サマリアの女性との出会い
17年版でお読みします。 ヨハネの三章27節から38節をお読みします。
その時弟子たちが戻ってきて、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。 だが、何を求めですか?なぜ彼女と話しておられるのですか?という人は誰もいなかった。
彼女は自分の水亀を置いたまま町へ行き、人々に言った。 来て、見てください。私がしたこと、すべて私に話した人がいます。
もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。 そこで人々は町を出て、イエスのもとにやってきた。
その間弟子たちはイエスに、先生、食事をしてくださいと勧めていた。 ところがイエスは彼らに言われた。
私にはあなた方が知らない食べ物があります。 そこで弟子たちは互いに行った。
誰かが食べるものを持ってきたのだろうか。 イエスは彼らに言われた。
私の食べ物とは、私を使わされた方の御心を行い、 その業を成し遂げることです。
あなた方はまだ4ヶ月あって、それから狩り枝と言ってはいませんか。 しかし、あなた方に言います。
目を上げて畑を見なさい。 色づいて、狩り入れるばかりになっています。
すでに狩る者は奉仕を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。 それは、まく者と狩る者が共に喜ぶためです。
ですから、一人が種を蒔き、他の者が狩り入れるという言葉は誠です。
私はあなた方を、自分たちが労苦したのでないものを狩り入れるために使わしました。
他の者たちが労苦し、あなた方がその労苦の実に預かっているのです。
以上です。今日はこのところから、収穫と種まきについてお話しします。
今日まで、埼玉県地方は暖かいようです。 3月下旬、4月並みですが、
今晩からだんだん下がっています。火曜日には最高気温がまた10度に満たない。 そんなまた寒い日になるようで、体がついていくのが大変かと思います。
共に今日、礼拝を捧げられればと思います。
しばらく、ヨハネの福音書から見ています。 先週の続きで、サマリアという場所で、
5人夫がいて、6人目の人と同棲しているこの女性が、イエス様にそのことを言い当てられて、そのやりとりから、
もしかしてあなたがメシアと言われるキリストですか?と、先週のところで見ました。 イエス様は、私がそれですとお答えして、そしてそういう場面が今日のところです。
実はその時に、急いで彼女は水仮面を置いていって、そして町に戻っていった。
この様子から、彼女の喜びとか、いわゆる英語でいうエキサイトメントが伝わってくるんですね。
彼女はもともと水を汲みに井戸にやってきました。 しかし、その水を汲むという最初の用事を置いて、そして水仮面も置いて、急いで町に戻りました。
そして今日の箇所にあるように、 この方が救い主なんですか?と町の人に言い触れたわけです。
そして、それを聞いて、町の人たちが退去して、このイエス様のところに救い主を見ようとしてやってくる。
そんな場面が今日のところなんですね。 そのところから、弟子はその前に、彼女が水仮面を置いて戻る前に、
イエス様と女性が話しているのを見て、今日詳しく言いませんけど、前にお話ししたように、イスラエル人の、しかも教師であるイエス様が、サマリア人の女性と道端で話している、いわゆるタブーを犯しているところですね。
弟子たちは目の当たりにして、動揺して、しかしいつも通り何も言わないでいたわけですね。
そしたら、その女性が町に戻っていって、そしてそれから弟子たちとの会話が始まるわけです。 今日はその弟子とのやりとりから、3つのことを簡単に見ていきます。
食べ物の意味
最初はですね、食べ物というところから、そして収穫というところから、話がいわゆるいつも通り発展していくんですが、まずイエス様が言うところの食べ物って何ですか?というところが一番。
そして2番目は収穫の時だということです。 3番目はですね、しかし種まきで終わることもあるという、この3つの点からお話ししていきたいと思います。
一番最初はですね、イエス様の食べ物というところを見ていきましょう。 もう一回、ここに該当する成果を読んでいきます。
4章32節34節。 ところがイエスは彼らに言われた。前振りしますと、
弟子たちは旅の疲れで休んでいるイエス様をおいて、町に食べ物を買いに行って、そして戻ってきて、先生、食べ物がありますよと言った。
それに対してイエス様が言われた。 私にはあなた方が知らない食べ物があります。
ちょっと難しいんですが、ここから読んでみましょうか。 私のから3、私の食べ物とは私を使わされた方の御心を行い、その技を成し遂げることです。
ここからですね、話が展開していきます。 イエス様はこの言葉によってですね、
今まで話していたサマリアの女性と、彼女を通してイエス様を信じるであろう、いわゆる救われるだろう人々のことを意味しているんですね。
食べ物とイエス様が神様の御心を行うことを結びつけているこの言葉をどう考えたらよいか、そして私たちここから何を学べるかということを少しお話ししたいと思います。
いつものように、この世の出来事と救いに関する出来事で、話が弟子たちとイエス様と食い違っていく、そんなことを見て取れるわけですね。
さてところで、この近くにラーメンの名店があるのをご存知です? 行ったことあります?
そうですね、塩ラーメンの前夜ですね。 日本どころか多分世界でも有名で、私並ぶのが嫌なんで行かないんですけど、もう開店前から並んでいるわけですね。
それでこう並びながらお腹空かせてですね、待つわけです。 僕はそれが嫌なんで並ばないんですけども、みんなラーメンが食べたいシーンで並んで順番を待っている間にどんどんお腹が入ってくるわけですよね。
その時にですね、やっとこの腹を空かして、この券売機で券を買って、塩ラーメンを食べて、お腹も心も満足するわけですよね。
そんなことがこの近所で起こっているんですけれども、
イエス様がここで言う、「私の食べ物とは、私を使わされた方の御心を行い、その業を成し遂げることです。」と言っていること。
これはですね、
どういうことかというと、イエス様にとってまさに心もお腹も満たすもの、食べることと同じぐらい、それ以上に大事なこと、何よりも成し遂げたいこと、それは私を使わされたというのをずっと見ているように、
父なる神様の御心をこの地上で行って、神様がイエス様に委ねた業を成し遂げる、完成することだと、こうやって言っているわけなんですね。
自分が神の御心を行い、神に成すべきと委ねられた働きを完成させることを、何よりも願っているということを、この言葉でイエス様の弟子たちに教えたわけです。
テレビでですね、30年以上続く人気番組に初めてのお使いというのがあるんですね。
外国人の人がそれを見て驚嘆するんですよ。なんでこんなことをするんだ、危なくない、日本もすごいって言うんですけども。
その初めてのお使いで、いわゆる子どもたちはですね、頼まれたものを買ってくるというのが、いわゆる子どもたちの使いのちであり、仕事なんですよね。
イエス様では、神の子どもであるイエス様の使いのちとは何だったのでしょうか、ということなんです。
それは、父なる神様がイエス様をこの世に使わせた使いのちということが、今日の前のところに書いてあります。
救いの教え
3章17節ですね。 読んでみますね。
神が御子イエス様を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
これがこのイエス様が、お使いじゃないですけども、この地に来て成し遂げるべき大事な仕事、委ねられた役割、使いのちだったんですね。
このイエス様の使いのちは、ご自身によって、この世が救われるためである。裁くためではないと明言されているわけですね。
そして、このイエス様の使いのちが成就したことによって、今の私たちが救われている、完成しているということがあるわけです。
では、どうやって救われるのですか?という問い。それについて、実はこの前の16節に書いてあるんですね。有名な御言葉ですね。
読めるかと読んでみましょうか。
神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
このイエス様が成し遂げるべき仕事、それは、世が救われるということです。
では、どうやって私たちが救われるのですか?それは、その御子イエス様を信じることです。
そして、救われるとはどういうことですか?いろいろあるけれども、その一つの要素として、それは永遠のいのちを持つことですよ、という、ヨハネの福音書のテーマが語られているわけです。
そして、イエス様がこの委ねられた使いのち、仕事の集大成をやがて果たすわけですね。
それ何かと言うと、完成する技は十字架の死の贖いの技です。死による贖いの技です。
イエス様が、この十字架の上で息を引き取る前に、何と言ったか、皆さんご存知ですか?いっぱい7つ言葉を言ったんですけど、ヨハネの福音書の中に最後の一つの言葉が書かれています。
覚えています?ヨハネ19章30節。イエスは水武道士を受け取ると、完了したと言われた。そして、頭を垂れて礼をお渡しになった。
イエスによる救いの完了
これがヨハネの福音書に書かれているイエス様の十字架の最後の言葉、絶いのちの言葉です。そして、この完了したという言葉は、今見た、成し遂げたという意味なんですね。
イエス様はこのように十字架によって、救いの技を完了してくださいました。何を完成させたか、一つには、私たちの罪の清めの技を完成させてくださったわけですね。
そして何が起こったか、それは、イエス様によって十字架のいのちに至る道が開かれる、救いの道がこうやって完成した。
十字架の上でそれが成し遂げられたということなんですね。このようにイエス様は十字架の上で救いの技を完成してくださったわけです。
私たちの清めのための贖いの技を十字架の上で完了してくださったわけなんですね。
ですから今私たちは、信じるだけで救われる、そういう福音に預かることができるわけです。
実はこのサマリアでの出来事が、この救いの一つの始まり、先週、しばらく前に見ましたが、ユダヤ人以外の神の救いが広がっていく、その一つの先駆けが、このサマリアでの会心の物語だということを今日覚えておきましょう。
2番目、今こそ収穫の時というところを考えていきましょう。
イエス様は弟子たちにこう言いました。
あなた方はまだ4ヶ月あって、それから借り入れだと言ってはいませんか。
しかし、あなた方に言います。
目を上げて畑を見なさい。色づいて借り入れるばかりになっています。
ここで収穫のことが言われていますが、収穫というのは何か。それはイエス様を信じて、救いを受け取る人を収穫と表現しています。
そして、種をまくということが出てくるんですけど、それは福音を伝える人、そして借り取る人とは、他の人を信仰に導く人、他の人々をイエス様の救いへと導く人を
指しているわけなんですね。
さあ、その中で
もう少し見ていきたいと思うんですけども、 ここでなぜイエス様はこんなことを言ったかというと、
このサマリアの人々、この女性を含め多くの人々がイエス様を救い主だと信じていくようになるんです。
しかし、弟子たちはまさかサマリア人が救われるわけないじゃないかと考えていたんですね。
救われるにしても、ずっとずっと先だと。ユダヤ人が先だ。 サマリア人はずっとずっと後だと思っていた。それが実は
当時のことわざを引用してイエス様が言う、まだ4ヶ月あって、それから借り得だと言ってはいませんかという意味なんですね。
で、彼らの心の固くなさを、そうやってイエス様は指摘したわけです。
ところでですね、今中東でスポーツが盛んになっているのをご存知です。
2022年にあることが行われましたね。サッカーのワールドカップが行われました。
まあいわゆるオイルマネーというものを使ってゴルフのプロゴルフなんかをやってたりですね。
あるいはサッカーで言えば、知っている人は知っていると思いますけれども、ポルトガルの元代表のクリスチャーノ・ロナウドという大スターがいるんです。
その人を2年半の契約で中東のサッカーチームがですね、たった2年半なんですけど、300億円。
300億円のオイルマネーで呼んできた。 あと日本でですね、神戸でも活躍したイニエスタというね、
スペイン代表の選手も巨額のお金で1年契約でこの中東サッカーリーグに引っ張ってきたりしています。
あるいは今プロ野球も始まってですね、4つの国を結んで、4つのチームでプロ野球をやろうということで、日本の元プロ野球選手もですね、2人ばかり行っている。
何が言いたいかというと、そういう中東のですね、今大富豪がですね、こういう白い白い服を着てますよね、厚さよけで。
で、この白い厚い、厚さよけの白い服を着ているわけなんですけども、全く同じではないんですが、サマリアの人たち、男性もこういう格好を白い服着てたんじゃないかってある学者は言うんですね。
で、なぜそんな話をしたかというと、この35説と関係があって、
実はこの、色づいて狩り得るばかりになっていますの、色づいてという言葉は、元々のギリシャ語ではレウコスという言葉で白く輝いている様子を言うんです。
天使の様子なんかも言うんですね。で、元々はこの麦が白く輝いているみたいな意味もあるんですけども、ある学者はこの
白く輝いているという言葉で、サマリアの人たちがまさに大勢今イエス様のところにやってきて、白く輝いている様子を見ながらこのことを言っているんじゃないかという説もあるんですね。
まあ何が言いたいかというと、今まさにこの収穫の時が訪れているという切迫感がここに現れているって言うんですね。
そしてイエス様はその中で、すでに
すでに狩る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めていますと述べています。まさに今収穫の時期だと述べているんですね。
まあ、私たちの周りにもこのサマリアの女性やサマリア人たちのようにイエス様の救いにすぐ応答する人がいるんだということを私たち覚えていかなきゃいけない。
種まきの重要性
イエス様の弟子たちはですね、偏見とか思い込みによってサマリア人は信じないとかまだだと思っていたかもしれません。
私たちもですね、思い違いによって、この誰かがイエス様を信じる、そういう機会を逃さないようにしていきたい。そんなことがこのところから学び取れることなんですね。
最後3番目。 しかし種まきだけで終わっても、というところを見ていきましょう。
37節38節でイエス様はこう言っておられます。
ですから一人が種をまき、他の者が飼い得るという言葉は誠です。私はあなた方を、自分たちが老苦したのではないものを飼い得るために使わしました。
他の者たちは老苦し、あなた方がその老苦の実に預かっているのです。 この言葉から2つのことが学べると思うんですね。
一つはですね、私たちを通してイエス様を信じる人が導かれても、それを自分の手柄として誇ることはできないんだということなんですね。
仕事なら何か言えるかもしれません。でも仕事にあっても誰かがその前にお膳立てをしてくれてたり、そういうことがあるわけですよね。
ここで言うキリスト教用語で言うと、いわゆる魂の救いに関してもそれが言える。
ここでですね、
イエス様が、失礼しました。 他の者たちが老苦して、あなた方がその老苦の実に預かっているということをちょっとだけ解説したいんですが、
まずですね、イエス様が話していた当時のことを時期通りに言うと、このイエス様のずっと前、旧約聖書の預言者たちが考えられるわけなんですね。
中には殉教した人もいたわけですよね。イザヤなんかはノコギリで首を引かれたとかいう説もあるし、エレミアという人は泥だらけの井戸に投げ込まれて首まで使って何日も過ごしたという話もありました。
そしてその預言者の最後の一人として、バブテスマのヨハネという人がいて、まさにイエス様のこのサマリアの女性と話しているちょっと前にですね、彼はアラノで洗礼を授けていたわけです。
そういう弟子たちより前に老苦した人たちがいる。
さらにですね、もっと近くで言うと、サマリアの人がいっぱい関心したとしてもそれは、まさにこのサマリアの女性が伝えたからだ。
そしてもっと言うと、イエス様とサマリアの女性のことから始まっているから、弟子たちよりも前にイエス様が老苦した結果、サマリアの人々がこう来たんだと弟子たちに教えているわけです。
これから弟子たち使わせけれども、そういうことを忘れないようにとイエス様は教えているわけなんですね。
そういうことで、イエス様の弟子たち、もし私たちを通して誰かがイエス様を信じるということがあったとしても、その前に多くの人の老苦があったということを覚えたということです。
2つ目に学べることは、私たちが種まきだけで終わって収穫を見ることがないということも受け入れる必要があるということなんですね。
しかし例えそうだとしても、私たちも共に喜ぶことができると知っておく必要もあるわけです。
いろんなことが言えると思うんですけれども、できれば私たちこうやって誰かがすぐ信じてほしいと思ったり、
よく言われるのは、教会学校なんかも中学から離れていってしまう人がいたりして、すぐ収穫を見ることができないということがあるかもしれません。
でも、もし私たちのしたことによってすぐ結果が見えなかったとしても、それは何をしているかというと、
実は将来の種まきもそうなんですが、先ほど言ったこの預言者とか、ヨハネとかイエス様とか弟子たち、そして歴史上ずっと続いてきた、
キリスト教を支えてきた歴史と伝統に私たちもそれによってこちらになっている。
そういう名誉というかですね、特権というか喜びがあるということも覚えておきましょう。
もうすぐお話が終わりますけれども、過去があって今の私たちということを考えていくときにですね、
ふとやっぱり日本ではいわゆる潜伏キリシタンというね、隠れキリシタンという存在があったということも思い出すわけです。
前にお話ししたこういう分厚い本があるんです。
アカシっていうね、日本中のクリスチャンの話を求めたこの本なんですけれども、先日ですね、こんな話を目にしたんですね。
隠れキリシタンの歴史
長崎県の後藤列島っていうのはね、今世界遺産にも長崎にあったりしてますけれども、隠れキリシタンがいっぱいいて白媒も起こった。
明治にキリスト教が回帰になった頃が一番大変だったと言うんですね。
例えばですね、ある方がご証言しています。
ここでは、ある女性はですね、自分のですね、非おじいさんの話をしてるんですけれども、白外を受けた経験があると。
その人は、非おじいさんは1951年にまとめられた後藤キリシタン史という本にも載っている人がそうなんですね。
猿造さんという人のことを書いているんですけれども、後藤に移住してきて、この地区に住んでたんですけれども、1868年、本当に明治の元年ですけれども、白外がひどくなって、
家の下にですね、あの地域ですから、さつまいもを入れる室みたいなのがあるんですね。
そこに隠れたって言うんです。そしてもう白気を抑えるのが大変だったけれども、そこで隠れたって記述があってですね、
ここ書いてありますね。教えを捨てますと言えばいのちは保障されて楽な生活ができたのでしょうが、拷問を受けても信仰を守り続けたから今があると、この先祖のシスターになった女性が告白しています。
あるいはですね、1943年生まれの女性が話しているんですけれども、この方もですね、後藤のキリシタン氏に先祖が出ている。
どんなことがあったかというと、ここ書いてあるんですね。
明治初めに起きた最後のキリシタン迫害の時に、残義攻めと言って三角に削った木を並べた上に、
正座させられて膝に重い石を置く拷問を受けたので、足がボロボロになって歩いていたそうです。
そういう多くの先人たちの血が流されて、今の私たちも信仰が守られている。
イエス様の教え
それを思いに至らせていきたいと思うんですね。
しかし、やはりこの種まくだけで終わった、そしていのちを落としたという、最後のではなくて最大のお方、最も素晴らしいお方、それはイエス様ですよね。
そのイエス様の犠牲があったから、私たちが今救いを得ているということを覚えておきましょう。
そのイエス様の言葉を最後に見て終わりたいと思います。
ヨハネの十二章二十四節ですね。ちょっと長いですけれども、読んでみましょう。
三、はい。
まことに、まことに、あなた方に言います。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。しかし死ぬなら豊かな実を結びます。
まさにイエス様ご自身がいのちを落として種となってくださったがゆえに、私たちが救われ、また福音を伝えることができている。その幸いを覚えて祈っていきましょう。お祈りします。
私たちの救い主なるイエス様、あなたの名前を賛美いたします。
あなたがまさに十字架の上で一粒の麦となっていのちを投げ出してくださいました。
それゆえに私たちは今、救われ、永遠のいのちを得ることができている。その幸いを感謝いたします。
どうぞ私たちの目を開き、目を上げて、かり得るばかりの人々を見ることができるように、見逃すことがないようにどうか助けてください。
またどうぞ私たち、たとえ種まきだけに終わったとしても、その救いの喜びに預かるものとして、またその素晴らしい先人たちの信仰に連なる特権を覚えて、あなたに感謝し、歩んでいくことができるように導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは1分ほど黙祷してお祈りする時間を持ちましょう。