2023-10-22 32:47

#偽善者の問題 23/10/15

マルコ7:1-13からの礼拝説教。2023年10月15日録音。 この箇所を学ぶことにより私たちは、聖書やキリストの福音の本来の意図から離れた戒律や権威に支配されることから守られるでしょう。 今日の箇所から当時の人々が、神の前に過ちを犯さないように定めた「人間の教えや言い伝え」と、その人間の教えの教師として権威を得たパリサイ人らによって、ががんじがらめにされていたことが見えてきます。

本来旧約聖書の律法は「人が、神と他者との関りの中で豊かに生きるため」に神から授けられたものです。しかしパリサイ人らが教え、人々が従っていた人間の言い伝えは、その本来の意図からかけ離れていたことが分かります。

1.先祖の言い伝えの背景、2.神の御心を忘れる偽善者、3.神のみことばをないがしろにする偽善者、の3つの点から箇所を見ていきます。



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00:07
マルコの福音書7章1節から13節をお読みします。
さて、パリサイ人たちとエレサレムから来た何人かの立法学者たちがイエスの元に集まった。
彼らはイエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち洗っていない手でパンを食べているのを見た。
パリサイ人をはじめ、ユダヤ人たちは皆、昔の人たちの言い伝えを固く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
市場から戻った時は、体を清めてからでないと食べることをしなかった。 他にも、
杯、水差し、銅器や寝台を洗い清めることなど、受け継いで固く守っていることがたくさんあったのである。
パリサイ人たちと立法学者たちはイエスに尋ねた。
なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによってあげます? 汚れた手でパンを食べるのですか?
イエスは彼らに言われた。 イザヤはあなた方偽善者について見事に予言し、こう書いています。
この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。
彼らが私を礼拝しても虚しい。 人間の命令を教えとして教えるのだから。
あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っているのです。 またイエスは言われた。
あなた方は自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
モーセはあなた方の父と母を敬え、また父や母を罵る者は必ず殺さなければならないと言いました。
それなのにあなた方は、もし人が父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずのものは
コルバン、すなわち捧げ物ですと言うならと言って、 その人が父または母のために何もしないようにさせています。
このようにしてあなた方は自分たちの 言い伝えによって神の言葉を無にしています。
そしてこれと同じようなことをたくさん行っているのです。 以上です。
今日はこのところから、偽善者の問題と題して見言葉を取り継ぎます。 みなさんおはようございます。
先週は比較的涼しく過ごしやすい日が続きましたが、 今日は日差しですけれども、朝から雨降りで寒いぐらいの日になっています。
03:12
先週から涼しくなったと同時に、 体調を崩す方も多いのではないかと思います。
私もいろんなところで接する中で、そういう方々をよく目にします。 その中ですけれども、
礼拝堂でまたズームで互いに守れることを感謝しています。 さて今日のところですけれども、
偽善者の問題。先週見たところもそうですが、今日のところも旧約聖書やユダヤ教の言い伝えと背景が関わりがあります。
先週ですね、エルサレムで悲惨なことが起こって、今地域でいろんなことが起こっておりますけれども、
そういうことは別としまして、いろいろ旧約聖書やユダヤ人の言い伝えを知ることによって、世界情勢はもちろん、この聖書のことも深く知ることができます。
そして先週はですね、それが私たちの信仰生活、クリスチャンの方の信仰生活にとってプラスになるようなイエス様をより新鮮に深く知る、そんなことでしたけれども、
今日のことはですね、どちらかというと、あるネガティブな情報で私たちが気をつけたり、私たちを守る、そのようなことを旧約聖書、そして主にそれから発生したユダヤ人の先祖の言い伝えということから見ていきたいと思います。
いつものように3つのことから学びますが、一番最初はですね、ここの出来事の背景、先祖の言い伝えの背景ということを学んでいきましょう。
7章5節、こうありますね。たりさい人たちと立法学者たちはイエスに尋ねた。なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。
これは7章の初めにありますように、エルサレムから来た人たちです。そしてイエス様の正当性を極端に避難するために来た人です。
しばらく前のマルコの福音書の箇所でも、例えばですね、弟子たちが安息日に本を積んでいる。
一方に批判してるでないか、そういうことで批判したなんてかともありますけれども、イエス様をこれから十字架につけるがためでしょうか。
そうやってイエス様を捜査すると言いますかね、探るために来た。そこの中の一つで弟子たちが手を洗わないでパンを食べている。
06:02
汚れた手でパンを食べているということを問題にしています。 ここで言うですね、
先祖の言い伝え、人間の言い伝えというのは、旧約聖書のいわゆる 孟瀬五書にある立法から発生しました。それは神の民として、
神が聖であるようにあなた方も聖なる清いものでありなさいという、 今締めていますが言葉に基づいた
コマゴマとした聖書の教えです。そこから発生した言い伝えです。 実はこの今日の箇所、7章の3から13節の短い間に言葉や表現を変えて、この言い伝えという言葉が
7回も繰り返されています。 例えばですね、昔の人たちの言い伝えというのが2回。
その後1回ずつ受け継いで固く守っていることですね。 人間の命令と言い換えられたり、人間の言い伝えと言い換えられたり、
自分たちの言い伝えと言い換えられたり、 自分たちに伝えられた言い伝え、このようにですね7回もここで繰り返されているということは、
おそらく、このイエスさんを訴えたパリサイブ人と立法学者、そして多くのユダヤ人というような箇所がありますけれども、
彼らがこの先祖の言い伝えに固執しているということがわかります。 そして今日のこの箇所で、このことが大きな問題であるということが、この言葉を変えて言い換えられていることから伝わってくるわけです。
そこからもう少し見ていきましょう。 なぜ彼ら、特に立法学者やパリサイブ人が、この言い伝えに固執しているか、
そのことがですね、これから見ていきますけれども、 それはですね、
彼らが最初はですね、 この旧約聖書の教えを守るために、
簡単に言いますと歴史の中で、じゃあそれを守るためにどうしたら良いかということを、 彼らなりに考えてきた、歴史と伝統で考えてきた細々な規定が生まれてくるわけです。
その中の一例として、 今日の箇所ですね、7章の3から4にこう書いてあるわけですね。
パリサイブ人をはじめユダヤ人は皆、昔の人たちの言い伝えを固く守って、 手をよく洗わずに食事をすることはなく、
市場から戻ったときは体を清めてからでないと食べることをしなかった。他にも、
酒漬水差し、道器や食材を洗い清めることなど、受け継いで固く守っていることがたくさんあったのである。
これがですね旧約聖書のこの教えを守るために、 実生活に適応するために細々とした具体的な教えがあったということなんですね。
09:10
なぜそういうものが生まれたかというとですね、 あるものに触ると穢れる、詳しく言いませんけどもそういうことがありました。
例えば、ことの善悪は別としてですよ。 聖書の背景で、
違法人と交わると穢れるとありましたね。 だからなぜ市場に行ったとき、
違法人と接する機会があるから、市場から帰ってきたらまず、 ギリシャ語ではバプティゾーといってですね、洗礼と同じ水浴して体を清めることをしたんです。
なぜそういうことをしたかというと、 気がつかないうちに穢れたものに触れて、自分が穢れているといけないからということです。
だから気がつかないうちにですね、 例えばですよ、家にあるこの
器にどうですかみなさん、ゴキブリが歩いているとか、嫌ですよね。 文字通り、旧約聖書ではそこの器の上にやもりが起こったら、それは穢れるとかあったんです。
だから寝ている間にゴキブリが這い回った器があると嫌だから、 洗う方いるかどうかわかりませんけども、
知らない間に穢れた器になっててですね、虫とか爬虫類によって。 で、それによって食べたら、穢れが知らない間に入るから予防戦としてこういうことをしたわけです。
で、よく学者が言うにはフェンスを張り巡らして穢れた中に入らないように、 あるいは穢れが中に入らないようにするためにいろんな細かい規定を守った、そういう背景があったんですね。
で、もっと極端なことを言うと、ここのですね、 汚れた手でパンを食べるっていうこと。
これはですね、もともとは神殿に仕えた祭司職がいましたよね。 孟瀬の兄のアロンか。
祭司は神殿に捧げられたパンを取り扱うので、手を洗い清めてから、いわゆる祭儀に入ったってことがあったんです。
洗版というのがありましたね。で、それが極端化してイスラエルは神の祭司だから、 だから全員が祭司のように振る舞わなければならないということで、その祭司が守っていたそういう細かい規定も一般の民衆に当てはめるようになったって言うんです。
まあ日本人として極端にわかりやすいことを言えば、 精進料理ってありますよね。
だから 私たちがたとえ日本人で僧侶でなくても、この精進料理を食べなきゃいけない。
そういうようなことと似ているかもしれません。 まあそういうことで、
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受け継いで固く守っていることがたくさんあったっていうことですね。
まあ それがですね
今日のことの背景にあって、そういうところからパリスアイビドと立法学者は、そのいわゆる法の番人として、いろんな人の言葉を、言動を見張って、そして相談に乗って、これは汚れる汚れないということを判断して指導していた。
そこからイエス様の弟子のそういう落ち度を、彼らの落ち度を見つけ、さらにその死であるイエスを批判した。
それがここの背景です。 ルカのマルコの副委員長、簡単に書いてありますけど、旧約聖書の背景を知るともっとよくわかりますから、
ちょっとまあ弁学めいたこと、今日もちょっと多くなりますけども、皆さん知っておくとですね、聖書よりよく理解することできますから、ちょっと頑張って聞いてみてください。
これが1番目です。 2番目、じゃあそこでこの偽善者とイエス様が非難している彼らの問題を見ていきましょう。
それはまず2番目、最初の問題は彼らの神の御心を忘れる偽善者という問題がありました。
そのようなパリサイブトや立法学者の問いに対してイエス様はこう答えたんですね。
イエスは彼らに言われた。 イザヤはあなた方偽善者について見事に予言し、こう書いています。
ここから読める方、読んでみましょうか。この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。
彼らが私を礼拝しても虚しい。 人間の命令を教えとして教えるのだから、あなた方は神の忌みを捨てて、人間の言い伝えを固く守っているのです。
これは厳しい批判をイエス様はパリサイブト立法学者に取って返したわけですね。
この先祖の言い伝えを固く守ってあたかも神様に細かく従っているような彼らは、いや彼らこそ偽善者だとイエス様は非難しているわけなんですね。
音がちょっと入りますね。雑音が入りますけど、ちょっと雨のせいかもしれません。
その中で、
彼らはですね、心が遠く離れているとか偽善者という言葉からですね、この立法学者やパリサイブト、これから彼らと言いますけど、彼らのいわゆる信仰的な経験者は表面的に過ぎない、
上っ面に過ぎない、心は遠く離れているとイエス様はその問題を指摘しているわけです。
さらにですね、彼らが神の清さを保つために守っていると思っている、信じている言い伝え、それは単なる人間の教えに過ぎないんだと、そのようにも批判しているわけです。
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そして彼らの礼拝祭も虚しいと非難しているわけですね。
最初言っておきますけど、別に私は自分も含め皆さんを批判するために言っているのではなくて、ここの背景を知っていただきたい、そして宗教的偽善の背景ということを知っていただきたいので、この話をしていますから、自分の誤導として捉えすぎないようにしていただきたいと思います。
ここで言う偽善者というのは英語でヒポクリットですけれども、ギリシャ語から由来しています。それは当時のギリシャの演劇から生まれた言葉なんですね。
演じる役者は日本の能面とか、表現の面のようにですね、場面に合わせて喜怒哀楽を表すお面を変えたんです。
まさにこの心にないですけど、お面を変えることによって演技した。まさにこの偽善者はお面を付け替えるが如くですね。
彼らの神信仰は表面的なお面に過ぎないんだと言ってイエス様は彼らを厳しく批判したんですね。
そのもっと深い原因は何か、根本原因は何かということですけれども、それは立法本来、
神様が旧約聖書に主張された神様の今しめの本来の意図を取り違えてしまった。
ペンスを張り巡らしたと言いますけれども、もともとの孟子に授かったとされる神様の立法、本来はそれは
神様と人間のために与えられたものなんです。それは何かというと人と神様が関わりながら、
また人と人がお互いに関わりながら豊かな生活、学者に言わせれば喜びをその中で得るためにそういう立法が与えられたと言うんです。
まあよく言う神様との関係を縦の関係、人間同士の関係をこの関係で十字架だって言いますよね。
そういう縦横の関係をその人たちが豊かに生きるためにこの本来は立法、神の掟が与えられた。
旧約聖書の御言葉が与えられたと言うんですね。 けれども神と人の豊かな関わりや豊かな生き方が忘れられて、この人間の掟、
人間のこの豊かさ、喜び、関わりの中で得られる豊かさ喜びを忘れてですね、人間の掟を守ることが優先されるようになってしまった。
それはパリ裁備と立法学者が偽善者と言われるゆえんであり、根本的な問題だったんですね。
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そしてその規定が極端なほど増えて、学者は言ってるんです。 本当にそれが多くてですね、窮屈な生活を強いられていた。
そして守ったかどうかを判断したり監視する人の権威が増すようになったわけですね。
人が名を責任されて、人が豊かに生きるための決まりばっかりですね、強調される。
そしてそれを監視する人の権威が増すと、いろんなところで不幸が起こりますよね。
そしてここで言う、その最たるものが立法学者やパリ裁備と。 そして人々がその権威によって縛られたという構図が見えてくるわけです。
このようにですね、本来の目的を忘れた規定が一人歩きして、その規定によって権威を増す人たちと、それによって支配される、抑圧される人という構図が出来上がった。
そして今まで見たように、そこから弾かれてもっと不幸になったのが、いわゆる宗教的に汚れだと罪人だとレッテルを貼られた人たち。
ツアーラートの人とか、十二年間長地の人とか、いろんな人が出てきましたけどもね、そういう人たちが苦しめられていったわけなんですね。
あの日本にいっぱい、今ねインバウンドなんて言われてますけど、テーマパークがありますよね。
私あのあるテーマパーク行った時に印象残ったのが、チリトリとですね、宝器持った人がいるんです。
ゴミを見つけると、ササササって入っていくんですね。
すぐ取り除くこともそうですし、その素早さにもですね、驚いたわけです。すごいなぁ。
それは、この園内にゴミを落ちていたらですね、夢の国に来た人の夢が破れてしまう。
園に来た人をハッピーにするために、そういう掃除符がいるわけですよね。
来園者の快適な時間に奉仕するためにそういう人たちがいるわけです。
でもですね、ちょっと考えてみてください。例えば、その人がですね、年中私に付きまとって、そしてゴミを落としたかどうかを監視してるんですね。
横について。そして、例えば手を拭くとき間違えてハンカチ落としたら、それをサササササってですね、チリトリに入れたり。
あってはですね、私食べる時こぼすことよくあるんですけどね、食べてるのを横から見てですね、「あら、こぼした!こぼした!」って言ってですね、
すぐ拭くとかですね、まあそういうことをされたら、えきえきとしますよね。
で、それも言わずから、その来園者よりもその清掃人の方が偉くなってしまう。
来園者は楽しめないということになるわけですね。で、これがまさにパリサイベントや立法学者が
神のためにしていたこと、神のためとの関わりであり、縛られていたということを表しています。
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まあこうしてですね、本来の目的が忘れられた時にですね、
神と人との関わりの中で生きる豊かさというものが奪われてしまう。
そのようにして、この来園者と言われた人たちの問題、
彼らも表面的でした。 神の切手から離れ、心も離れていますけれども、もう一つは本来の神様の見心から
離れていた、外れていた、そういう問題があったということを覚えておきましょう。
最後ですね、さらにそれは神の御言葉をないがしろにする来園者であったということなんです。
神の御言葉そのものをないがしろにしていったんですね。 7章の13節、今日の単元の最後のところでイエス様はこう述べています。
じゃあここだけ読んでみましょうか。このようにから3、このようにしてあなた方は自分たちに伝えられた言い伝えによって、
神の言葉を無にしています。そしてこれと同じようなことをたくさん行っているのです。
たくさん行っているよと、イエス様は彼らが人間の言い伝えを守るために、
神の御言葉そのものを無にしている、そのことを実例を挙げて指摘しているわけです。 この人々から神と人の関わりの中で得られる
喜びを奪うだけではなくて、人々が神の御言葉そのものに従うことを妨げているんだと厳しく指摘しています。
その実例がその前のところに書いてありますね。 7章の11、12節、ここにあります。イエス様がこう指摘しています。
あなた方はもし人が父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずのものはコルバン、すなわち捧げものですというなら、と言って、その人が父または母のために何もしないようにさせています。
この言い伝え、コルバンという宣言の言い伝えが、父と母を敬え、父母を罵る者は殺されなければならないという、
十回にあるこの神の御言葉をないがしろにする根拠になっているんだって言っているんですね。 これ何か。
このコルバンというのは皆さんの聖書の脚注にもありますけれども、旧約聖書のヘブライ語の神への捧げものという意味なんです。
ヘブライ語そのもの。それがこの時、 コルバンというヘブライ語は一人歩きというか固定して、それは
特別な言葉になったんですね。 こういうことなんです。
例えばこれはコルバンですというと、これはもう神様の捧げものになります。 今私、教会にある聖歌を手に持ってますけど、これはコルバンですというと、これは神への捧げものになるので、それ以外の用途に使ってはいけません。
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極端に言うと、例えばこのパンはコルバンですというと、そのパンは神殿に捧げるためだけに使います。
だから自分も食べられないし、たとえ貧しい人が来てそのパンをあげたいと思っても、そのパンは神殿に捧げるので、手をつけてはいけないということになるんですね。
で、 ここでどういうことが問題になっているかというと、さっき言った
あなた、父母に対して私があげれるものはコルバンしかありませんという、
つまり、今の理屈からわかるように、
あなたにあげられるものはコルバンしかありませんというと、コルバンというのは誰にもあげちゃいけないわけじゃないですか。
つまりそれは、何にも父母に対してあげなくてよいよという、
これは、いわゆる、皆さん気づいたように、非弁です。そしてここでの文脈で言えば、両親を今ほどですね、今はもし両親の方が裕福な人が多いかもしれませんけど、
昔は若い人が豊かで両親はお金なかった。そういうお金ない両親を養う義務から、このコルバンという言葉で
その人は、その貧しい両親を養う義務から逃れられるという、そういう気弁として使われていたわけなんです。
イエス様が言う文脈、学者も言っているんですけど、悪用されていた。もっとひどいことがあって、それをコルバンと宣言した人が、やっぱりそれはひどいと、
それを取り下げたいから取り下げさせてくださいと、おそらくパリ裁備と立法学者に言ったらですね、
その取り下げは絶対に聞き入れられなかったそうです。あなたはコルバンと言ったんだから、どんな理由があってもこれは取り下げることができませんと言って、
おそらくパリ裁備とは、その本人が親を養うことをさえ許さなかった、そういうことが実際あったそうです。
それはつまり、そのコルバンという言い伝えと、パリ裁備との権威の方が、神の御言葉の明らかな御心がわかる父と母を養え、
父母を罵る者を殺さなければいけないという、明確なこの忌ましめをも、御言葉をもないがしろにしているという問題ですよと、イエス様は指摘したわけなんです。
当時の出来事をきちんと知ると、その短いやり取りの背景にある問題の深刻さがわかるわけですね。
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そのことをイエス様は批判したわけです。
このように今、見てきましたように、
イエス様を陥りようとしていたパリ裁備とは立法学者は、本来の神の御言葉、そしてその御心と関わりがない人間の言い伝えで人々を縛っていた。
それが今日の背景にあるということを知っておきましょう。
そのことをイエス様が厳しく批判したということです。
ここからイエス様とパリ裁備との衝突の根深さ、イエス様がどれだけ厳しくそれを批判したのかということの意図が、さらに深くわかったかと思います。
さあ、いろんなことが私たちの今の生き方に当てはめられることができますね。
例えば、今の時代も聖書や聖書が本当に意図したことと違って、キリスト教会内の言い伝えや決まりによって縛られないように気をつけましょう。
いつも言うように、ある日本でこの間問題になった宗教カルトは、この聖書の言葉を元に彼らの誤った教義を押し付けて、まさに人を縛っている。
だから、そういうことはもちろんカルトによって縛られないように、あるいは教会やキリスト教の名のもとにそういうものが迫ってきても縛られないように気をつけましょう。
例えば、ある教えなり伝統は、特定のキリスト教の教団や教派の教えに過ぎない場合があります。
歴史の長い教会では、教会の伝統や習慣もある。でも、それらを無限に批判してはいけない。尊重したらいいんです。
批判じゃなくて、実例として一つ挙げますと、ある知っている方もいると思いますけれども、グループは楽器を使いません。
人間の歌声だけが神に捧げられるものだということで、そのグループでは賛美に一切楽器を使わないという、そういうグループもあります。
まあ、それは良いでしょう。他の部分は正当なので。
そういう中で、そういうものは尊重しながら、しかし、私たち自身も過ちに陥らないように、あるいは縛られないように気をつけましょう。
極端な場合は、単なる人の好みや習慣が聖書の曲解によってまかり通る場合がありますね。
そして反対にですね、新しければ良いというものではないんです。
ある、おそらくカルバンでしょうね、宗教改革者もですね、新しいものは新たな伝統となって人を縛る可能性があるって言うんです。
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だから別に新しければ良いというものでもない。伝統も大事なものもある。新しいものも伝統になって、やがて人を縛る場合もありますから、新しければ良いというものでもあります。
まあ、このような背景がありますので、牧師をはじめ、私たちは注意深く、聖書や教宗教の伝統を学んで、今の状況に適応していくわけです。
私も例えば今日、毎週説教しますけれども、いろんなところを調べて、何が私たちに当てはめられるのか、当てはめられないのかということを注意しながら、皆さんにお伝えしているというわけですね。
今日は先週は旧約聖書の伝統からイエス様の豊かさ、私たちの信仰の豊かさ、深さを学びましたが、今日は旧約聖書から始まった、そういう伝統や一切の弊害というか、そういうものを見ていきました。
そのところで、お互い気を付けて、まさに神様の御言葉と御心の地を歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
今日は、あれめを取り上げるのは良いではないところでありましたけれども、私たちがこのようにイエス様の御言葉やまた対話から学ぶことができたことを感謝いたします。
私たちは、聖書やキリスト教の豊かな伝統の中に生かされています。教会の豊かな歴史の中に養われています。
しかしどうか私たち、道を踏み外して、誤ったものに縛られたり、また反対に、誤ったもので人々を縛ったり、自分の好みで人々を裁く、そういうことがないようにどうかお守りください。
その中どうぞ、聖書の言葉、イエス様の御言葉、また祈りのうちに、まさにあなたとの豊かな交わり、人々との神の家族と、また人類である家族との豊かな人生、歩みを学んでいき、その道を歩んでいくお互いでありますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それではしばらく一本ほどそれぞれ黙祷し、御言葉に神様に答える時間を持ちましょう。
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