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2020-06-14 31:22

2020/06/14:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(3)天の御国のたとえ

2020/06/14 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 -33

00:01
ありがとうございました。
皆さん、改めておはようございます。
今日は、イエス様のたとえ話、私たちへの問いかけ、3回目です。
タイトルは、天の御国のたとえ、です。
今日は、天の御国、神の国の話をさせていきたいと思います。
日本もですね、プロテスタントが日本に布教されたのは、だいたい150年前なんですね。
せがくね、153年前かなると思うんですけれども、
その時に、だいたいアメリカの選挙士、あるいはイギリス、あるいはオーストラリアとかね、
そこから選挙士たちが、横浜とかね、あるいはこの神戸、あるいは函館とか、あるいは熊本とか、そういうね、入国をして、福井をね、伝えたわけなんです。
ところが、彼らも何も考えずに来たわけではなく、今から例えば、選挙士がね、アメリカから日本に行くとしましょう。
そうしたら、あらゆる資料やアメリカにいる日本人に面接したりして、日本はどんな国なのか、どんな思想を持っているんだろうか。
例えば、死について、死んだ後、死後の世界については、どんな思いや考えを持っているんだろうか。
昔からはどんな宗教が根付いているんだろうか。
そして、この来世間について、よく調査して、調べてね、それでね、それなりにこの国は、日本は、例えば中国は、インドは、みたいにね、そういう風なそれぞれの戦略を立てて、日本に来たわけなんですよ。
学校を建てたり、病院を建てたり、それも一つの戦略だと思うんですけれども、特に今日は学校や病院の話じゃなくて、あの時にですね、日本は大体仏教がね、既に根付いている国だったんじゃないでしょうか。
もちろん神道もあったわけですけれども、その中で、その入ってきた選挙主たちは、このキリスト教プロテスタントの、この独特の来世間を強調してね、福音を伝えたわけなんです。
例えば簡単にね、わかりやすく申しますと、人は死んだら裁かれる。そして信じる者は天国に行く。信じない者は地獄に行く。
03:05
イエス様を信じたら天国に行けるし、信じなかったら地獄に行く。そして天国でも地獄でも永遠に生きろというね。
簡単に言ってですね、申しますと、元二つに教えたと思うんですけれども、そういうふうに特にキリスト教は亡くなった後に天国に行く宗教みたいに根付いてしまった。
それが間違いではないんですけれども、そこを強調したと思うんですよ。
それ以来ですね、日本だけではなく韓国もそうですけれども、キリスト教はなぜか現世、今ここでと言うより、来世的宗教になったような傾向があるんです。
もちろんプロテスタントがね、キリスト教が来世がないとかね、そういう宗教じゃないですよ、そういう話じゃないんですよね。
しかし、今ここであまり触れないでね、死んだ後天国に行くよとね、それだけ強調してしまうと、今ここで神の国の恵みを、そのパワーを、その力を、それを喜び味わうこと、経験させていくこと、
今ここで私の生活の現場に臨む神の国、神様のご支配を失いやすいということなんです。
もちろん、あの時の伝道方法が間違ったとかダメだとか、そういう話ではないんです。
そうせざるを得なかったと思うんですね。
一早く少しでも早く福音が根付いて、一人でも多くの人々が信じるように、必死だと思うんですよ。今から150年前ですからね。
ところがね、そこから強調して強調して強調しすぎると、なぜかそこから副作用みたいなものができちゃうんです。
例えば、一部のクリスチャンだと思いますけれども、
「イエス様は死んでいたら天国に行く。だから天国は死んだ後に行くところなんだ。この地上で今生きていることはそんなに関係ないんだ。
だから死んでから、亡くなったから天国にさえ行けばいいんだ。」みたいにね。
そういうふうな考えを持っているクリチャンが少なくないんですよ。
06:04
たまに会いますけどね、クリスマスの電脳集会にね、招待したら、
いや私も昔は戦に受けましたよってね。
数十年教会に行って、神様が本当にいるかいないかも不明である。
でも戦に受けたんだから天国に行くんじゃないですか、みたいにね。
何回も聞いたことがあります。
天国と言ったらね、私たちは、私も小さい時に教会や学校でそういうふうに教えられたわけですけれども、
それは全く間違いではないんですけれども、天国と言ったら、救われた人が死んだ後に行くどこかの場所、みたいなね。
そういう考えがあるんです。
ところが皆さん、新約聖書、特に福音書をね、よくよく深く考えて、
特に御国というキーワードを中心にして福音書をよく読むとですね、
天の御国は、神の国は、死後の運命というより、この地にも臨む神のご支配なんです。
わかりますか。
天でも同じく、この地にも臨む神の御支配、神様の御統治、それが御国なんです。
ですからですね、御国、天国に行ったら、どこかに行くという考えが深いんでしょうね。
天国に行く、歌もありますしね。
ところがですね、福音書をよく読むとですね、
ヨハネの牧師録もそうですが、御国、天国は、私たちがそこに行くというより、御国が、神の御支配が、私たちのところに来るという事なんです。
そんな、本当ですよ。
今日も私たちが祈りました、主の祈り。
もう一度皆さん、確認していただけますか。
主の祈りに私たちは、天にはします我らの父よ、願わくは皆をあだめさせたまい。
その次ですよ。御国を、どうしますか。
お答えしていただけますか、皆さん。
御国を来たらせたまい。
簡単に言って、御国が来ますようにという言葉なんです。
現代の子供のね、主の祈り。御国が来ますようにでしょ。
御国へ行けますように、祈っていないんですよ、私たちは。
50年間皆さんも、そんな風に祈っていなかったっけ。
例えばね。御国が来ますように。御国が来ますように。
つまり、神様の御支配が、神の国が、神の世界が、このうちに、私の生活の現場に、我が家に、まず自分にですね。
09:02
夫婦関係に、家庭に、教会に、この日本に、世界に、隅々まで、神の支配が来ますように。
それが御国なんです。
それが天国なんです。
だから、いつも天国、神の御国を、死んだ後に行くところ。
そういう風にだけ思ったら、困ります。
今日の例えの御言葉を読むとね。
31、32、33節、今日の聖書ですね。
イエス様は例えで、この13章にですね、ずっと天皇御国の話をね、イエス様が語るわけなんですよ。
天皇御国は、からし種のようなものです。
それを取って畑にまくと、どんな種よりも小さいのですが、からし種は小さいですね。
5まぐらいの小さいですけれども、成長すると、どんな野菜よりも大きくなる。
鳥が来て、その枝に巣を作れるほどの大きな木になる。
また、天皇御国は、パン種のようなものだ。
パンを作る時に種を入れると、それがイーストみたいなものでしょう。膨らんでくるという話になります。
イエス様の例え話。
例えば、進路を待って迎えていた住人の娘の話とかね、
あるいは、一だらんと二だらんと五だらんと預けて、主人が帰ってくるでしょう。
聖山に帰ってくるんですよ。
イエス様のサイリンは、泥棒のように、あの日に突然来るとね。
神の国、天皇御国を理解する時に大事な言葉がありますね。
それは、今日の31、32、33のこの例えの話のキーワードは、成長拡大ということなんです。
天皇御国は、その自体が成長するんです。
私たちがある意味で成長させるんじゃなくてね、
もう自ら成長して、自ら拡大していくということ。
それが神の御国なんです。
その時代で、自ら命であって、光であって、力であるから、
自ら成長して、自ら伸びて、自ら拡大していくということなんです。
生きて働く、動くということ、生き物なんです。
だから、神の御国は、私たちが、皆さんよく聞いていただきたいんですけど、
今、生きているうちに、この地で神の国を経験する味を喜ぶ、
そしてその国を伝える、これが天国です。
これが神の御国に生きる人なんです。
12:03
今日ね、今まで皆さんが天国御国と言ったら、死んだ後に行くみたいにね、
それでお骨はどういうふうにして、脳骨はどういうふうにして、
それも当然必要なことなんだけれども、今ここでこれが大事なんです。
今日切り替えしていただきたいと思うんです。
今ここで、神の御国の中で幸せに生きる、神を礼拝する、
そして穢れて歪んでいるこの世界を直していく、改革していく、
これが御国で生きるクリスチャンライフなんです。
そしてこれが救われた人のライフ、人生なんです。
だから救いはね、ただ亡くなった後に行く天国だけの話では、ものすごく狭いんです、実は。
私もそういう失敗があったと思うんですけれども、
死んだ後、亡くなった後の天国にだけ、あまりにも焦点を絞って絞って話をしてきたかもしれません。
あるいはそういうふうに教わったかもしれません。
だから一部分かもしれませんけれども、今はどうでもいい。
もうね、先に受けたんだから、昔業界にいていたんだから、
神は哀れみの神なんだから、もう適当に信じて、
亡くなってくる数秒前に、1、2、3、4、5で亡くなられたら、
5秒前に、はい、信じます。
で、地獄に行かないで天国に行けばいいんだ、みたいにね。
そういうふうに教えて教わって伝導してきたかもしれない。
もちろん確かに信じれば天国に行けますよ。
しかしそれだけじゃないという話なんです。
皆さん、イエス様を信じる信仰生活というものは、
この地において、今ここで神の国が来ますように祈るごとく、
神の国のために働くことなんです。
参加して働く、で、ある先生はそれを辞書にはない言葉、
参加の参と働くの同をね、作って賛同する、
みたいな言葉を作った先生もありますけれども、
本当にそうなんですね。
神の身国で参加して働くことなんです。
見るんじゃなくてね。
そこには神の正義のために、
神様が最初作られた、あの創造の最初の美しさのために、
それが実現できるように働いて、教えて、指導して、
導いて、時には引っ張って、時には支えて、働くことなんです。
例えば、どこの国も今はそうですけれども、
15:03
夫婦関係が壊れている夫婦も多い。
離婚がですね、あまり当然のみたいなこの地において、
本当に聖書の御言葉通りに美しい糧を作って、
夫婦が本当に愛し合って生きるように、
我々は、それが身国が来ますように祈る人の生き方、
それを教えて、指導して、導いていくこと、伝えていくこと、
それが身国で生きる人の生き方なんです。
あるいは、不倫というものが笑い話のネタになっているこの地に、
もう清く生きなければならないんだ。
本当に純潔を、清潔を教えて、教えて、伝えて、
そういうようにしてこの地に身国が来ますように、
私たちは生きていかなくちゃならないんです。
あるいは、自殺が多い、いじめが多い、
学校や会社やこの社会の中でですね、
何とかそれがもう無くなって生きるように、
あらゆる方面で働きかけることが、我々にも必要なんです。
あるいは、それができるかできないかは別として、不正や独裁があるならば、
それが消えて、本当の正義的な国になるように、
本当の民主主義が実現できるように、
それを実現するための働くこと、
これが神様が作られたこの地を、この世界を美しいものになるように管理してケアすること、
それが救われた人の生き方なんです。
だから日本にもですね、まだまだ少ないんですけれども、
神様を信じるクリスチャンたちが、
例えば、学校で先生として、大学で教授として、
病院で医者で会社で社員や社長で政治家ではね、
そこでは議員として、様々な分野で良い影響を擁護して、
そこが未国になるように、そこに神の正義が成就されるように、
そこに神様が作られたエデンのそのような美しさがね、戻るように、
私たちは働くこと、それが未国で生きる救われた人の生き方なんです。
あるいはそこまで行かなくてもですね、今皆さんが住んでいる町内で、
善を施して、正直であって、キリストの愛を伝えて生きること、
これが救いであり、未国での生き方なんです。
繰り返して申しますと、
ヨハネの目視録をよく見ると、そこでは天国という言葉より、
18:01
新しい天、新しい地、新創造を意味する言葉がよく出てくるんじゃないですか、皆さん。
だからその新しい新創造の観点から見れば、
未国は、神の国は、最終的にこの地に来るものなんです。来るんです。
だから私たちの体のよみがえりも復活もですね、
ただ天国に行くという意味より、あるいはただ永遠に生きるという意味より、
もう亡くなった後の主がよみがえりしてくださる全き体をもって、
新しい天と新しい地で、そして生きることなんです。
だからヨハネの目視録をよく見ると、終末論的観点から見れば、
未国は天国が行くところというより、来るんです。来る。
さっきもお話ししましたように、福音書をよく読むと、
イエス様はサイリンについて、終わりの日についてお話しされるときには、
行くという動詞より、来るという動詞をよくイエス様は使われました。
主人が聖山に来るでしょう。
進路が花向くが来るんですよね。
イエス様は来る、下って来るということをよくおっしゃるんです。
例えば、一箇所ね、皆さん聖書を開けましょうか。
ヨハネの目視録、22章、20節開いてみてください。
聖書のもう最後の最後ですけれどもね。
503ページですね、私の聖書では。
ヨハネの目視録、22章、20節。
そこを見ますとですね、これらのことが明かしする方がこう言われる。
しかり、私はすぐに、どうですか、来る。
アーメン、シュー、イエスよ、来てください。
アーメン、シュー、イエスよ、行きますじゃないですね。来てください。
御国が来ますようになります。
イエス様が来るんですよ。
それが、イエス様の初輪、イエス様が生まれたことを通して、
もう既に神の国がこの地に来ました。
来て、今、簡単に言って、実現中なんですよ。
だから、今すでにイエス様の初輪を通して御国が来たわけなんです。
21:02
もう既に来た。
それがイエス様の再輪の時に完成されるということなんです。
だから私たちは、ただ神羅と言う天国は御国じゃなくて、
今ここで御国で生きる人らしく生きることが大事なんです。
お分かりになったでしょうか。
御国へ行くじゃなくて、御国が来る。
もう既に来た。
そして、やがて完成される。
だから私たちは、この地において、どう生きるかが非常に大事なんですよ。
御国の民として、神を信じる者として、正義を知る者、善を知る者として、
どう生きるか、その悩みが必要なんですよ。
そういう意味として、イエス様が、
私の福音書の13章で、御国の話をいっぱいされたじゃないですか。
神の国が来る、神の国が来る、とね。
また今度するかもしれませんが、
例えば13章の44節を見るとですね、
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。
人がその宝を見つけると。
今ここで見つけるんですよ。
御国を見つけて喜んでですね、
自分の持ち物を全部売り払って、
それを買うほどのこの喜びを、最高さをね、
この生きている地に味わわなければならない。
だから、私たちはある意味で真剣に考えていただきたいと思うんですよ。
信仰生活はただ教会に行き来するものじゃないんですよね。
今ここで、私は神の民として御国の民として生きているんだろうか。
本当に御国というこの喜びを、その深い恵みを、
本当に味わって経験させていただいているんだろうか。
その意識をもう一つ歩んでいるんだろうか。
それを考えるとですね、生き方が変わると思うんですよね。
結構大きな話になるかもしれませんけれども、
アメリカのね、
24:00
エイブラム・リンカンという大統領のことを皆さんご存知でしょう。
彼は小さい時にはパプテスト、親がパプテスト教会の信者で、
そこで小さい時から信仰生活をして、
大人になってはチョウロハの教会で信仰生活をしたわけです。
彼が考えるには、このアメリカにあった、
アメリカだけじゃないでしょう、イギリスとかね、
この奴隷制度はどう見ても聖書の神の見言葉通りではない。
これはもう逆するものである。
だからこのままではいけない。
私が読んだ本には、このエイブラム・リンカンはですね、
大統領になる前から何とかしてこの奴隷制度をなくしたい。
いや、なくさないとね。
強くそれが神様から示されて、ある本ではね、
彼は奴隷制度をなくすために大統領になった人物だみたいにね、
そういう解説した本もありましたけれども、
結局ですね、1860何年間にね、
世界にですね、奴隷制度、兵士の宣言をして、
戦争を起きたわけなんだけれども、そのために戦ったわけなんです。
正義のために、御国が来ますように、
この地において、ああいった奴隷制度みたいな不正がなくなるように、
戦うということじゃないですか。
そこまで大きくことができないとしても、
小さいところから私たちは、今ここで自分の能力を持って、
持ち物を持って、賜物を持って、信仰を持って、
関わっている家族や友人、知人、会社、学校等々、
そこで御国のためとして生きること、働きかけること、
伝えること、祈ること、善を施す、愛すること、
だから今日、ぜひですね、切り替えしていただきたい。
死んだ後、天国じゃなくて、今ここで天国、御国を味わう、
喜ぶ、楽しむ、そのために働く。
一生懸命働いて働いて、そして亡くなってもね、
私たちの体はね、すいませんか、この市場で、
死のために働きすぎてボロボロになっても、
甦れたら全く新しいものになるから、皆さん心配しなくていいんです。
働きすぎてもいいかもしれない。
死のために病気になるほど。
今日ですね、より聖書的大正観を確立していただきたいです。
27:07
もう一箇所、聖書を読みたいと思います。
すいません、ちょっと。
マタイの福音書3章、1節、2節なんですけどね、新約の3ページです。
さあ、そこを見ますとですね、
パプテスマのヨハネがね、最初の伝道をし始めた時の、
彼の伝えた言葉にも、今日の御国のことが書かれているわけなんです。
さあ、私を見ますね、3章の1節。
その頃、パプテスマのヨハネが現れ、
ユダヤのアラノで教えを述べていった。
その次、2節ですよ。
悔やるためなさい。
その次、天皇御国が近づいたから。
天皇御国がこっちに来るからね、
こっちに来るから近づいているんですよ。
私たちが天皇御国に行けるからじゃないんですね。
天皇御国が近づいたから、
私たちはこの地で、ここで御国の民として生きることが大事なんです。
そうするとですね、
クリスチャンになってからも、
全くひっくり返されるように生き方が違ってくると思うんです。
死んだ後に行く天国だけ考えていたならば、
この地上では、もう自分のために生きるわけなんです、人はね。
それがお金であろうが、能力であろうが、何であろうが、
自分の楽しみのために、自分の喜びのために、
自分の満足のために生きるわけなんですね。
天国は死んだ後に行ったらいいんだからね。
この地上ではどこに関係ないと思うわけなんです。
しかし、今もイエス様の初臨で神の国は来た。
そしてイエス様の再臨で完成される。
その間に私たちはこの地上で御国のために働くものなんだと。
そしたら神様が私に預けてくださったのは、
1タラントなのか、2タラントなのか、5タラントなのか、
あるいは500タラントなのか分かりませんけれども、
それをもってどう働くかということなんです。
皆さんいかがでしょうか。
御国のためとしてこの地上において、
皆さんの生活の現場において、そこで御国のために働いていらっしゃるんでしょうか。
30:02
冒頭はしていませんか、皆さん。
私たちは花嫁のように来られるイエス・キリストをお迎えするわけじゃないんです。
この地上において。
もちろん新しい天と新しい地がどうなるか、どんなふうに変わるか私たちは分かりませんが、
我々人間が理解しやすい言葉としては新しい地でしょ。
新しい宇宙じゃないんですよ。
どこかのブラックホールみたいな空間じゃないんですよね。
この地、新しい地なんだから、この地球が変わるかどうか分かりませんけれども、
だから私たちは花嫁として来られるイエス・キリストを迎えて神の御国が完成されるまで、
この地上において御国のために歩んでいきましょう。
善を施し、正義のために働き、福音を述べ伝え、死のために祈り、働くものでありたい。
良き花嫁として素晴らしい花婿なるイエス様をこの地にお迎えする日まで御国のために歩み働くものでありたいと願います。
お祈りいたしましょう。
31:22

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