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本日の聖書朗読をいたします。 聖書の箇章は、
マルコの福音書12章13節から17節まででございます。 新約聖書の91ページをお開きください。
新約聖書91ページ、マルコの福音書12章13節から17節まで。 それではお読みいたします。
さて彼らはイエスに何か言わせて、罠に落とし入れようとして、 パリサイビトとヘロデトーノモの数人をイエスのところで送った。
彼らはイエスのところに来て言った。 先生、私たちは、
あなたが真実な方で、誰をもはばからない方だと存じています。 あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。
ところで、カイザルに税金を納めることは立法にかなっていることでしょうか、 かなっていないことでしょうか、納めるべきでしょうか、
納めるべきでないのでしょうか。 イエスは彼らの偽装を見抜いて言われた。
なぜ私を試すのか。 でなり銀貨を持ってきて見せなさい。
彼らは持ってきた。 そこでイエスは彼らに言われた。
これは誰の肖像ですか。 誰の命ですか。
彼らはカイザルのですと言った。 するとイエスは言われた。
カイザルのものはカイザルに返しなさい。 そして神のものは神に返しなさい。
彼らはイエスに協談した。 以上でございます。
では聖火台に賛美していただきましょう。 賛美していただく曲は、新聖火186番です。
聖火台の賛美の後、内田博士より、 神に従えと題してメッセージをしていただきます。
聖火台の賛美の後、内田博士より、 神に従えと題してメッセージをしていただきます。
罪を忘れてメッセージ頼らば、 いかなる人も救われ。
メッセージ救い主に信じて頼りながら、 いかなる罪も皆許されて、
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清き者と責めるべし。 聞かれよ聞かれ、罪ある人よ、
従い明かり示すわ。 闇との罪を許さんために、
従い明かり示すわ。 闇との罪を許さんために、
従い明かり示すわ。 闇との罪を許さんために、
従い明かり示すわ。 闇との罪を許さんために、
従い明かり示すわ。 闇との罪を許さんために、
信じて頼りながら、 いかなる罪も皆許されて、
清き者と責めるべし。
皆さんおはようございます。
今日も共に礼拝を捧げるこの特権を 覚えて皆をあがめます。
今日も御言葉をいただきます。
その前に一言お祈りをさせていただきます。
あなたの御言葉は私の足の灯火、 私の道の光です。
御言葉の戸が開くと光が差し込み、 脇前のないものに悟りを与えます。
恵み深い天の父なる神様、
こうして十一月の第二聖日を迎え、
安息日としてまずあなたを覚え、
神の国と神の儀を求めて この宮に集って参りました。
どうぞ私たちが心からのあなたへの この賛美とまた祈りとこの礼拝が
天において受け入れられ、
06:02
また清めて主のものとしてくださるように お願いをいたします。
ここまであなたが共にいて支えてくださった その恵みとまた
イエス様を十字架につけてまで 私たちの罪をあがなおうとしてくださった
その御愛を覚えて皆をあがめます。
また日ごとに御言葉を与え、
私たちを整えていてくださることを 覚えて感謝をいたします。
あなたの御言葉は私の足の灯火です。
私の行く道を照らしてくださるお方であります。
御言葉がなければ私たちの前にある真っ暗な道をただ
どこへ行っていいのかわからない そのようなものでありますけれども
あなたは道を照らす光として
私たちの道しるべとなってくださることを覚えます。
またその御言葉をもって日々私たちを養い
また霊の糧としていただいていることを覚えます。
今日もまたこのしばらくの時御言葉によって 私たちを整え
また豊かに霊の注ぎを与えて
それぞれにお使わしくださるようお願いをいたします。
今日もこうして神様を慕って
また御言葉を求めてこのところに来てくださったお一人お一人を
今あなたがその御手に育みまた養い
それぞれお使わしくださいますように
今から語るものをもあなたが哀れみまた最後まで支えてくださいますように
今からの一時の全てを主にお祈りいたします。
ただ御言葉だけが皆さんの心に留まりますよう
お祈りし主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
もう十一月の第二聖日を迎えておりますが
これは一つのリサーチというかアンケートのようなものなんですが
ヤフーの検索でいつも出てるんで
たまにそれをして楽しんでるんですが
一票当時だからってどういうことではないんですけども
皆さんがどういう考えを持っているのかなというのを
調べる意味でも結構面白いものですね
カナダのドラッグストアの店内
ドラッグストアというのは薬局屋さんの大きいようなそういうお店ですが
その店内で十一月からクリスマスソングを流したところ
まだ早すぎるという苦情が続出して中止になったそうです
09:05
さてあなたはクリスマスのいつぐらい前からなら
クリスマスソングを流してもいいと思いますか
皆さんクリックの用意できていますか
一番
順番にいきましょうか
十一月から
それと一ヶ月前からということは十一月の半ば過ぎぐらいからですね
次は十二月から
次はクリスマスの一週間ぐらい前から
もう一つはいつでもいい
皆さんはどの項目に賛同なさいますか
このリサーチの結果として一番多かったのが
十二月から六三%
そして一ヶ月前から十一月の半ば過ぎぐらいからですね
それが十九%
そしてクリスマスのぐっと近づいた一週間ぐらい前からでいい
これが十三%
そして先ほども言いました早すぎると言いました
十一月から
これが四%
そして三%一番少ないのがいつでもいいということですね
おそらく一般の人たちの思いは
遅すぎることなく早すぎることなく
十二月来たらそろそろクリスマスの備えとか
そういう雰囲気も味わっていいんじゃないかということなんですが
これはおそらく妥当なところだと思うんですね
ですからだいたい十二月になると
そろそろクリスマスの飾り付けとか
そういう音楽も流れてきそうなんですが
でもこの聖書的と言いましょうか
本来聖書に基づくならば
一番少なかったいつでもいいというのが正解というんでしょうか
クリスマスの本来の精神というかメッセージというのは
救い主が私たちの罪をあがらうためにこの世に来てくださった
今日ダビデの街にあなた方のための救い主がお参りになった
この方こそ私たちの救い主である
これがメッセージですね
ですからそのことを私たちが知って
そしてこのことを感謝し
私たちが救い主によって救われ
12:01
罪許されあがなわれたということを思うならば
いつでもこれを感謝して
そしてまたそれをたたえる歌
賛美を捧げるということは
いつでないといけないということはないということですね
年がら年中もうそれこそクリスマス
神様が来てくださった私の救いのために
そしてあなたも今日そのことを信じて
真公告白するならば救われるんですよという
それを私たちが世に伝えていくということですね
でもやはりこの一般的に皆さんがこういういわゆる
フィーリングというんでしょうか雰囲気というか
おもんじられるというところにあって
後に定められた12月25日という
それを皆さんが覚えて
その頃に特に救い主の誕生をお祝いしたり
そしてそれをみんなで楽しみましょうという
それが後にそういうふうになってきたということですね
ただもう一つのことは
私たちは日本とか特に北半球の国々では
クリスマスといえばホワイトクリスマス
雪が降ってそしてそこにクリスマスソングが流れて
サンタクロースが来たりとか
そういうようなイメージを持つんですけれども
これも一つの固定観念でありまして
南半球例えばオーストラリアとかニュージーランド
あちらでは私たちがこれから冬に向かうように
あちらはこれから夏に向かっていく
ですからこの12月は夏暑いというふうに聞いております
行ったことがないのでわかりませんが
実際に行ったことのある人はそうだというんですね
ですからサンタクロースもアロハシャツを着て
サーフィン波乗りをして来るというような
それがふさわしいんでしょうね
ですから私たちは一般的なそういうものにも
ある面同調するという
そういう面と決して固定観念に縛られてしまわないで
もっと広くそして大きくそれを捉えていくという
その両面が必要であろうかと思うんですね
またその方が豊かだと思います
それで今日はマルコの福音書の中から読んでいただきました
イエス様というお方はクリスマスに代表されるように
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みんなからお祝いされそして慕われ
そしてみんなで楽しい時を過ごすという
そういう意味でのイエス様のそういう一面が
当然あろうかと思うんですが
ところが今読んでいただきました歌書を見ますと
何やら不穏な空気が漂っている
13節罠に落とし入れようとしてとか
15節は彼らの偽装を見抜いてとか
そういうことがあります
少し前の12節でもイエスを捉えようとして
そういうようなことが書かれてあります
これはいよいよイエス様が十字架に向かう
そういうところであるという意味でも
こういう文字が連なっているんだなということがあります
ですから私たちがイエス様を思うときに
イエス様という方は誰からも好かれていた
というのはこれは一面であるわけです
このイエス様のもう一つの追っておられた面というのは
これは皆ではないんですけれども
一部の人からは妬まれ憎まれ
そしてイエスなどを抹殺してしまえという
そういうものがあったということ
この両方をイエス様は追っておられたということですね
ですから私たちも一キリスト社として
イエス様のように歩んでいこう生きていこう
そういうふうにすればするほど
イエス様が歩まれたように
あなたのその信仰とまたその愛の行為に
皆が賛同してくれて喜んでくださる
たたえてくださるというそういう面と
またイエス様のように生きようとすればするほど
憎まれ嫌われそして強いたげられるという
その面もあるんだということですね
ですから私たちが時として自分の信仰
あるいは自分のキリスト社としての生き方を振り返るときに
その両面があるかどうかですね
決して自分が憎まれたり強いたげられたり
そんなことは望まないんですけれども
イエス様のように生きようとするがばっかりに
18:02
そういう面があったときには
自分も少しはイエス様のように生きれているんだなということを覚えて
皆を崇めたらいいと思うんですね
もちろんイエス様のように生きようとして
いつもいつも憎まれそして嫌われ強いたげられ
これもまた片手落ちというんでしょうかバランスが悪いですね
やはり愛に生きるということでありますから
そこではやはり幸いな交わりと
皆さんに神様の恵みを分かち合ったり
お互い喜び合ったり祈り合ったりという
そういう幸いな面も当然なければならないということであります
ですからこの場面では
イエス様は罠に落とし入れられようとしていた
あるいは何か捉えられようとしていたという
そういう面がここに現れているわけであります
私たちはもう一度この箇所を読むにあたって
この時の当時の場所での社会状況
そういうものをもう一度整理しておかなければいけないと思います
パレスチナの地域は2つの大きな勢力というんでしょうか
そういう局面にあったわけです
一つは政治的にローマ帝国が支配していたということ
そして宗教面では依然として立法を守る
そういう人たちが大半を占めておった
ここにありますパリサエ人
これがいわゆる喫水のユダヤ主義者というんでしょうか
この立法を守ることを生きがい
これを神からのいましめとして大事に守っておったという
そういう人たち
そしてもう一つのヘロデ島のものという
これがいわゆるあの場所を支配していた
ローマ帝国に近いローマ派というんでしょうか
新ローマ帝国派というんでしょうか
そういう人たちがいたということですね
そういう中で
彼らはイエスに何か言わせて罠に落とし入れようとしていたということ
この彼らというのがずっと聖書を遡りますと
最司長立法学者長老たち
21:01
彼らが当時のエルサレムの宗教指導者たちでありまして
社会のいわば上層部にあって
そして人々に大きな影響を与えていましたし
支配力を持っておったわけですね
そこにイエスが来て何やら神の国運動をして
そして群衆にそれを説いておったわけです
そして今まで自分たちのいうことに皆従っていた群衆が
このイエスに聞きそして従う
そしてこの神の国を慕って
イエスの後をついていく
そういうことに彼らは我慢がならなかったわけです
群衆がイエスについていくと
今までの自分の地位やあるいは名誉や影響力が損なわれるということを
不安に思ったわけですね
ですから何とかしてこのイエスを捉えて
願わくは抹殺しようと
そういう目論みを彼らは思ったわけです
イエスを妬みそして憎んだ
その一つが今日の箇所であるわけです
本来パリサイ人とヘロデトという者たちは
懸縁の中
普段はいがみ合っているわけですけれども
この最主張立法学者長老たちはそこに目をつけて
そしてイエスにこの一つの質問をして
そのイエスの答える答えによって
このパリサイ人がイエスを非難し
あるいは違う答えをするならば
今度はヘロデトがイエスに非難を与えるという
そういうことを仕掛けたわけですね
どちらに転んでもイエスは窮地に陥るような
そういう策略それが罠であったわけです
一休さんの話にも通じることだと思うんですけれども
一休さんのトンチー話ですね
一休さんもいろいろ道を解いていたんですが
中にはそれをよく思わない人たちがいたわけですね
一休さんが正しいことを解くから
自分たちが悪さをしていた
それが通らなくなってしまった
一休さんを困らせてやろうということで
当時は感じがなかったわけですから
24:00
人々が川を渡れないからそこに橋がかかっていた
その橋を通って行き来していたということですね
そのことを見た人が
一休さんにこの橋渡るなという
そういうおふれが出たということを
一休に言ったわけですね
それによって一休を窮地に追い込もうという
目論みがあったわけですが
この橋が渡れなかったら人々は
あちらに渡れない家にも帰れない
また買い物に行けない困ってしまう
どうしようかということですね
そしてもしこれを無視して渡ってしまえば
このおふれを無視するのか
命令を守らないということで
訴えられてしまうという
どちらに転んでも一休は訴えられるという
そういうところに追い込んだわけですけれども
そういうところで一休さんは
しばらく考えたのち
この橋の真ん中を堂々と渡っていったわけですが
人たちはそれを見て唖然としたわけですね
一休さん渡って大丈夫ですか
いいのです
ここにはこの橋を渡るなと書いてあるから
私は真ん中を通って渡るのですと言ったわけですね
それに対して誰も文句は言えなかった
洒落ですけれどもそういうことですね
それほどこのたとえがあっているかどうか分かりませんけれども
イエス様もそういうところに
落とし入れられたということ
その問いは何かと言いますと
カイザルに税金を納めることは
立法にかなっていることでしょうか
かなっていないことでしょうか
納めるべきでしょうか
納めるべきでないのでしょうか
そういう問いを投げかけたわけです
私たちにとってはこれは何の意味かということが
ちょっと理解に苦しむんですけれども
カイザルというのはローマ皇帝の称号です
今や彼らはローマ帝国の支配の中で生きている
ですから当然その支配の中でまた守られ
そして日々の生活を送り
27:01
その見返りとして税金も納めるということが
義務づけられていた
しかしかたや立法に従うということも
ユダヤ人として当然のことであります
いわゆる彼らはイエスよお前は
神の支配に屈するのか
あるいはローマ帝国の支配に従うのか
そういうことを問うたわけです
その一つとしてカイザルに税金を納める
それが立法にかなっている
もしカイザルローマ皇帝に屈して
その税金を納めるということが
立法にかなっているということならば
この既遂のユダヤ主義者国粹主義者である
いわばパリサイ人たちはそれは許せない
立法は神こそが全ての支配者である
この神の支配に抑して私たちは生きるべきだ
カイザルに税金を納めることが立法にかなっている
ということは許せないと言うんですね
それじゃあカイザルに税金を納めることは立法にかなっている
とイエスが答えるならば
あなたはローマのそういう支配に屈して
そして神の今しめ立法をないがしろにするのか
今度はヘロデトの者たちがそれを許さない
そしてイエスをローマに訴えて
そしてこのイエスを捉えるということ
どちらにしてもイエスはその窮地に落とし入れられるということですね
これは彼らの置かれているそういう立場が
そのようにさせているわけであります
カイザルに税金を納めることが立法にかなっていると答えるならば
イエスはローマに屈する裏切り者
ローマに媚びる臆病者とされる
少し勘違いしたかなと思うんですがもう一度訂正します
カイザルに税金を納めることが立法にかなっていると答えるならば
イエスはローマに屈する裏切り者またローマに媚びる臆病者とされる
ユダヤ主義者の民衆からは責められることになる
しかしカイザルに税金を納めることは立法にかなっていないとするならば
30:07
ヘロデトの者たちはイエスをローマ人に報告して
彼は革命家だとして逮捕させることもできたというわけですね
彼らはやはり政治の支配と宗教のそういう支配の中で
いつもその中で揺れていたというそういう状況があるわけですね
かたやローマの守り支配その恩恵を受けているというそれも無視できないし
考えようによってはカイザルローマ帝国その支配の及ばない
例えばそういう精神世界あるいは宗教の世界
神の恩恵というそれも無視はできない
ましてや人間であるこのローマ皇帝にしても
それはもっと高い支配の中にある神を
より高い最高の支配者として見ている
それがパリサイ人たちであったわけですね
ですからどちらも無視はできないし
どちらもそれに従うということもしてはならない
当然信仰者はカイザルよりも神に従う
これは大前提としてあるわけですけれども
それをただ全面に出していたのでは
この世界に生きていくことはできないわけです
ですからその答えとしてイエス様がでなり銀河を持ってきなさいと
このでなりに誰の肖像が描かれてありますかというようなことを言いながら
これはカイザルのものです
要するに銀河や紙幣にその人の肖像が書いてあるということは
いわゆる経済あるいは政治この国の支配
それはこの人が権限を握っているというそういう印であるわけです
ですから今あなたたちはこの世界の中で恩恵を受けそして守られ
そして時には税金をそのために払うならばそうしたらいいじゃないですか
カイザルのものはカイザルに返しなさい
しかしそれだけではない神のものと言われるあなたが信仰者であるならば
神に属するものだってあるということはわかっているでしょう
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それだったら神のものは神に返しなさい
どちらが一番ということでもないしどちらにも屈するという
そういうものでもないそういう世界が信仰者の中ではあるんだということを
イエス様は言いたかったのだろう
あるいは私たちにもそのことを
今日教えてくださっているのではないか
特に信仰者としてキリスト者として生きていく私たち
そしてまたこの日本で生きていくということに当たって
カイザルのものはカイザルに神のものは神にという
これは一つの私たちへの知恵でありまた生きていく術であると思うんですね
当時のパレスチナの状況というのは
私たちの今の日本の社会と非常によく似ています
特にそこに生きるキリスト者は
なおさらこのカイザルのものはカイザルに神のものは神にという
このことをいつも覚えて
そして神の知恵と神の守りの中で生きていくことがふさわしいという
そのことを今日教えられるわけであります
神に従うというこれはもう私たちにとっての大前提であります
しかしこの地上であるいはこの日本で
信仰者として生きていくためのその知恵
それも与えられる必要があります
彼らは一市民としてローマ帝国の支配とその恩恵に預かっていますから
税金を納めるということは
それは義務であるならばその義務を果たせばいいわけであります
しかし神が一切のものを全て支配しておられる支配者である
ということも信仰者としてそれを失ってはならない
最主張立法学者
彼らはどちらかということを質問し答えさせようとしたんですが
イエス様はその罠には陥らなかったということですね
私たちは聖書を通して
神が全てをつくられた天地万物
そして人間をつくってくださったという
想像論に立っているわけです
これは信仰者としての当然の私たちの一つの論理であり
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また信仰であるわけです
しかしもし学校で進化論を習う
人間は何からできてそしてそれが進化して
今の私たち人間がここにあるんですということを
それこそ文部省文科省で決められた教科書にのっとって
私たちは授業を受けそしてその試験にパスしないといけないわけですね
それはそれとして試験を受けて進化論を学び
そしてそれを試験を受けてそしてパスするというのが
学生としての本文でありまた私たちの義務であるならば
それをすればいいわけです
進化論を学びその試験を受けてパスしたからといって
決して進化論を私たちが受けた後
進化論を信じるものということではないわけです
私たちはあくまで神が天地万物すべてをお作りになった
私たち人間も作ってくださったというこの聖書の見言葉に立つものであるということですね
あるいはキリスト社として偶像を崇拝しない
偶像崇拝はいたしませんという私たちはそういう信仰に立っているわけです
ですから神のものは神ということですね
しかしカイザルのものはカイザル
偶像を崇拝はしません
しかし私たちは日本に来てそしてこの日本の歴史やあるいは文化を学ぶために
あるいは外国の人にこの日本を知っていただくために
時には京都に行ったり奈良に行ったり
そして神社仏閣を案内する
これは日本人として当然それをすべきことですね
ですからキリスト社として自分たちの文化歴史のそのもとである神社仏閣を訪問したから
あるいはそれを学んだから偶像を崇拝したということではないわけです
私たちはカイザルのものはカイザルに
そして神のものは神としてしちっとそれをわきまえた上で
そういう生き方を貫いていくということですね
そういうことは日常の中でもたくさんあろうかと思うんですね
家庭の中で例えば奥さんがキリスト社でご主人さんがそうでないという場合
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そういう中で一信仰者としての姿と
あるいは奥さんであれば妻として夫に仕えていくという
あるいは夫は夫がクリスチャンで妻がそうでなかった場合も
その夫としてのこの務め妻としての務め
それはそれとしてそれぞれ使い合いまた支え合っていくという
そのことをわきまえながら私たちはこの世に生きていくということですね
そういう姿勢を私たちはしっかりと貫いていく
それがまた信仰者としての証であって
またその信仰をまた世に示していくという
そのことを今日もう一度このお言葉を通して覚えたわけであります
カイザルの者はカイザルに神の者は神に
この知恵を神様から今日いただいてそしてそれぞれ使わされて
その場その場でこの証をしていくものとさせていただきます
お祈りをいたします
天の神様私たちは知恵の足りないものです
神様どうぞ今日も御言葉を通してあなたの知恵を与えてくださりありがとうございます
神様がこんな罪人の者をも認体をもって待っていてくださり
また救っていてくださったそのご愛を感謝をいたします
また私たちもそれぞれ使わされますがその場その場にあって
今日御言葉をいただいたように神の者は神に
また神に従い神を愛しこのお方に仕えていくとともに
またそのことを踏まえながら私たちの隣人を愛しなさい
それがカイザルであってもあるいはどんな人であっても
その人たちに仕えていくそのことをもって
アガペを表していくものとしてください
イエス様のように生きることができるならばというその願いと
思いを常に持ち続けるものとさせてください
イエス様の尊いお名前によってお祈りをいたします
アーメン