2022-09-18 25:57

#123 究極の目的のために 22/9/18

ピリピ-20からの礼拝説教。2022年9月18日録音。パウロはこの後裁判を控えていました。死刑になる可能性も、釈放されてピリピ教会の人々に再会する可能性もあったのです。しかし驚くべきことに、どちらに転んだとしてもパウロは「これからも喜んでいきます!」と断言しているのです。なぜなら、たとえ死んでも「自分の身をもってキリストが崇められ」るという、彼の人生の究極のゴールを達成できるからです。これらのことを踏まえて1.キリストがあがめられるために、2.ピリピ教会の人々の祈り、3.聖霊の支え、の3つの点から学びましょう。

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しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが述べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。
そうです、これからも喜ぶでしょう。というのは、あなた方の祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
以上です。今日はここから、究極の目的のためにと題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。台風が近づいている中ですけれども、街道にいらっしゃる方、またズームでオンラインでともに礼拝できることを衆に感謝しています。
フィリピン人の手紙を学んできましたが、先週からパウロは手紙の本題に入ってきました。
今日はまず、説教の本題に入る前に、この背景として今日のところでパウロが語った内容を要約します。
パウロはこの直後、裁判を控えていたんですね。
そこでは死刑になる可能性も、そして釈放されてもう一度フィリピン教会に戻る可能性もありました。
しかし驚くべきことに、どちらに転んだとしてもパウロは、これからも喜んでいきますと断言しているのです。
話が前後しますが、この箇所の区分は、正確には今日18節頭から呼びましたけれども、
18節の一番最後の、「そうです。これからも喜ぶでしょう。」という、そこからこの断言は始まると多くの学者は推測しているわけです。
英語で未来系の、I will rejoice。
先週見たところは、I rejoiceと言って現在系ですけど、ここからはI will rejoiceと言って、これからも私は喜んでいきますと宣言している。
判決がどうなっても、そういうことです。
なぜなら、どんな判決が出ても、神様ご自身が自分の正しさを証明してくださると彼は確信していたからです。
そしてさらにこの裁判を通してパウロは、キリストの福音をはっきり語ることができるから、だから私はこれから必ず喜ぶと断言しているわけです。
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そしてどういうことかというと、死刑になろうが釈放されようが、この裁判でキリストの福音をはっきり語ることによって、必ずキリストがあがめられると彼は確信していた。だから喜ぶと言っているんですね。
ここに前にも同じこと書いてありますけれども、こうして福音が語られてキリストがあがめられるが故に、どんな判決が下った後でも私は喜ぶだろうと言っています。
なぜか、それは自分の身をもってキリストがあがめられることこそ、彼の人生の究極のゴールだから、先週言いましたね。
それが究極のゴールを達成できる上に、私はこれからも喜ぶのであるとパウルは語っているんです。
これもフィリピンの人々にとっては驚きとなりましたが、このことを踏まえて3つの点から学んでいきます。
まず最初は、その彼の究極のゴール、そして私たちのゴールでもあるキリストがあがめられるためにということです。
20節読める方は読んでいましょう。
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
今日の歌書は一般にパウルの一人事と言われているんですね。
彼は自分の状況や信仰の姿勢を淡々と語っているからです。
しかしこれは単なる一人事ではなくて、実は彼はフィリピン教会の人々に自分の生き様の模範を示しているというんですね。
その模範とは、クリスチャンは誰であっても福音の伝達者であるという生き様の模範です。
それは、たとえ牧師や伝道者、宣教者でなくても、クリスチャンはこの世に対して福音を証して生きている。
そういう意味で、クリスチャンは誰であってもどこにいても福音の伝達者である。
その模範をパウルは示しているのであるということなのです。
福音の伝達者、その模範としてのパウルの姿勢ですが、それは誰かで構わず、私たちが福音を語るということではないんですね。
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ばんわきまえないで福音を語り続けるということではない。
それはですね、例えばですね、ここにある絵に似ています。
例えば宅配便のトラックは、これ見てくださいね。荷物と同時にそのブランドを運んでいます。
トラックを見ればブランドが明示してありますので、ブランドを運んでいる。
誰の目にも黒猫だってわかるわけです。
そうすると、同じようにクリスチャンはこの世の人の目にはイエス様と福音を明示しながら生きているということになるんですね。
これがですね、福音の伝達者としてのクリスチャンという意味ですし、自分の身をもって神の栄光を表すという意味で福音の伝達者なのです。
良くも悪くもですね、この世の人はあの人クリスチャンだとですね、そういう見方で私たちを見る。
それを先週話したパウロがですね、自分がクリスチャンであるということのゆえに
祷告されていることをみんなが知っている。それをマイルドな喜びにしたと言ったんですけども、
私たちの周りの人が私たちがクリスチャンだと知っていることさえもですね、私たちにとっては喜びであり福音の伝達者として使わせられているという証なのであります。
マイルドなドゥイングよりもビーングと言えるかもしれませんね。
実はこのことがいつも言っているフィリピンにある信仰の奥義とも言えるわけです。
クリスチャンは誰であっても福音の伝達者である。それは一つの信仰の奥義だ。
この責任の重さに押しつぶされそうになるかもしれません。
だからこそパウロはですね、この後必要な助けについても伝えています。
ある学者もですね、こう言うんですね。前にも図、絵を表しました。
もし私たちが現代において福音の良き伝伝者となるために、このパウロの言葉は確かにすべての状況に当てはまる教訓である。
ちょっともしはいりませんでしたね。
私たちが現代において福音の良き伝伝者となるために、このパウロの言葉は確かに私たちすべての状況に当てはまる教訓である。
20節のセイクそのものに戻りますが、キリストがあがめられるという言葉の、もともとのあがめられるはギリシャ語ではメガレウを、これを覚えています。メガ、大きいという意味です。
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だから、ギリシャ語ではキリストの皆があがめられるという単数形の受動体なのでですね、パウロを通してイエス様の偉大さが表されること、
イエス様のほかの訳では素晴らしさが表されることをパウロ人生の究極の目的にしているというんですね。
それは、辞儀通り言うとパウロが、狭く言うと、パウロの状況に当てはめて狭く言うと、パウロが裁判で福音を大胆に語ることによってそれが実現できるとパウロは考えた。それが救いだと考えた。
繰り返しますが、たとえ死刑になっても本望だ。福音を明確に語り、イエス様の皆がそこであがめられるイエス様の偉大さがそこで表されるから本望だと言ったんです。
ある学者は別に、コーンを飲めているんですね。パウロは、全生涯を通して、
たとえローマで投獄されている状態であっても、キリストを称えようと望んだのである。
死と命と一体で語られている。生きるにしても死ぬにしてもと語られているのは、人類のあらゆる状況が念頭にあるからだろうと言ってるんですね。もう一回言いますね。
パウロは、自分の全生涯を通して、たとえローマで投獄されている状態であっても、キリストを称えようと望んだのである。
そして、死ぬにしても生きるにしてもという、生と死を一体で彼が語っているのは、人類のあらゆる状況が、イエス様の栄光を表すという、そういうことが頭にあるからだろうと言ってるんですね。
このようにですね、私たちが知るべきこと、それは、私たちがどのような状況にあっても、自分の身をもってイエス様の素晴らしさを表す、
その姿勢が、クリスチャンの生き様であり、信仰の奥義だということなんですね。
それは絶やすいことではありません。だから、パウロもですね、そのことゆえに、二つの助けが必要だったと告白しています。
その二つの必要を最後に見ていきましょう。一つ目、フィリピ教会の人々の祈りです。
1章19節を読んでみましょうか。前にもありますね。レジュメにもあります。
というのは、あなた方の祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に鍛えし望んでいるとおりに、このことが究極は私の救いとなることを知っているからです。
ちょっとですね、これね、学者の間でも、パウロの中でも一番難しい類の文章だって言ってるんです。
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教養として余談で言いますけど、ギリシャ語っていうのは、主語と実語とかが簡単に入れ替わるんですね。
動詞と名詞とかが。だからどこがどう繋がるかっていうことが非常に難しいそうなんです。
多分彼が言いたいのはですね、後半のパウロが切に望んでいること、それは、つまり彼の究極の救いは、さっき言ったようにイエス・ノミナを、福音を大胆に語ること。
その福音を大胆に語ることと、裁判によらずにですね、神様自身が自分を義と認めてくださるということが、彼の救いになるということなんです。
じゃあ、そうやって彼がですね、私たちリウニアに言い換えるならば、どんな状況でもイエス様の素晴らしさ偉大さを明かしする原動力は何だったのかというと、
まずピリピのあなた方の祈りって言うんです。あなた方の祈りと明確に知っています。
あなた方の祈りによって救われたって言うんですね。
パウロが逆境の中で必要不可欠なもの、逆境の中で救いを体験し、彼を通してイエス様が崇められるようになるために必要なものの一つ目は、
この取り出しの祈りだった。この祈りを要請するパウロについて、ある学者はこのように述べています。
パウロは絶えず自分のために祈ってほしいとクリスチャンに求めていた。
それはパウロの個性や人間性を語る上で極めて重要な要素である。
逆に別の言い方をすると、祈りの要請をしているからこそパウロたり得たって言っているんですね。
どういうことでしょうか。どんどん見ていきますけれども。
例えばですね、前にもあります。ローマの15章3節がその顕著な例です。ちょっと読めるかと読んでみましょう。
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また御霊の愛によってお願いします。
私のために、私と共に力を尽くして神に祈ってください。
私のために祈ってくれと懇願している。
その他ですね、手紙、コリント、ホロサイ、テサノニケの各教会にあてた手紙でも、自分のために祈ってほしいと言っています。
あの偉大な伝道者、いつも言っていますよね。偉大な伝道者のパウロでさえ、自分のために祈りをお願いしていたんですよ。
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であればなおのこと、私たちは自分の信仰のために、あるいは他の人の祈りを、自分の信仰のために、自分が神の栄光を表すものとされるために、誰かに祈ってもらう必要があると言えるのではないでしょうか。
あの大伝道者のパウロでさえ、そうなります。
このように互いに祈り合うこと、これは健全な教会やクリスチャンの人間関係の基準であり、要であり、基礎であると言えるんですね。
この最初に述べましたように、私たちが福音の伝播者として生きることは重荷に感じるかもしれません。
パウロ自身もそのことの重大さを知っていたがゆえに、何度も何度も祈りを要請していたんです。
ですから私たちもなおのこと、お互いのために祈り合って支え合っていきましょう。
私たちの教会では昨年に続いて、自己紹介と祈りの課題を冊子にして配布しました。
ぜひそれを活用して、互いに祈り合いましょう。
それこそ私たちの教会の基礎になると、私は信じているわけです。
皆さんに祈り合うこと、本当に私のためにも祈ってほしいと懇願いたします。
最後の点、2つ目の助け、それは精霊の支えだと言うんですね。
私だけ読んでみましょう。
というのは、あなた方の祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、
私が切に期待し望んでいるとおりに、この言葉究極は私の救いとなることを知っているからです。
ここで珍しい言葉が使われているんです。
それはイエス・キリストの御霊の支えの支えです。
ギリシャ語でエピコルゲーと言うんですね。
これは、ギリシャ語の最も近い英語の翻訳では、サプライと言います。
サプライチェーンなんて最近言いますよね。
ヘルプと訳されている言葉もありますが、サプライが一番ニュアンスが近い。
それは、生きていくために必要なものを支給するというニュアンスです。
神様は、クリスチャンが生きる上で必要な霊の命として、
人間の必要な命として、イエス様の御霊を授けてくださったということです。
それは、さらに私たちがイエス様の存在と素晴らしさを証して生きるために、
必要な精霊を神様は授けてくださった。
イエス様の栄光を表す福井の伝播者として生きることは重いかもしれません。
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しかし、私たちが思う以上に、その必要な精霊を神様は私たちに授けてくださっているということなんですね。
今、ホームラン、誰でも知っているですね、ホームラン争い。
ホームランを出した二人、大谷翔平選手と村上信吾選手ですね。
大谷選手も非常に食事に気を使っている。
村上選手も大食いで有名なんです。
牛タンをですね、4種類の牛タンを4人前、ぺろっと16人前をですね、平気で食べてしまう。
皆さんどうでしょうね。
それぐらい大食いだからこそですね、この56本、60本目指してホームランを打てるのではないかと思いますが、
こうやって彼らに栄養が必要であるように、私たちクリスチャンはイエス様の精霊を命の源として必要とするわけなんですね。
この必要な精霊が授けられている。
運動選手の栄養のように必要な命として精霊が私たちに与えられている。
パウロが統獄という逆境の中で福音を大胆に明かししてイエス様の栄光を表すためにも精霊が必要だった。
この精霊はイエス・キリストの御霊ってここで書いてあります。
すなわちイエス様が精霊様によりクリスチャンの中に宿っているというそういう真理をパウロはここでそれとなく語っているんですね。
そのパウロが書いたローモビトの手紙の8章9節から10節にこんな言葉が書いています。
最初だけ読んでみましょうか。
しかしもし神の御霊があなた方の内に住んでおられるなら、あなた方は肉の内ではなく御霊の内にいるのです。
御霊と言っていますけど今度はキリストがあなた方の内におられるなら、
身体は罪のゆえに死んでいても御霊が義のゆえに命となっています。
まあ広い意味で私たちは罪ある死すべき身体ですから限界がある。
福井の伝パン社、神の栄光をあらわす器、イエスの栄光をあらわす器としてたくさんの限界がありますが、
イエス様の見たまイエス様自身が私たちの中に住んで御自身をあらわしてくださるそういう信仰だと言えるわけですね。
このようにパウロもそして私たちも逆境の中を生き延びるために内在のイエス様が必要なのです。
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イエス様はどうやってあなたの中に住んでいますかというときに、
神が授けられた聖霊によってイエス様は私の中に住んでおられると確信を持って言うことができます。なぜか。
聖書の言葉がこうやって証しているからです。
2000年に並ぶキリスト教の歴史がそれを証しているからです。
さらに注目すべきことがあるんです。
実はこのイエス様の聖霊は互いの取りなしの祈りの中で与えられるということなんです。
この宗教説の二回引用した御言葉ですね。
というのはあなた方の祈りとイエスキリストの御霊の支えによって並べて書いてあるんです。
これはですね文法的に見ると学者も言っているんですけども
このパウロにとって聖霊の支えというのは
ピリピ教会の人々の祈りと切っても切れない縁にあるという
そういう強い確信からこう言い方をしているんですね。
皆さんよく覚えてください。
私たちは聖霊が授けられるために祈りが必要なんだということなんです。
自分のために祈る聖霊が授けられますように
聖霊を知ることができますように
聖霊の助けが得られますように
またそれを私たちが知る兄弟姉妹のために取りなして祈ることも必要不可欠なんだ。
そのことをぜひ覚えてください。
ですから私たちこれから祈りの課題の冊子を配りますけども
教会の人たちのために祈るときに
その人に神様からの支えとして
聖霊が授けられますように
そう祈ったりですね。
誰々さんの中に住まわれるイエス様の聖霊によって
誰々さんが支えられますようにと祈りましょう。
私はそう祈っている。
祈ることがあります皆さん一人一人のために。
そのようにパウロとフィリピン教会の人々のように
私たちも互いに祈り合い
そして互いに聖霊という助けを受けてですね
私たちの弱さを超えて働く
このイエス様の素晴らしさを明かしする
そのような福音の伝播者
イエス様を明かしする
生き様をですね
お互い生きていく
そういうお互いであり教会であることを目指してまいりましょう。
最後にもう一度大事なセーフなので
ここだけ読んでいます。
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アンダーラインとかだけ読んでください。
私は最初から読みますね。
フィリピン1章18節の後半からニュースです。
そうですこれからも喜ぶでしょうというのは
あなた方の祈りとイエスキリストの見た目の支えによって
私が切に期待し望んでいる通りに
このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
私の願いはどんな場合にも恥じることなく
今もいつものように大胆に語り
生きるにしても死ぬにしても
私の身によってキリストがあがめられることです。
お祈りしましょう。
天の神様皆を賛美いたします。
今日はパウロの独り言から学びました。
パウロがどんな状況にあっても
イエス様の皆があがめられることを目指したように
私たちもそれを私たちの人生や生活の目標とすることができるように導いてください。
それは本当に身が重いことに思います。
しかしどうぞご精霊の助けによって
助けであるご精霊様の導きによって
あなたがそれを成してくださいますように。
どうかまたそのために私たちがお互いに祈り合う
そのような教会となることができるように導いてください。
これらの思いまた愛する兄弟姉妹の今週の歩みを
あなたに委ね御霊の導きに委ね
私たちの救い主主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて
黙祷の時間を持ちましょう。
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