00:01
聖書を読みいたします。聖書の箇所は、丸子の福音書、丸子の福音書十二章です。
ページは、新約聖書の九十二ページでございます。九十二ページ、二十八節から三十四節まで、読みいたします。
丸子の福音書、十二章二十八節。
立法学者が一人来て、その議論を聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを知って、イエスに尋ねた。
すべての命令の中で、どれが一番大切ですか。イエスは答えられた。一番大切なのはこれです。
イスラエルよ聞け。我らの神である主は唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛せよ。
次にはこれです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。この二つより大事な命令は他にありません。
そこでこの立法学者はイエスに言った。先生その通りです。主は唯一であって、その他に主はないと言われたのは、まさにその通りです。
また、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また、隣人をあなた自身のように愛することは、どんな前生の生贄や備え物よりもずっと優れています。
イエスは彼が賢い返事をしたのを見て言われた。あなたは神の国から遠くない。それからのちは誰もイエスにあえて尋ねるものがなかった。
聖火隊に賛美していただきます。その後、内田博士より神を愛し、隣人を愛せよと題してメッセージをしていただきます。
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おはようございます。今日の御言葉をいただく前に一言お祈りをさせていただきます。
あなたの御言葉は我が足の灯火、我が道の光です。御言葉が開けると光を放って無額なものに智慧を与えます。
天の父なる神様、今日も私たち一人一人に命を与え、またこの新しい月の第一、聖日に私たちをお見通えと導いてくださり感謝をいたします。
今、御前にあって礼拝をお捧げしております。礼拝の主であるあなたが、このすべてをお導きくださることを信じて委ねています。
私たちの魂を今探ってください。そしてあなたが御言葉を通して私たちにあなたの身胸をお語りくださるように、私たちもそれをしっかりと受け止め、あなたの身胸に沿うものに整えてくださるようお願いをいたします。
私たちの思いはすべて同じであります。日本において大変な災害があり、今、不自由をされておられる方が多くいます。
神様どうぞ、あなたが憐れんでください。お支えください。そして今必要なものをあなたが届けてくださるように、日本中が痛んでいます。どうぞあなたが慰めを与えてくださるようお願いをいたします。
そんな中にありましても、まず私たちが神の国と神の義を求めて今集っています。どうぞあなたのお声を聞かせてください。今から聞かせてくださる御言葉を通して私たちに神様の愛を覚えることができるものにしてくださるように、そしてまた何をすべきかどうあるべきかを教えてください。
今からしもべが語りますけれども、ただ御言葉だけが残りますように、どうぞすべてのものをあなたが祝福して整えお導きくださるよう、真摯お枝にして、主キリストの皆によってお祈りいたします。
今日はマルコによる福音書の12章28節から34節を開いていただいております。
09:13
立法学者がイエス様に尋ねたということから始まっています。
すべての命令の中でどれが一番大切ですか。
この命令というのは神様の命令、神様の忌ましめということですね。
もちろん立法学者ですから、そのことについては専門家でありますから、たくさんの神様の命令、あるいは忌ましめというものを彼は知っておったわけですね。
当時の人はみんな知っておったわけですが、皆さんも例えば神様の命令、あるいは神様の忌ましめということで何を思われますか。
おそらく孟瀬の十回を思い出されると思うんですね。
一回思い出しても十回ですから、孟瀬の十回を思い出すわけですが、
それ以外にもたくさんある神様の命令、忌ましめ、そういう中でどれが一番大切ですか。
こういう質問は答える者にとっては大変難しい質問ですね。
どれも大切だ。しかしその中でどれが一番大切ですか。
そこでイエス様が答えられた一番大切なのはこれです。
イスラエルよ聞け、我らの神である主は唯一の主である。心を尽くし思いを尽くし知性を尽くし力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
次にこれです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
この二つより大事な命令、忌ましめは他にありません。
そのようにお答えになった。
イエス様はこのお答えを九白聖書の中から引用なさったわけですね。
主なるあなたの神を愛せよ。これは新明記の六章四節の中に記されているそのお言葉を引用して、まずあなたの神である主を愛しなさい。
主を愛することが、例えばモーセの一番から四番までの私と神様との関係の忌ましめ、それらすべてを網羅している。
主なる神を愛することはその忌ましめをすべて守ることだ。
そしてもう一つのあなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
12:01
この隣人を愛する愛があるならば、例えばモーセの十回の五番から十番のそれらすべてを守っていることに等しいのだ。
だからこの神を愛することと隣人を愛すること、これさえ守っているならばすべての忌ましめを守ること。
だからこの忌ましめが一番大事なのですということをおっしゃったわけです。
私たちはこうして今日、神を愛することと隣人を愛すること、このことを覚えたいと思います。
これは今までも聞きましたし、自分もそのように理解して今まで過ごしてきました。
しかしもう一度改めて、この忌ましめを私たちは心に覚えたいと思います。
あなたの主なる神を愛せよ。そして隣人を愛しなさい。
私たちが神を愛するということにおいて、それでは神を愛する。
何となくわかっているように思っていたのですが、神を愛するというのは具体的にどういうことなんですか。
聖書では神を愛するとは神の命令を守ること、神の忌ましめを守ることであると書いてあるとおり、やはり神様を愛することが
私たちが神様の命令を守る、忌ましめを守ること。神様がこれをしなさいと言われたことを、はいわかりました、それをします。
神様がこれをしてはいけませんと言われたことに、はいわかりました、私はそれをしません。
そういうことを忠実に守っていく。それが神様を愛することなんだということを私たちは教えられるわけです。
私たちが慕うもの、あるいはこの方に委ねていくとき、その方の言われることに忠実に従う。これは愛しているということの証拠であると、そのように思うわけです。
それでは私たちが神様を愛する方法というのはどういうものでしょうか。どのようにして神様を愛するんですか。
それが例えば33節にもこのように書いてあります。心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し。
神様を愛するその愛し方ですね。それが心を尽くす、あるいは心を込めてということでしょう。
15:07
私たちが心を尽くして、心を込めて主なる神を愛する、あるいは神様の言われることを守っていく。
あるいは神様にお使いしていく。それらは全て心を尽くすんだ、心を込めてやるんだ。
私たちが今日も礼拝のプログラムを一つ一つ守っている、従ってやっているんですが、どのプログラム一つ一つとってもこれは同じ重さがあるわけです。
ですから賛美する時も心を尽くし、心を込めて主を賛美する。祈る時も心を込めて。そして捧げる時も心を込めて捧げる。
それを神様は喜んでください。それは神様を愛することなんだ。
私であるならば心を込めてこの御言葉を皆さんにお伝えしていく。それが私の務めであろうと思いますし、
今日はプログラムが盛りだくさんで祝福ですけれども、一つ一つ心を込めて、心を尽くしてさせていただきたいと思います。
知恵を尽くしてとございます。神様を愛する、あるいは神様に仕える、奉仕する、それは知恵が必要です。
自分一人の知恵で足りなければ皆さんの知恵を持ち寄って、アイデアを持ち寄って、皆さんがこういうことを知っている。
そういうものをみんな集めて、そういう知恵を神様からいただいて、その知恵をみんなが持ち寄って、時には議論しあって、より良いものを神様に捧げよう。
そういう知恵を尽くして主なる神を愛するということ。もう一つは力を尽くして主を愛しなさい。
力、これもたくさん力があると思うんですね。ある人は体力のある人、その人はいろいろなものを手伝ってくださるでしょうし、
それこそ知力のある人はその知恵を用いて何かしてください。あるいは財力のある人はその与えられている財を用いて神様を愛する。
指導力のある人はその賜物を用いて神様を愛していく。そういう私たちに与えられている力のすべてを用いて、そして神様を愛し神様に従っていく。
それが神様を愛する方法である。そのように教えられます。
もう一つが神様を愛しなさい。その愛はどこから来るのかということですね。
18:10
ここで私たちは聖書を読むにあたって非常に大事なことをもう一度覚えたいと思うんですが、私たちが今手にしているこの聖書、これは日本語訳ですね。
私たちはヘブル語とかギリシャ語を読めませんから、この翻訳委員の皆さんがそれこそ知恵を尽くして議論し合って、こういう日本語訳がいいのではないかということで、大変ご苦労なさって私たちにこの日本語訳を与えられているわけですね。
ただ外国語を日本語に訳すときにぴったりの日本語があるかどうか、これが大変大きな問題ですね。
ここにも主なる神を愛せよ、隣人を愛せよという愛、愛するという、このもともとのアガペイ、アガパウという動詞、アガペイが本当に愛という日本語でそれをすべて言い表しているかというと、決してそうではない。
しかしアガペイということでもいけないので、愛という訳をつけたわけですね。
ですから私たちが気をつけなければいけないのは、私たちが読ませていただいているのはあくまでも日本語訳であるということ。
少し日本語と原文とのギャップ違いがあることもあるということを前提で私たちはこの日本語訳を読んでいく。
しかし要するに私たちはアガペイというものをどういうものかというのを聖書を通して理解していけばいいわけであって、必ず聖書を読んでいけば日本語訳の聖書の言う愛はアガペイ、そのアガペイというのはこういうものかというのはきっとわかりますから、そのことを私たちは知る必要があるかと思うんですね。
その前提で私たちは神を愛する、あるいは隣人を愛するということを聖書は言っているんだということを覚えておきたいと思います。
そういう前提で神への愛はどこから来るのか。
ヨハネ第一の手紙の三章一節のところで、神からどんなに大きな愛を賜ったのかを考えてみなさい。
あなた方は神からどんな大きな愛を賜ったのかをもう一度考えてみなさい。
21:02
私たちは神様から愛をいただいている、神様から愛されている、そのことを知ったとき、そのことが感謝として祈りを捧げることができたとき、そのときに神様への愛が芽生えていく。
要するに人間というのは愛されて、そしていただいたその愛があふれて、その愛をもって他者に、この場合神にその愛を捧げていく。
そしてまた私たちがいろんな人から愛をいただきます。その愛をまた私たちが次の人にそれを与えていく。
いわゆる愛されそして愛していく、愛され愛していく、愛され愛していく、これを面々と人間は繰り返してきたわけですね。
ですからこの愛の源は神から来るんだ。神は愛ですというのはそのゆえですね。
私たちの持っている愛というのは神から来ているんだ。その愛されているというそのことをまず知ること、それを感謝すること、そこに愛が芽生えてくるんだということを覚えさせられるわけです。
世にあって多くの、例えば悲惨な出来事があります。人間同士の中でいろんな出来事をニュースで見たりすることがあります。
それはその一つの理由としてやっぱり愛され愛していく、愛され愛していく、それが突然ずっと切れてしまう。
愛されなかった、だから愛せなかった、そういうことがあるときに祝福を失ってしまう。
ですから私たちが人との関係の中でその愛を絶やさない。まず私たちが愛されていることを知り、その愛を他者に受けていく。
それが私たちへの祝福であると、そう思うわけであります。
二つ目の、イエス様が言われた大切な今しめ、それはあなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい。
このことについては、ルカによる福音書の十章の中にあります、良きサマリア人のたとえ、あそこから多くのことを学ばされるわけです。
隣人を愛せよ。ある人がエルサレムからエリコに下る途中で強盗に襲われた。
そして半殺しの目にあったわけですが、そしてそれを見たサイシ長、サイシあるいはレビィ人は見たんですけれども、それを見過ごして反対側を通って行ってしまった。
24:11
しかしあるサマリア人がその人を哀れに思い、そして至れり尽くせりの解放をしてあげたという、そういうイエス様のたとえ話。
そこからあなたの隣人を愛しなさいということを私たちは教えられたわけですが、
私たちはもう一度この隣人を愛するということを今日覚えたいと思います。
私たちの隣人とは誰か。今皆さんの横にいる人、前にいる人、後ろにいる人、それは皆私たちの隣人です。
あるいはお家に帰れば家族の者、夫であり妻であり、あるいは子どもたちであり親であり、それが私たちの隣人、身近にいる隣人。
あるいは職場に行けばその職場で一緒に仕事をしている仲間のそういう人たち、学校に行けば学校のクラスの人。
皆私の隣にいる、近くにいる人、そういう人が隣人であります。
そういう隣人を自分自身を愛するように愛せよというわけです。
でも中には気に食わない、会わない、いじめられているようなそんな人、どうして愛せるんですかと私たちは思います。
それが人間の自然の姿です。
ですから私たちは愛ではだめです。アガペですということを覚えておかなければならない。
イエス様はあなたの隣人をアガペをもって示しなさい。
アガペの愛、それは自分が気に入っているからとか、会うからとか、よくしていただいているからというそういう条件付きではない。
このサマリア人がおそらく、圏園の中にあったユダヤ人が傷つき倒れていたとき、そういう民族の壁を越えてその人をかわいそうに思い、そして解放してあげた。
一人の人間がそこに倒れている、たとえそれが圏園の中であろう、あるいは気に入らない人であろう、敵でさえもその人によくしてあげたい。
そういう思いが彼の中に湧き上がってきた。それがアガペです。
皆さんの間近にいる人、いつも一緒にいる人の中におそらくいると思います。私もいます。
27:05
でもイエス様はそういう隣人に条件付きでないアガペの愛を示しなさい。
隣人を愛せよ。それがイエス様が私たちに今日言ってくださっている今しめであります。
それともう一つの隣人、それは言ってあなたもそのようにしなさい。
隣人には二つあります。神様がお前のそばに置くよと置いてくださる隣人、それを愛しなさい。
それともう一つは、今は近くにいないけれども、そこに自分がいてその隣に身を置いて隣人となるその人を愛しなさい。
そう思うと祈りの中にありました。あそこで今あの地で困っている人がたくさんいる、そういう人のところへ出かけていって、そしてその隣人になる。
もちろんそこにはいろんな条件がありましょうけれども、私たちの思いの中には、今私はその人のところに行って、
もし可能であるならば、その人のところに出かけていって、その人の隣人になって、その人にあがてを示そう。
そのことをイエス様は今日私たちに言ってくださったわけです。
神を愛せよ、そしてあなたの隣人を愛しなさい。
そのことを今日私たちはもう一度しっかりと覚えて、そして日々の生活の中でそれを実践していけるように。
これは大きな神様からのチャレンジです。しかし私たちが神を愛するならば、その愛は表せるはずです。
なぜなら私たちはどんなに大きな愛を神様から賜っているか、そのあふれんばかりの愛をもってさえすれば、それは可能なんです。
ある人が尋ねました。愛することの反対は何ですか。愛することの反対。それは憎むことではなくて、無視することだと答えました。
これは本当に正しい答えです。
だとするならば、神を愛するとは神を無視しないことであり、隣人を愛するということは隣人を決して無視しないことだと教えられるわけです。
お祈りいたします。
天の父なる神様、今日あなたから聖書を通して大切な今しみを教えられたことを感謝します。
30:06
日頃はそのように知っておりましたが、もう一度改めて私たちの主なる神を愛すること、そして神様私たちにどんな大きな愛を賜ったかを覚えること、そして私たちがあなたが置いてくださった隣人を愛すること、また行ってその隣人になってアガペの愛を示していくことを教えてくださってありがとうございます。
弱くまた勇気のない力のないものですが、神様の愛をいただくならばきっとそれもできることを信じておいだねし、あなたの今しみに従います。
イエス様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。