2024-04-07 26:16

#祈りの家 24/4/7

マルコ-21からの礼拝説教。2024年4月7日録音。日本の桜見物に今や世界中から人が訪れるように、イエス様の時代のエルサレムにも世界中から過越の巡礼者が訪れたのです。そのためエルサレム神殿は捧げものの動物の売買を中心に賑わっていたのです。また今日の箇所では満開の桜の木ではなく、実りのないいちじくが話題になっていますが、それを巡るイエス様の言動をどう理解するかが難しいとこの箇所だと言われています。まずそれを最初に考えて1.枯れたいちじくのなぞ―行動によるたとえを取り上げます。その後2.商売と祈り―教会の本質、3.イスラエルと異邦人-祈りの家に招かれる人、の3つの点をもとに私たちとの関りを考えて行きましょう。


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近海約聖書丸子11章11節から21節までを読みます。
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。
そしてすべてを見て回ったあと、すでに夕方になっていたので、
十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
翌日彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
あの茂った一軸の木が遠くに見えたので、その木に何があるかどうか見に行かれたが、
そこに来てみると、あの他には何も見つからなかった。
一軸のなる季節ではなかったからである。
するとイエスはその木に向かって言われた。
今後いつまでも誰もお前の実を食べることがないように。
弟子たちはこれを聞いていた。
こうして彼らはエルサレムに着いた。
イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、
両替人のダイヤ、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
また誰にも宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
そして人々に教えて言われた。
私の家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれる。
と書いてあるではないか。
それなのにお前たちはそれを強盗の巣にしてしまった。
最秘書たちや立法学者たちはこれを聞いて、
どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
群衆が皆その教えに協談していたため、
彼らはイエスを恐れていたのである。
夕方になるとイエスと弟子たちは都の外に出て行った。
さて朝早く彼らが通りがかりに一軸の木を見ると、
それは根元から枯れていた。
ペトロは思い出してイエスに言った。
先生、ご覧ください。あなたが呪われた一軸の木が枯れています。
以上です。
今日はこのところから、祈りの家と題して見言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
埼玉や東京も先週末、桜が満開だという告知がなされました。
桜が有名なテレビでもよく神社仏閣が出てきます。
そういうところでは多くの出店が並んでいます。
今日の聖書館所の出来事、イエス様の三宅誉と言われていますが、
それはイスラエルの祭りです。
神様がエジプトからイスラエルの民を救い出した、
その杉越の時を覚える季節の祭りです。
実はこれは日本の桜の季節と重なる。
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大体イースターの前ですから重なります。
今、日本の桜の見学、花見ですね。
海外の人もお花見って今言うそうなんです。
いわゆるインバウンド授業が今プレゼントされていますが、
たくさん見に来ています。
実際、この間来た芸理さんご夫妻も桜が見たくてこの時期に来たんです。
桜はでも見れませんでした。
富士山が見たくて来たんですけど、
富士山連れて行ったら雨で見れなかった。
残念でしたけれども、
そのように世界中でも桜を見る日本に訪れる季節です。
同時に、実はイエス様が宮教をしたこのエルサレム神殿も当時、
世界中から人々が巡礼にやってきました。
それはユダヤ人やユダヤ教を信じる違法人がですね、
世界中からこのエルサレムに、ミヤモーデに来ていたんですね。
そしてその中での今日出来事。
その前に、一軸偽の奇の出来事が実はその宮きよめの前後に挟まれているんですね。
そのイエス様の一軸偽に関する言動をどう理解するかということ。
実はそのこともですね、この箇所を難しくしている原因なんですね。
まず、そのことを今日最初のポイントとして考えます。
今まで見たようにですね、金持ちの男に対して、
全てを捨てて私について来なさいと言ったことをどう理解したらいいかみたいにですね、
イエス様の言動は当時の文化とか背景を理解してこそ分かることなんです。
今日のことも一軸偽のこともそうであって、
それを理解すると、じゃあ私たちの生活にどう当てはめたらいいかということが分かります。
2番目はですね、祈りと教会の本質ということを話しますし、
最後はですね、イスラエルと違法人、祈りの家に招かれた人ということを話していきます。
でもまず一番最初は、まず、枯れた一軸の謎。
そこには行動による例えというものがあるんですね。
ちょっとこの赤い絵で飛んで見にくいんですけども、このイエス様と一軸偽の絵ですけども。
もう一回読んでみますね、十二節。
翌日彼らがベタニアを出た時、イエスは空腹を覚えられた。
葉の茂った一軸の木が遠くに見えたので、その木に何があるかどうか見に行かれたが、
そこに来てみると、葉の他には何も見つからなかった。
一軸のなる季節ではなかったからである。
私は今から30年近く前に、学生の方に聖書をお伝えする仕事をしていました。
そこで、クリスチャンでない学生の方に、聖書をどこを読んじゃらいいですかというアドバイスを聞いたので、
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皆さん覚えておくといいんですけど、まずマルコの福音書から初心者の人は読んだらいいんです。
簡潔にイエス様のことがわかるから。
読んでもらった。
彼は本当に一週間くらい読んだんですね。
何か質問がありますかと教会に行ったことの人に聞いたんです。
そしたら、イエス様がこの一軸川を枯らしたことを納得できない。
なるほど、鋭いなと。
どんな話をその後したかわからないんですけども、
実はそれもですね、長年学者が探求してきた疑問の一つなんです。
ここにはっきりですね、一軸のなる季節でなかった。
じゃあ何でそれをこの後イエス様はですね、なってなかったにも関わらず、
まあ金輪際お前の実を食べるものがないようにと言ったら、枯れてしまった。
そういうある人が言うには理不尽。
なぜこんなことをイエス様がするんだ。
実はですね、これはですね、イエス様がした奇跡の中でも唯一、何でしょうかね、破壊的な奇跡です。
英語で何かディストラクションって言うんですけど、そういうネガティブな奇跡ですね。
で、これはですね、どんな意味があるかというと、
すごく最近というかしばらく前に分かった合理的な理由がありまして、
実は一軸は秋に実がなります。
その前に、葉っぱが茂っている時期にですね、初成りの一軸というのがなるそうなんです。
このくらいの時期、4月、5月に初成りの一軸の実がなる時期があって、
ちっちゃい実があってですね、いわゆるロコ、地元の人はそういうちっちゃい実を摘んで食べていたそうなんですね。
だからイエス様はそれを期待していた。
ここにですね、一軸のなる季節ではなかったというのは、こういう示唆があるんです。
それは秋ではなくて、3月だからこういうちっちゃい実を期待したという、そういう示唆があるそうです。
それは一つ合理的な理由です。
そしてもう一つの大事なことはですね、
出来事を通して、行動を通して、たとえ話を語るという聖書の教え方の一つなんですね。
あとで皆さん見てもらうとわかりますけど、例えば旧約聖書の預言者のエレミアという人、
13章1節なんか見ると、ちょっと長くなりますけどこんなことがあったんですね。
神様から言葉を聞いて、言ってね、乾いた雨布、布を星に巻きなさいと。
それを岩の下に、瓦の岩の下に隠しなさいと。
しばらくした後にまたそれを見に来なさいと言ったら、その雨布がボロボロになっていく。
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それは何を表すかというと、神様のメッセージがあって、旧約時代にこのと同じように、
不毛になっていたイスラエルを神様が裁くというメッセージがそこにあったんです。
同じように実は、イエス様がこの一連の出来事を通して、
実りのない葉っぱが美味しげただけの一軸に言葉をかけて、それが枯れたということを通して、
やがてこのイスラエルの神殿は栄えているけれども、枯れていくよ。
一軸上のように枯れていくよ。
葉っぱが旺盛のように神殿は商売人でにぎわっているけれども、
やがてこの神殿は一軸のように枯れるんだよ。
そういう予告が彼の言葉に、言動に示唆されていたというメッセージですね。
それが最初です。
じゃあその意味を知った上で、2番目。
どんなメッセージを私たちは読み取ることができるか。
商売と祈りという対比の中に、教会の本質が見えてきます。
ちょっとじゃあ読んでみましょうか。15節から16節のパッシング。長いですけど。
イエスはミヤに入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、
領外のダイヤ、鳩を売る者たちの腰掛けを問わされた。
また誰にもミヤを通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
このようなミヤ清めといって、たぶんこれはエルグレコの絵だと思うんですけども、
激しいことを神殿でなさった。乱暴ですよね。
ここに、やはりイエス様の行動による教えがあるんですけども、何をされたか。
実はここはエルサレム神殿の一番外側の、違法人の庭というところでイエス様がなさったそうです。
だいたい450mの幅で300mの長さがある。
ちょっとすぐイメージできるものを言えないんですけども、そういう広いところがありました。
そこに文字通り世界中から人が集まってきて、
そして神殿で生贄を捧げます。
でも動物を連れて縁の晴れ晴れ来ることができませんから、
ここでお金を払って、例えば羊か何かを買って、
そして祭司に託して神殿で捧げてもらった。
だから動物の売り返していました。鳩なんかも売り返していた。
あるいはですね、神殿に捧げるお金はユダヤのお金でないといけなかったんですね。
ローマのお金はカイザルの絵が描いてあるから、それは偶像のお金だ、偶像だということで、
つまりお金を神殿用に両替しなきゃいけなかったので、外国人のために。
だからこういう両替商もいたわけです。
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例えばですね、このにぎわいがどれくらいだったかというと、
西暦60年くらいのこのエルサレム神殿で、
一日、杉越の祭りの期間だけですね、
で、売り返されたお羊の等数が、どれくらいだと思います?
How much? 何頭くらい?
杉越の期間だから1週間弱くらいで、何頭の羊が、
お羊の個羊、何頭くらい?
めっちゃね、25万頭。
25万頭の羊が、その中で売り返されるくらい、
それくらい、とにかく格強だったようなんですね。
で、そこの中でイエス様は、
あなた方は祈りの家を強盗の巣にしているということで、
この神殿にある動物を逃がしたりですね、
この台を、両替人の台や椅子を倒したりしたわけです。
で、そこでどんなメッセージが込められているか。
先ほども言いましたけども、実は神殿というのはですね、
旧約聖書の歴史を見ると、そこに神様が宿る場所。
エルサレムはそこは神の都だということで、
エルサレムと神殿は非常に大事にされました。
でもやがて、イスラエル民族は神殿の神様よりも、
神様の神殿を大事にして、神殿が自分たちを守るという風に、
勘違いしてしまったんですね。
そして同時に、自分たち、旧約聖書でも指摘されてますけど、
神様の見心を行う、例えば貧しい人を変えでみるとか、
正義を行うということをないがしろにして、裁判を曲げたりしてですね。
それでいて、神殿で捧げ物を捧げる、いわゆる外見を裁判にすることによって、
自分たちの宗教的な不正を覆い隠していた。
そういう批判なんです。
だからそれはあたかも、先ほども言いましたが、
葉っぱを茂らしていながら、人々の空腹を満たすことができない一軸のように、
外見的には反映をしていながら、実は神様の見心を行っていない。
そういう不正を隠すための外見的な反映としての商売。
このエルサレム神殿の賑わいをイエス様は非難して、
そしてこれらの大を倒したという、そういうメッセージなんですね。
少し飛躍がありますけれども、
去年5月に明けましたが、コロナの緊急事態宣言があって、
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3年ほど、特に最初の数年は、教会の活動が制限されましたよね。
その中で何ができなくても、こういうことが確認されたと思います。
教会は何ができなくても、たとえ小さな群れでも、
日曜ごとに礼拝が守られている。
それが教会だという、いわゆる教会の本質が確認された時期でもあったんですね。
私たちの教会でも、コロナ禍を通して、
礼拝の中で、声を上げちゃいけないから、祈る時間を黙祷に変えたんですね。
でも、実はそのことによって、良かった部分もあると私は思うんですね。
実は、黙祷を捧げて、礼拝の前に心を神様に向ける。
そして、説教の後、黙祷をして、一人一人が神様からいただいた御言葉を心に蓄えて、それに応答する時間を持つ。
そして、礼拝が終わった後、全部参加する前にまた黙祷をして、今週一週間のことやお互いのことを祈る。
そんな時間を持つことができた。
まさに教会を祈りの家にするということが、黙祷をすることによってわかったと私は思うんですね。
そのような中で、教会とは何かということを、三宅雄明から私たちを考えることができます。
皆さんもご存知の有名な宗教改革者のルターという方が、こんなことを言っているんですね。
御言葉、神様の言葉のあるところに信仰がある。
そして、信仰があるところに、黙祷の教会がある。
カルバン、ルターと並ぶもう一つの宗教改革者ですね。
神の言葉が説教され、聖霊展、私たちの教会でいえば聖三式やバクテスマ式が、
キリストの聖典にかなって行われるところでは、神の教会が存在することを、いささかも疑ってはならない。
私、教会でイベントをすることとか、できるところをやればいいと思うんですけれども、
何はともあれ、教会で何が行われていなくても、このように御言葉を中心とする礼拝、そして聖霊展が行われていること。
それで、たとえ人数が多くても少なくても、このようなことが行われているならば、それは教会なんだ。
そのことをですね、今日の見分け読みを通して、もう一度確認できればと思うわけです。
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最後、イスラエルと違法人の比較がこの中にありました。
それは祈りの家に間抜かれる人という話です。
イエス様の御言葉の続きを読んでみましょうか。
そして人々に教えて言われた、私の家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれると書いてあるではないか。
それなのにお前たちはそれを強盗の巣にしてしまった。
実はですね、ここでは先ほどもちょっと言いましたが、神の民を自負していたイスラエル民族と、そしてよそ者、穢れた者と言われていた違法人が対比されているんですね。
実はですね、このあらゆる民、あらゆる民というのは、もともとの神薬聖書のギリシャ語では、違法人を表す言葉なんです。
だから、違法人のためにも神殿は開かれているということをイエス様が言っているんですね。
実はそれと当時のエルサレム神殿の仕組みを分かると、違法人が疎開されていたにも関わらずイエス様が違法人を免れたということの素晴らしさが分かると思うんですね。
実は当時のエルサレム神殿は4つの区分に内側に向かって分かれていたんです。
一番奥が何か分かります?一番奥は師聖城と言って、ルカの福音書にマブテスマの与ハネの父ザカリヤが神様と会った場所が出てきますよね。
一年に数回選ばれた大祭司だけが入ることができる最も清い場所で、神の臨済を象徴する神の箱があった。そこにカーテンが敷きられている。そこが一番奥で一番清いところ。
その一番切り替えて一番外側が違法人の庭です。ちょっと知識として言っておきますけれども、その間にですね、その次にですね、
婦人の庭というのがあるんです。ユダヤ人の女性はそこまで入れました。これは当時の習慣だから私に怒らないでくださいね。その後は、
民の庭というようなものがあって、そこは男性だけ、滑稜を受けたイスラエル人の男性だけが入ることができる。そうやって分かれていて、一番姿勢上には大祭司しか入れなかった。
もっとすごいことはですね、この一番外側の誰でも入っていいよという、違法人の庭とその先の婦人の庭、ユダヤ人の庭の間にはしきりがあって、
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その看板にですね、外国人がわかるようにラテン語とギリシャ語でこういうこと書いてあったんです。外国人は柵と囲いの囲みを超えてはならない。
超えて逮捕された者は、その死について自分自身に責任がある。だから違法人が入ったら死ぬよ。はっきり書いてある。その先に行くなよ。そうやって違法人は、汚れた民と言うことで区別されていたんですね。
そういう背景がある中でイエス様が、この神殿はすべての民、違法人も含めた人の祈りの家なんだって言ってることが衝撃的なことなんですね。
今日、直接触れませんけれども、何節でしたか。この後、ユダヤ人の指導者がイエス様を殺そうとした理由の一つにですね、この民が、18節ですね。
群衆が皆その教えに共談していた。喜んだり驚いたりしていた。それほどイエス様が言ったことが衝撃があったので、ユダヤ人の指導者たちはイエスを殺そうと思ったと書いてあるわけですね。
その言葉の衝撃がわかるわけです。実はそのイエス様の言葉は、旧約聖書の約束に基づいていたんです。
救い主が来たらこんな時代が来るよという約束です。旧約聖書。
また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、その下辺となった異国の民、違法人が私の契約を固く保つなら、私の聖なる山に来させて、私の祈りの家で彼らを楽しませる。
なぜなら、私の家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
これイエス様が引用した言葉。ここに旧約聖書の56章の6節から7節の抜粋ですけども、イエス様が救い主として現れるずっと前に、この救い主が来たら、
私の家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだということです。
そしてイエス様がそれを成就したんですけども、もっと素晴らしいことがあるんですね。
実はこの異法人の庭というのは、誰でも入れるところです。
言い換えると、異法人が神様の前に礼拝を捧げたり、祈りを捧げることができる唯一の場所だったんです、神殿の中に。
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そこが商売の場所になっている。ガヤガヤワイワイしている。どうですか、そういうところ。礼拝できるでしょう。できませんよね。
イエス様はそうやって、異法人が唯一、礼拝ができて、祈りができる場所を三宅嫁することによって守ったわけです。
穢れた民として排除されていた、異法人のための祈りと礼拝の場所を守って、その異法人の祈りと礼拝を尊重したわけですね。
当然、ここにいる私たちは皆、異法人です。私たちがここで当然のように礼拝できるという背景には、このようなイエス様の教えとか、旧約聖書から並々と続く伝統や背景があって、
今、私たちが当然のように、ここで生贄も捧げることなく、誠の神を礼拝できている。
まさにイエス様がその機会を与え、守ってくださっているから、私たちはここで祈りを捧げ、礼拝を捧げ、また、どこにいても、学校にいても、職場にいても、神に祈りを捧げることができる、その道が開かれている幸いを覚えたいと思います。
じゃあ、お祈りしましょう。
天の神様、皆、お賛美いたします。イエス様が救い主として来られて、異法人の私たちにも救いの道を開き、誠の神であるあなたを礼拝し、どこにおいても、祈りを捧げる、その道が開いてくださったことを感謝いたします。
その特権の素晴らしさ、また、重々しさを覚えながら、この新しい時期、どこにおいても、また日常の礼拝においても、あなたを覚え、あなたを愛し、祈りを歩んでいくお互いでありますように、この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、それぞれその場で黙祷して、神様にお答えください。
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