2024-09-29 25:21

#231 復活の証言者 24/9/28

マルコの福音書16:8b-20からの礼拝説教。2024年9月28日録音。()キリスト教の信仰生活は経験を伴うものです。それはその本人にとってはイエス様の救いを体験することでもあるし、またイエス様ご自身が何かを行ってくださったと確かに信じられるような体験をすることでもあります。荒唐無稽である、或いは危険であるとの批判もあるでしょう。私たちは聖書の言葉やキリスト教の歴史、そして教会に身を置く中で、真実さが精査され危険な道にそれることから守られて行くのです。1.復活の証言への態度(),2.復活の証言者となる(),3.証言者と共に働くイエス様(),を取り上げ、復活のイエス様と出会いそれを証言することについて考えていきます。

サマリー

マルコの福音書に基づいて、復活したイエスが最初にマグダラのマリアに現れ、彼女がその証言を仲間に伝える重要性が語られています。信仰と経験が密接に結びつき、復活の体験を通じて他者に福音を伝える必要性が強調されています。イエスの復活についての証言が強調され、弟子たちが福音を広める中で、イエスが共に働いてくださることが語られています。この証言が拒否される場合もありますが、信じる者には伴う印が示され、福音が世界に広がっていく希望が示されています。

復活のイエスの現れ
マルコの福音書16章8節後半から20節までお読みします。
彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。
その後イエス御自身が彼らを通して、清く朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで贈られた。アーメン。
さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラノマリアに御自身を表された。
彼女はかつて、七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。マリアはイエスと一緒にいた人たちが、嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。
彼らはイエスが生きていて、彼女に御自分を表されたと聞いても信じなかった。
それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿で御自分を表された。
その二人も他の人たちのところへ行って、知らせたが、彼らはその話も信じなかった。
その後イエスは、十一人が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と固くなな心をおせめになった。
よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
それからイエスは彼らに言われた。
全世界に出て行き、すべての作られたものに福音を述べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のような印が伴います。
すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒されます。
主イエスは彼らに語った後、天に挙げられ、神の右の座につかれた。
弟子たちは出て行って、至るところで福音を述べ伝えた。
主は彼らと共に働き、御言葉を、それに伴う印を持って確かなものとされた。
以上です。今日はこのところから、復活の証言者と題して御言葉をお知らせします。
皆さんおはようございます。
今日は9月の最後の日曜日、第5日曜日です。
だいぶですね、涼しくなりましたけれども、
9月の最後の日曜日にですね、マルコの福音書の最後の部分を一緒に見ていきます。
実は皆さんの聖書の中にはですね、下に客注があって、星印、8節の星印とかですね、9節の星印、アスタリスクが書いてあって、
簡単に言うと、これらの部分は写本にはないものとあるものがあるということが書いてあります。
厳密に言うとですね、これは微妙な問題なんですけれども、簡単にだけ今日申し上げます。
聖書を、本文を確定するときにいろんな写本を比べていくんです。
その中でこれが最初に書かれたものに違いないということを決めて、そして各言葉に訳すんですけれども、
その前にギリシャ語の定本というのを作るんですが、
今日の8節の後半以降の部分は、いろんなですね、バリエーションがあって、
もともと先週ちょっとお話したんですが、マルコの福音書は、16章8節の恐ろしかったからであるで終わっているということが、今定説になっています。
この部分は、大雑把に言えば辻褄合わせて後の人が書いたという説が強いんですけれども、
教会の伝統の中で神聖な文章の一つとして扱われてきたので、
日本語の聖書にも載っていますけれども、このように聖書に記載することがふさわしいと考えられています。
ちょっと難しいかもしれませんが、
おもたる聖書の解説書には、この部分がきちんと解説されていて、
全部ではないけれども、私たちがここから信仰の指針として学ぶに十分たることがあるという、そういう解説になっています。
そういうことからですね、私たちの教会の聖書にも書いてありますし、
これから詳しく見ますが、私たちの信仰生活にも、役立つといったら俗っぽい言い方になりますけれども、
糧になることがありますので、その点を3つに絞って、簡単にお話ししていきます。
その上でですね、クリスチャンの復活の後の出来事なんですけれども、
クリスチャン信仰はですね、経験が伴います。エキスペリエンスの経験。
それは本人にとって、皆さんお一人お一人にとって、イエス様の救いを体験したと言えるような経験でもあります。
また、イエス様自身がこのことをしてくださったと、いわゆる明かしできるような内容も含まれているかと思います。
で、乱暴な方はですね、それはまあ口頭向けだと批判する方もいるし、極端にそういう経験だけに走ると危ないという方もやっぱりいらっしゃいます。
ですから、私たちはそういう経験は、このキリスト教信仰とは実は切っても切れないものなんです。
イエス様と会いました、それぞれが体験すること、救いを得ましたって体験すること。
そういう中でですね、私たちはキリスト教の教会に属しながら、そして長いキリスト教の伝統の中に生きているものとして、
そして聖書にきちんとした基準を置いて、自分の経験をある面、精査していく。
そしてそういうことを通して私たちはですね、極端な間違いからですね、守られていく。
そういう危険な道にそれることから、私たちは守られているということがわかるわけです。
ちょっとわざと最初に難しい話をしましたけれども、そういうことも踏まえながら、この最後のマルコの福音書の部分から
イエス様を証言するということについて、3つの点から見ていきたいと思います。
まず最初ですけれども、復活の証言への態度があるということなんですね。
14節のところを読んでいます。
その後イエスは11人が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と固くなな心をおせめになった。
よみがえられたイエスを見た人たちのいうことを彼らが信じなかったからである。
この今日の箇所ではですね、繰り返しイエス様の復活を見た、復活のイエス様に出会ったという人と、その人がした証言を信じなかったということが出てきます。
中でも3回、よく読むと4回ですね、いわゆる証言を信じなかった不信仰ということが取り上げられ、イエス様によっても直接咎められています。
イエス様を見た人の証言を信じなかったのか。
16節でもそのようなことが言われていますね。
バブテス様を信じて受ける者は救われますなんとも言われて、信じることが強調されていますし、信じない者は裁かれますとも、罪に定められますとも言われています。
ここは何を言っているかというと、いわゆる不信仰が重大な問題であるということが強調されています。
それは言い換えれば、イエス様の直接の復活を見たことがない人たち、直接イエス様の復活したイエス様を見たり話したりしたことがない人たち、
その人たちは目撃者の証言を信じるかどうかを問われているということなんです。
ここで言えば、マグダラのマリアだったり、二人の弟子だったり、私は復活したイエス様に会いましたと言った人たちの証言を信じなかったことをイエス様に咎められているということなんですね。
それは今の私たちについて考えるとこのように言えるんです。
あえて別に手を挙げなくていいんですけど、皆さんは復活のイエス様を見たことがありますか?ないですよね。
じゃあどうやって信じているか?それは、私たちは今復活のイエス様に直接お会いすることができません。
けれども今の私たちにとって聖書がその復活のイエス様を証言している証言集だということがあるんです。
マグダラのマリアや二人の男の人たちが言う証言。そして神様は目に見えませんが、目に見えない神様を聖書が証言しています。
ですから私たちに問われているのは、聖書を信じているか、聖書が解き明かすところのイエス様の復活を信じるのか、聖書が解き明かすところの神様を信じるのかということが問われているということなんですね。
それがまず第一のこととして覚えておきましょう。
2番目、そして私たち今度はですね、復活の証言者となるということが出てきます。
もう一回16章9節から10節読んでいますね。
さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは最初にマグダラのマリアにご自分を現された。
彼女はかつて7つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。
では読める方、ここのマリアから読んでみましょうか。
マリアはイエスと一緒にいた人たちが、嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。
すぐ分かりますように、マリアはすぐ復活のイエス様に会ったということを知らせました。
また、この16章の15節ではですね、ここには出てないんですけども、イエス様はこう言っておられるんですね。
イエスは彼らに言われた、全世界に出て行き、すべての作られたものに福音を述べ伝えなさいと言っています。
これはですね、別の言い方をすればですね、復活の福音を明かししなさいというイエス様の命令です。
マリアは何をしたかというと、復活のイエス様の証言をしたということなんですね。
ここで言えることはですね、私たちは復活のイエス様との出会いを体験すると、押し出されるようにしてそのことを誰かに伝えたくなるということが分かるんです。
この今読んだマグダラノマリア、このことはですね、実はヨハレの福音書の20章に詳しく書いてあります。
他の2つの福音書にもマグダラノマリアはですね、一番最初に復活のイエス様に会った女性だ、その一人だということがわかるんですね。
彼女は喜びさんで仲間に伝えました。そしてマリアの後に2人の男の人が田舎に向かっていく道、田舎ね、なかなかわかりませんけど田舎に向かっていく道の途中で復活のイエス様に会った。
これがですね、ルカの24章に書いてあるエマオの途上の出来事を要約したところらしいんですね。
で、この2人もそのことをすぐにですね、仲間の人たちに伝えに行ったということがわかります。
で、先ほど見た信じない人たちとは反対に、この3人はですね、復活のイエス様に会ったらそのことを伝えずにはいられなかったわけです。
イエス様になった。で、ちょっとね、考えていただきたいんですけど先ほど私はですね、私たちは復活のイエス様に会えないから、復活のイエス様については聖書の証言を信じるかどうかが問われているって言い方しましたよね。
でもそれと同時に一番最初に述べたように、実は私たちは日常生活の経験の中で復活のイエス様に出会ったとか、イエス様が私を救ってくださったっていう体験もするんですね。
それがクリスチャン信仰の本質の一つでもあります。
この両方がバランスよくあるのが、私だけかもしれませんが健全なクリスチャン信仰だと思うわけです。
まあ難しい言葉で言いますと、そういう実存的な体験。復活のイエス様が私を救ってくださったという実存的な体験がやっぱりクリスチャン信仰には伴うわけです。
それはですね、ここに今いる一人一人違うんです、出会い方。だからいわゆる今よくある料理のチェーン店じゃないですけど、マニュアル化してこうだとは言えませんし、パターン化してこういうパターンがイエス様との出会いだということはできないんです。
ただ一人一人は知ってるんですね。私は復活のイエス様に救ってもらった、今日出会ったって言える。そこの微妙さを今日また覚えていただきたいんですけども。
そしてそのような復活のイエス様と出会ったという日常生活の中で体験をすると自然にそのことを誰かに伝えたくなったり伝えるようになるということなんですね。
受け入れられない可能性
私が言いたいのは、今日の御言葉にあるように福音を伝えなさいという言葉を聞くと私にはできません。
そういう力もありません、勇気もありませんって思うかもしれませんが、復活のイエス様に救ってもらったという経験があるとですね、自然にそれが湧き出てくるということをまず覚えておいていただきたいということなんです。
さらにもう一つ大事なことは、私たちがそのように押し出されて証言したとしても、それが必ずしも受け入れられるとは限らないということなんです。
このマリアが、嘆き悲しんで泣いてる人のところにわざわざ行ってそのことを知らせたんです。その結果どうなりましたか。
11節読めるかと読んでみましょうか。
彼らはイエスが生きていて、彼女にご自分を表されたと聞いても信じなかったのです。
はっきり書いてあるんです。
マリアは嘆き悲しんでいる彼ら、彼女らを励まそうと思って、彼らの最も革新的な問題の解決として復活のイエス様との出会いを明かししたんです。
でもそれでも彼らは信じなかったんですね。
ここのところを学者が解説して、最も根本的な救いのメッセージ、悲しみを取り去る良い知らせを聞いたにも関わらず彼らは信じなかったと言われているんです。
ここから何が言えるかというと、私たちはもしかして誰かによかれとして復活のイエス様の良い知らせを伝えても、
それが受け入れてもらえないということがあるんですよということを心に受け止めておく必要があるんですね。
よかれと思ってこの人の救いになると思って私たちがそのことを伝えても、
解決になると思って伝えても、悲しんでいる人にとっても、
それを信じることができないということさえ起こり得るということを覚悟と言いますか、知っておく必要もあるわけなんです。
しかしそれで終わりではありません。3番目。
証言者と共に働くイエス様ということですね。
今日の部分の締めくくりにこのように書いてあります。
弟子たちは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。
主は彼らと共に働き、御言葉を、それに伴う印を持って確かなものとされた。
イエス様ご自身が弟子たちや私たちの証に確証を与えてくださるということがここから分かるんです。
これは私たちを支える約束です。
実は今日あえて取り上げませんでしたが、
17節、18節に信じる人に伴う印がいっぱい書いてありますよね。
手を置いたら癒されるとか、蛇を掴んでも害を受けないとか。
実はこれらの不思議なことは、
使徒の働き、使徒行伝にパウロやペテロのした奇跡として記録されています。
しかしですね、あえて言いますが、毒を飲んでも死なないということは書いてないんです。
学者もこれが一体何を指しているのかということを真面目に議論しても一体何を指すか分からないと言うんですね。
当時流行っていた宗教の遺端がそういう儀式をやっていて、それに負けないということを
実際毒を飲んでも死なかった人がいたのか、あるいは比喩として言っているのか分からない。
でも先ほど言いましたが、実はここの部分というのは、
マルコ本来の言葉ではなかったということがほぼ確定しているので、
私たちが学べることはですね、曖昧なことはそれは真理として受け入れないで、
その中からですね、今の私たちが受け入れられることを
信仰の基準として学ぶということが、こういうことに対しての健全な態度なんです。
だから簡単に言うと、私たちが毒を飲んだら死んじゃいます。
それは置いておきまして、ここの御言葉から私たちが学べることは繰り返しになりますけれども、
私たちが復活のイエス様について誰かに証明した時に、あるいは何か証言した時に、
何らかの方法で、イエス様ご自身がその私たちの証言を確証してくださる、
それに匹敵するような出来事が、どこかで何かの形で起こるという、
そういう約束を心に留めていく必要があるんです。
繰り返しになりますが、その極端な形としてここでは、
いやしとかしるしですけれども、私たちが学べる原則は、
私たちの証言に伴ってイエス様が働いてくださるという、
良い知らせを受け止めるということなんですね。
繰り返しますが、最初に述べましたように、私たちは信仰者としてイエス様の救いを体験する、
イエス様が私を通して働いてくださったと言えるようなことを体験します。
それは人によって違います。
そしてそのことは、私たちが誰かにイエス様のことを伝えたときに、
イエス様が私の言葉を確証してくださったということが起こり得るんですね。
でもそれは、私たち三人三様、どういうふうに起こるのか、違うわけです。
パターン化していない、マニュアル化していない。
人の経験を批判もできないし、自分の経験を絶対化もできません。
でも必ず私たちの証言に伴うことを、イエス様がなしてくださると、
それは信じることができるということを覚えておいていただきたいと思います。
福音の広がり
それもクリスチャン信仰の実存的な部分の一部だということを覚えておきましょう。
実はそのような、誰かが述べ伝え、それが拒否され、しかしそれに伴う印が与えられてですね、
福音が浸透していって何が起こったかというと、
このエルサレムから始まって、そこから見たら、地の果ての日本人の私たちに福音が届いて、
今私たちが確かに、おそらく皆さんバプテスマも受けてここにいるという、そういう事実があるわけなんです。
そして実は、今度は私たちは先週も述べましたけれども、
マルコの福音書は途中でブツ切れだって先週はお話ししましたが、実はそこから先に続きがある。
その続きは何かというと、私たちの人生がその続きを書いていることになるんだということなんですね。
先週読んだのを繰り返しますが、マルコの福音書にはまだ実現されていない素晴らしい未来への希望が描かれています。
それは私たちが今経験していることよりも、遥かに素晴らしい出来事がこれから起こるかもしれないということを意味しています。
まるでまだ見ぬ書が書かれていない福音書があるかのように、私たちは想像を遥かに超えるようなイエス様の奇跡や喜びを期待できるのです。
そういう学者の言葉がありましたが、私たちは自分の生活を通して、人生を通して、あたかもマルコの福音書に新しい書を書き加えていくような日々をこれから送っていくわけです。
そしてそのようなものとして、私たちは今この世に福音の証言者として使わされているわけなんですね。
その復活のイエス様の救いにこれから私たちがまた出会えること、そして私たちの証言のともにイエス様が働いてくださることを真摯期待して歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
最後にこのマルコの最後とされる言葉を読んで終わりにしましょう。
ちょっと長いですけど、ゆっくり読んでみましょうか。
弟子たちは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。主は彼らと共に働き、御言葉をそれに伴う印を持って確かなものとされた。
お祈りしましょう。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。長らく朗読し学んできたマルコの福音書も今日で終わりです。
神の子イエスキリストの福音を私たちは学び聞いてきました。
どうぞ私たちがそのイエス様の復活の福音をさらに深く知り、そしてその福音の体験にいき、またそれを明かしするお互いとして、
これから新しい証を私たちの生活を通し、人生を通して書き加えていくことができるように導いてください。
目には見えませんがイエス様は今蘇って、私たちと共にいてくださり、私たちを救い、私たちを導いてくださることを信じて感謝いたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
黙祷してください。
25:21

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