十字架に栄光が
今朝はこの箇所から、十字架に栄光がという題で、見言葉を取り継がせていただきます。
実は私には、春になると忘れられない光景が一つありまして、兵庫県の辰野市というところにあります、綾部山梅林って皆さんご存知でしょうか。
実は新学生の頃に行きました。ちょうどこの春季伝道実習期間の時に、新学校に一人だけ残っててですね。
すると学館の鎌野先生が、山陽電車のチケットがあるけども、1日の予定表書くんだったらあげるって言われてですね。
ちゃんと調べて、ちゃんとレポート出してですね。チケットいただいて。山陽阿保市まで行って、そこからバスで綾部山に行きました。
その時が偶然もう梅が本当に満開の時期でして、天気もとても良かったんですね。
山二つが丸々梅の花に包まれているというような光景でした。
その光景があまりにも美しかったんですね。私は何度かあの光景に出会いたくて、その後も綾部山に行くんですけども、梅が咲いてないタイミングで行ったりだとか、天気が悪かったりしてですね。
なかなかあの光景に出会えない。でも私の中には、刻明に10年以上前の景色が刻まれているんですよ。
やっぱり心に残って、その景色でいろいろ私も変えられたところがあってですね。
やっぱりそういう心に残って消えない景色っていうのはあるんだろうなぁということを思っています。
心に残って消えない景色ということであるならば、実は今朝のこの辺坊山と呼ばれるこの17章の箇所も同じような光景だったのではないかなと思います。
この箇所はマタイ・マルコ・ルカ全てに書かれておりまして、その光景というのはまさに光に包まれているわけですね。
その光景は全てが光に包まれ、そしてその中に天から喜びと愛に満ちた父なる神様の声が聞こえた。
これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ、彼の言うことを聞けという声が聞こえたというんです。
まさに混じり気のない光、喜び、愛、そのようなものが目の前に広がっている弟子たちからすれば忘れられない光景だったのではないでしょうか。
ただ、この17章の1節から8節の高い山での出来事といいますのは、聖書の一つの解釈ではありますが、これはゴルゴダの丘と実に重なっていると理解されることがあります。
山の上の栄光の輝きといいますのは、実は丘の上の十字架を解き明かすそのような光景であると理解をされることがあります。
今朝はある種そのような重なりに注目をしながら、これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ、彼の言うことを聞けというこの御言葉をご一緒に受け止めさせていただきたいと願っております。
高い山での変貌
さて一つ目のポイントですが、栄光と十字架というものが重ねて見えてまいります。栄光と十字架というものです。
この17章を見てまいりますと、まず、マタイの福音書が徐々にクライマックスへと向かっているということがわかります。
私たちは先回16章のペテロの信仰告白を見ました。そこでまさにペテロは、あなたは神の子キリストですと告白しましたが、イエス様が何者であるかということがそこで明らかになったわけです。
しかしその直後でしたけれども、16章の21節というところでイエス様がこうおっしゃいますね。
イエスはご自分がエルサレムに行って、長老たち、最主張たち、立法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に甦えらなければならないことを弟子たちに示し始められたと。
イエス様はこの時からご自身の行き先を示し始めるのです。
この私たちが進んでいる旅は死と復活へと向かっているんだということですね。
ただこれを弟子たちは理解をできませんでした。
その弟子3人を連れて、ただ今朝は17章ですね。イエス様は高い山へと向かって行かれます。
17章の1節にはそれから6日目ということが書いてありますけれども、七を歓声だとか安息と考えるユダヤ人の歓声からすると6日目というのは含みがありますね。
それはまた考えていただけたらと思いますが。
さて、その3章でイエス様の姿が変わられるわけです。
2節を見ますと、すると弟子たちの目の前でその見姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなったとあるのです。
顔が太陽のようにとは、これはご存知だと思います目白に出てきます復活のイエス様の姿と同じ表現ですね。
ですからこれはイエス様の神性、神の姿を表しているんだと一般的に理解されますけれども。
ただもう一つここに見られる解釈としては、これはいや、人間本来に神様が与えてくださっている栄光の輝きなんだということを言う人もいます。
私はどちらかというとその方が説得力があると思います。
エリアとモーセもここで輝きますが彼らは神ではないですね。
私たちは神様から人間であるというだけで神様から栄光に輝く存在として作られている。
でもそれが損なわれている私たちです。
しかし神様は私たちを捉え、私たちと交わり、本当の人間として生かすことを神様は願っておられるんですね。
私たちは神様との隔てない交わりを通して顔が輝いたモーセという人物を知っていますよね。
そしてイエス様ご自身も神の民が後に太陽のように輝くのだということを、マタイの13章の43節というところで語っています。
いわばそれは神の民になり始めるということ。
主の恵みに感謝しながら、罪を悔い改め続けながら、その上で主の愛を知り続けながら、
そのような主との隔てない交わりというものが私たちを輝かせていく。
そういうことを聖書は語るのですね。
しかしながら、このようにまさにイエス様の隔てない神様との輝き、本当に栄光にあふれた輝きですが、
この栄光の輝きはゴルゴダの十字架と並行している。もしくは対照関係に一部はあるということです。
どういうことでしょうか。
栄光の回復
イエス様の十字架の場面というのを皆さん少し、全部読むと長いので思い返していただきたいと思いますが、
この山上の出来事と、ゴルゴダの丘の上のイエス様の十字架の場面というのは、
例えばこういう対比、6つほどありますが言えると思います。
例えば、イエス様は高い山の上に、栄光のうちにこの箇所では現れますね。
けれども十字架では、イエス様はエルサレム郊外の丘の上で、知辟のうちに現れます。
栄光とは真逆の姿で現れますね。
この山の上で、イエス様の衣は白く輝いています。
しかし十字架では、その衣は剥ぎ取られて、兵士たちが自分のものにしようとくじ引きをしていますね。
この山の上では、光に包まれましたが、十字架の場面は闇がそれを覆ったと語りますね。
山の上でイエス様と肩を並べてしゃべっているのは、立法と預言者の代表であるモーセとエリアです。
しかし十字架の上でイエス様の左右にいたのは、まさに立法と預言者を無視してきたような、
イスラエルの堕落を象徴するような罪人二人ですね。
山の上でペテロは的外れかもしれませんが、彼はその栄光を見て絶賛するわけですよ。
しかし十字架ではペテロはイエス様を否定し、その恥ずかしさの余りに隠れてしまいますね。
この山の上では、父なる神様が喜びと愛を持って、これは私の愛する子、私はこれを喜ぶと言われましたが、
十字架の上ではまさに異教徒の軍人が驚きに満たされています。
この方は本当に神の子であったと。
まさにこの山上での変貌さんの出来事というのは、このクライマックスが始まっていく最初に置かれるんですが、
だからこそ説得力がありますね。
十字架というのは、私たちの目には実に敗北にしか見えない光景、
でもそれはその背後では一体何が起きているのか、これは一体何であるのか、変貌さんの出来事がそれを語る。
そしてこれらを二つ見比べるときに、私たちは十字架の大切な意味に気づくんです。
それは十字架の中に栄光を見、栄光の中に十字架を見なければならないということです。
十字架の中に栄光を見、栄光の中に十字架を見なければならないということです。
これはパオロの手紙を皆さんよくご存知であれば、パオロも同じようなことを語っていることをご存知でしょうし、
また長い教会の歴史もそう語ってきました。
本当に神の栄光を知りたいならば、いや、神の形として作られた人間にとっての本当の栄光とは何であるのかを知りたいのであれば、
あなた方は十字架のイエス・キリストを見なければならない。
そしてそれはまさに、雲の中におられる神様が、この三坊さんの時は喜びと愛を持って、これは私の愛することを語りましたが、
しかし十字架はおそらくその逆だったでしょう。
父なる神の悲しみがそこを覆っていた。
しかし救いというのは、神の喜びと愛と悲しみ両方を含んだ技の中に、それが実現したのだということを、私たちは深く服装するというか受け止めなければならないと思います。
まさにこういう話を聞いても、なんか変だなと思うかもしれません。
栄光と十字架が結びつくんですよ。
実にこれは普通に考えれば不可解なことですね。
十字架というのは本来栄光から最も遠いところにある。
しかしそれが結びついている。
けれども、まさに私たちはこの不可解さを手放してはならないんですよ。
これこそがイエス・キリストを信じる人々が見失ってはならないものです。
栄光は十字架にあり、十字架のうちに栄光がある。
後にパウロはこのように言いましたね。
十字架の言葉は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
この地上において、ギリシャ人であったりローマ人であったり力があったり賢い人たちがいる。
けれども、そうではない。
それが本当の栄光ではない。
私たちは十字架の言葉を知っているかという第一コリントの招きでしたね。
さて、そのようなことを覚えながら、二つ目のポイントを見てまいりますが、
このことから私たちは、栄光は十字架にあるものとして生きるようにと招かれているということです。
先ほど見ましたこの箇所から、私は二つのことをご一緒に受け止めることができればと思っています。
第一に、イエス様が十字架の闇を歩まれたのは、私たちを栄光の光に生かすためであるということです。
イエス様が十字架の闇を通られたのは、私たちを栄光の光に生かすためであるということです。
先ほど申し上げましたが、
辺坊さんでのイエス様の輝きというのは、人間に本来与えられた栄光の輝きであると聖書は理解をします。
そして、これもまず聖書の大前提でありますが、
人間はとても良いものとして作られた。
私たちの存在は良いものなんです。とても良いものなんですね。
それぞれの存在は尊いものとして神様に作られました。
ただその尊い本来の姿から、罪によって私たちは損なわれているお互いであるということですね。
神様と共に交わるようにデザインされ作られた私たち人間ですが、
神様以外を神様としながら、様々な痛みを抱え込んで生きている私たちがいる。
これはクリスチャンであっても関係ないことかもしれません。
私たちは本当に神様を神としているのか。
でないといろんなものを引き受けてしまうところがありますね。
神様はこの世界を良いものとしても想像されました。
しかし、世界の管理責任を委ねられている人間は、世界を壊し続けていますね。
全ては良いもの、栄光ある輝きに生きるものとして想像されていましたけれども、
その形を損ねていると聖書は理解をいたします。
しかし、私たちがイエス様に出会い、救われ神様の交わりに生きているのは、
この本来の栄光の姿を回復するために私たちは主に出会われたわけですね。
救いと人間性の回復
神様を愛し、この世界を愛し、隣人を愛するという本来の人間性の回復のために私たちは救われました。
死と化を合わせ、砕かれ、癒されていきながら、
あなたは私の愛する子、私はあなたを喜んでいるという声を、
何の隔てもなしに喜んで受け取ることができるようにと私たちを救ってくださった。
私たちはその歩みへとめされているわけですよね。
ただ、私たちはその人生の道筋で暗闇が覆うことがしばしばあります。
しかし私はこの聖書の言葉にとても慰めをいただいております。
一箇所お読みしますが、
ヘブル人への手紙の4章の14節という言葉をちょっとお読みしますと、
14節から16節というところ。
ちょっとお読みしますとこういう言葉ですね。
ヘブル人への手紙の4章の14節から16節というところ。
有名な言葉ですけれども、こういう言葉ですね。
お読みいたします。ヘブル書の4章の14節。
さて私たちには諸々の天を通られた神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、
信仰と告白を固く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯しませんでしたが、すべての天において私たちと同じように心身に憐れたのです。
ですから私たちは憐れみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために大胆に恵みのみざに近づこうではありませんかと言われます。
主は私たちを慰めるために同じ心身に憐れた。
しかし主の心身は私たちは知っています十字架ですね。
同じ心身なのでしょうか。
私からすればもっと深い試みを受けられたように思います。
私たちの暗闇は十字架以上でしょうか。
十字架ほど深い闇の場所はないですね。
しかしそれはなぜ主が十字架に向かわれたのか、
それは私たちのどれほど深い闇にも共に心を震わせながら、
おりにかなった助けの手を差し出すために主はあの十字架に進まれたんです。
主はそうしてくださるお方ですね、この暗闇の本当に先が見えない中に。
しかし主はそのように手を差し出してくださいます。
そのような主に支えられながら、私たちは光へ向かいなさいと招かれ続けるんです。
私と共にあなた自身を癒しなさいと私たちは招かれる。
あなた自身を癒しなさい。
そう私たちは導かれていることをご一緒に覚えたいと思います。
十字架と栄光の理解
そして第二にもう一つ見ていきたいのですが、もう一つありますのは、
私たちは改めて栄光は十字架にあるということを知りなさいということです。
栄光は十字架にあるということを知りなさい。
十字架にあるということは単に苦しんで死になさいということではないでしょう。
十字架は結果であって、それは十字架へ向かうまでのイエス・キリストの道ですね。
十字架への道とはまさにイエス様がこれまでなさっていた
痛む人や損なわれた人々を愛し、使えるため謙遜に下っていく道です。
それはイエス様がされてきたことですね。
人の目から見るならそれは実に愚かしい弱い生き方です。
でも聖書が語るその中に神の復活の力は十二分に表されるのだということ。
ルカノフ勲書でありますが、弟子たちはこのイエス様の意図を理解しませんで真逆のことに夢中になりましたね。
弟子たちの間で誰が一番偉いかと彼らは話し合ったわけですね。
彼らは自分がより優れていることであったり、力を発揮できること、人を支配できることを栄光だと考えました。
この世界がまさに栄光をそのように理解しているからですよね。
人との競争の中で勝ち負けがあなたの価値を決めるんだと言わんばかりに。
だから私たちは上に立つことに心から必死になるんです。
でもイエス様は言われますね。
これもちょっといろいろ開いて申し訳ないんですが、
マタアイの福音書23章の11節から12節というところ。
これは他の福音書にも書いてますが、23章の11節から12節というところを読み出します。
マタアイの福音書23章の11節から12節を読み出しますと、
あなた方のうちで一番偉いものはみなに使えるものになりなさい。
誰でも自分を高くするものは低くされ、
自分を低くするものは高くされますというのですね。
低いものが高められるとイエス様は語られます。
それはまさに十字架の道を最後まで歩まれたキリストイエス様を
父なる神様は高く上げ、誰よりも優れた名をお与えになった。
そうピリピの2章の9節に書いてありますね。
そのようなことを思うときに、この箇所から私たちが今朝、
ある種迫られることは何かと言いますと、
私たちは栄光の理解を変えなければならないということです。
栄光の理解を変えなければならない。
まさにそれは17章の5節にあるように、
彼の言うことを聞けと、聞けというのは従えという言葉です。
彼の言うことに従え。
彼の後について行け。イエスキリストの歩みについて行け。
人より優れ、力を発揮し、人を支配できることは本当の栄光ではない。
そうではない。
栄光とは、痛む人、損なわれた人を愛し、
支えるために謙遜に下っていく十字架の道です。
しかしそこに、神の復活の力を知っていく道、
それこそが私たちの栄光の道なのだとイエス様は指し示されるわけですね。
もう終わりますけれども。
今朝は聖三式をご一緒に持ちます。
キリストの体であるパンと流された血をであるブドウ汁を
私たちが一緒に飲むというのは、
私たちが同じ主、イエスキリストを主とする共同体であることの印です。
人はいろんな違いがあるんです。違いがあっていいんです。
でも私たちは同じお方を主としているという、
そのことをご一緒に飲みながら確認をいたします。
そしてそのイエス様、
裂かれた体と流された血を私の内にいただくというのは、
イエス様と一体になり、
精霊様の助けによってこのお方の後を歩むという再現心です。
いつも私たちはそこに聖三式の度に立たされますね。
どうか山の上の光景とゴルゴダの十字架の光景が
私たちの心に刻まれますように。
何が栄光なのかということにもはや迷うことのないように。
十字架に栄光がある。
そう進まれたイエス様が私たちの内に受肉されますように。
そのことを願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。