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ヨハネの福音書十六章二十三節から三十節です。
その日には、あなた方は私に何も尋ねません。 誠に誠にあなた方に言います。
私の名によって父に求めるものは何でも、 父はあなた方に与えて下さいます。
今まであなた方は、私の名によって 何も求めたことがありません。
求めなさい。そうすれば受けます。 あなた方の喜びが満ちあふれるようになるためです。
私はこれらのことをあなた方に例えで話しました。 もはや例えで話すのではなく、はっきりと父について伝える時がきます。
その日には、あなた方は私の名によって求めます。 あなた方に代わって私が父に願うというのではありません。
父御自身があなた方を愛しておられるのです。 あなた方が私を愛し、私が神のもとから出てきたことを信じたからです。
私は父のもとから出て世に来ましたが、再び世を去って父のもとに行きます。 弟子たちは言った、
本当に今あなたははっきりとお話し下さり、 何も例えでは語られません。
あなたが全てをご存知であり、誰かがあなたに お尋ねする必要もないことが今わかりました。
ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。 以上です。
今日はこのところから、大胆に祈ると題して、意味言葉からお話しいたします。 皆さん改めておはようございます。
先週は気温の変動が本当に大きかったですね。 月曜日、火曜日は真夏のような暑さ、半袖で飛び回っているような日でしたけど、
水曜から雨になって、 木金と寒くてですね、金曜日は震えるような上着が必要な寒さでした。
その中、体調を崩す方もいらっしゃいましたけれども、 共に礼拝守れること感謝しています。
さて今日はですね、今読んだところから、大胆に祈るということでお話しいたします。 イエス様が今日の箇所でですね、
私の名によって父に求めるものは、何でも父はあなた方に与えて下さいます。 この約束からですね、大胆な祈りについて、
3つの点から見ていきましょう。大胆な祈りの根拠としてのイエス様のお名前。 そして大胆な祈りの根拠としての父なる神の愛。
最後は最善を期待して大胆に祈るということをお話ししてまいります。 さて一番最初の点、大胆な祈りの根拠としてのイエスのミナということを見ていきましょう。
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ちょっと長いんですが読んでみましょうか。
今まであなた方は私の名によって何も求めたことがありません。 求めなさい。そうすれば受けます。あなた方の喜びが満ち溢れるようになるためです。
ここのところでですね、イエス様はイエス様のお名前によって父なる神様に祈る。
実はですね、そのことを今日の当該箇所では私の名によってということが3回繰り返されているんですね。
皆さん気づかれたかもしれません。それだけ大事なことなんです。
じゃあそのイエスの名によって祈るとはどういうことかって見たいんですけどもね。
まあそれはいわゆる私たちよく言う祈りの最後に付け加えるイエス様のお名前によって祈りますアーメンというような形式的なことではないんです。
意味があるんですね。それは言い換えますとイエス様のおかげで私たちは大胆に神様の前に出て祈ることができるという。
イエス様のおかげでっていう。 そして大胆に神の前で祈ることができるということなんですね。
皆さんね、ある人に何か隠し事をしているときにその人の前に出るとなんか後ろめだーい感じしますよね。
あの私車運転するんですけどね、最近ないんですけど、パトカー見るとね、なんかちょっと怖いと思います。
まあまあ私はもうだいたい標識見られますからちゃんと止まったりとかですね。 そういうので違反しないので、かいて自信持ってるね。
パトカーの前通るんですけども、でもなんかパトカーがあると後ろめたいなっていう気持ちがあると思いますね。
それはなんか自分の中にオチとかあったりとか、あるいは本当に先ほど申し上げましたが隠し事をしているとその人の前に出て後ろめたい気持ちになる。
実は神様との関わりとか神様に祈ることでも私たちはですね、なんかこう自分が完全でないとか罪の問題がある、罪が引きずられているって言うと、神の前で大胆に祈るなんてって躊躇することがあるんじゃないかと思うわけですよね。
でも私たちは先ほど言いましたがイエス様の御名によってイエス様のおかげで大胆に、おくめんもなくって言ってみればわかります。
神様の前に出て祈る。
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神の前に出てっていうのは祈る時によくクリスチャンが使う表現ですけれども、神の前にイエス様のおかげで大胆に出て祈ることができるわけです。もう少しそのことを見ていきましょう。
皆さんね、旧約聖書のレビキ読んだことあります?
レビキ読むと眠くなっちゃうかもわかんないですけれども、レビキにはですね、いっぱいこの罪のためとかですね、罪の贖いを中心とする
生贄の規定が細かく書いてあります。この場合は何歳の雄の子羊とか、
オウシオとか、そういう動物の種類とかですね、捧げ方が細かく書かれています。
そうやって罪が贖われる、そのことの重大さを伝えているのかもしれませんが、それがレビキからわかることです。
そして一方ですね、イエス様は十字架の上で、ちょっとこの絵が薄くなりましたけれども、
完全な生贄として、ご自分のいのちを捧げて、ご自分を捧げて、一回限りでなくて、私たちの罪を永遠に神の前で贖ってくださったお方なんですね。
完全な捧げ者で、罪を永遠に贖うのがイエス様の十字架です。
そのことが、よくある、皆さん時間あれば読んでいただきたいんですけど、ヘブル書の中の9章の11、12節で、こんな書き方をしていますね。
ちょっと読めるか読んでみましょうか。
キリストは親戚子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖女に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
ここで大事な言葉は、ただ一度だけ、そして永遠の贖いを成し遂げたということ。
これらの聖句は、このイエス様の一回の十字架の罪の贖いが、今も効力を発している。
そしてイエス様は、今までずっと見てきたように、復活して神の右の座にいて、私たちの罪のために取り成していてくださるんですね。
ですから私たちは、罪に定められることは、神の前で無罪方面となっている。罪に定められることはない。
だから私たちは、警官とかパトカーの前でおどおどするような、何か罪を告発されるんじゃないかという思いで神の前に出るんじゃなくて、
罪が許されたものとして、大胆に自信のある神様の前に出て、祈ることができるわけですよね。
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実はこれは、私たちは当たり前のように祈っていますけれども、非常に大きな特権だったんです。
おくめもなく神の前に出て、あえて言えば図々しくも祈れるというのは、イエス様の十字架の上がりのおかげで特権である。
そしてそれが、イエス様が約束しておられていますが、私たちの喜びが満ちあふれることにもつながっていくわけですね。
このような祈りの生活の中で、私たちの喜びは満ちあふれていくわけです。これが最初の点です。
そしてもう一つ大事なことは、パウロもこの素晴らしい約束について触れていますね。
ローマ書の8章34節、私たちの罪の許しについて、こんなことが書いてあります。
ちょっと下の部分を読める方は長いですけど、私が読める方で読んでみましょうか。
誰が私たちを罪あるとするのですか?
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリストイエスが、神の右の座につき、しかも私たちのために取りなしていてくださるのです。
よくドラマか何かであるかわかりませんね。
父親の前で激しく怒られている息子娘の間に入って、母親がみなさんがするように、もう勘弁してあげてくださいとやるかもしれません。
そのようにイエス様は私たちと神様の間に入って、神の右の座で私たちの罪を許してくださいと言って、
ご自分のある人が言うには十字架の跡を見せながら、神に取りなしていてください。
だから私たちは、おくめもなく大胆に罪なき者として、神の前で祈ることができるということですね。
それが最初のポイントです。
これね、大胆に神の前で祈ることができるわけです。
次、2番目、じゃあもう一つの根拠、大胆な祈りの根拠としての、父なる神の愛ということを見ていきましょう。
今日の27節でこういう御言葉がありました。
今日読むこと多くてあれなんですが、読んでみましょうか。
父御自身があなた方を愛しておられるのです。
あなた方が私を愛し、私が神のもとから出てきたことを信じたからです。
この後半の部分はですね、あえて私たちと言いますけど、私たちがイエス様を救い主として信じた。
そういうことを簡単にと指しています。
ですからイエス様を私たちが神から使わせられたまことの救い主だと信じたことによって、
私たちは先ほども言いましたが、神の前で罪なき者とされました。
そしてそのような新しい身分になったんですけども、
私たちが罪なき者となったがゆえに、神様はなおさら私たちを、
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父なる神はあなた方を私たちを愛しているんですよ、ということがここで言われているんですね。
繰り返しますが、私たちがそうなれたのは自分の力とか努力の成果ではなくて、イエス様の贖いのおかげですね。
まさにこの私たちの大胆な祈りの土台は、神の愛にあるということなんです。
皆さんよく言われますけどね、聞きたことあると思いますけど、
聖なる神様は罪をおきらえになる。どんな小さな罪も受け入れられない方ですよね。
そうすると、ちょっと先ほども触れましたが、私たちの中にそういうことが後ろめたさを抱かせるんじゃないかと思うんです。
しかし、そんなどんな小さな罪も受け入れられない神様ですけども、
既に見たようにイエス様の十字架によって私たちの罪が完全に上がられているわけですよね。
ですから、先ほどのように神様の前に罪を許された者として立つことができました。
そこからさらに話が進むんですけども、
罪が許されたがゆえに、私たちは神様の前で完全に愛されているわけですよね。
そしてさらに、そういう前提を受けた上で、そういう前提のもとにもっと大事なことです。
ちょっとごめんなさい。繰り返し大事なんで言いますけど、
イエス様の贖いのゆえに私たちは罪がないものとされていますから、当然神に愛されている。
そしてその神の愛が私たちの大胆な祈りの土台です。
そしてもっと踏み込んで言うと、実は神様ご自身がもう愛の方だから、私たちは愛されているというところまで行き着くところができるんです。
ある著名な神学者が聖書における神の愛の研究という本を書いているんですね。
その中で神の愛と神のご性質についてこういうことを言っているんですね。
ちょっと難しいかもしれませんが読んでいますね。また皆さんのレジュメにもあるので後で読んでみてください。
神の愛は神ご自身の本質から流れ出るもので、私たちの魅力や価値によるものではない。
神は神であるがゆえに愛することをやめないお方である。
つまり私たちを神様が愛してくださる理由は、私たちの側にあるのではなくて、神ご自身のうちにあるということですね。
神であるがゆえに愛さざるを得ないという、そういうことがもしかしたら無条件な理由かもしれません。
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神は愛が、神はよく言う大十八年にありますが神は愛です。
その神は愛であるがゆえに愛することをやめないお方です。
まさに祈りの土台はこのような神様の愛にあるわけですね。
この確信をですね、さらに強める聖書の言葉があります。
これもパオロですけれども、ローマの8章32節でこのように書いてありますね。
読んでみましょうか。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく、死に渡された神が、どうして御子と共に、すべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
話が前後しますが、神が愛である御性質のゆえに、私たちがどうであれ神様を愛してくださいます。
であればなおさらイエス様にあって私たちが罪なき者とされているのであれば、なおのこと私たちは神に愛されているものである。
そしてローマ章、ヨハネにもあるように、そんな私たちのために大事な御子イエス様を捧げてくださった、いのちを犠牲にしてくださった神であれば、私たちにすべてのものを恵んでくださるんですよ。
そのパオロの約束です。
ですから、このような御子イエス様を与えるほどに私たちを愛した神様は、私たちは祈るときに、当然必要なものを与えてくださるんだ。
このような神様の愛を理解するときに、イエス様の御名によって祈ることが、どれほどありがたいことか、また大胆な行為であるかということが見えてきますね。
まとめますと、こういう稚拙なる神様の愛というものが、私たちの大胆な祈りの土台になっている、そのことを知っておきましょう。
その愛を土台にして、私たちは臆することなく、神様の前で大胆に祈ることができる。
皆さん、お子さんや孫がいる方もいるかと思いますけどね、目の中に入れても痛くない。
来たらもう何でも買ってあげるでしょ、お孫さんや孫がいる方は。
そういうように、そういう愛しい存在として私たちは神の前で受け入れられている。
帰ってよかったと思うかもしれませんけど、とにかくそうやって愛しいものとして私たちは神の前に受け入れられていますから、
良きものを神が必ず与えてくださると信じることができるわけです。
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このことを踏まえると、最後の点をよりよく理解する。
そして、いっそ大胆に祈ることができるんじゃないかと思うんですね。
最後、3番目、最善を期待して大胆に祈る。
このヨハネの16章の23節の後半でイエス様がこう言っておられますね。
読んでみましょうか。
まことにまことにあなた方に言います。
私の名によって父に求めるものは、何でも父はあなた方に与えてくださいます。
今日の箇所でイエス様の名によってと同じように強調されていること、それは何でもという言葉なんです。
何でも父が与えるよ。
今日は触れませんでしたけど、14章ではイエス様が何でも叶えてあげると言っています。
この何でもということ。
でも私たちはこれまでの経験から本当に何でも与えてくれるのかなって疑っちゃうことがありますよね。
ちょっとこれしるし刷少なりましたけど、古代広告で絶対必ず痛みが消えますとかね。
絶対なんとかになりますっていうのを買ってみたけど、全然ならなかったりとか。
あるいは私もうっすら覚えているのはね、子供の頃テレビコマーシャルでなんかおもちゃとか出てくるじゃないですか。
男の子だったらヒーローものとか。
ロボットのおもちゃとか出てきて空飛んだり動いたりするんですよね。
すごいなと思って買っても全然空飛ばなかったりするわけです。
こういうあるね古代広告で私たちは片透かし食らって、こういう何でも神が与えてくださるという時に本当にそうかなって疑っちゃう。
あるいは悲しいことに人間関係でつまづくとですね、そういう何でも与えるよっていう神様の約束を疑ってしまうということがあるかもしれませんね。
しかしイエス様の約束はこのような人間の古代広告とは違うわけですよね。
それは今まで話したように神様の愛あるいは神の真実に基づく確かな約束ですね。
私たちはですね、皆さんもそうかもしれませんけど、こんなこと祈っていいのかな。
そういう先ほど言ったこんなこと祈ってもどうせダメだろうなっていう過去の経験からためらったり、あるいは真面目な人はですね、こんなこと祈ったら失礼かなって思ってしまうかもしれません。
でも、そういう時にこそ大胆にですね、父なる神様にその愛に信頼して祈ってみてはどうでしょうかね。
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神様は最善のものを与えようとしてくださいますから、こんなことを思わずに何でも大胆に祈ってみてはどうでしょうか。
私ね、学生時代の宣教師からこんなことを聞いたことがあるんですね。
祈りには答えがあります。3つの答えがありますよ。わかります?3つの答え。
英語で言うと、Yes。
なんとかクリニックじゃないですけどね。Yes、No、そしてWait。
日本語で言うと、Yes、No、与えるよ、与えないよ、待ちなさい。
3つの答えがあるよって宣教師に聞いたことがあって、なるほどと思ったし、おそらく今もそうじゃないかと思うんですね。
こんな中で、まさに与えないとか待ちなさいという答えもあるのか、祈りの答えがあるのかと思うと、ちょっと期待が外れてしまうことがあるかもしれませんね。
しかし、そんなに失望しないでおくべきなのは、神様は良い親のように私たちに最善のものを与えてくださるお方ですよね。
イエス様は次のように言ってますよね。求めなさい、そうすれば与えられます。
御言葉の中で言っているんですけども、また七章十一節でこう言っています。
あなた方は悪いものであっても、自分の子供たちには良いものを与えることを知っているのです。
ここを読んでみましょうか。
それならなおのこと、天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
この有名な御言葉の通りですよね。
ですから、祈りの答えがどうであっても、イエスが一番いいかもしれませんが、ノーであったり、待ちなさいであったとしても、
神様は最善を与えてくださるんだと期待して信じて祈る。
あるいは、イエス様が言っていたように、どんな答えであれ、神の栄光があらわされるんだ。
私たちが神の栄光があらわされたということがわかるんだと、信頼して、ある意味覚悟を持って何でも祈る。
実はそれもイエスの御名によって祈るということなんじゃないかと思うんですね。
今日ちょっと触れませんでしたが、イエス様の御名によって祈るというのは、神の御心に沿って祈ることでもあるということですよね。
皆さんもね、いろいろ経験したことがあるかもしれませんけども、
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祈りの答えがどのような形であっても、神は最善をくださると信頼し祈ること、そして神が御自分の栄光をあらわしてくださると期待して祈ること。
これらの姿勢もイエス様の御名によって祈るということの具体的な意味と言えるんじゃないですか。
レジュメにも書いてありますけどね。
今まで言ったように、
マテとかノーかもしれません。
でも最善を与えてくださると信頼したり、どんな答えでも神の栄光が現れると期待して何でも祈っていくということもイエスの御名によって祈るということに含まれるんじゃないかと思うわけですよね。
人間関係においてですね、これはペンギンですけども、
対話して相手と時間を過ごして相手を知るということが大事ですよね。
人間関係で。
そうするとその人と対話することによって相手の好みがわかるじゃないですか。
あるいはね、この人にはこれくらいお願いしてもいいかなとか、こういうお願いは嫌なのかなとかっていうのはやっぱり対話することによってわかりますよね。
おそらく神様との祈りもそうだと思うんですね。
皆さんが本当に祈りの中で大胆に何でも祈ってみて、ここまでは祈ってもいいんだなとか、これ調子乗りすぎだなとか。
でも何が偉大かというと、いつも言いますようにマニュアルはないんですよね。
何でも祈っていいけど、これはいい、これはダメだっていうものを作るとマニュアルになるし、それをやりすぎるとカルトになるんです。
だからそれは人を、それぞれの人を私たちが知るように、皆さん自身が、私たち自身が祈りの経験の中で知っていくべきことだと思うわけですよね。
だからぜひイエス様と神の愛に信頼して、何でも大胆に期待して祈っていく。
そういう私でありたいと思うし、教会でありたいと思うし、皆さんであってほしいと思うんですよね。
そしていつも言ってますが、その中で聖書に触れていく、何でも祈って祈りの中で神と交わっていく中で、
まさにイエス様の御名によって何でも神が与えてくれるということはこういうことなんだなということを、皆さんなりに私なりに経験していく。
そこにですね、やはり喜びが満たされていく、そんな技術としての歩みがあるのではないかなと思うわけですね。
今ね、ツマメの季節に来てますね、ツマメが。
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ピョピョピョって。
こういうイメージのですね、聖書の言葉の知ってます?
祈りに関わるですね、詩編の81編の10節ですね。
神様が神のために言っておられるとされた詩編です。
読んでみましょうか。
私はあなたの神、主である。私があなたをエジプトの地から連れ登った。あなたの口を大きく開けよ。私がそれを満たそう。
このような神様の愛と最善を信じてですね、大胆にイエス様の御名により頼んで祈っていくものでありたい。
そんな教会でいればと思いながら、御言葉をご紹介いたしました。お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様の御名によって、私たちが父なる神様に祈ることができる、それは大いなる特権であり、喜びであるはずです。
どうか私たちがその特権をイエス様にある立場に感謝して、神様の愛に信頼して、何でも大胆に祈っていくことができるように導いてください。
そのような中で、ますます私たちが神様を知り、そして私たちの喜びが満ちあふれ、私たちを通して、教会を通して、あなたの栄光があらわされますように、どうか導いてください。
これは願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、御言葉に応えて、祈る時間を持ちましょう。