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2025-03-09 26:38

#254キリストを信じるとは~その3つの意味 25/3/9

ヨハネの福音書-42からの礼拝説教。2025年3月9日録音。「信じるだけで救われる」は、ことわざのように良く知られています。これはキリスト教信仰の特徴を表しているのです。今日の箇所から「救い主イエス様や神様を信じる」とはどういうことであるのかを3つの点から見ていきます。(1.信じるとはとどまることである、2.信じるとは「ことば」を信じることである、3.信じるとは愛に信頼し自らゆだねることである)それらはキリスト教信仰の本質に関わることでもあるのです。

サマリー

キリストを信じることは、自分自身がイエス・キリストを救い主として認識し、神との関係を深めることを意味します。サマリアの人々がイエスの言葉を通じて信じるに至った過程を考察し、信仰の本質に迫っています。このエピソードでは、イエス様が神の愛を私たちに明らかにするために地上に来られたことが語られています。特に、ニコデモとサマリアの女性の例を通して、信じることの意味や神の愛の広さについて考察されています。

サマリア人の信仰
ヨハネ4章39節から42節を読みます。
さて、その町の多くのサマリア人が、あの方は私がしたことをすべて私に話したと証言した女の言葉によってイエスを信じた。
それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。
そこでイエスは二日間そこに滞在された。
そしてさらに多くの人々がイエスの言葉によって信じた。
彼らはその女に言った。
もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。
自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だとわかったのです。
以上です。今日はこのところから、キリストを信じるとはと題して、この言葉を取り継ぎします。
みなさんおはようございます。
3月20日は旬分の日ですけれども、だんだんそれに伴って日が長くなってきましたね。
今日の埼玉県地方の日の出は6時1分でした。
明日6時で、たぶんあさってには5時台になるんじゃないかと思って、だんだん晴れめいてきましたね。
その中ですけれども、今週火曜日は東日本大震災から14年目を迎えますし、
また被災地でもあった岩手県大船渡市では、まだ火災などで避難している方々もいるようですけれども、
そんな方々も覚えて祈りながら、またできることを何かさせていただきながら、今日も礼拝してまいりましょう。
さて、今日ですね、キリストを信じるとはというところなんですけれども、
信じるだけで救われるという言葉、これは言葉座のようにですね、よくクリスチャンでない方でも使われる場合が多いです。
これはキリスト教信仰の特徴を表している言葉ですね。
実はこのヨハネの福音書には、信じるという言葉がどれほど大切なテーマであるかということがわかるんです。
それは信じるという、難しく言うと動詞の形なんですけれども、98回かな、100回近く出てきます。
これは新約聖書の中でも非常に珍しい頻度で出てきている。
それほどヨハネの福音書では、この信じるという言葉が大事だということがわかります。
そして今日読んだ短い4節の間、たった4節の間でも、39、41、42節に3回も出てきている。
いずれもイエス様を救い主として、あるいは救い主であるイエス様を信じるという関係、意味で使われているんですね。
そういうことで、今日の箇所から、救い主イエス様、あるいは神様を信じるということについて、3つの点から見ていきます。
言葉の重要性
それは、ある面、キリスト教信仰の本質に迫ることでも、関わることでもあります。
まず最初は、信じるとは留まることですよ、ということ。
2番目は、信じるとは言葉を信じることですよ、ということ。
最後は、信じるというのは、神様の愛に信頼し、自らを委ねることだ、ということで見ていきたいと思います。
それでは一番最初、信じることは留まることである、ということを見ていきましょう。
ちょっと長いのですが、読める方は40節を一緒に読んでみましょうか。
それでから、3、それでサマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。
そこでイエスは2日間そこに滞在された。
実は、ここの背景を説明しますと、イエス様がサマリアという地方に訪れた。
その時にイエス様が救い主だということを聞きつけて、町中の人がやってきて、
そしてイエス様にもっと一緒にいてほしいと、留まって滞在してほしいと願ったら、2日間イエス様は泊まっていった、ということなんですね。
そしてイエス様と語られた彼らは、ここでイエス様が救い主であると確信して信じた、ということが内容なんです。
イエス様が神に誓いますか?
それでね、そのこともわかってきますからね。
創典の権利というのがあって、神に誓いますか?というキャラクターがいたんです。
とりあえず話を聞いてもらってですね、後で話したいと思うんですけども、
この40節に2回出てくる滞在するという言葉、実は信じるということと同じように、ヨハネの福音書では非常に大事な言葉なんですね。
これは難しく言うと、新約聖書が最初に書かれたギリシャ語では、メノウという言葉です。
日本語の聖書では、他に留まるとか宿泊するとも訳されている。
それがここでは、滞在するということで2回出てきているんですね。
そのことを覚えておいてください。
その上で、このイエス様がサマリア地方に2日間宿泊したということ、これと似たことが以前、聖書に記されていたことを覚えているでしょうか。
それはイエス様が一生で最初の弟子たちに出会った場面です。
そこでは2人の弟子たちがイエス様に会いました。
そして、先生どこに泊まっておられますか?
イエス様は私についてきて、皆さんそうすればわかりますと言って、その2人の弟子たちはイエス様が宿泊している場所に一緒に滞在したということが言われている。
そこでもこのメノウという言葉が宿泊、泊まるという意味で使われているわけです。
そしてそこで何が起こったか。
イエス様とおそらく一晩語り合った弟子たち、2人の男の人、そのうちの一人はシモンであった。ペテロの兄弟であった。
アンデレであった。ペテロの兄弟であった。
彼はその兄弟ペテロに会って、イエス様のことを自分の兄弟に告白するんですね。
私たちはメシア、訳すと、キリストに会ったと自分の兄弟にイエス様と一晩宿で過ごしたと告白しているわけです。
繰り返しになりますが、そこでもサマリアに滞在したと同じメノウという言葉が宿泊する。
あなたはどこに泊まっていますか。そこにイエス様と泊まったという宿泊するという言葉として使われているんですね。
修学旅行とか部活の合宿とかで友達と寝泊まりしたことありますかね。
私も中学校で一番いろいろ覚えている中で、中学2年生の時に臨艦学校に行って、西湖といって富士湖の一つに泊まりに行くんですね。
大体先生が夜見回りをするんですね。その時固定時ごとに4,5人で男子女子それぞれで泊まるんですけども、話が盛り上がってですね。
ある先生についてこの部屋で話してたら盛り上がってしまってですね、布団に入りながら話したんですけども、その盛り上がっている様子をですね、外の先生が聞きつけたんですね。
大体誰か来たってシーッとなるわけですよね。その時に鈴木先生といってですね、理科の専科の先生なんですけども、いつも白衣着ている先生なんですけどね。
謎の先生だったんですけども、怒られるかと思ったらね、おいとか言われたんで、ちょっと来いとか言われたから窓を開けたらですね、すいませんって言ったら先生がですね、寝なさいって言って、優しいんですよね。
開けた瞬間に網戸が外れてしまって、動揺したんですけど、それが何かうまくいったのか、先生がですね、網戸をこうやってはめるんだよなんて言ってくれたですね、鈴木先生という先生がいたんですね。
そういうことを思い出すんですけども、皆様の修学旅行とかで、部活の合宿で友達と夜通しね、語り合った、布団の中で入っても目が冴えてですね、話に花が咲くってことがあるかもしれません。
そんな中で、普段話せなかったこととか、お互いのことについてもっと深いことを話して親しくなるわけですよね。
で、そうやって相手のことを今まで以上に教えてもらわなかったことを教え合ったりして、深く知り合う。
それがですね、実はイエス様とこのサマリアの人々やイエス様と最初の弟子たちの間にも起こり得た。親職を共にして語り合って、このイエス様のことを今まで見ていた以上に深くですね、この弟子たちも、そしてサマリアの人たちも知ったわけです。
で、先ほどから出てきているこのメノウという言葉は、実は同じヨハネの福音書の15章でですね、とどまりなさいという言葉でたくさん出てくる。
私にとどまりなさいというこのイエス様のご自分をブドウに例えて、そしてブドウの木に例えて弟子たちを枝に例えた箇所で、イエス様にとどまりなさいということでこのメノウという言葉がたくさん出てくる。非常にこの15章っていうのは有名な箇所なんですね。
で、そこでイエス様は弟子たちに向けてこう言っていますよね。イエス様の言葉を読めるかと読んでみましょうか。私にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまります。私はブドウの木、あなた方は枝です。もうお分かりと思いますが、このとどまるという言葉、これがメノウというギリシャ語で滞在する、宿泊するという同じ言葉なんですね。
イエス様にとどまるという言葉は実はイエスを信じることということと同じ言葉としてニュアンスで使われているんだと言うんですね。
それはブドウの木にブドウの枝がつながっているように、私たちも一つの枝としてイエス様にとどまり続ける、つながり続ける。それが必要である。
そして弟子たちのように、あるいはサマリアの人のように、イエス様と神職を共にして語り合った彼らのように、私たちもこのイエス様と親しく語り合っていく。そうやって信仰が養われていくということが完結してくるわけなんですね。
そのようにとどまって、共にイエス様と時間を過ごして、そしてイエス様を信頼していく、信じていくんですけれども、その上で語らうということと関係していくんですが、それが2番目に移っていきます。
信じるとは言葉を信じることであるという2番目の点につながっていくわけですね。
サマリアの人々の会心の話に戻りますが、彼らはイエス様を自分たちに引き合わせた女性にこう言ったんですね。
そしてさらに多くの人々がイエスの言葉によって信じた。彼らはその女に言った。
もう私たちはあなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いてこの方が本当に世の救い主だとわかったのですと言っているんですね。
お気づきかと思うんですけれども、少しこの場面をおさらいしますと、先ほども出てきましたが、サマリアの街の人たちはサマリアの女性を通してイエス様のことを知ったわけですよね。
イエス様についてサマリアの女性からの証を通して救い主だということを薄々勘づいてイエス様のもとにやってきました。
しかし、そうではない。今はむしろ自分で聞いて信じているとここで言い直しているわけなんですね。
赤字で記しておきましたけれども、その時に彼らは自分で信じているなという中でこう言っているわけですよね。
解説の中ではさらに多くの人々がイエスの言葉によって信じた。
そして彼らはイエス様と自分をめぐり合わせてくれた女性に言ったわけですね。
私たちはあなたが話したことではなくて、自分で聞いてこの方が本当に世の救い主だとわかった。
ということで、イエス様とのコミュニケーション、特に言葉のやり取りによって信じたということがわかるわけです。
先ほどある方と話しましたけど、今は手紙が来るということがなかなか珍しいですよね。年賀は少なくなっている。
手紙や歯書きも書く人が少なくなっていますけど、だいたいメールとかLINEですよね。
でも共通していることがありますよね。それは言葉のやり取りをしているわけです。
その文面を通して、言葉を通して相手の考えを知ったり、また相手の自分に対する配慮を知ったり、時には相手からの愛着を感じたりする。
それには言葉が欠かせないわけですよね。
フェイスブックにおいても、とにかく言葉のやり取りをもって相手とコミュニケーションする。相手を知っていくわけです。
同じように、私たち今目に見えないイエス様をどうやって知るのか。
それは聖書に記されている、イエス様の言葉によってイエス様のことを知る。
皆さんご存知のように、聖書に記されているイエス様の言葉によって、私たちはイエス様の思いとか、私たちへの気遣いとか、時に私たちへの神様の愛を知るわけです。
このように、実は最初の点で見た、とどまるということとイエス様の言葉に関係がある。
共に信じることに関係があるんですけども、今度はとどまることとイエス様の言葉が関係しているということが、
イエス様自身の言葉によって、ヨハネの福音書の中でこう言い換えられているんですね。
8章31節から32節です。
ちょっと読んでみますね。
イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
ここから読んでみましょうか。
あなた方は私の言葉にとどまるなら、本当に私の弟子です。
あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。
とてもですね、インパクトのある言葉ですけども、特に前半の部分。
あなた方は私の言葉にとどまるなら、本当に私の弟子ですと言われています。
イエス様を信じる、そしてイエス様を信じ続けるということにはですね、
イエス様の言葉を信じていく、イエス様の言葉にとどまっていくということが関わる。
愛への委ね
あるいは不可欠、あるいは同じだと言えることができるわけです。
最後、3番目。
信じるとは、愛に信頼し、自ら委ねることである。
このイエス様が地上に来られて、いろんなことをなさいました。
神の業と言っています。
イエス様の言われたこと、なされたこと、それにはある目的がありました。
その目的は何だったでしょうか。
それは、目に見えない神様を私たちに明らかにするために。
言い換えるとイエス様の言動には、神様がどれほど私たちを愛しておられて、
私たちをケアしておられるのか、そのことを示すためにイエス様はこの地上に来て、
言葉を語り教え、またいろんな奇跡をして、
イエス様の神の救いの業、愛の業を行われたということです。
今まで見たことを振り返ると、その実例が出てくるのですが、
3章で出てきた人を覚えていますね。
3章に出てきた人、それはニコデモという人です。
彼はユダヤの宗教的社会的なエリート、国会議員であり裁判官であり、ユダヤ教の教師でした。
でもイエス様に叱責されていますよね。
神の国に入るということについて悟らなかった。
生まれ変わるということについて悟らなかった。
永遠の日に死ぬということについて悟らなかった。
そしてイエス様は何と言ったか。
あなたはユダヤ人の教師なのに、そんなことも知らないんですかと言われたんです。
厳しい言葉かもしれません。
でもニコデモはどうなったか。
彼はイエス様が十字架に抱えられて埋葬したときに、
イエス様の埋葬に突き沿ったんですよね。
弟子たちはみんな逃げちゃったけど、
それが何を表しているかというと、実はイエス様を信じて、
イエス様の弟子というか、
そういうイエス様を裁判にかけたサンヘドリーの議員だったけれども、
イエス様を信じてその埋葬に立ち会った。
イエス様を信じたということで知られています。
そしてこのパリ裁備とであった、
このユダヤ人のエリートであったニコデモと対局にいた人は誰でしたか。
このサマリアの女性です。
当時の人種的な差別から、
サマリア人という存在だったし、女性という存在だった。
今あたると問題ですけれども。
そしてご存知のように彼女は、
5人の男性と結婚離婚を繰り返して、
6人目の男の人と同棲していたということで、
道徳的にも問題があった。
イエス様はそれを指摘したんですよね。
それを指摘して、実は女性は言ってないのに、
それがイエス様に知られたことから、
あの方は救い主だって悟って、
今日の出来事に至るわけです。
しかしイエス様はその女性の問題を指摘したんですけれども、
実はそうすることによって、
彼女の心の渇きを明らかにして、
そして彼女が生きる水であるこのイエス様を、
永遠のいのちの源であるこのイエス様を、
救いの人を出会えるように知ってくださったわけです。
何を言いたいかというと、
イエス様はこうやって、
社会的な地位とか偏見とか、
もちろん性別とか職業にかかわらず、
誰に対しても公平に接してくださった。
そして神の愛がそれほど広くて偉大なものなんだ、
ということをお示しになったわけですよね。
その大きな神の愛の印が十字架だったわけです。
そうやってイエス様を信じるということはどういうことかというと、
信じることの意味
実はイエス様によって明らかにされた、
神様の愛に信頼し、
その神様の愛に自らを委ねていくことなんだ、
ということなんですね。
実はある学者は、
それについてこのような言い方をしているんですね。
ちょっと難しいんですけれども、
レジュメにも書いてあるので、
あとで軸読んでみてください。
キリスト者の勝利の信仰は、
御子イエス・キリストに表された、
神に信頼を置くことである。
それは、イエス・キリストの人柄や、
その行ったすべてのことに、
表現されているように、
神が私たちを愛してくださる愛に、
自らを委ねることを意味するのである。
この自らを神様の愛に委ねる時に、
決断ということが必要になりますね。
皆さんの中には、
生まれて初めてイエスを救い主として信じます、
決心した方。
バブティエスも起きます、と決心した方がいると思います。
その時に、信じますというのは、
一つの決断ですよね。
分かっても分からなくても、
そこに飛び込んでいくという、
そういう決断という、
一つのアクションを起こしたわけです。
実は、私たちの信仰というのは、
そういう信じ続ける中にですね、
神の愛に信頼して、
これだと言って決断していくということが、
何度も起こるんですよね。
例えば、ある問題に関してどうしていいか分からない、
どうなるか分からないという不安がある中でも、
いや、神が私を愛してくださっているから大丈夫だと、
心で決意するとかですね、
信じ切るという、
そういう神の愛に信頼して決断する、
まさに自らを委ねるという、
そういう繰り返しが、
イエス様を信じて歩んでいく、
神の愛に自らを委ねて歩んでいくということではないかとも思うわけです。
それぞれそんなことを、
今週一週間色々考えながら歩めるお互いでやりたいんですけども、
その神の愛、
そして私たちの人生の、
例えば問題の中にあっても、
神の愛によって私たちは安心できるという、
その約束をですね、
使徒パウルはローマ人の手紙で書いている、
その歌詞を最後に読んで終わりにしたいと思います。
ローマの8章38節から39節で、
パウルはこう書いているんですね。
私はこう確信しています。
死も、いのちも、
見つかりたちも、
支配者たちも、
今ある者も、
後に来る者も、
力ある者も、
高いところにある者も、
深いところにある者も、
ここから読んでみましょうか。
その他のどんな非造物も、
私たちの主、キリストイエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
聖書の言葉を通して、
イエス様の言葉を信じながらですね、
この神様の愛に委ねていく、
そんなお互いでやりたい、
神を信頼し、
イエス様を信じ続ける、
お互いでやりたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
救い主イエス様を送ってくださり、
あなたご自身と、
あなたご自身の愛を、
明らかにしてくださったことを感謝いたします。
どうか私たちが、
ことあるごとに、
イエス様のうちに示された、
あなたご自身の愛やまた、
深い配慮を知ることができますように。
そしてどうか、
様々な課題の中にあっても、
問題の中にあっても、
あなたの愛に、
自らを委ねていくことができますように。
こうして、あなたを信頼し、
信じ続け、
この地上の旅路を歩んでいくことができるように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、
私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど、
神様に応えて黙祷する時間を、
持ちましょう。
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