2022-07-24 29:08

#115/22/7/24 健全な人間関係

ガラテヤ6:1-8からの礼拝説教。2022年7月24日録音。パウロはここから教会内の互いの関わり合いに関して教えます。5章ではクリスチャン個人個人の言動や品性に関わることを教えてきました。それは聖霊に導かれて生きることの具体的な指針でした。しかし聖霊に導かれて歩む生活が独りよがりになってはいけません。1人1人はお互いの関わり合いの中で生きるのが現実だからです。教会での人と人との関わり、そしてそれはやがて社会での人と人との関わりの中で生きる私たちに必要な教えなのです。そのことに関わる3つの点1.人を正すときに(6:1)、2.互いの重荷を負い合う(6:2-5)、3.みことばの教師への報酬(6:6-8)の3点から学びましょう。

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ガラテア人への手紙、6章、1節から8節
兄弟たち、もし誰かが何かの過ちに陥っていることがわかったなら、
見たまの人であるあなた方は、にゅうわな心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
互いの重荷を追い合いなさい。 そうすれば、キリストの立法を成就することになります。
誰かが何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。
それぞれ自分の行いを吟味しなさい。 そうすれば、
自分にだけは誇ることができても、他の人には誇ることができなくなるでしょう。
人はそれぞれ自分自身の重荷を追うことになるのです。 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人とすべての良いものを分かち合いなさい。
思い違いをしてはいけません。 神は侮られるような方ではありません。
人は種をまけば、刈り取りもすることになります。 自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、
御霊にまく者は、御霊から永遠の命を刈り取るのです。 以上です。
今日はこのところから、健全な人間関係と題して御言葉を取り継ぎます。
みなさん、おはようございます。 今日は、近くにいたした我々の仲間の兄弟が一緒に礼拝を加わってくださいました。ありがとうございます。
いつも私たちの教会は、一つの書物を、 これであればガラテア人の手紙ですけれども、
一章の一節から順番に区切って、段落なり段なり区切って学んで、いよいよ6章まで来ました。
パウロは、この前の5章では、見たま、精霊によって一人一人のクリスチャンが持つべき良い特質ということを話してきました。
それと反して、肉というか罪の性質が残っているが故に起こす葛藤ということも語ってきましたが、
どちらかといえば、個人にターゲットを当ててきたのが、今度は教会全体に焦点を当てて、
互いに生きる、そういう人間関係の中に生きることを念頭に入れて教えています。
その5章と関わりながらも、その見たまの身をどうやって教会の中で、人間関係の中で結ぶことができるか、
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その具体的な関わり合いについて語っています。
私たちは、精霊によって歩むと言っても、一人よがりでクリスチャン生活を送れるわけではありません。
互いの関わりの中で、教会しかり、会社しかり、家庭しかり、そういう人間関係なしでは生きていけない。それが現実です。
このパウロの視点、今日来週学んできますけど、教会での人との関わりから始まって、
それをやがて教会外の人、社会との関わりにまで発展していく。
そういう共同体的な教えを、パウロはここから展開していきます。
そんな中で、人間関係に関わる3つのことを今日学んでいきましょう。
まず第1点は、人を正すときに注意することです。
この6章の1節を読める方、前のところを読んでみましょう。
兄弟たち、もし誰かが何かの過ちに陥っていることがわかったなら、
見た目の人であるあなた方は、いいような心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
最初は、他の人の間違いを正すことについてです。
この間違いは何か、過ちは何か、
1つには、ガラティアの前に言いました5章の19からある、
肉の行い、この悪い言動があるかと思います。
それに留まらず、身近な人の言動に私たちが注意すべきことが見つかったならば、
あるいはその人が気がついていない過ちに陥っていたならば、
こう注意しなさい、正してあげなさいということです。
けれども、見逃してはいけない大事なことが2つあるんですね。
まず1つ目は、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさいと警告されています。
それはどういうことか。
それは、注意しながら自分も同じ過ちに陥らないようにということが簡単に言えると思います。
さらに、ある学者はこう言うんですね。
人を指導する時の傲慢さや虚栄への警告とも理解できる。
つまりですね、人は誰でも、誰かに相手に警告を与える場合ですね、
自分が上の立場に立ったように感じてしまうんですね。
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その時に、上から目線で傲慢に、しかも癒やす的に惜しいのではない。
そうじゃいけませんよ。
自分も間違えるかもしれないということを、自分を吟味しながら、
その謙遜な気持ちを忘れたらいけません、ということをパーラは教えているんですね。
これは、次の2つ目の大事な点にも繋がります。
それは、にゅうわな心で接することです。
前後しますが、見た目の人であるあなた方は、
にゅうわな心でその人を正してあげなさいと言っています。
この見た目とにゅうわ、
しばらく前、7月10日の説教で見た5章22、23節の
見た目の身の中の一つに、にゅうわというのがありましたね。
このにゅうわというのは何か、それは他者への思いやりある姿勢で、
キリストにも模範が見られる態度がにゅうわだと学びました。
つまり、私たちが誰かに注意をするときに、先ほども言いましたが、
威圧的であってはならないという、そういう警告なんですね。
旧約聖書の新元25章15節でも、こう教えていますね。
ちょっと難しいかもしれませんが、読めるか読んでみましょう。
忍耐強く溶けば狩猟も納得する、柔らかな舌は骨を砕く。
これは私、忘れられない言い回しですが、
柔らかな舌は骨をも砕くという、こういう表現ですね。
まさに、にゅうわに溶き伏せると、
堅くなった人も心を穏やされるよというニュアンスじゃないでしょうか。
このように、パウロは過ちを犯した人を、
にゅうわな心で正すならば、その人は罪から癒され、
また、そのグループの中にある教会であれ、何かのグループであれ、
罪の影響で傷ついた者が、癒されていくということを言っているのではないでしょうか。
まず最初は、にゅうわな心で人を正す。
そしてそれは、精霊の実であるということですね。
2番目、互いの重荷を追い合うということです。
6章2節読める方、読んでみましょう。
互いの重荷を追い合いなさい。
そうすれば、キリストの立法を成就することになります。
ここではですね、お互いに助け合うこと、
そして人間の中にある自分自身の誇り、
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健全なプライドをしっかり管理すること、
その両方が教えられていて、
両者が関係しているということがわかるんです。
それは言い換えれば、他の人に責任を持って関わるだけでなくて、
自分自身とも責任を持って関わる、
自分を吟味するということと関係してくるわけです。
まずここで、パウロはですね、
自分だけがこの清いクリスチャン生活を送る、
独りよがりの信仰ではいけませんよ。
他の人の重荷を追いなさいと教えているんですね。
実はこの重荷を追い合うの重荷、
実際何かよくわからないそうです。
おそらく文脈から言うと先ほど言った、
肉の行いの5章19節から始まる、
一つ一つの罪や誘惑、そしてそれに戦う、
そういうものと葛藤するということが重荷かもしれません。
あるいは皆さんも経験してますように、
生活の中でいろいろ体験する苦悩ですね。
生きることをそれは苦しむことだなんて言葉もありますけど、
生活の中の苦悩も含めたいろんな重荷、
それをお互いに追い合いなさいと言うんです。
よく最近聞かれる言葉に、
自己責任という言葉がありますね。
でもそれが誤って使われて、
人を放っておくとかですね、
ある行政が何もしないという言い訳を使われることもありますが、
クリスチャンは不健全な自己責任論に陥らないで、
お互いに重荷を追い合うことをパウロが教えている。
そう理解しましょう。
その一方で、パウロはお互いに重荷を追い合うだけではなくて、
自分自身にもきちんとした関わり方をする。
言い換えれば、誤ったプライド意識、
そしてそこから生まれる孤立についても警告しているんですね。
六章の三節でこういうふうに言っています。
誰かが何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、
自分自身を欺いているのです。
これを分かりやすく訳すと、ある学者はこう言っているんですね。
自分が重要人物でもないのに、何様かのようにうぬぼれるなら、
自分を欺いている。
それに鑑みて、続けてこういうことを言うんですね。
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高慢な人は自分の弱さを認めない。
それ故に自分と人の弱さを認め合って助け合うという関係を築かない。
さらに人の助けを借りて生きることはしないと同時に、
人を助けることもしないと言っているんですね。
この誤った自己責任論と関係するような高慢さをここで言っている。
そしてその傲慢さから人の助けにもならないけれども、
人を助けないという固くなさへと繋がるというようなことです。
しかしですね、これはちょっと高慢さと誤ったプライドですけれども、
パウロは健全なプライド、健全な自尊心ということには賛成しているんです。
ある学者はそれを適切な自尊心、適切な評価による適切な自尊心であると教えているんですね。
適切な評価による適切な自尊心、それは良いと。
実はですね、パウロは他の手紙、ローマ人の手紙などでその適切な評価による適切な自尊心の実例を挙げています。
彼はこのように言っています。ローマ15章17節、読める方一緒に読んでみましょう。
ですから、神への奉仕について、私はキリストイエスにあって誇りを持っています。
パウロは他の箇所ではですね、私は他の働き人よりも多くの働きをしましたと言って、自分のやったことに健全な誇りを持っています。
でも大事なことは、彼はそれは他のところやここでも言いますが、イエスキリストにあってと言っています。
イエス様のおかげで私はこんな素晴らしいことができたんだと言って、誇りの拠り所がイエス様であるということがまず大事です。
健全に自分は全然ダメだ、自分はクズだと言うのではなくて、イエス様にあって私にはこれができましたという、
そういう健全なプライド、誇りは良いことなんですね。
そこで何を注意するかというと、実はそのプライドを他の人に向けて、
自分はあの人よりも立派だと言って高くなったり、あの人の方が立派だと言って自分が低くなったりする、
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そういう、先週も話しましたが傲慢や妬みということをパウロは禁じているわけです。
そういうようなことを考えると健全な誇りは良し、そして自分の中でしっかり誇りを保つということを良しとするということを考えると、
このガラディア人の手紙の続きの6章4節の意味がまた分かってくるんですね。
ちょっとこれをまず読んでみましょう。6章4節。
3、それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば自分にだけは誇れることができても、他の人には誇ることができなくなるでしょう。
これはですね、前の進化薬成書の薬を見るとなおたら分かるんですが、否定的に捉えられがちなんですね。どういうことか。
あなたは自分を誇っていますけど、それは他の人には誇れない自己満足ですよという、自己満足の虚栄ですよというふうにも読めるんです。
でも、ある学者やこの世の精工の一つの読み方として、それは積極的に唱えることができるんだと言うんですね。
実はどういうことかというと、適切な誇りは自分自身に向けて自分の居所とするということなんです。
つまり、自分にだけは誇ることができる、それは誇りとして持っていていいよと捉えられるんですね。
自分のことをよく吟味して自分を見つめると、所にあること、自分が誇れることは誇りとして自分にだけそれはとっておきなさいよ。
でも、それを他の人に向けて優越感や妬みにならないように注意するべきですよと、そうこの見方を読めると言うんですね。
他の人には誇ることができなくなるというのはそういうことだ。
ですから、これはですね。
おはようございます。
自分自身を見つめて健全な誇りと自尊心を持つことはいいですよ。
でもですね、それはですね。
健全な誇りと不健全な傲慢を区別することをここでパウロは言っている。
その中で自分の欠点も認めることも含まれている。
実はですね、それがこの続きの6章5節。
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人はそれぞれ自分自身の重荷を負うことになるのです、という意味だというんですね。
つまり、私たちが負う重荷というのは、自分自身をしっかり自己吟味して、そしてその自分の正しいプライドの拠り所をしっかり捉えること。
と同時に、しっかり自分を自己吟味して、それが傲慢や妬みにならないように自分のプライドを管理すること。
実はそれが人が負うべき重荷だと、そう読めると言うんですね。
この新しい読み方に私も目が開かれて、なるほどなぁと思ったんですね。
そのような中でですね、私たちが自分を正しく評価し、自分のよって立つプライドと、そして自分の弱さということを健全に見つめるときにですね、
私たちが同じ弱さを持つ一人として、クリスチャンとして、他の人の重荷を負うし、また他の人にも自分の弱さを背負ってもらう、
そういう相互関係に生きることができるとパウロは教えているんですね。
そのように互いの重荷を負い合うことは、キリストの立法を全うするんだというんです。
キリストの立法は何かというと、前も見ましたこれですね、マルコの福音書にもありますが、
あなた自身の隣人をあなた自身のように愛しなさいということです。
このように自分自身を正しく見つめ、正しい神様にある誇りを自分で持ちながら、しかし自分の弱さを認め、他の弱さを認め、
互いに重荷を負い合う、そういう相互関係がクリスチャン同士の中で、あるいは私たちの周りで起こるべきだということをパウロは教えているわけです。
最後、御言葉の教師への報酬ということです。続きの6章6節ここにありますが、読めるかと読んでみましょう。
御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人とすべての良いものを分かち合いなさい。
これはどういうことか、当時のパウロが活躍した頃の教会では、聖書や福音を教えてもらう立場の人たちは、
聖書や福音を教える立場の人と、この物品の分かち合いをして生活を支えるべきだと教えていたんですね。
今風に率直に言えば、教会の牧師や伝道者にふさわしい報酬を与えるということです。
実はこのような牧師級ということですけれども、これは繊細な問題なので、なかなか教会では取り上げにくいんです。
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私たちの教会は先ほども言いましたが、一つ一つの書物を一章一節から順番にちゃんと学んでいって、
そこでこういう課題が出た時にきちんとふさわしく取り扱うようにしています。
だから今日たまたま、この牧師伝道者への報酬という話をここで取り上げているわけです。
実際、私たちの教会のことを言えば、私たちの教会ではこの牧師が一般の仕事をしていますので、表であってそういう問題がないわけです。
しかし、皆さんが別の教会に転居していて、礼拝に出る場合、
うちの教会から転居して、よその教会の教会員になる時に、きちんとその教会で教会を支える信徒さんになってほしいから、
あるいは、仁沢式教会で何を学んできたんですかと言われないためにあえてここで申し上げますが、
聖書やまたいろんな学者の根拠に基づけば、パウロは特殊な事情をもって報酬を辞退していますけれども、
教会の働き人や教師にはふさわしい報酬が支払われるべきだということをぜひ覚えておいてください。
ただ、聖書的な根拠、レジュメにもありますが、第1コリント9章の9節から14節、
ありでに言うと、御言葉を述べ伝える者はそこから報酬を得るべきだということが書いてあります。
第1コリント9の9から14とか、第1テーブルの5の18などにも、そういう根拠が書かれています。
それはさておきまして、昨今、数週間前の銃撃事件からある教団が話題になっています。
カルト教団。献金の問題が話題になっています。
私が毎朝聞いているTBSラジオのニュース番組でも、10分間その日のコメンテーターが献金ということについてお話ししたんです。
その方すごく詳しくてですね、この人クリスチャンなのかなと思うぐらい、教会の献金制度はこうなっていますということを淡々と教えていて、
何が今のカルトの間違いかということを教えていますけど、
端的に言いますけれども、罪の許しや先祖や前世の祟りから救われるために献金しなさい、お布施を払えという教えがあれば、
それは100%危険なカルト教団です。
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病気やお金の問題をはじめ、もし私たちの周りに不幸と思える出来事があっても、それを防ぐためのカルト教えを教えてください。
お金を払いなさい、お布施を払いなさい、そうすれば救われるという教えがあれば、それは100%カルトです。
病気やお金の問題をはじめ、もし私たちの周りに不幸と思える出来事があっても、それは先祖や前世の祟りなどでは一切ないと100%断言できます。
反対に献金やお布施によって解決されるということも完全な嘘ですから、怖がる必要はない。困っていたらそんなになります。
私、今話題になっている教団からいわゆる脱解と言うんですけれども、マインドコントロールが解かれて普通の教会に戻った方、何人も知っています。
そこのある、もう20年以上前ですかね、僕死んだの前に学生のクリスチャンの援助をしていた時に、その学生がいたんですけれども、
彼が言うには、今話題になっている旧Tという教団は、嘘をついてもいいんです。
彼らが言うところの真理と目的を達成するためなら、嘘をついてもいいと彼は断言していました。
実際、本当に私も関わったんですけど、嘘をつきます。
まともな教会ですよとか、宗教じゃありませんよ、と。
という話が発生しますけれども、とにかくこういう話が出てきたら、嘘だと思って健全な教会に遭難してください。
健全な教会ですと言い切るかもしれませんが、何という団体に属してますかと聞いてください。
うちは日本バブテスト教会連合ですね。日本キリスト教団とかあります。
そういう名前が出てきたら安心ですけど、何々教会、どういう教団に属してますかとその教団を言わせて、
それが口御もったり、怪しいと思ったら即、もうちょっとした、ちゃんとしたところに遭難してください。
後で話すんで、個人。
まあそれはそれでしまして、今話題になってますから、あえてこの献金や報酬ということで、このような話題にしました。
さあ、それはさておき、パウロは最後にこう締めくくっていますね。読める方読んでみましょう、3回。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。
人は種をまけば、刈り取りもすることになります。
自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、
御霊にまく者は、御霊から永遠の命を刈り取るのです。
これはですね、まさに人を食い物にするような宗教に対しても当てはまります。
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人々に対しても、カルト教団やそういう人たち、
自分たちの欲のためにこの献金を募ったりですね、お金を踏んだくるような教団や人々、
神様は侮られるような方じゃないですから、必ずそういうところには滅びが報いとして与えられるというんですね。
一方、私たちは御霊の者ですから、御霊によってまく、御霊から永遠の命を刈り取る、
来週詳しく見ますけれども、それは、今日は御霊を追い合うようにですね、
クリスチャンをはじめとする相手の方に良くするという、そういうことが中心になりますけれども、
この良い種まけについては来週詳しく学んでいきたいと思います。
そんな中で、教会において、置かれた場において、私たちが健全な人間関係で生きることができるように、
共に祈り合っていきましょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちは、精霊が与えられ救われました。
一人で生きるのではなくて、教会、家庭、その他、社会の中で、人との関係の中で生きるものです。
どうぞ、その中で、あなたによって立ち、確信を持ちながらも、互いに重荷を居合い、
また、あなたの立法を全うし、見た目によって生きることができるよう導いてください。
その時その時に、必要な知恵、必要な力を与えください。
感謝して、イエス様のお名前によって祈ります。
それでは、黙祷のまま1分ほどですね、
今日の聖書の言葉にそれぞれ応えて、黙祷でお祈りください。
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