ルカの福音書1章18節
ザカリエは御使いに行った。 私は、そのようなことを何によって知ることができるでしょうか? この私は年寄りですし、妻ももう歳をとっています。
御使いは彼に答えた。 この私は神の前に立つガブリエルです。
あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために使わされたのです。 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口が聞けなくなり、話せなくなります。
その時が来れば、実現する私の言葉をあなたが信じなかったからです。
タミヤ・ザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので不思議に思っていた。 やがて彼は出てきたが、彼らに話をすることができなかった。
それで彼が神殿で幻を見たことがわかった。 ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口が聞けないままであった。
やがて勤めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。 しばらくして妻エリサベツは見ごもった。
そして主は、今このようにして私に目を止め、人々の間から私の恥を取り除いて下さいました。と言い、五ヶ月の間安静にしていた。
以上です。
今日はこのところから、神の介入に応えると題して、二言葉からお話をいたします。
御名さんおはようございます。
早いもので11月1日ですね。
今年も残り2ヶ月になりました。
今日から冬に入るという方もいますけど、ちょっとね、まだ寒くはないでしょうかね。
そんな中で先週から新しくルカの福音書より見ています。
そしてクリスマスを間近にしてですね、イエス様の誕生物語と関わるような出来事がちょうど一章から始まっています。
先週はザカリヤへの密会からの告知ということですが、
今日もその続き、受帯、告知と言いますかね、その後半の部分、結論の部分、
ヨハネ誕生の出来事から、神様が私たちはこの地に介入されるということ、
そしてそれに対して人々は私たちはどう答えるか、そんなことを中心にですね、三つのことから見ていきましょう。
一番最初はですね、神の救いの計画がいよいよ実現する時が来たということです。
旧約聖書との関わりから、いつも通りですね、聖書を掘り下げて少しだけ見ていきます。
どうしてそんなことが信じられるのか、私も妻も年をとっているといったザカリヤの反応にですね、密会がこう答えました。
密会は彼に答えた。ちょっと読んでみましょうか。
この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために使わされたのです。
例によってルカの福音書でも、ヨハネの福音書のように旧約聖書とのですね、連続性が強調されています。
本題ではないんですけど、例えばガブリエルというのは旧約のダニエル書にですね、ダニエルに秘密を告げに来た密会として出てきます。
そういう共通点ですけども、最もですね、大きな共通点、それはですね、夫婦の物語、どんな夫婦か。
長年、子供が授からなかった夫婦がですね、神様の介入によって子供を授かるという出来事との関連性が、ザカリヤとエリサベツの出来事、今日まで見ているところとあるわけですね。
で、ご存知のように、誰ですか一番最初、アブラハム、そして実はイサクも、そしてヤコブもですね、長年子供に恵まれなかった。
いくつかありますけど、もう一つ顕著なのは、預言者サムエルが誕生した時も、エルカナとハンナ夫妻にですね、子供が恵まれず神殿で祈っている時に、
預言者エリから、このエルカナでしょうか、神に祈りが聞かれたと言って、天使じゃないですけども、サムエルが生まれるということを聞いたわけです。
そういうところでですね、あえて旧約聖書の、子供を授からない夫婦との出来事、しかも代表的な旧約の人物との出来事が、つながりがですね、強調されています。
なぜそういうことが描かれているのか、こんな意味があるんですね、それはザカリアとエリサベツの間に生まれる子、ヨハネは旧約聖書から始まった神様の偉大な計画が実現する、いよいよその時が来た、そういうメッセ
ージが込められている。
偉大なる計画の一部であり、その計画は成就するんですよ、という大事なメッセージがここに込められているんですね。
近く教材にもこのように出ています。
そして、実はですね、御名さん、クリスマスストーリーの一部として、バブテスマヨハネの誕生の物語は馴染み深いですよね、よく知っています。
そうすると何が起こるかというと、この出来事の重大さを見失ったり、忘れてしまうんですね。
悪く言うと、まんねり化して、なるほどね、どれほど重大なことかということをちょっとだけ掘り下げてみるんですけども、
それは、繰り返しますが、長い年月を経て、いよいよこの時が来た、という長い年月を経ての実現、そういうことがあるからです。
どんな出来事かというとですね、一番最初に神様から告げられた約束は、創世紀12章の冒頭にあるアブラハムへの約束です。
2節3節、アブラムが神から故郷を出て行きなさいと言った時に告げられたことです。
もし出て行くならば、12章の2節創世紀、私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
ここからが大事ですね。地の中で読んでみましょうか。地の全ての部族は、あなたによって祝福される。
もうこの時からですね、いわゆるイスラエル民族に限らず、全ての民族がこのマコトの神の祝福に入るということが約束されていたんです。
それがいよいよこれから実現するよというメッセージが、このバブテスマのヨハネの誕生にですね、込められていたわけです。
ところでですね、教会のあるニーザ市の由来を知っていますか。なぜニーザ市というか。
オブセのことは失礼かもしれませんけど、ニーザのことはわからない。
西暦758年に朝廷が大陸から到来したシラギの人たちを、シラギですね、この地に住まわせて、そしてそれでシラギ軍と名付けたんです。西暦758年。
そのシラギから変産を経てニーザということになったんです。1300年くらい前の出来事ですよね。
1300年でもなかなかすごいなと思うじゃないですか、ニーザの由来が。
だけどもアブラハムの約束は、ヨハネが生まれる2000年前の出来事です。
そして今の私たちにとっては、アブラハムに先ほど与えられた約束、創世間の約束は、今の私たちから遡ることを約4000年前に与えられた約束なんです。
で、その2000年を経て神様がですね、アブラハムに約束したことが実現するということで、ヨハネの誕生が告げられました。
もう一つすごいことがあって、ヨハネの誕生からその前の最後の預言の間に400年も空いてるんです。
だから2000年前の約束が400年の沈黙を経て告げられて、ヨハネが誕生します。
簡単に言うと、いよいよこのアブラハムから始まった神の救いと愛の計画が実現する時が来ますよ。
そういう重みがあるんですね、このヨハネの誕生の告知には。
私はそれを今回準備をしていて気がついて神性な思いになったんですけども、
ぜひ御名さんもこのゼカリアに告げられたメッセージや、このヨハネの誕生の予告の出来事を、
よくもう一回意味を思い巡らして、この時期に。
そして、900世書に約束されていた神様の救いと愛の大いなる計画がいよいよ実現したんだ。
そういうことを改めて目想するなり思い巡らすと、私が育ったんですけども、
神様に対する新たな負の念が生まれたり、もちろん感謝の念が生まれたり、
それによって信仰が新たにされる、そんな体験ができるんじゃないでしょうか。
そういうことで、この機会にヨハネの誕生の出来事を通して、
この出来事の偉大さ、神の計画と愛の壮大なことが実現したということを思い巡らして、
私たちの信仰がまるめにリフレッシュされることを願っておるわけであります。
2番目。しかしですね、2番目、衝撃を受け入れられないザカリアの姿がありました。
ザカリアは見つかりに行った。読んでみましょうか、3回。
私はそのようなことを何によって知ることができるでしょうか。
この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。
2回も年寄り、年寄りと言っています。大きなお世話になっているかもしれませんけども、
もう年寄りだから、私も妻も年寄りだから無理ですと言っているんですけども、
ザカリアは年ゆえにこの子供が授かるということを信じ受け入れられなかったわけですよね。
実際、けれどもですね、ここで何が起こっていたか、それは神様が介入したということなんですよね。
天使がこう答えていますよね。先ほども言いましたけども、
この私は神の前に立つガブリエールです。
あなたに話をし、この良い知らせを使えるために、
剣から、神の元から、神の前から使わされたのです。
神の前から使わされてきた、それが私です。
だからメッセージに伸縮性がありますし、ということもあるんですけども、
ここに神が介入してきたということが語られているわけなんですね。
まさに神が先ほど言った救いと、この愛の偉大な計画を成就するために、
ザカリアとエリサベツ夫妻に介入した。
そしてそれがどこで起こったかというと、エルサレムの神殿で起こりました。
そこに天使ガブリエールが降り立ったということ自体が、
天地万物を創造した神様がですね、人間が歩むですね、
この地に、天地万物を創造した神様が、人間が歩むこの地に具体的に介入したというですね、
そういう事実を物語っているんですね。
わかりますよね、雷。雷が落ちるからへそ隠せ!って言ったかもしれませんけどね。
雷、これですね、稲妻。これ何がすごいかというとですね、
この夏の稲妻、稲光が起こるとですね、この空気が何度になるかというと、
一瞬の間に3万度になるんです。
それはどれくらいの暑さかというと、太陽の表面の5倍もの暑さが生じているというんです。
しかも稲妻というのは光ですから、すごい速いわけですよね。
どれくらい、何往復も電波が往復しているらしいんですけども、
この間にですね、実はこの速度は1秒間に地球を4周する速さ。
それくらいの出来事、暑さと速さがここに起こっているわけなんですね。
この雷を見たらそれを思い出してください。
地球を4周したら、太陽の3倍、3倍の暑さだ。太陽の5倍の暑さだ。
で、御名さん、聖書を読むと分かりますが、
モーセが10回をですね、しなやさんで授かった時に、雷稲光がしました。
それから詩編なんかを見ると、聖書では稲妻というのは、
神の介入の事実とか、神の介入のしるしとして描かれていますよね。
稲妻、稲光、雷、雷。雷鳴り渡る時とか、歌うじゃないですか、聖歌で。
ですから、詩と言うならば、バブテスマのヨハネの誕生の出来事は、
神様にとっても、ゼカリアとエリサベツ夫婦にとっても、
この雷稲光に匹敵するような出来事が、実は起こっているんです。
ただ物語のように思いますけれども、これくらいすごい事がですね、
彼らの人たちの人生に、そしてこのエルサレムという地で起こった。
神が介入した。ゼカリアは信じられませんでしたよね。
実は、これは多くの学者の間で一致しているんですけれども、
口が聞けなくなったというのは、神の罰だそうなんです。
でもそれは、恵みの神様ですから、ゼカリアはですね、
何によって知ることができるでしょうか、としるし求めたんです。
しるしを求めた不信仰に対する罰でもあったんですけれども、
しるしとして喋れなくなった。
御言葉が実現するまで、ヨハネが誕生するまで、
喋れなくなったというのは、実は彼が願ったしるしでもあったわけなんです。
そしてヨハネが誕生したらですね、板に書いたら口が溶けたってあるじゃないですか。
まあそういう神の憐れみもあるんですけれども、
でも残念なことに、ヨハネの父親のゼカリアは、
神の衝撃を介入した事実、その衝撃を信じ受け入れなかったということが、
とりあえず2番目の点として残しておきたいと思いますが、
3番目、しかし神の介入と私たちということを見ていくとですね、感謝のことがあります。
しかし一方ですね、エリサベツは信仰に応えています。
御名さんここにいる女性の御名さん、このルカではですね、
女性は弱い立場でもあるんですけど、信仰者の模範です。
男性は不信仰の模範です。
喜んでください、女性の御名さん。
そしてですね、何が起こったか、1章24-25でこう書いてあります。
神の介入と私たちですけれども、1章24-25。
しばらくして妻エリサベツは身こもった。
そして、読んでみましょうか、3回。
主は今このようにして私に目をとめ、人々の間から私の恥を取り除いて下さいました。
と言い、5ヶ月の間安静にしていた。
繰り返しますが、ゼカリアに反してエリサベツは神の介入を喜んで受け入れたわけですね。
残念なことに当時はですね、子供を授かるということは神からの祝福とみなされていた一方を、
そうでない場合は神の裁きとかですね、神の罰と考えられていた。
それは残念なことが起こっていました。
ですから、恥と言葉がありますように噂話の種にもされて、
彼女は言う通り恥をかかされていた。
それでエリサベツは告白して、神の介入を受け入れ喜んで、
主は今このようにして私に目をとめ、人々の間から私の恥を取り除いて下さいました。
感謝したんですね。
先週見た神様は小さな私たちにも目をとめて、救いと愛の手を差し伸べてくださるということがここにも現れています。
それはそうなんですけれども、実はこのことがエリサベツの姿があるのには理由があります。
それは私たちの信仰の模範としてのエリサベツという姿なんですね。
信じる者としてこのように神の介入を喜んで受け入れましょうという、
そういう存在としてここでもエリサベツが登場しているということなんですね。
神様はこの夫妻にしたように、自分では取り除けない問題、解決できない問題に救いの手を差し伸べてくださる神様ですよね、愛と救い。
そして、もし人々の間で何か恥あるいは恥を感じていたならば、それさえも取り除いてくださる。
ずっと前にペテラのところでも見ましたが、名誉挽回の機会を与えてくださる神様でもあるわけですよね。
そういう私たち一人一人に憐れみの手を差し伸べてくださる神様ですけれども、それだけではない。
同時にこのゼカリアとエリサベツを通してバブテスマのヨハネを送り出したように、
神様の大いなる救いと愛の計画を実現するために私たちも用いてくださる。
そこに私たちも加えてくださる。そういう神様でもあるんです。
このことは神様が私たちに介入してくださるということが嬉しい喜びでもありますが、稲妻のような衝撃的な出来事です。
どうでしょう?私もちょっと考えた時にですね、この4千年前にアブラハムに与えられて始まり、
そして2千年前にイエス様を通して実現した神様の偉大なる救いの計画、
それが実現するために神様が自分や教会を用いてくださる、信じることができるでしょうかね。
大それたアブテスマのヨハネを送り出すために、神の偉大な救いと愛の計画を実現するために、
歴史的、言葉に表現できないような決定的な神の救済史の中でですね、
ゼカリアとそしてエリサビスが重要な役割を果たしたように、
私たちがですね、神の重要な救いと愛の目的のために用いられる、
あるいはそこに参与できる、自分たちの教会もそういう立場なんだ、
それを信じ受け入れることができるでしょうかね。
その時ゼカリアのように、どうしてそんなことがありましょうか、私は〜自分の限界や不可能な理由を述べる、
どうしてそんなことが起こるでしょうか、私は〜なのですか、というでしょうかね。
あるいはエリサビスのように、主は私に目を止めてくださいました、といって、
神様が介入してくださることを信じ受け入れられるでしょうかね。
もしかしたら、自分の限界を述べてできないという方が、自分もそうですけど、簡単かもしれませんよね。
こっちの方が難しい。エリサビスのように、主が私に目を止めてくださった、
私の人生に神が介入してくださって、用いてくださると信じることには、本当に信仰がいるんじゃないかと思います。