2023-09-17 27:39

#欠点があっても 23/9/17

マルコ6:6-13からの礼拝説教。2023年9月17日録音。 セールスのためには、製品に見向きもしない人たちを引き付けるべき涙ぐましい努力をします。また、会社を代表して人を派遣するときには立派な人を選びます。しかし、イエス様が弟子たちを遣わしたときにはそう考えなかったようです。今日の聖書箇所から1.シンプルライフのススメ、2.受け入れない人たちへの対応、3.欠けがあるままで用いて下さる、の3つの点から学びましょう。

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マルコ6章6節から13節。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。
また、十二人を呼び、二人ずつ使わし始めて、彼らに穢れた霊を制する権威をお授けになった。
そして旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも袋も銅巻きの小銭も持っていかないように、
履物は履くように、しかし下着は二枚ないように、 と命じられた。
また彼らに言われた。 どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家に留まりなさい。
あなた方を受け入れず、あなた方の言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行く時に、
彼らに対する証言として、足の裏の塵を払い落としなさい。 こうして十二人は出て行って、人々が悔いを改めるように述べ伝え、
多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。
それでは、今日はこの箇所から、
失礼しました。 欠点があっても、と題して御言葉を取り継ぎます。
皆様おはようございます。 先週の金曜日ですね、埼玉県に雑誌でしたけど、午後にですね、突然
雷雨ですね、雷、そして大雨が降りました。 その夜のニュースでは、東京都内でもだいぶですね、新宿でしたでしょうか、
大水で冠水したり、そんなことが報道されていました。 毎週金曜日ごとにですね、最近は天気が荒れるということが続いています。
そんな中、私たちもいろんな面で体調に不具合というか、不良を感じることがありますけれども、
その中ですが、礼拝堂やまたズームでお互い、今日の礼拝を守れること、礼拝に集えることを本当に感謝しています。
さて、今日はマルコの6章の6節から13節です。 実はですね、先週少しお話ししましたが、聖書の章、節の区切り、
それは元々の原点にはなかった。 それでですね、どこからその聖書の
段落と言いますか、それを分けるかということで、いろいろな研究がなされています。 そして今日の箇所はおそらく6節の後半の部分から
一塊になっているのではないかと言われています。 神の聖書を読んでいる方はですね、
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それからイエスは、6章の後半から段落が変わっているのに目が行くと思います。 要はですね、
先週、教理でイエス様は拒絶されました。 そこを後にして、その後村々を巡って、十二弟子を使わせたというところが今日の箇所です。
その中からですね、今日弟子たちへのイエス様の覇権の言葉から、3つのことをいつも通り学んでいきましょう。
まず最初はシンプルライフの勧め、どこかの雑誌のですね、あるいはネット記事のヘッドみたいですけども、
最初はシンプルライフの勧めです。 6章の8節から10節、もう一度読んでいます。
そして旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、 パンも袋も、胴巻きの小銭も持っていかないように、履物は履くように、
しかし下着は2枚着ないようにと命じられた。 ここだけ読んでみましょう、またからさん。
また彼らに言われた、どこででも一軒の家に入ったら、 そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。
イエス様は弟子たちにこのように命じている覇権の言葉です。
彼らが今でいえば、選挙の旅に2人ずつ一組で使わされました。
それは明かしのためとか、共同体として仲間としてという意味があるんですけども、
2人ずつ使わせた時にこの言葉が告げられました。 そしてそこで、その地域で、一軒の家で受け入れてもらって、
そこで出してもらうものを食べなさいということです。 そのもてなしで十分です。
十分とすべきで、より快適なもてなしを受けるために、もっといいところに行こうという、 家から家に巡り歩くような、そういう浅ましいことはしてはいけないという、
そういう意味もここにはあります。
これは、細かい当時の旅の文化もあるんですけども、
持ち物のアドバイスと、今の良いものを得るために家を巡り歩くなという、この命令と並んで、好きのようなことを教えているんですね。
それは何かと言いますと、神様が必要なものを授けてくださると、信頼しなさい。
そして、重荷となるようなものを持たないようにとの教えです。 神が授けてくださるということを信頼して、そして、
簡単に言うと、余計なものを背負い込まないように、そういう教えです。 背負い込まないというか、揉むさばらないようにというか。
ある学者に言わせれば、この教えは、今の私たちに対するシンプルライフの勧めだと言うんですね。
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これは、物を所有してはいけないということではないです。 楽しいことを全部捨てなさいということでも、もちろんありません。
そこにはですね、このような大事な意味、先ほども言いましたが、神様が必要なものを授けてくださるという信頼というメッセージが込められているわけです。
その神様は私たちにとって、喜びに与えするようなものも含め、必要なものは全て与えてくださる。
そう信頼しなさいということが、ここに込められているわけです。 それは私たちにも教えられているメッセージなのであります。
このイエス様の教えを、マタイの福音書でこのように述べられています。 参考になりますので、
私たちのまた心の糧にもなりますので、ここに紹介いたします。 少し長いんですが、読んでいますね。
マタイ六章の31節から34節。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって、心配しなくてよいのです。
これらのものは全て、違法人が、神様がですね、信頼していないという意味ですけれども、違法人が説に求めているものです。
あなた方にこれらのもの全てが必要であることは、あなた方の天の父が知っておられます。
次のまずから読んでみましょうか。
まず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。 明日のことは明日が心配します。
労苦はその日その日に十分あります。 苦労はその日その日に十分あります。
この有名なイエス様の約束、それを心に留めながら、神様に信頼し、シンプルライフを歩んでいくお互いでありたいと思います。
2番目。 次は、実際に宣教に出ていった時の弟子たちの次の命令です。
教えです。それは2番目。 受け入れない人たちへの対応。受け入れない人たちへの対応。
6章の11節でイエス様がさらに教えていますね。 ちょっと続けになりますが、読んでみましょうか。
あなた方を受け入れず、あなた方の言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行く時に、彼らに対する証言として足の裏の塵を払い落としなさい。
ムラムラをめぐったとありますが、そのめぐった中でこういうことを教えているわけです。
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イエス様はここで、ある意味、現実を語られたんですね。 どんな現実か。それは全ての人が、全ての地域が福音を聞いて、イエス様の救い、
神の救いを受け入れるわけではないという現実なんです。 この弟子たちが、イエス様に代わって
救いの働きを受け入れない人たち、失礼しました。 弟子たちがイエス様に代わって、福音を語っても、それを受け入れない人がいる。
また、弟子たちがイエス様に代わってする救いの働きを受け入れない人たちがいるという現実です。
この前の箇所にあったイエス様の故郷の人たちのようなですね。 このように救いの働きは、商品セールスとは違うということなんです。
今はですね、和食ブームです。 アメリカ、ヨーロッパ、世界のオープンのところ。
以前テレビのクイズ番組で、アメリカの女子のボディービルのチャンピオンが出てきて、問題を出したんですね。
私の体を作った食べ物は何でしょうか? いろいろな人が、パネラーが回答します。
そして回答のVTRが流れた時に、彼女はこう言いました。それは豆腐ですね。 豆腐だって言うんです。
この豆腐、今ではアメリカでも低カロリー、高タンパクということで人気ですが、かつてはですね、このアメリカ人の食
食べ物の嗜好をわかっている人だったらわかるかと思いますが、真っ白で見た目が悪いし、味もしない。
味恩恵とは言いませんが、濃い味が好きなアメリカ人からしたら、味もしないし、見てくれも悪いということで、全く人気が出なかったんですね。
そんな中、このミスター豆腐と呼ばれるですね、この男性が、久保田さんという男性がアメリカに乗り込んで豆腐を売り込むという。
私はですね、その彼の電気をですね、読んだことがあります。で、売り込むためにですね、豆腐のコスプレをして、東京マラソンのようなマラソンに出たりとかですね、そんなことをしたわけです。
そんな中でですね、ヒラリー大統領夫人との約束がきっかけで大ブレイクしたらしいですし、また豆腐の見た目もですね、当時は200ミリリットルの牛乳パックのような、
紙パックで売ってたんですけども、売り方を変えてですね、大人気になったということを読んだことがあります。
このようにですね、製品のせいですであれば、買わない人が振り向いてくれるように、涙ぐましい努力をするわけです。
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けれどもイエス様は、そうは命じなかったわけなんです。弟子たちへのアドバイスは、受け入れない場所があったならば、村があったならば、足の塵を払い落として、そこから出ていきなさいと言いました。
で、実はですね、足の塵を払うという意味は、意味があるんですね。
足の塵を払うとは、当時の敬虔なユダヤ人が、違法人の土地からですね、聖なるイスラエルに帰った時にした仕草。
それは、まあ、いいですか、象徴ですかね、身にまとわりついている宗教的な汚れから関係を立つ、そのことの象徴的な印として、イスラエルに帰った時に足の裏の塵を落としたそうなんです。
さらに、そういう意味があったんですが、ここでイエス様が弟子たちに命じていること、それは拒絶した人々が受ける結果について、弟子たちには責任がない、そのことを表す印だと言われるんですね。
また、弟子たちがですね、その土地の人たちともはやこれ以上交流しないで、次の土地に移っていくという印だって言うんです。
先ほどのミスター豆腐の豆腐のセールスマンはですね、このおそらく上司の命令で、売れるまで帰ってくるなんて言って、とどまり続けたようですけれども、
弟子たちはですね、それ以上反対する人々を説得して、そこに留まるのではなくて、次に進むようにイエス様が命じておられるということなんですね。
そのことを覚えていきましょう。何が言えるか、それはですね、同じように私たちの責任、もし私たちがどこか置かれた場所で、この種の見業を行ったり、それを語る、何が種の見業かということは次の時に見ていきますけれども、
その時にですね、まずここで私たち知るべきことは、拒絶する人のために粘るのではなくて、新しい土地に、
新しい場所にですね、踏み出していくような選択肢がある、そう知るべきだということを覚えておきましょう。
それが2番目です。 それでは最後の点です。
その上で、使わされた弟子たちについて見ていきましょう。それは欠けがあるままで、欠点があるままで用いてくださるということです。
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今日の6章、最後の部分ですね、こうあります。
また、十二人を呼び、二人ずつ使わし始めて、彼らに穢れた霊を制する権威をお授けになった。
こうして十二人は出て行って、人々が悔いを改めるように述べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。
ここで、 悪霊を制する権威とあります。
それはですね、こう考えることができます。 イエス様がなさった癒しの技、弟子たちがする癒しの技を代表した言葉、
力を代表する言葉として、悪霊を制する権威と七節で語られています。
なぜなら、この後、実はこれ、十二節、十三節ではですね、その後ですね、弟子たちが行った時に、悔いを改めるように述べ伝えた時、
多くの悪霊を追い出し、油を塗って、というのは当時の習慣らしいんですが、油を塗って多くの病人を癒したと書いてあります。
ここからですね、悪霊を制する権威が授けられたというのは、このようなイエス様の救いの見業を行う力が授けられたという代表的な表現だとまず覚えておきましょう。
その上で、では先ほど言いました、私たちが行うべきイエス様の救いの技とは何かということを考えてみましょう。
それに関連してですね、この弟子たちがした癒しについて、こう考えるべきだということをちょっとお伝えします、お話しします。
どう考えるか。それはですね、
医療技術がですね、今の日本とこのイエス様のいた当時のイスラエルでは格段に違いますよね。
それは皆さんご存知だと。そのような当時の人たちにとって、病の癒しというのが神様の救いを明確に明かしする代表的で決定的な証拠というか印になったわけです。
それはお分かりですよね。 一方ですね、今の日本では
病気の時には病院に行って、あるいはお医者さんに頼ります。 医療制度はいろいろ問題もあるかもしれませんが、
医療が発達しているわけです。ですから私たちが主のイエス様神様の救いを明かしするために、
癒しを行う以外の道が残されている、与えられていると考えることができるわけです。
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それはどんなことか。それは私たち、その人その人が置かれている場所や関係によって、何が救いの技かということが変わってきます。
そして、今自分が置かれている場所で状況で何が救いの技かということを考えることも
クリスチャンの成熟の域に入るかと、私は考えるわけです。
これを言い換えれば、たとえ私たちがイエス様や弟子たちのように、悪霊の追い出しや病の癒しの奇跡ができなくても、
イエス様の救いを明かしすることができるということなんですね。
その上で、とても大事なことがあります。
イエス様が弟子たちを派遣したときに、大事なポイント、大きな特徴があります。それは何か。
それは、イエス様は弟子たちが完璧になるまで、立派な弟子になるまで、派遣を待つことはしなかったということです。
ちょっと難しいことを言えば、この段階ではまだイエス様の十字架も復活も知らないのに、弟子たちをイエス様は使わせたわけです。
十字架の前で弟子たちはつまずくわけでしょ。そういう段階でも、この弟子たちをイエス様は使わせた、ご自分の代わりに。
どういうことか。賭けがあるまま、成長途上で派遣された弟子たちは、それにもかかわらず、イエス様に代わって救いの見業を行ったのです。
先ほど、癒やされた、
悔いのために述べ伝えた、 記されているところを見ましたよね。
このことについて、ある学者はこのように言っているんですね。
これは十二弟子の絵を、ネットから引っ張ってきたんですけども、
ある学者はこう言います。 いつも弟子たちの成果よりも失敗の方が目立つ。
しかしイエスは弟子たちが立派になるまで待って、それから彼らを送り出すということはしない。
弟子たちには欠点はあるが、イエスは彼らを送り出すということなんですね。
弟子たちと同じように、今の私たちも、
今あるがままでイエス様の救いを明かしする存在なんですね。
さらに言えば、六章七節で悪霊を追い出す権威をイエス様が弟子たちに授けたとありました。
そこで明言されているように、私たちが救いの実業を行うその権威は、
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私たち自身のものではなく、イエス様によって授けられたということを知っておきましょう。
先ほどの学者もこのように解説しているんですね。
私たちの力が神の働きを成し遂げるのではなく、また究極的には私たちの生活の質が神の働きを成し遂げるのでもない。
頼りになるものはイエス・キリストによって私たちに授けられた神の力であると言っています。
このようなことが教えられています。
そんな中で私たちは、この自分がその時を置かれている場所をイエス様に使わされた場所だと考えます。
そしてそこでできることを成すべきことをするまでです。
何もできなくたらそれでも別に構わないわけです。
牙って何かをやってやろうと思わなくて私はいいと思います。
そこでできることを成すべきことを淡々とするまでです。
私から言えば、例えば言葉にできなくても、私はイエス様のためにイエス様によってこのことをしていますと言って思うだけでも十分だと思うんですね。
そしてもしかしたら語るべきことが出てくるかもしれません。
その時はイエス様が自分を救ってくださった、助けてくださったありのままの体験を単純に語れば良いんですね。
私たちを通して救いの技を行ってくださるのはイエス様ご自身なんです。
皆さんに祈っていただきましたですね、昨日群馬県の妻恋のマンザーに行ってですね、ガンテツ学外来カフェのコーディネーターの
アドバンスコースという認定された人の学び会に行ってきました。そこの講師がですね、
簡単に言うと
コーチングの会社の人で、いわゆるエグゼクティブですね、
企業の社長さんとか経営者にレッスンをしてですね、聞き取りしながら、
その社長なりがですね、よく皆さんテレビとかで見るじゃないですか、
ヘッドホンとマイクつけてですね、私たちの会社はこういうことをやってきます、そういう
会社の方針なりビジョンを、社員にどうやったら上手に伝えられるかということを
トレーニングしている、そういう方だったんですね。
まあ面白かったのは、はからずも私の大学の先輩でですね、カウンセリングの資格を取るために、学生時代に精露科国際病院でですね、
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実習したという話で、ちょっといろいろ盛り上がったんですけれども、その方が言うには、
私たちの学びのテーマは、自分の体験を語る、それを伝えるということだったんです。
その時にその講師の方が言ったのは、就職後をつけずに、その時自分が感じたこととか、起こったことをありのまま語ること、
それが相手に伝わり、感動を呼びますと言うんですね。
まあその中で、自分がこうやって、きっかけで考えが変わりましたとか、よくなりましたっていうことを話すみたいなこともあったんですけれども、
でも鍵はですね、シンプルに、就職後をつけずに簡潔に語る。
そういうのをやった時に、ただ原稿を読むだけなんです、書いた。
読んでもですね、すごく感動が伝わるんですね、面白いんですけど。
話が長くなりましたけれども、簡単に言うと、ここでもですね、単純に自分が見たこと、感じたことを語るだけで十分だってですね、
イエス様の救いについてもですね、もし語る機会があれば、単純に自分が経験したことを、とつとつと語ればいいということを知っていただきたかったわけなわけです。
それは何やともあれ、私たちはそのように成すべきことをして、語るべき時があれば、語るべきことを淡々と事実だけを語ればいい。
自分が感じたまま、体験したまま語ればいい。そして私たちを通して救いの見業を行ってくださるのは、イエス様ご自身であるということを覚えておきましょう。
それはですね、土の器の中に 宝が入れられているという、
使徒パウロの核心と似ているんですね。 その見事は、聖書の言葉を最後に読んで終わりにしましょう。
ホリント・ヴィトエの手紙第2・4章の7節。 最初から読んでみましょうか、私たちはから。
私たちはこの宝を土の器の中に入れています。 それはこの計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
お祈りしましょう。 天の神様、皆を賛美いたします。イエス様は賭けがあるままの弟子たちを、ご自分の命題として使わされました。
そして弟子たちがイエス様に与えられた権威によって、救いの業をなし、語る時にその救いの御業が前進したことを覚えます。
また、弟子たちが無理に人々を戒心させる必要もないということ、時には堅くなな場所、堅くなな人を置いて出ていくということも学びました。
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どうぞ私たちにそのような知恵を与えてください。 また、語るべき言葉を主が与えて下さいますように。
何がこの時なすべきことであり、語るべきことであるのかを見分ける知恵も与えて下さい。 そのための力も与え下さい。
これらの言い尽くせない思いを、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン
それでは1分ほど、それぞれ御言葉に応えてお祈りする時間を持ちましょう。
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