カレブの信仰の力
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今日も主の御前へと私たちを招いてくださって、心からありがとうございます。
暑さの盛りも過ぎたと思えば、また暑い日が続くような、私たちにとっては心も体も霊も弱るような、この気候の中にあって、
しかし、主がお一人一人と共にいてくださり、その命を支え、お体を支えて、今日もこのところへと、あなたが集わしてくださったことを、心からありがとうございます。
主よ、ただ、私たちはあなたを仰ぎます。私たちのために身体を裂き、血を流してまで、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったイエス・キリスト様、
そしてまた、その主をよみがえらせ、三日目に死人のうちからよみがえらせ、復活の命を与え、永遠なる主と共に生きなさいと、私たちに永遠の命を与え、主と共に生かしてくださる父なる神様、
そしてまた、私たちが右往左往する、そのようなものであろうとも、私たちを下にあって支え、確かな道へと私たちを導き続けてくださっている、
聖霊なる主を覚えて、心からあなたを仰ぎます。どうか、この礼拝の時にも、あなたが私たちに御言葉を語ってください。悟りを与えてください。
そして、あなたご自身を仰ぐことができますように、この時を祝してください。お願いいたします。
ご自宅で礼拝を守っておられる方、施設におられる方、思いがあっても来れない方、傷んでおられる方々がいらっしゃることを知っています。
お一人一人も、主がその方々を知っていてくださいますから、共にいて慰め、また、あなたへと帰ることができますよう、帰りに来てください。お願いいたします。
これからの時を見てにゆだねます。言い尽くせない祈りがありますが、主がどうか私たちを導いてください。皆様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
長寿と神の祝福
今朝は、この後、礼拝後に敬老祝福のお祈りをさせていただきますし、そしてまた、礼拝後には短く、明大に教会ミーティングをします。
今朝のテーマは、ご高齢の神徒の方々の支えについて考えますし、また玄関には、みそのホームへの献金箔を設置いたしました。
みそのホームは、今、石橋姉妹が入居されている施設になります。
そのように、今日は少し、敬老感謝ということを心に覚えています。
聖書には、白髪は栄えの冠であるという言葉があります。
神言の16章の31節に、白髪は栄えの冠であるという言葉があります。
聖書の価値観では、明確に長寿というのは、神様からの祝福です。これはそうです。
特に当時、病や戦争やその他様々な事情で、短命であることが当たり前だった時代において、長寿というのは、主の守りと祝福の象徴です。
私たちが命あって今生きているということは、主の守りと祝福以外の何物でもないと言えるでしょう。
それは今も変わりません。
私は皆様の人生を計り知ることはできませんが、しかしおそらくきっとこれまで神様と共に越えてこられたという様々な歩みがあるのではないかなと思うのです。
今朝お開きしました、吉祥寺の十四章、六節から出てきますのは、聖書の中で最も元気なおじいさんと言えるでしょうかね。
カレブです。ご存知かと思います。そのカレブに注目をいたします。
今朝の箇所で彼は85歳だと語られています。85歳です。
ただ、見る限り彼はとても元気なのですね。その元気な秘訣に少しご一緒に迫っていきたいと思っております。
一つ目、カレブの元気の秘訣は何なのだろうか。
まずそれは、神様が変わらないお方だからと言えるのではないかなと思うんです。
カレブの元気の秘訣、それは一つ彼の姿勢にも現れていますが、何度もこの読んでいただいた六節から十五節にあります。
彼は、主に私は従い通しましたという言葉が何度も出てくるんです。
私は従い通しましたと。八節と九節と十四節というところに出てきます。
私は主に従い通しましたと。
調べてみますと、旧約聖書でもこの従い通すという表現はカレブにほとんど使われている表現なのです。
単に従うだけではなくて、従い通した。これは元のヘブル語もちょっと違います。
これは元のヘブル語だと、充満するとか満ちるという意味があるんですね。
充満するとか満ちる。
つまり、私は神様に対してあふれんばかりに答え、答え続けてきましたということが彼が言っているところなんですね。
それゆえ十一節にもありますけれども、私は今も壮健で、体は丈夫なんですということを彼は言うのですね。
私は今三十七歳、八十五歳を想像しきることはできませんが、ただどうでしょうか。
皆さんこのカレブの姿に共感することができるでしょうか。憧れることはできるでしょうか。
ああそうだ、あの時と変わらない、八十五歳になっても私は元気で戦争にも行けますよということを言えるでしょうか。
なかなかそうではないとも思うのです。これは想像ですけれども。
後ろの本棚に今朝置きましたが、最近一つ読んだ本があります。
「老いと信仰」という本が出まして読みました。
その中の、岡本先生という先生が長年教会で一緒にご奉仕してきた友人から、ある時こういう言葉を聞いたと紹介されていました。
自分は若い頃に洗礼を受けてから、信仰一筋の生涯を歩んできた。教会に奉仕し、若い人たちを訓練し、いつも精一杯働いてきた。
でも最近、毎日一つずつできないことが増えてきて、本当に情けなく思う。
もう神様のお役に立てないのかと思うと、本当に悲しいということを分かち合われたと、その先生が書いておられました。
私はこの言葉にちょっと胸が締め付けられるような思いを致しました。
長寿というのは祝福です。これは揺るぎません。長寿は祝福です。
ただ実感として、何かができなくなっていくということを、私たちは体験するのではないかなと思うのです。
何かができなくなっていく、そのことへの焦りであったり、自分が何かができなくなって、生産的なことができなくなるということで、自分自身の価値を小さく感じるようになってしまったり、
種に従うと言っても、種のためにあれもこれもできなくなった、そういう思いへの焦りとでも言いましょうか。
そういうことを私たちは、私みたいな若人でいいか分かりませんが、年を重ねるごとに実感するのではないかなと思うのです。
私は今朝のこの歌詞を読みながら、ちょっとうがった見方かもしれませんが、カレブが元気なおじいちゃんに見えますけれども、ちょっとうがった見方をしてしまいました。
カレブは本当に変わらなかったんだろうか。85歳です。
もしかしたら言葉では、いや私はあの頃と変わらず体は元気で、戦争にまで耐える体をしています。
そうは言いながらも、人並みの衰えは、もしかしたらあったんじゃないでしょうか。
私は元気じゃと言いながら、杖をつきながら、もしかしたら歩いていたかもしれないなと思うのです。
ただ、でも彼の言葉を見るときに、そうであったとしても彼の言葉からは、種に従っているということへの気力、その衰えは見られないんですよ。
なぜ彼はなおも、私は種に従い通していますと言えるのでしょうか。
私はその鍵が、今日読んでいただいた箇所に何度も出てきます。
あの日という言葉に鍵があるように思うんですね。
あの日です。
今朝の箇所には、あの日とかその日という表現が何度も出てきます。
9節と11節と12節、それぞれにその日であったり、もうせが私を使わせた日であったり、種があの日。
あの日あなたも聞いているようにと、あの日という言葉が繰り返されます。
このあの日とは何なんでしょうか。これは全部同じ日なんです。
それはカデシュ・バルネアで、カナンの地の偵察から帰ってきたあの日ですよ。帰ってきたあの日。
十人が、十二人が使わされて、アナクジンを見て十人の石膏たちは、神様もう無理です、あそこは巨人がいるんで、私たちはあそことれません。
ただヨシワとカレブだけが、いや、あの地を種は与えたんだから、行けると言ったあの日。
そしてその日は、カレブにとっては、もうせを通して神様の約束を聞いた日でもありました。
この順序に書いてます。ちょっと一箇所だけ別の箇所に開かせてください。そのことが別の視点で書かれているのか。
神明記の29章の29節から33節です。
神明記1章の29節から33節というところです。
読んでいただいたらわかるように、この28節にはアナクジンを見たと言って心を悩させたということが書いてますが、
29節からはもうせの言葉を読みいたしますが、神明記1章の29節から
それで私はあなた方に言った。おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。
あなた方に先立って行かれるあなた方の神主があなた方のために戦われる。
エジプトであなた方の目の前であなた方のためにしてくださったのと同じように。
またアレノではこの場所に来るまでの全道中、
次世代への信仰の引き継ぎ
あなたの神主が人が自分の頬を抱くようにあなたを抱いてくださったのをあなた方は見ているのだ。
このようなことによっても、まだあなた方はあなた方の神主を信じていない。
主はあなた方が宿泳する場所を探すために道中あなた方の先に立って行き、
夜は日の中、昼は雲の中にあってあなた方の行くべき道を示されるのだ。
モーセがこの帰ってきた石膏たちに向けて語った言葉でしたね。
あのアレノをあなたと共に歩んだ神を思い出しなさいとモーセは言うんです。
あのアレノの40年もしくはその前の出エジプトのあの時の神様をあなたたちは忘れてはいないかというのです。
神様がどれほど力強く、また頬を抱く父のように柔らかで愛に満ちておられる神であるのか。
カレブは、そしてその時にこの言葉を聞き、戻りますけれども14章の9節のところで、
彼は私はこういう言葉をモーセを通して受け止めたと言っている9節、14章の9節を読みしますと、
その日モーセは誓いました。
あなたの足が踏む地は必ず永久にあなたとあなたの子孫の相続地となる。
あなたが私の神主に従い通したからである。
モーセの言葉を聞き、そしてカレブはその時に私はモーセの言葉からこれを受け取ったということを言っているのです。
主が共にいて私が足を踏み出すところを主は私たちの相続地として与えてくださる。
カレブにとって主に従い通すというのは、彼自身が受け取ったこの神様の御言葉の約束に対する素朴な信頼だったんじゃないでしょうかね。
別に彼の足腰が強い、彼が戦略に長けている、そういうことをカレブは言っているんじゃないのです。
私はただこの約束があった。だから私はこの約束を信じて一歩足を踏み出し続けてきた。
そしたら主がそこで戦ってくださったから私は今こうあるというのです。
年を重ね、あの日と変わらず壮健ですと言いつつも衰えがあるかもしれないカレブです。
けれどもあの日から変わらなかったのは彼の体ではありません。
あの日から変わらないのは主ご自身です。主の約束です。それが変わらなかったのですね。
新明紀32章の4節というところにも、開かなくて結構ですが、孟瀬は主は岩であると歌いました。
主は岩である。先ほどの賛美の3番にもありましたが。
岩であるということは変わらないということです。何があっても主というお方は変わらない。私たちは変わるのです。
でも主は変わらない。今も力強く愛に満ちた神である。
いざや書というところにもこういう言葉があります。お読みしますので聞いていてください。
あなた方が年をとっても私は同じようにする。あなた方が白髪になっても私は背負う。私はそうしてきたのだ。
私は運ぶ、背負って救い出すという言葉が、いざや書46章の4節にございます。
彼分の従い通したという信仰は、この神様に対してアーメンと言っただけなんですよ。
私を背負って導き、一歩踏み出すならば主が戦ってくださる。そのお方に心を開いてアーメンしよう。その通りです。その通りです。
私はそれを信じ受け入れます。それが彼の従い通すという歩みだったのではないでしょうか。
信仰とか従い通すという事柄は、人間の気力の問題ではありません。
私たちの信仰や従い通すという力は、神の約束にアーメンと心を開くかどうかなんです。
神がそうされるんだ。あなたはどうするか。アーメンしよう。その通りですねと言って心を開くかそういうことかが、従い通すということなのではないでしょうか。
そしてもう一つ、カレブが元気であった秘訣、もう一つのことを見ても終わりますが、
もう一つ彼が、彼の生き様を投資したことですが、それは次の世代へのバトンタッチということが、彼の姿からはどうしても見えます。
カレブの信仰が次の世代への道を開いたということです。
実は今日は14章の6節から15節を読んでいただきましたが、
吉浴はこの13章から22章という広い範囲に至るまで、カナンの地の土地の占領と分割ということが話されます。
ただこれは順調にいったかというと、そうではないんです。
カレブの信仰
イスラエルの民は東からカナンの地に入ってきましたが、カナンの地の東部を取った後、進みが遅くなるというか、一回止まるんですね。
なぜかというと、若い人たちが残りの地域に進み出せなかったんです。
カナンの地には変わらず巨人と呼ばれるアナク人が住んでいる。
そのところで新地で進んでいくということはみんなができたわけではない。みんな止まるんです、若い人は。
その上、13章の1節に書いてますが、ヨシアは年を重ねて老人になっていたということが書かれます。ヨシアはもう年をとってしまいました。
そして見ていただいたらと思いますが、18章の3節というところには、あまりにも踏み出さないイスラエルの民に対して、
まだまだ主が約束された土地があるのに、なんであなたたちは進んでいかないんだと叱咤激励する、そのようなシーンも出てまいります。
ただ、そのような中で、この14章の6節から15節というのは、やはり目を見張るものだったのでしょう。
みんなの心がなえる中、主を信じて踏み出すことがみんなができたいという中、彼はヨシアに願い出たのです。
特に12節をお読みしますと、14章の12節。
今主があの日に語られたこの産地を私に与えて下さいます。
そこにアナクジンがいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。
しかし主が私と共にいて下されば、主が約束されたように私は彼らを追い払うことができますと、彼はヨシアに言うんですね。
ヘブロンの地域というのは、ここで書いてある通り、アナクジン、巨人と呼ばれる人たちが占めている困難な地域でした。
攻め入るのが困難な地域でした。
祈りの力
それをあえてカレブは求めます。
どうかあの場所に行かせて下さい。
なぜなら、カレブは敵がどうかなんてそこが問題じゃない。
主が戦って下さるという素朴な信仰。
主が共にいて下さるという素朴な信仰。
彼は年老いて、なお死に従いますというその信仰において、その背中を人々に、若い人たちに見せたのではないでしょうか。
そして興味深いことに、カレブのその一歩はどうなったでしょう。
15章の13節から、このヘブロンへの潜入のことが書かれてあります。
巨人と呼ばれるアナクジンの指導者たちをカレブは追い出しますし、それだけじゃなくて、デビルという町を占領するときに、
この町を占領する勇士には私の娘アクサを与えるといって、そこで見事、オテニエルという青年がその地を占領いたします。
ただ、ヨシア紀の流れで見ていくならば、このオテニエルも別に戦いがうまかったという人間ではないでしょう。
死を信じる信仰があったということです。
そして彼は後に、ヨシアが死んだ後、イスラエルが危機に変異したとき、イスラエルを最初に救う死士となります。
最初の死士はオテニエルですね。
詩式の3章の9節にまた出てまいります。
ただ、このオテニエルの信仰というのは、やはりカレブの影響が大きかったんじゃないでしょうか。
義理の父親カレブの影響。
また2人の結婚の祝いに、娘アクサが19節にはネゲブの湧き水を求めますけれども、
当時泉というのはとても貴重なものです。
けれども、それをカレブは寛大にも娘に与えるのですね。
ここにカレブの、その自分の子供に対して必要なもの、そして信仰の背中を残していったという、そのような姿が見えるのですね。
先ほど紹介、もう終わりますけど、私、先ほど紹介しました「老人信仰」という本の中で、
岡本先生という先生が、先ほどそういう教会の友人からの声を聞いた。
最近毎日一つずつできないことが増えてきて、本当に情けなく思う。
もう神様のお役に立てないのかと思うと、本当に悲しいという、そのような友人の言葉を聞いた。
けれども先生は、こう答えられたそうです。
そのうめきともとれる問いに、次のように私は答えました。
否、そうではない。
あなたはこれまでより頼んできたものを、一つ一つ神様にお返ししているのです。
そして私たちは最後に、ただ神にのみより頼むものとされていくのです。
たとえ体が動かなくなる時が来ても、そこであなたが捧げてくださる祈りが、この群れを支えるのですと、私はそう話しましたということを書いていました。
私はこのことを深く実感をいたします。
年を重ねるということがあるし、生産的なことができなくなるということ、
それによって自分は何の役に立つのだろうかと思いやすいかもしれませんが、
けれども教会の見えない縁の下の力持ちは、祈りの手を挙げ続けてくださる老生と一人一人の祈りですよ。
これは深く実感をいたします。
今まで行った教会もそうでしたけれども、誰かが祈り続けてくださっているということが、
教会の群れをどれほど支えるかと、そのことを覚えます。
祈る以外何もできなくなりましたという声をよく聞きますが、でもその祈りが教会を支えているんですね。
老いても実を結ぶ
岡本先生はこうも言っています。
私たちには人生の最後に、その一つ一つを神様にお返しして、
神にのみより頼むものとして、神の御前に礼的に成熟するというプロセスが備えられています。
まさに、「主は与え、主は奪う。主の皆は褒めたたえられよ。」です。
このプロセスを先に進んでいる先立つが道化にいるなら、
それを学ぶ世代はどんなに多くのことを学ぶでしょうかと、そのようなことを語られていました。
これも私自身が実感しているところです。
詩編の中にこのような聖書の言葉があります。
詩編の92編の14節というところに、
「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。」という言葉があります。
彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります。
年を重ねてなお、主は私たちに実を結ばせてくださる。
けれども思います。結ぶ実の種類は変わるのでしょう。
結ぶ実の種類は変わるのでしょう。
85歳のカレブは、
「モーセが私を使わせた日と同様に、今も私は蒼犬です。」と言いました。
ただ彼がその時に結んだ実というのは、
おそらくあの日と同じような体によって戦果を上げるというような、
そういう実の結び方ではなかったかもしれない。
けれども若い頃とは違った蒼犬さ、
若い頃には結ぶことのできなかった深く成熟した実を、
今はそういう実を結ぶことができるということなのではないでしょうか。
それは成熟し、神様の実を見つめ、完成へと向かっていく信仰の実、
そして祈りの実です。
神様の約束があるから一歩一歩私は進みますという素朴な日々です。
でもその一つ一つが確かに教会を、兄弟姉妹を、
そして皆さんの家族を縁の下から支えているんです。
それはなくてはならない力、あってもなくてもいいものではないはずです。
なくてはならないものだと思うのです。
結ばれる実の種類は変わります。
けれども私たちにあなたに信仰を与え、洗礼を授け、
そして御言葉の約束を下さって主に従ってきたあの日と同じように、
主は変わりません。主は祝ってあり続けておられます。
今も、いいえ今だからこそ、神様を一筋に見つめるという尊厳さ、
今だからこそ結ぶ成熟の実、祈りの実、
それを主が結ばせてくださいますようにと願っております。
彼らは年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂りますと、
主は私たちに約束をしてくださっているのです。
私のことをお祈りしてメッセージを終わります。