祈りと感謝
それでは一言お祈りを致します。
恵みと哀れみに富んでおられる、私たちの父なる神様、
今日もまた私たち一人一人の名前を呼び、
死の御前へと集わせてくださった、その幸いを感謝致します。
寒い日々が続く中にあり、心も体も弱りやすい私たちでありますけれども、
あなたは永遠の身腕をもって確かに、私たちを支え続けていて下さり、
この礼拝の場所へとまた集わせて下さいました。
あなたの恵みを心から感謝致します。
あなたは私たちを限りなく愛し抜いて下さり、
巫女イエス様を十字架へと捧げて下さって、
その流された血潮により罪を許し、
三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与えていて下さり、
永遠なる死と共に結ばれ、それは死をもっても切り離すことのできない、
あなたと結ばれた命を今、与えて生かして下さっていることを覚えて、心からありがとうございます。
それゆえに、どのようなことがあろうとも、
あなたはもはや自分の二本足だけで立つのではない、私の恵みによって歩みなさいと、
あなたの恵みのそのただ中に、私たちを今生かして下さっていることを覚えて、心からありがとうございます。
一生本当に様々なことが起きてきます。
思いもよらないこと、そしてそれは時に悲しいことも起きてきています。
そしてまた、私たちの国もまた新たな貸し取りを迫られるようなその最中にあります。
私たちの周りにはなんと、納め切ることのできないことが多いでしょうか。
ただしよ、この世界の王はあなたです。
どうかあなたご自身を仰ぎ、その中で私たち一人一人が祈り、
そしてまた責任をもある決断と、
そのあなたに従う恵みをコツコツとなすことができますように、この時も支えていてください。お願いいたします。
そしてまた、様々なことが起ころうとも、
いわなる種は動かないというその事実に目を止めて、
あなたに信頼することができるよう助けてください。お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることも覚えていますが、
どうか主が慰めてくださり、またお一人一人が主を知ることができるようなおも届いてください。お願いいたします。
それからこれからの時はあなたの御手に委ねます。主がひと時を導いてくださいますように。
イエズス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
サマリアの女性の現状
今朝読んでいただいたこの歌書は、お昼間の出来事です。
今は寒いですが、暑い暑いお昼間の出来事です。
一人の女性が井戸へとやってきました。
通常、井戸に水を汲みに来るのは涼しい朝方か夕方です。
しかも水を汲むという作業は非常に重労働ですので、大体複数人であります。
しかしこの女性は真っ昼間に一人で水を汲みに来たのです。
これは明らかに誰にも会わないように、誰にも話しかけられないように、
そのような恐れを抱いて彼女が水を汲みに来たことがわかります。
一体なぜなのでしょうか。
理由はイエズス様が後で18節で明らかにされていますが、
彼女はかつて5人の夫がいて、今一緒にいる人は夫ではないという生活を送っていたというのです。
それゆえ、この女性はよく私たちが聖書を読むときに、
夫を特快非快するような女性であるというような理解がされがちですが、
しかし当時の公正度や社会状況を考えると、
もしかしたら彼女が夫が変わったというのは、夫に不良の事故が起きた。
もしくは以前学んだように、当時離婚というのは男性から一方的に切り出されますから、
男性から一方的に離婚を切り出され続けた女性だったかもしれない。
そのような可能性を読み取ることができる。
そうであれば、この女性は単にこの人自身の問題というよりかは、
深い深い傷を抱えている女性であるということができるでしょう。
私たちもそうですが、深い傷というのは、自分も他人にもあまり触れてほしいものではありません。
ですから彼女は孤独を選びました。
しかし彼女は確かに渇いていたのです。
次々と頼れる誰かや何かに頼ってはそれを失い、そしてまた探してはそれを失うということを繰り返す日々でした。
結局今も彼女の心の渇きは癒されないという日々を過ごしていました。
今朝のこの歌詞を導く一つの言葉は、この11節の言葉です。
彼女の言った言葉ですが、11節の言葉。
主よ、あなたは汲むものを持っておられませんし、この井戸は深いのです。 そのいける水をどこから手に入れられるでしょうか。
今も潤せない渇きを私は抱いている。 あれにもこれにも頼ったけれども、この渇きを癒すことはできない。
主よ、どこからです。 どこに私のこの渇きを癒せるものはあるのでしょうか。
おそらくこれは私たちもそうです。 さまざまな不安や恐れや、もしくは今痛みを抱えている私たちかもしれません。
私たちの中にもその問いかけはあるでしょう。 主よ、この痛みを癒すことのできる潤いは一体どこから得ることができるのですか。
このような問いかけに今朝はご一緒にこの歌詞を読みながら、その場所を突き止めたいと思います。
どこで私たちはそれを癒すことができるのでしょうか。 3つのポイントで少し見ていきたいと思っておりますけれども、
第一のポイントは、この人たちは泉を見失っているということです。 泉を見失っているのです。
ヨガネの福音書というのは実に美しい構成をしております。 以前もお話しましたが、2章のこの1節からはガリラ屋のカナで花たらきが始まって、
そこからイエス様を通して神様がなされる新しい技が順に描かれていきます。 しかもそれはガリラ屋のカナ地方で始まりました。
そして2章の13節から前回と前々回に見ましたが、舞台はユダヤ地方のエルサレムです。
そして今朝読んでいただいたこの4章の歌詞の舞台はサマリア地方です。 これ実はガリラ屋、ユダヤ、サマリアで始まって、またガリラ屋のカナに帰るというような
サイクルで描かれているんです。 そして私たちは知っているでしょう、このそれぞれの地域は当時分断されていました。
ユダヤ地方というのはいわば中央です。 ガリラ屋地方というのは終焉です。
いわばそれは搾取する側、される側の行動に位置していました。 そしてユダヤ人とサマリア人の間には核室があるというのは今朝も書かれているところです。
ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった。 しかしイエス様はその分断する地域を横断していくんですね。
壁など全くないかのように、その壁を突き破っていきながら全ての地域に良き知らせを伝えていかれる。
むしろこの4章の4節のところには、しかしサマリアを通って行かなければならなかったと書いてあるのは、これはギリシャ語ではこういうことなんです。
何々しなければならなかった。 それは外すことができない。サマリア地方に行くのは神様の定められた導きなんですね。
そこにも福音は語られなければならなかった。 そしてこのサマリア選挙のまさに窓口になったのがこの女性であるわけです。
先ほど彼女は何度も何度も夫を特価引き返した女性であるとお話をしましたが、実はこの女性の姿というのは単なるこの女性個人の状況にとどまらないです。
このサマリアの女性の姿というのは、いや当時のサマリア人たちの状況を象徴しているようなものであったとも言えるでしょう。
サマリア人って一体どういう人たちでしょうか。 端的に言えばそれは、当時、北イスラエルという国の子孫です。
ご存知のように北イスラエルはアッシリアという国によって滅びますが、民は保守されていって、その北イスラエルの地域には違法人が入り込んできます。
結果、そこで起きるのは混血です。 そして様々な民族がユダヤ人と混じって、混血とともに様々な文化と宗教がそこに入り混じっていきました。
いわゆるシンクレティズムというやつです。混合宗教というものが起きてきます。
サマリア人はイスラエルの神様と違法の神々を混ぜて礼拝をしたということが、第二列王記の17章というところに書いてあります。
そして彼らはユダヤ人とは違った独自の聖典、サマリア語書を持っていて、彼らの聖女はゲリジムサンという山でした。エルサルムではありませんでした。
そのような、ある種混血と様々な神々が混ざった宗教に走るサマリア人たちのことをユダヤ人たちは軽蔑していたわけです。
不純仏である。いや、当時の言葉を仮にならば、彼らは虫けらである。そういう言葉が残っています。あいつらは虫だという悪口が今も残っています。
では、そのように進んだサマリア人たちの魂は潤っていたのかというと、そうではないでしょう。
あらゆる神々に、あの神様もいいな、この神様もいいなということを頼りながら、いろんな神様に仕えてきながら、
結局その一つも魂を潤してくれるものはなかった。まさにこの女性の姿です。
イエスとの出会い
しかしそこにイエス様が来られるのです。そしてイエス様は何をなさるでしょうか。ちょっと見ていきますが、イエス様がなさったことは、このスカルの町の井戸に腰をかけて、女性に水を求めるのですね。
先ほどの感覚で言えば、ユデイ人であるイエス様がサマリア人の私に話しかけるなんて、そんな変なこと、おかしいでしょうということをこの女性が言うんですが、イエス様はこう言われるのです。
四章の十節の言葉をお読みしますと、イエスは答えられた。
もしあなたが神の賜物を知り、また水を飲ませてくださいとあなたに言っているのが誰なのかを知っていたら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。
そしてその人はあなたに、いける水を与えたことでしょう。
水をくださいとイエス様は言ったのですが、その女性とのやりとりの中で、あなたが私は本当に何者かわかっていたら、あなたから私に水を求めたでしょうと言われるのですよね。
このやりとりは一体何を言っているのかというと、実はこれは旧約聖書に関わります。
これは旧約聖書の一つの言葉を背景に置いているやりとりであると思います。
それはどこかというと、エレミア書の2章の11節から13節です。
エレミア書の2章の10節から読んでいいと思います。旧約聖書の1285ページの下の段にあります。
お読みしますと、2章の10節からお読みいたしますと、こういう言葉です。
キティムの島々に渡ってよく見よ。けだるに人を使わして見極めよ。このようなことがあったかどうか確かめよ。
かつて自分の神々を神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。
ところが私の民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。
天よ、このことに呆れ果てよ。おぞけ立て、枯れ果てよ。
主の言葉
私の民は二つの悪を行った。命の水の泉である私を捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない壊れた水溜めを。
この批判、この預言者エレミーアによる批判ですが、しかしこの言葉はいわば当時の南裕田に対するものですが、同時に今のサマリアの実情を浮き彫りにしているような言葉です。
栄光なる種を違う神々に取り替えていってしまった。
そしてあらゆる神々とそれを取り替えていっても潤いを得ることはできなかった。残ったのは壊れた水溜めのみである。
その渇きは決して癒されることはない。
ですから女性は聞きます。だ、じゃあしようと。その生ける水は一体どこから得ることができるのですか。どこにその水はあるのですか。
生ける水の意義
しかしエレミーア書の言葉を借りるならば、まず答えは明確です。
エレミーア書は語ります。
命の水の泉である私をあなた方は捨てた。
命の水の泉である私をあなた方は捨てた。
そしてここでイエス様が、あなたが私を知っていたら私から生ける水を求めましたよね。
生ける水ってこれ元のことは命の水と一緒でしょ。一緒ですよ。
私から水を飲むようにあなた求めたでしょうっていうのは、イエス様ご自身が神であるということをここで表しているんです。
まさに神ご自身が、イエス様ご自身が泉であるということをここで表しているのですね。
ただこれだけでは終わりませんで、泉は目の前にあると言っただけではない。
イエス様は続けて二つ目のポイントですけれども、新しいことをおっしゃる。
それは内側からという新しさをここでイエス様はおっしゃられる。内側からという新しさです。
イエス様はここで、あの泉は今あなたの目の前にあるよとおっしゃるだけではなくて、続けてこのように終わりました。
13節14節を読みしますと、イエスは答えられた、この水を飲む人はまたまた渇きます。
しかし私が与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがありません。
私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ますと言われるのですね。
生ける水、いわば命の水というのは単なる水でないことは明らかなのです。
ではこれは何なのか、実はこれあらゆるイメージを内包しています。
聖なる神様なんだということを語る人もいますし、これは神が与えた新しい命、神の命なんだと語る人もいます。
ただここで重要なのは、それが外から与えられただけではなくて、信じる者の内から湧き出る泉となるとイエス様がおっしゃられたことです。
内側から湧き出る泉となるんだということを言うんですね。
いわば先ほどのエレミア書では、神様はご自身を指して命の泉である私と言われました。
しかしそのお方が私たちの内側を作り変えて、内におられるようになるということをここで語っているのです。
内におられるようになる。
しかしながらそれは、まあ新しい事柄ではありません。旧約聖書の預言書で何回も語られてきたことです。
いわくエレミアはこう語りました。
私は私の立法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記すと、エレミア書で神様は語られました。31章の33節。
礼拝の新しさ
そしてまた1000回開きましたが、預言者エゼキエルもそのように語りましたね。
あなた方に新しい心を与え、あなた方の内に新しい霊を与え。
私はあなた方の体から石の心を取り除き、あなた方に肉の心を与え。
エゼキエル書の36章の26節。
まさに新しいことが始まった。
どこかから外から何かを手に入れるのではなくて、内に神が住まわれるようになった。
さて、そのような新しい宮座が始まったわけです。
そしてイエス様が与えるこの生ける水をいただいたならば、新たな命を受け取ったならば、そこから命は尽きずに湧き出て、
そしてこの箇所が注目したいのは、命は永遠の命エノ水が湧き出ますと書いています。
エノです。
このエノというのは目的や方向性を指し示す、ちゃんとした全知識が使われています。
いわば、内で湧きあふれる神様にいただいた新たな命。
それは聖霊なる神様の働きと言っていいでしょう。
でも、それらは永遠の命の方向へと進んでいくんですよ、ということを言うわけです。
それは具体的に何を言うか、言い換えるならば、永遠なる神様に結ばれて、神様の前に全き者ですよ。
アブラハグムが言われました。あなたは私の前に全き者でありなさい。
あの全き者というのは、特別なんか新しくなれという話じゃなくて、本来のあのアダムの最初の原初の姿に戻れということです。
人間のあるべき姿、神を愛し隣人を愛するように作られた、あの人間のあるべき姿へと、あなたたちは回復していきなさい、ということを言われた。
そのような方向へと、この新しい命と、そして内に住まわれる聖霊なる神様は、私たちを導いていってくださっている。
内に泉として湧き出ながら、そのようなことを語っている。
このイエス様は、私はこの生ける水を持っていますよ、と言われるのです。
この水を飲むなら、そのような泉は湧き出て、決して渇くことはないのですよ、ということをここで語られるのです。
さあ、少し考えてみましょう。
皆さんは、この泉をご自身の内に持っておられると思うでしょうか。
その生ける水を、私は飲んだとはっきり言うことができるでしょうか。
今朝、大切なこととして、皆さんと一緒に覚えたいこと、それは、
私たちが、イエス・キリストは私の主ですと告白をし、心で受け入れ、口で告白をし、そして洗礼を受けたというその事実は、
この生ける水を、私は飲みましたということを意味しているのですよ。
これを忘れないでください。
私たちは、その生ける水を飲んだということを、あそこで告白しているのです。
そうであるならば、このイエス様が語られる泉ですよ。
その泉は、私たちの内に確かにあるということを、私たちは今朝認めなければならないのです。
泉は、すでにあなた方の中に、私たちの中に、確かにあるのです。
ただ、そう言われても、先生とそんな実感あまり湧いたことないですわ、とおっしゃられるかもしれませんが、
しかし、主から生ける水をいただいて、内にある泉から命が湧き出て、
精霊様の導きを得て、永遠の命へと向かって歩み出すという営みを、私たちはどこかでやっているのです。
それは何なのか、それは礼拝なんです。礼拝です。
三つ目のポイントです。
神は礼拝者を求め、私たちは礼拝を求めるということです。
神は礼拝者を求め、私たちは礼拝を求める。
この歌詞をお読みになられて、気になられた方いらっしゃらないでしょうか。
イエス様とこの女性の対話というのは、女性の身の上話から、突如として礼拝の話に移るんですね。
しかし、これは唐突に始まっているように見えて、実はこれは結ばれているのです。
このヨハエの4章が言いたいことは何かと言いますと、
壊れた水溜めを抱えて渇くしかない罪人に対し、神様が与える回復は、唯一であり永遠の神と結ばれる礼拝者になることだということです。
もう一回言います。
この歌詞が言いたいことは、壊れた水溜めを抱えて渇くしかない罪人に対して、
神様は、いやあなたは唯一であり永遠の神と結ばれる礼拝者になりなさい。
それが回復なんだということを言っている箇所です。
彼女は言うのです。4章の20節。
私たちの先祖はこの山で礼拝をしました。
礼拝しましたが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。
礼拝には相応しい聖女があります。
当時サマリア人にとってはこの山と呼ばれるゲリジム山です。
ユダヤ人にとってはエルサレムです。
だからみんなそこに集うわけですけれども、
しかし神様はイエス様を通し、礼拝をここで新しくされる。
新しい礼拝は何か。4章の21節。
イエスは彼女に言われた。
女の人よ、私を信じなさい。
この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝する時が来ます。
救い主はユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなた方は知らないで礼拝しています。
しかし、誠の礼拝者たちが、見た目と真理によって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。
父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は礼ですから、神を礼拝する人は、見た目と真理によって礼拝しなければなりませんと言われる。
もはやこの山でも、エルサレムでもない場所で礼拝をする。
見た目と真理によって父なる神を礼拝する時が来る。
いや、それは今この時だとイエス様はおっしゃられる。
この見た目と真理とは一体何なんでしょうか。
私はこれまでお世話になった先生方に、見た目と真理、それは聖霊様の導きと見言葉による真実なんだとずっと教わってきました。
私は今でもそう思っています。
礼拝というのは、聖霊様の導きと共に見言葉の真実が語られるべきだと思っています。
しかしそれに加えてですね、もうちょっと詳しく見ていくと、この言葉の原文は2つの言葉が1つの前置詞で結ばれています。
縁というね。
まあ、韻なんですけども。
いわばこの見た目と真理というのは、2つバラバラというか、1つの概念として結びつけて理解すべきではないかということが言われています。
しかもそれは、ヨハネの福音書のこれまでの文脈と重ねて考えてみる必要がある。
そういうことを思うときに、つまりそれはこういうことだとある先生たちが言いますが、それはイエス・キリストの真理に根差した霊的立場で礼拝をしなさい。
イエス・キリストの真理に根差した霊的立場をもって礼拝をしなさい。
私たちはこの前の章の3章でイエス様が言われた事柄を覚えています。
まさに神の霊によって人は新しく生まれ変わるわけですよね。
場所に縛られない礼拝
そしてそのようなものに対してイエス様は3章の6節でこうおっしゃられました。
肉によって生まれたものは肉です。見た目によって生まれたものは霊です。
それはまさに聖霊様によって新たに生まれたものは、3章の14節にあるように十字架のイエス・キリストを主として仰ぎます。
そしてその結果、神様の恵みの支配、ちょっと以前言いました契約協同体という定めの言葉を使いましたが、
それに属するものとされている、言い換えるならば、聖霊様を内に宿す霊に属するものとされていると語られます。
この6節の言葉は所属に関する言葉です。
新たに生まれたんだったらあなたたちは霊の子だということを言われているわけですね。
そうであるならば、先ほどイエス様を主と告白し、洗礼を受けた者のうちにすでに泉は湧き出ていると私はお話をいたしましたが、
加えてそういうものこそが、見た目と真理によって礼拝するものであるということを語っているんです。
真理そのものであるイエス様を主と告白をし、御霊に属するものとされている私たちは御霊と真理によって礼拝するものとされているのですね。
私は何度かそういうお話をいたしますが、聖書が語ることは、私たちはイエスを主と告白し救われているということはすごいことなんですよ。
イエス様を信じて、イエスを主と告白して、ここで本当の神様がおられるんだと、礼拝をすることができている。
それはものすごいことなんです。うちに泉を持ち、そしてそのように主を誠に礼拝するものと私たちはされているということですよ。
救われていること自体はもっと喜びたいですよね。すごいことなんです。
そしてこのことが一体何を意味するのか、イエス様が礼拝にもたらした新しさというのはまさに、礼拝とはもはや場所には縛られないということです。場所には縛られることはない。
イエス様を主と告白し、うちに御霊様の泉、神の命の泉を持つ者が神を礼拝するならば、
それはどこでも、いつでも、その場が神を礼拝する場所となる。そのように言うのです。
礼拝の新しい次元
礼拝は場所という次元から、真理のキリストと精霊の内住という次元へと、ここで新しく移行したということを語っているのです。
そして何よりも驚くべきことは4章の23節です。その後半です。
父はそのような人たちを、御自分を礼拝する者として求めておられるのです。
私たちが父なる神様を求めるより先に、父なる神様が礼拝者を求めておられると語ります。
この求めるという言葉は、まさに失ったものを懸命に探すという、あの求めるということです。
失ったものを懸命に捜索する父親・羊飼いのあの求めるです。
まさにこの箇所が今朝の問いかけの答えです。
主よ、その生ける水をどこから手に入れることができるのでしょうか。
私のこの渇きを一体どこで本当に癒すことができるのでしょうか。
しかし主が答えられることは、命の泉である私と言われる神御自身が渇くものを探しておられ、
そして私たちはその神と出会うことができる、どこで出会うのか、礼拝なんです。
礼拝を通して神と私たちは出会う。
誤解がないように申し上げますが、私は日曜礼拝大事だと思っています。
そしてそれは人と人とが共に集って共同体として礼拝を捧げるというのは、旧約聖書に語られていることですから大事なことだと思います。
しかし同時に、私たちはそれが守れない時があります。
病床の時に、もしくは病院で横にならなければならない時に、心が本当に傷ついて教会に来れないという時に、
もしくは極端な礼を言うならば収容所などに囚われる時に、
私たちは礼拝を日曜日に教会堂で守れないなんてことはいくらでもあります。
しかし、見た目と真理を与えられた私たちがそこで主を仰ぐならば、
それが病のとこであれ、大きな失敗をした場所であれ、誰かを傷つけ傷つけられた痛みの場所であれ、
収容所の中であれ、天は開かれ、天が私たちの現実に入り込み、
神と私たちは出会い、渇きは癒されうる、そのような礼拝を私たちは持つことができる。
渇きを癒す出会い
そのことを覚えておいてください。いろいろな時に私たちは来れなくなるということがあります。
しかし、そこであなたが天を仰いで、ここに神がおられる、私の主はあなたですと告白し、
御言葉ひとつでも持って行ってください。御言葉ひとつをそこで練りはみながら、
主よと仰ぐ時、そこは礼拝の場所です。あなたと神様が出会う場所です。
この女性は、この後4章の28節にありますが、
彼女は自分の水亀を置いたまま町へ行き、人々に行ったと書かれています。
彼女は町へ走って行くわけですね。
人目を避けてまで汲もうとしていた井戸の水、それを汲もうとしていた水亀、しかしそれを彼女は手放して行く。
彼女は生ける水であるイエス様に出会い、それまでの渇きを癒そうとする手段を手放したわけです。
私たちも互いに自分の渇きを一時的に満たしてくれる水亀というものを持っています。
私はそれを無理に手放せとは言いません。
しかし私たちは全てが取り去られていく時があります。
一つ一つが取り去られていくその最中、最後に私たちに残るのは私たちが外から取り入れたものではない、私たちの内に与えられたものです。
すでに私たちの内に永遠なる神と結ばれた命があります。
すでに私たちの内に住まわれる聖霊なる神様がいらっしゃいます。
私たちの内に神の命の泉があるという事実を決して過論じてはならないのです。
そして今朝私たちに語られること、誠の礼拝者たちが御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。
父はそのような人たちを御自分を礼拝する者として求めておられるのです。
私たちが苦境に立つ時、思い出していただきたい。
神様はあなたの礼拝を求めている。
そして私たちがそこで死を仰ぐ時に、確かにそこは礼拝の場になる。
神と私たちが出会う時に、私たちの渇きは潤されるのです。
一言お祈りをいたします。
ご清聴ありがとうございました。