00:01
それでは、短くお祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、父の御前へと集っています。
御言葉を開き、私たちにあなたの真理を教えて下さいますように。
イエス・キリストが御自身を捧げられたその十字架の愛が、どれほど私たちにとって大きなものであり、
イエス・キリストの復活の命が、今私たちの内にあることがどれほど確かなものであり、永遠なる主と共に歩んでいるかということを、そのことの確かさを受け止めさせて下さい。
御言葉を開き、私たちに真理を教えて下さり、あなたと共に歩む勇気と力をここから得ることができますように。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることも覚えていますが、私がどうかお一人一人を慰め、あなたと共に会いまして下さいますように、お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。御言葉を開き、主御自身が語って下さいますように。
イエス・キリスト様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
卒業式と牧師のメッセージ
先週の火曜日でしょうか、関西聖書神学校の卒業式が持たれました。
手法でもお伝えをしていましたが、神学校の卒業生は今年は3名です。
1名はフルタイムで4年間学んだ人が1人卒業で、あと2人は韓国からの先生がお二人研修を終えられて、この3人の方が新しく私たちの教団で御奉仕を下さいます。
その式の中で鎌野校長と説教に来られていた小杉剛先生が二つの箇所からお話し下さったんですね。
一つ鎌野校長が開いた箇所はピリピの2章の5節でした。
キリストイエスの内にあるこの思いをあなた方の間でも抱きなさい。
キリストイエスの内にあるこの思いをあなた方の内でも抱きなさい。
あなたたちが使わされる現場は困難で理不尽な現場である。
しかしそこでキリストがあなた方を通して流れる方針をしていきなさいということを励まして下さいました。
そして小杉先生が説教で開かれたのは出エジプト記の19章17節。
モーセは神に会わせようと民を宿泳から連れ出した。
彼らは山のふもとに立った。
天真者、神の人というのは、行ける神に出会わせる法師者でなければならない。
神について語るのではなく、神を語る法師者でなければならない。
私なんかは小杉先生らしいメッセージだなと思いながらとても受け止めていました。
喪失の不安とイエスの言葉
教団は3名の新しい仲間が増えて心強いのです。
しかし小杉先生は今年で引退のお年を迎えられます。
改めて私たちの教団を支えてきてくださった頼りにしていた先生たちが
また一人ずつ引退されるんだなということの心細さを覚えました。
時は容赦なく進みます。
その中で変化が訪れます。
嬉しいこともあれば悲しいこともあります。
むしろ、あって当然だったものがなくなっていくという喪失の不安を覚えることが私たちはありますし
おそらく誰かがいなくなるということもそうでしょう。
かつてと同じように体が動かない、頭が動かない。
そういうことへの不安もそうでしょう。
日常で当たり前と思っていたものがだんだん遠くなっていくという不安を
私たちは互いに覚えるそのような日々を過ごしています。
そしてそれは今朝のイエス様の弟子たちもまさにこのタイミングはそうだったのですね。
今日読んでいただきました16章ですけれども、5節6節でイエス様はこのようにおっしゃいました。
しかし今、私は私を使わされた方のもとに行こうとしています。
けれども、あなた方のうち誰も、どこに行くのですかと尋ねません。
むしろ私がこれらのことを話したため、あなた方の心は悲しみでいっぱいになっていますと語ります。
何を言っているのか、ずっとここまでの国別説教でイエス様が言われたのは
私はもうあなたたちと離れるよということを言い続けた。
3年間新職を共にし、弟子たちからすれば人生のすべてを預けてきたイエス様がいなくなるという事実。
その事を受け止めると、まさに悲しみでいっぱいになっている。
あの先生がもういない。
それはあたかも荒野に導き出されたのに、神様がそこにいないという不安でありましょう。
しかしイエス様は、この深い喪失、今の時に感じているこの不安が、それだけで終わるものではないよと今朝語っている。
私たちも様々な不安を覚えながら生きていきます。
しかし今朝は、それだけでは終わらないよというイエス様の言葉をご一緒に聞きたいと願っています。
海の苦しみと新しい命
3つのポイントで今朝の箇所からお話をいたしますが、
1つ目のポイントは、今の不安というのは、海の苦しみなんだとイエス様はおっしゃられたということです。
海の苦しみである。
今朝読んでいただいた16章が、いわばこの13章から続く長い長い国別説教の結論部分にあたります。
最後の部分ですね。
軽くこれまでの流れを確認しますと、13章3節に書いてあることが道筋だと話しましたが、
天から下ってこられたイエス様は、サタンの支配にある万物をその手に握りながら、
すべての人をサタンの支配から神の支配へと連れ出される。
そしてイエス様は天に帰っていかれるということが語られていました。
それはあたかもかつてのシュツエジプト紀に似ていますよねということも話しました。
新しいシュツエジプト。
イエス様は十字架の死を通して、まさにエジプトの支配にあった民を導き出したように、
サタンの支配の中にある民を神の支配の中へと今、移し出そうとしておられる。
それは十字架の死によって実現する。
だからあなたたちとは別れるんですよという別れが何度も語られてきました。
だからイエス様はその不安を覚えて、14章で語られたのは、
あなた方を捨ててこじとはしない。あなたをひとりぼっちにするんじゃない。
天から助け主なる聖霊様が来られるようになりますよということを語ってこられました。
その聖霊様を通し、私たちは父なる神、子なる神、聖霊なる神の三民一体の愛の交わりの中に加えられて、
神と共に生きるようになっていくんですよ。
そのことを比喩的に表現したのが15章のブドウの木のたとえでした。
木に繋がり続けなさい。だからこそこの神の愛の交わりに繋がり続けなさいということを語られてきました。
神様の愛の中で御言葉に従い、祈り、互いに愛し合うなら、神御自身が多くの実をあなた方に結ばせてくださるよと。
ただですね、この15章の後半からは、それでも始まることは、イエス様は弟子たちに対して、
でもね、この後、この世はあなた方を憎み始めますよということを言い始める。
15章の18節にそのことが書いてあります。
世があなた方を憎む。イエス様がいなくなるだけではないのです。
今後、いや、そのようにイエス・キリストを通して神と共に生きる、神の愛の交わりの中に生きるあなた方は、
イエスの弟子ということで、この世が、この世の多くの人々があなた方を迫害するだろうと言い始めるのです。
しかもそれは正当な理由があっての迫害ではありません。
15章の25節を見るならば、これは彼らはゆえもなく私を憎んだと彼らの立法に書かれている言葉が成就するためである。
ゆえもなくです。
いわば正当な理由なく。
まあそうですよね。
イエス様ご自身が真摯に神を愛し、そしてこの世界を愛し、まさに神様の正しい愛の言葉を語ってきたにもかかわらず、憎まれて十字架へと進んでいかれる。
あなた方は同じ道筋に立っている。
そのことを語られるのです。
そして今日読んでいただいた16章も迫害に関する言葉で始まりました。
16章の1節から4節を見ていただくならば、私がこれらのことをあなた方に話したのは、あなた方がつまずくことのないためです。
人々はあなた方を街道から追放するでしょう。
実際、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。
彼らがそういうことを行うのは、父も私も知らないからです。
これらのことをあなた方に話したのは、その時が来た時、私がそれについて話したことを、あなた方が思い出すためです。
あなた方を殺す者が皆、自分は神に対して奉仕していると思う時が来る。
冷静に読むと恐ろしいことです。
しかしこれは後にタオロがそのことをします。
神に従っていると願って彼はキリスト社を迫害します。
自分がいなくなるだけではない。イエス様がいなくなるだけではない。
これからは避けられない苦難があなた方を待っているということをここで言われる。
弟子たちはまさに悲しみでいっぱいなのです。悲しみでいっぱい。
でも、じゃあその苦難は単に、いやいや本当に苦しくなるから気付きなってことを言っているのかというと、そうではない。
16章の20節から21節というところを読みますと、こういうことをイエス様は言っています。
まことにまことにあなた方に言います。あなた方は泣き、嘆き悲しむが、与は喜びます。
あなた方は悲しみます。しかし、あなた方の悲しみは喜びに変わります。
女は子を産むとき苦しみます。自分の時が来たからです。
しかし子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。
これは何を言っているのでしょうか。あなた方たちはこれから苦しみがある、悲しみもある、私がいなくなることで途方に暮れるだろう。
しかし、そのような時に覚える、あなた方のその不安というのは、あの出産の時の苦しみと一緒ですよと言うんです。
子供が生まれるまでは苦しい、不安である、死にそうである。
しかし、出産の苦しみというのは、それは何かが壊れていく、終わりに向かう苦しみではないんです。そうではない。
むしろ、その苦しみや不安というのは、新しい命、新しい創造がこの世界に生み落とされるという、新しいその喜びに向かっての苦しみへと進んでいる。
今の苦しみは、大きな喜びへと向けた助走なのだとイエス様は言われるんです。
これは、いつの時代も私たちが苦しみということを理解するときに、やっぱり覚えるべきことだと思います。
この前、総会もありました。新学校の卒業式もありました。いろんな先生と話しました。
どこも強制は落ちていきます。高齢化が進んでいます。どうしようかなと話をします。
しかしそのところで、口々に先生たちが言ったのは、でもキリスト教が迫害されていない時代ってないもんなあということです。
キリスト教が始まったのは、いつでもゼロからだもんなあということです。
私たちは今の苦しみというのは、終わりへと向かっている。でもその終わりというのは、神に勝利が約束された終わりなんです。
だから、私たちはこの今の落ちていくところに、絶望はしない。苦しむのだけれども、絶望はしない。
これは、海の苦しみ、大きな喜びへと向かっているものであるということは、私たちは従いに受け止めたいと思います。
そしてそこに信仰を持って向き合いたいと思うのです。
弁護人としての聖霊
そして何よりも二つ目のポイントですが、そのような苦難の苦しみが、ただ落ちていくものではなくて、むしろその苦しみの中で助け手が与えられていて、
その中であなたたちは、今までイエス様が与えてくれていた喜びを思い返していくんだよということを言われる。
二つ目のポイントは、弁護人である精霊様が与えられるということです。弁護人である精霊様が与えられる。
今日読んでいただいたこの16章の7節から11節というところが、今日特に注目したいところです。
16章の7節から11節を読みますと、こういう言葉です。
しかし私は真実を言います。私が去っていくことはあなた方の益になるのです。
去っていかなければ、あなた方のところに助け主はおいでになりません。でも行けば、私はあなた方のところに助け主を使わせます。
この方が来ると、罪について、義について、裁きについて世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。
裁きについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです。
この助け主である聖霊様は、まさに弟子たちを憎み、これからあなた方を迫害すると言っている世ですね。
世。その世に対して、逆に誤りを認めさせるということを言っている。
この箇所は何かというと、あたかも裁判所のようなイメージの画面なんです。
裁判所をイメージしていただきたいと思うんです。裁判官である神様がそこにいます。
そして、片屋警察側には世が立っているんです。
そして、片屋弁護士側には聖霊様が立っている。被告人はキリスト社なんです。
その中で、世がキリスト社たちに対して、言うので攻め立てるのです。
何についてでしょうか。第一にそれは、罪について攻め立てる。
世はイエス様と、そして弟子たちを信じませんでした。受け入れませんでした。
いわば、人々からするならば、イエスが語る神像だとか救いというのは、私たちの基準には則っていない異端だと知り遂げていきました。
そして、おそらくこれは今の世もそうでしょう。今の世も同じように、私たちに対して罪について裁きをしてきます。
攻め立てる声がある。
あなた方は我々の基準に則っていない。キリスト社はこの世とは何かが違う。目につく鼻につく。
そういうことはあるかもしれません。
もしくは、私たちは世の基準に自分自身を当てはめて自分を裁いてしまうということもあるでしょう。
私はもう何も生み出すことができない。
この世の中は、何ができるかで人の価値を裁きます。
そして私たちの中にも、もう私は若くない。もう確定のように私は動けない。
誰かの世話にならないと生きていけない。あたかも世が私たちを裁くように。
いや、世の声を私たちは受け入れて、ああそうだ、だから私は価値がないんだ、もうダメなんだということを思う。
しかしですね、反対に立つ弁護席には聖霊様がいるんです。
いや、世が言っていることの方が的はぐれである。私たちは何かができるから尊いのではありません。
神があなたを愛し、イエス・キリストを十字架に捧げても惜しくないほどに、あなたを愛されているその事実にのみ価値があります。
ですから、十字架の揺るがない愛に自分たちの価値を置かなければならない。
的外れな意見を受け入れてはいけないんです。
的外れな神様の話からイエス様の言葉から離れている世の基準に私たちを振り回されてはいけない。
そのようにイエス様は何度も何度も私たちに語ってきたではありませんか。
そして、聖霊なる神様というのは、イエス様のその言葉を私たちに思い返し、この世の真理というものを私たちに教えてくださるんです。
この世はあなたにそういうことを言うでしょう。でも、そうじゃないよ。それは的外れだよ。
そして、義について世は検察側に立って叫びます。
イエス・キリストは神に呪われて十字架で死んだではないか。
イエス・キリストは正しくなかったのだ。
その通りですよね。旧約聖書に、神明記には、木にかけられて死んだ人間は呪われている、神に呪われていると書いてますから。
十字架で死んだということは、まさに神に呪われているということの証拠です。
しかし、弁護人である聖霊様が悟らせるのは十字架です。
義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。
イエス・キリストは正しくなかったということ、これも的外れである。
なぜなら、イエス・キリストは父のもとに帰り、よみがえって父のもとに帰っていかれたからだ。
当時のユダヤ教の文脈においては、復活と昇天というのは、神がその人を忠実なものと認めたことの証拠、確証でした。
神に対して忠実であったからよみがえったんですね。
主に従い十字架の苦しみに進まれたキリストは、むしろ正しくなかったのではない、むしろ正しかったからこそよみがえられたのであり、
そういう意味では、キリストは敗北者ではない。
そして、ヨハネの福音書が語ってきたことは、そのような、むしろ十字架に進んでいかれたキリストにこそ、神の栄光が表されているんだということが語られてきました。
私たちもまた、目に見える形の敗北や衰えを経験をいたします。
しかし、精霊様が私たちに示すのは、それでもあなたが神を仰ぎ生きる一歩一歩というのは、神の愛に運ばれているということ。
それは、正しくない歩みではない、正しい歩みである。
そしてそれは、敗北者の姿ではない、勝者の姿である。
神の栄光が、そのようにキリストの十字架に倣い、一歩一歩進んでいく私たちのその歩みに表されるのだというのです。
そして最後に、世は裁きについて語ってきます。
裁きについて、11節にありますけれども、世は裁きについて、警察側に立って言うのです。
イエスの十字架の死を通し、有罪判決が下ったではないかと。
イエス・キリストが世に裁かれて死んだというのは、まさにイエス・キリストが有罪だったからだと言わんばかりです。
しかし16章の11節にある、裁きについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです。
弁護人である聖霊様は、イエスこそが有罪である、そのことに対して動かぬ証拠を持って反論をするのです。
それは、イエス・キリストは蘇られた、イエス・キリストは復活された。
世がいかにイエス・キリストに対して、そしてイエスの弟子である教会に対して、いやいやイエス・キリストは敗北者である、何を信じているんだと。
そういうことを言ってきたとしても、それに対しては聖霊様がもはや確定したその証拠を持って弁護をなさるのです。
この世が、いかにその教会に対して猛威を振るい、死や絶望という脅しをかけてきたとしても、神御自身が、聖霊なる神御自身が、イエス様を忠実な者として認めたという復活の事実を差し出してこられる。
それは揺るがない。
ヨハネノ福音書の12章の31節にもありましたが、今、この世を支配する者が追い出されると聖書を書きます。
この世を支配する者、この世を支配する者が追い出される。
いかに世が教会を迫害しようとも、弟子たちを迫害しようとも、実はすでに世の背後で手を引いているサタンが、キリスト社を責め立てる法的根拠を何も持っていないということをここで言っているのです。
キリスト社を責め立てる者、それを世は何も根拠を持っていない。
復活の朝、まさに勝利が確定したあの朝、この世の敗訴は確定したのです。
イエス・キリストの勝訴が確定をした。
イエス・キリストが勝ったのは、この世の背後にあるサタンや悪魔、死、苦しみ、悲しみ、様々なものがいますが、私たちは死や苦難を恐れます。
依然として私たちの周りでは様々なそういうものが吠えかけります。
しかし、それらはすでに敗訴が決まり、執行猶予期間にある敗北者の遠吠えにすぎません。
精霊様が私たちの心に証をするのは、この世の闇は、この世の脅しは、もうあなたを支配する力も権利も持っていないということを言っているのです。
何もこの世は私たちを支配する力を持っていないという事実。
世がいくら責め立てようとも、勝利判決は揺るがないし、精霊様というのはその判決文を私たちの魂に刻み込んでくださるのだとそのように語る。
イエスの勝利と平安
ですから三つ目のポイントです。イエス様は言われました。だから私はすでに世に勝っているのです。私はすでに世に勝っている。
今日のご一緒に握りたい聖書の言葉は、16章の33節です。
これらのことをあなた方に話したのは、あなた方が私にあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。
世に勝ちました。この言葉はギリシャ語で言うならば、現在完了形です。
現在完了形というのはギリシャ語のニュアンスでは、過去において起きた出来事のその効果が現在までずっと続いているというニュアンスです。
2000年前にイエスキリストは勝利をなさった。その勝利をなされた勝利というのは、2000年前から今なおずっと続いているということをこの言葉は約束をしています。
ですから、私たちは今このイエスキリストの十字架の勝利に連なるものである。十字架と復活の焦燥は今もなお続いている。だからイエス様はすでに勝ったと言います。
この表現は、今私たちはそのまま聞いても相応しい表現ですね。私たちの信仰というのは、これから勝つかもしれない。勝てたらいいなというものではない。
2000年前のあの十字架で、全ての罪と悪と死をご自身に引き受け、三日目によみがえられ、すでに勝利をされた、その勝利のうちに私たちは歩んでいる。自分はその中に置かれている。
だからパウロは第一ポイントで言いました。死は勝利に飲み込まれた。死は勝利に飲み込まれた。これはイエスキリストの十字架の勝利を言っています。私たちはだから不安がなくなるということは単純なものではないかもしれません。
私たちの内を見るならば、不安はあらゆる時に顔を出します。時は進んでいきますし、変化があります。日常が日常ではなくなることは多分にあるでしょう。自分の内を見れば病を見ます。衰えを感じます。
しかし同時に覚えていただきたいことは、その同じ私たちの内にです。私たちの内に精霊様がおられる。精霊様はそこで何度も何度も私たちに語ります。
あなたは終わってなどいない。今の苦しみは大きな喜びへと結ばれている。そこへとあなたの今の不安は進んでいる。あなたを責め立てる声があるかもしれない。何も生み出せない人々に迷惑をかける。あなたなんかには価値がない。しかしそれはすべてが偽りのサタンの声である。サタンはもはや敗走している。
あなたは神に愛された価値のある存在であり、どうなっても神の愛があなたを運ぶのだという約束。どのような死がサタンがあなたに猛威を振ろうとも、もうそこには力はないのだ。
キリストの十字架と復活は、死の棘を抜き切ってしまった。だからこそ、神の愛の中に憩いなさいなんですよ。あなたは神の愛に運ばれているんだから、大丈夫なんだから。
いかなる嵐があろうと、それはすでに敗北が決まった敵の最後の我々が気に過ぎないということを私たちは知っているからこそ、私たちは嵐の中でも静かに微笑むことができる。
別にニコニコしなくてもいいんですよ。でも、静かに微笑んでいたらいいんです。ああ、そうだと。不安に押しつぶされない。それに自分の人生をもう最後まで握られない。いろんな不安があっても、神は私と共におられる。私にこちゃこちゃ言ってくるその声は、もう敗北者の負け犬の遠吠えなのだと。
これはイエス様が言われました。世が与える平安とは違う。いいじゃないですか。むしろ、世には理解することのできない平安の中を歩もうではありませんか。そうなんです私たちは。
これらのことをあなた方に話したのは、あなた方が私に会って平安を得るためですと主は言いました。休んじなさい。平安でいなさい。世に会っては苦難はあるかもしれない。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。勝利は確定している。
私たちが不安を見るときに、私たちの内を見るときに、どうか不安にそれを占められないように。私たちの内には聖霊様がおられる。聖霊様は常に私たちに語ってくださいます。あなたは勝者なんだ。大丈夫だ。最後まで私はあなたを握って手放さないんだから。安かれ我が子よと私たちに語ってくださいます。一言の余裕をいたします。