういう可能性もあったんですね。どうですか皆さん、もしそうなら、この身体的な障害を挙げつられてですね、
相手を批判して自分の方になびかせるという非常に悪質な手口だったわけですよね。
そのような背景があったのではないかと言われています。
しかしそんな彼らにパウロは、自分がいた当時の強い結びつきを思い出されて、感情に訴えているんですね。
仮括句ちょっとずれてしまいましたけど、14、15節4章14、15でこう言っています。
そんな私でした。肉体的な欠陥がある私でしたが、あなた方は軽蔑したり嫌悪したりせず、
かえって私を神の見遣いであるかのように、キリストイエスであるかのように受け入れてくれました。
ここから読めるかと読んでみましょうか。3、私はあなた方のために明かししますが、
あなた方はできることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。
12:00
ここにもですね、ちょっと言葉の面白い遊びというか、謎かけがあるという学者もいるんですけど、
この軽蔑したり嫌悪したりするの、嫌悪という言葉はですね、言語では唾を吐き捨てるという意味なんです。
それはですね、軽蔑の意味で唾を吐くってありますよね。
もう一つは、先ほどの邪志を送る呪いを防ぐために唾を吐くという、
そういう呪い返しじゃないですけど、方法があったそうです。
そのような何かやりとりも、パオロは示唆させながら、
そうじゃない。あなた方は私の身体的欠陥を呪いとみなして、避けたり唾を吐いたりせずに、
できることなら、自分の目をえぐり出して、与えようとしたでさえあったではありませんか、と強くですね、
この彼らの愛情、それを思い出させているんですね。
このパオロの言葉の中には、文字通りですね、目が悪いパオロに対して、
ガラティアのクリスチャンが、できれば自分の目をあげたいと思った、そういうやりとりがあったかもしれません。
あるいはですね、聖書の中に目や瞳というのは、とても大事なものとして扱われています。
旧約聖書の詩編の中にね、神は私を、あなたを瞳のように尊く扱われる、というのがあります。
ゲゲの鬼太郎の目玉親父じゃないですけれども、目というのはそれぐらい大事だ。
一番大事なものをあなた方は私に与えようとした、それほど私とあなたとの結びつきは強かったではありませんか、
なのになぜ私に今敵対するんですか、と、そのようなパオロの叫びを聞こえてきます。
皆さんね、この方知っていますよね、今の衆議院議員の河野太郎さん、右側。
で、お父さん左側、元衆議院議員の河野洋平さんですね。
有名な話ですが、河野太郎さん2021年にワクチン担当大臣となったけれども、もっと有名なのは、
2002年に父親の洋平さんにですね、太郎さんは自分の肝臓を生体管移植したんです。
有名になりましたね。で、実はそのことがこの日本移植学会のホームページに書いてありました。
そこでこんなこと言ってるんですね。
手術の後、譲り受けた父の洋平さんは薬飲みながら元気、痛みもないと言ってるんだけども、
太郎さんはこう言ってるんですね。
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父に比べ私の方は、ドナーとあったこういう症が今でも残っています。
一番深刻なのは、切って縫い合わせた腹筋が今でもよくつることです。
靴の紐を縛ったり、足の爪を切ったり、地下鉄の中で変な格好に押されたりした時に、
腹筋が小村がうりのようになります。
寝ている時にはふくらはぎがつって、イタタタタッとなるじゃないですか。
そういう痛みをまだ彼は背負っている。
食べる量も減りました。
しかしおかげさまで、私の肝機能は全く問題がありませんと言っています。
これは実話です。
まさに痛みを伴う献身、そしてその痛みが今でも残っている太郎さんの話です。
この実話、これはかつてのガラティアのクリスチャンとパウロの間にあった愛の絆を連想させる、
ガラティアのクリスチャンとパウロのかつて持っていた信頼関係を思い出させるような実話でないかなと思って引用しました。
そんな中、パウロとガラティアのクリスチャンがかつて良い信頼関係で結ばれていたように、
今ガラティアのクリスチャンに目を覚ましてもらって、パウロは立法ではない、神様とイエス様との信頼関係の中で
ガラティアのクリスチャンが生きるように、パウロは情熱的に訴えているんですね。
それは私たちへの問いかけでもあって、立法を守るクリスチャンらしく生きるとかではなくて、
神とイエス様に信頼する生き方に邁進するように、私たちにも呼びかけているわけです。
最後、これすごいんですね。
出産するパウロ。キリストが形作られるために。
四章十九節の御言葉を読める方、前にあります。読んでみましょう。
私の子供たち、あなた方のうちにキリストが形作られるまで、私は再びあなた方のために生みの苦しみをしています。
パウロはですね、さらに聖書学者もですね、異常とも言えるような激しく珍しい言葉で訴えています。
この十九節を直訳するとこうなるんです。
あなた方の中に、胎児として宿ったキリストが形成されるようにと、
私はあなた方の中にキリストを出産する分娩の苦しみを味わっています。
赤ちゃんがお腹の中で形作られて成長して、出産の準備を迎えるように、
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ガラティアのクリスチャンの中でイエス様が形作られていく、そういうイメージをパウロは持っているんですね。
そして、それが完成するまでガラティアのクリスチャンが立法に、
もう一度戻ったり、間違った教えに惑わされたりしないようにパウロは今、まさに苦しんでいる。
その苦しみは、この母親が出産する妊娠や分娩の苦しみと同じだ。
そして私は、あなた方の中に、一人一人のクリスチャンの中に、そして教会の中に、
キリストの仁姿が生み出されるように、今まさに苦しんでいるんです、と言っているんですね。
前にも書いてありますが、この十九節の形作られるというのは、
大地が母体の中で成熟する過程を言っています。
詩への139編なんかにもありますね。
生みの苦しみというのは、先ほども言いました分娩の痛みを言うわけです。
この埋められない遠い距離からですね、手紙でしか彼らのことをケアできない断腸の思い、
そして何とか彼らに福音に来てほしい、キリストの仁姿に成熟してほしいという、
このパウロの痛みを伴う情熱を、ここでパウロはこのように表現しているわけです。
ガラティアのクリスチャンは福音を聞いて一回生まれましたが、
この今ですね、一人一人の中に大地のように宿ったイエス様が、
またガラティア教会の森の中に大地のように宿ったイエス様が、
骨が組み合わされ、内臓が編み上げられて成熟するように、
ガラティアの私たち一人一人の中にイエス様が、イエス様の仁姿が形作られること、
またガラティアの教会、この教会の中にまさにイエス様があるべきお方として住まわれること、
そのためにパウロは海の苦しみをしているというんですね。
冒頭パウロはですね、私のようになってください、そのように呼びかけましたね。
私のようになってください、先ほど言いましたね、
一人一人の中にキリストが編み上げられていくことをパウロは願った。
冒頭パウロは私のようになってくださいと呼びかけました。
21:00
そこにはですね、もう一つ、私のようにキリストの仁姿を目指し、
キリストに習う生き方をしてくださいという、そういう願いも込められているんです。
このイエス様に習う生き様というのは、この時のパウロのように、
困難に耐えて福音に生きる生き方です。
それは柔軟のキリストに習う生き方です。
皆さん、情熱は英語でパッションと言いますね。
そしてこのパッションには別の意味があるでしょう。
何ですか?
そうですね。パッションは情熱ですが、もう一つパッションには柔軟という意味があるんです。
イエス様の柔軟をパッション。
実はこっちのが元々のラテン語に由来した言葉です。
そこから、情熱という言葉になったんです。
ガラティアの教会の柔軟を知ったパウロもまさに福音のように苦しんでいますね。
そしてもし私たちが今苦しみを体験しているなら、
私たちもガラティアのクリスチャンとの絆に生きています。
そしてパウロの模範に習ってイエス様の苦難の道を共に歩んでいるんですね。
しかし私たちがイエス様と共に苦難の道を今歩んでいてもですね、
その試練を通してさえ神様は私たちの中に宿る精霊によって
私たちを内側からイエス様に似るものと変えてくださるんですね。
それがまた希望でもあるわけです。
何か皆さんあるいは私たち耐えるべき苦しみがあるならば、
それはイエス様の足跡に並っているパウロと共に
イエス様と共に並ぶ生き方をしているんだと受け止めてください。
そしてそのような苦しみを通してでさえ神様は私たちを内側から
精霊によってイエス様の似姿へと変えてくださるんだ。
そのように受け止めていかれるのはいかがでしょうか。
最後に精霊による宮座のことを覚える御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
第2コリント3章18節ですね。
読んでいましょう。
私たちは皆顔の覆いを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられていきます。
これはまさに見たまなる主の働きによるのです。
24:04
お祈りしましょう。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
パウロとガラティアの教会、
クリスチャンの強い結びつきを通して私たちは学びました。
どうぞ様々な試練や苦しみに遭う中で、
私たちが福音に行き、
あなたに信頼する生き方を貫いていくことができるように導いてください。
私たちに内に与えられたあなたのご精霊によって、
どうぞ私たちを苦しみを通してさえ、
イエス様の身姿へと変えてください。
どうかその希望を実感しながら、
今日からの一日をも歩んでいくことができるよう、
私たちを導いてください。
この願いと感謝を、
私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応えて、
黙祷する時間を持ちましょう。
25:18

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