2023-04-16 25:40

# フォロワー 23/4/16

マルコ-20からの礼拝説教。2023年4月16日録音。

SNSでのフォロワーとは日本語で翻訳するのが難しい言葉です。直訳すると「追従者」という意味です。今日の箇所ではペテロとヨハネを含む4人の弟子が初めて登場します。彼らは何もかも捨ててイエス様に従っていったと描写されています。いわゆるイエス様のフォロワーです。

しかしこのような聖書箇所を使って宗教カルトは、「家族を捨てて教団に尽くし、財産を顧みず教団に捧げなさい」と脅迫するのです。これは一種のマインドコントロールの手口です。このようなものに騙されないためにも、つまり聖書に描かれているできごとを正しく理解するためにも、健全な教会で聖書の言葉を正しくとらえる術を学ぶことも必要なのです。

ということで、私たちの日常と今日の聖書箇所を正しく結びつけるために、1.福音を知る悔い改めとは、2.私たちに訪れる神の国とイエス様の支配、3.日常生活の名もなき人として訪れるイエス様、の3つの点から学びましょう。


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マルコの福音書1章14節から20節をお読みします。
ヨハネから捕らえられた後、イエスはガリダヤに行き、神の福音を述べ伝えて言われた。
時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
イエスはガリダヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。
彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。
私について来なさい。人間を捕る漁師にしてあげよう。
すると彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
また少し先に行き、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。
彼らは船の中で網をつくろっていた。
イエスはすぐに彼らを呼びになった。
すると彼らは父ゼベタイを雇い人たちとともに船に残して、イエスの後について行った。
以上です。 今日はこのところからフォロワーと題して見言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。 早いもので4月の第3日曜日を迎えました。
先週ですね、ニー雑誌近辺、日本全国ですけども、木曜日ぐらいからですね、
講座がですね、今年初めて数年ぶりかと言われてますけども、
飛来して、みなさんどうだったでしょうかね、洗濯物が外に干せなかったり、マスクをしなきゃいけなかったり、
今日もまたこれからですね、講座がたくさん、ニーザーなんかで飛来するという、そんなことになっています。
そんな中ですけども、共に見言葉から学べることを感謝しましょう。
さて、フォロワー、それはですね、よく最近使われる言葉で、
SNSですね、ツイッターとかインスタグラムとかでありますけれども、使われる言葉、日本語にすると難しいといろいろ言われていますが、
直訳すると、追従者、ついていく人という意味ですね。
この間のWBCで日本盛り上がりまして、その時に大谷翔平選手はですね、いろいろツイートして話題になって、たくさんのフォロワーが言い出そうですけども、
実はそれいわゆる偽アカと言ってですね、大谷選手の名前を語った偽物のツイッターだった。
それを見抜くコツがあるというんです。それは有名人のフォロワーが誰かということです。
有名人のツイッターなどのフォロワーに、また有名人がいれば本当なんじゃないか、そんなことも言われていたことを思い出しました。
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さて、今日の箇所では、ペテロとヨハネを含む4人の弟子が初めて登場します。
彼らは何もかも捨ててイエス様に従っていった、そのように描写されていることがよくわかります。
いわゆるイエス様のフォロワーですね。実はこのような箇所を使って、ちょっと話題がそれますけども、
いわゆる宗教カルト、キリスト教系のカルトや聖書を悪用するカルトは、この信者たちにですね、
家族を捨てて教団に尽くしなさい。何もかも特に財産を顧みず、教団に捧げなさいと脅迫する。
それが、いわゆるカルトのマインドコントロールの中に、うまく言えないんですけども、手口の一つだわけです。
こうやって騙されないためにもですね、この聖書に描かれている出来事を正しく理解する必要がある。
そういう意味でも、教会などを通して、きちんとですね、聖書の言葉の意味を捉える術を学ぶということが大事です。
私はよく言うんですけども、胎病を患っていたある数学の高校教師の男性教員の言葉を思い出すんですね。
その方はクリスチャンではありませんでした。その方はですね、牧師の私にこう言ったんですね。
胎病してつくづくわかったんだけれども、 学校の授業で正しく宗教教育をしない、それは問題だって言うんです。
なぜか、もし正しい宗教教育を学校がしていれば、いわゆるカルトに騙される人も少なくなる。
あるいは私のように人生の危機が訪れて、どんな宗教に、言い方はちょっと覚えてないんですけど、縋れば良いのか、
どれが健全な宗教かということを見抜くことができるようになるからだということを言ったことを思い出します。
ちょっとこういうこともありますので、
そのようなことも踏まえて、特にこの今日の見言葉からイエス様のフォロワーとはどんな人なのかということを3つの点から学んでいきたいと思います。
まず最初、福音を知る杭改めということを見てみましょう。福音を知る杭改めとは何か。
このイエス様の今日の最初のことを見てみましょう。1章15節、読める方は読んでみましょう。
時が満ち、神の国が近づいた。杭改めて福音を信じなさい。
しばらく前から、ルカの福音書を学んでいますが、まずバブテスマのヨハネが登場しました。
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そしてそこにイエス様がやってきて、ヨハネからバブテスマを受けたわけですよね。すると何が起こったか。
天からの声が響いて、そしてイエス様の元に精霊が下りました。
そのような出来事を通してイエス様が救い主になるということがお披露目されたということです。
するとヨハネは舞台から退いて、今日の箇所ではヨハネが逮捕されて、とあります。
主役のイエス様が踊り出てきたわけですね。 ここからイエス様の活動が始まります。
時が道、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。 この言葉はマルコの福音書全体のテーマとなっている御言葉なんです。
その言葉がイエス様の一番最初のこの中の言葉として記されているわけです。 この主題でありテーマである言葉の中で
悔い改めてと出てきます。 その悔い改めるというのは
前のバブティスマのヨハネのところで学びましたが、方向転換をすることですね。
よく教会と馴染みのない方やクリスチャンの方でも時に、悔い改めるというと
この 窮屈な思いを抱く人がいるかもしれません。
この悔い改める、それは先ほど言いましたが方向転換をするというのが元々の意味です。 窮屈なイメージというのは悔い改めというのは懺悔させられて自分の嫌なところを
ほじくり返されるとかですね。 あるいはもうやりたくないことを無理やりやらされる。そういう窮屈なイメージを間違って抱くことがあるかもしれません。
でも 福音を信じる、救いの福音を信じるのですから悔い改めるということはですね
救いの道、良い知らせに預かる道なんですね。 もっと言うとですね
この 悔い改めるというのはですね自分自身の考えや価値観にとらわれて、むしろ窮屈になっていたところで
ふとイエス様に向き直るということもあるんですね
先週ですね この教会とも関わりがない
教会と関わりがない方とお話ししてたんですね。 その時にその方がこのように言ってたんです
私は自分が成果を上げなければいけない 結果を残されなきゃいけないということに凝り固まっていて苦しくて
でもふと イエス様に結果を任せればいいんだなって分かったら楽になりましたって言ったんです
ああそれは本当それは聖書の悔い改めですよって思わず言ってしまったんですけれども まさにそれこそ聖書の悔い改めで自分自身の考えや価値観にとらわれて
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窮屈になっていたところでふとイエス様の方に向き直る
そういうことなんですね そしてあイエス様が私を救ってくださるから大丈夫だと安心する福音に生きる道です
もちろん 自分のですね悪しきことに悪いことに気がついてイエス様私を救ってください
そういう意味のもちろん悔い改めもあるわけです ですからたとえ自分のこの嫌なところに気がついて気持ちが重くなってもですね
そこにとらわれてるんじゃなくてイエス様に立ち立ち帰って救ってください やはりそこに救いの福音との出会いがあるわけですね
イエス様のフォロワーというのはですね福音を知る悔いあるために生きる人 2番目
それでは私たちに訪れる神の国とイエス様の支配ということを見てみましょう ちょっと難しいんですけどね
イエスは彼らに言われた 私についてきなさい
人間を取る漁師にしてあげよう すると彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った
で実はですね ここでイエス様の活躍の舞台がガリダヤに移ります
この 17節16節ですね
イエス様の御国の宣言の後16節になるとですね イエスはガリダヤ湖のほとりを通り
ということになって 活躍の舞台がガリダヤになるわけです
そのガリダヤは先週見た通りですね イエス様と弟子たちの出発点
弟子たちの原点はふるさと そこに
始まりがここから起こるわけですけども ここで4人の漁師をイエス様は弟子として招いたわけです
でシモンというのはペテロですね シモンペテロってイエス様が後で言うようにシモンはペテロことそしてシモンの兄弟アンデレ
というまずその2人をイエス様を召されました あのまあ
見る方見ない方もいると思うんですけども朝のですね nhk の連続テレビドラム 連続テレビ小説というのでこのシーズンは
牧野富太郎という植物学者が話題になっ 東京の練馬にですねその記念館があって私もそのそばよく通るんですけれども
彼の異形の一つはですね名もない草花にこの明治時代にですね 名前をつけたっていうことな
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実はこのイスラエルに行くとですねこのペテロに何ちなんだ魚がいるんですこれ セントピーターズフィッシュ
ペテロの魚ペアテラピアの一種ってかな食べられるそう ペテロの魚というペテロに漁師のペテロにイエス様の弟子のペテロにちなんだ魚が
このガリラ役をあたりで食べられると聞いたことがあります でまぁそれはさておきましてこの
イエス様の招きの言葉人間を取る漁師にしようというのはこの4人の漁師たちに 当てはめて
誘った言葉なんですけども後々このペテロを始め イエス様の弟子たちはイエス様のように神の国
イエス様の福音に人々が立ち帰るようその招く人になる まあそういう
約束が伴った言葉なんですね でそこでですね
今日の御言葉で まあ彼らはここではすぐに網を捨ててイエスに従ったってあります
その後のヤコブとアンデレはですね 雇い人と父を置いて何もかも捨ててイエスに従った
これらのこれらのことで場所で強調されているのは 何もかも捨てて
仕事も家族も 手放しておいてイエス様に従っていった
そこが強調されているわけですじゃあそれは私たちどう捉えたらいいんでしょうか 先ほどのカルトと違って
それはですね 少し難しいかとしますけれども
イエス様の王国が彼らに訪れたっていうことになるんです どういうことかある王様がいる王国があるとしましょう
ねあの裏安の方にも王国ありますねなんとかキングのキングの王国 そこには王様がいてその王様の支配権が及ぶところが王国です
でそこでは王様の命令が絶対です 言い換えれば王様に従うことというのは王の支配のもとにあって王の支配権が
実行されるということに他ならないわけですね だから王国があって王がいてその支配権があってそこに従うという行為がある
これは切っても消えない関係があるということなんですそのことを覚えておいてください
その上でまあ例えば私たち身近な例で言えば会社であれば社長さんがいて社員 そこで主従関係が生まれる権威が生まれるあるわけ
まあ学校であれば先生と生徒がいたりするわけですよね でまぁ上の上司なりが下の部下の言うことを聞かなければその権威が全然ないということになる
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わけです まあそれをそれはそれとしまして
このような 王国とその王の支配権威とそれに従う人たちがいるという関係は
切っても消えない縁があるということですその上でこのイエス様と弟子たちの間で起こった ことをもう1回考えてみてください
王国と支配権と服従の視点からを考えるとですね このイエス様が私についてきなさい
いったときに彼らは 何にもまして直ちにですねイエス様のことにしたがっ
月したがって言ったということがわかるわけですそれはつまり 王なるイエス様の支配の支配がですね
彼らの中で実現したということなんですイエス様に従ったってことはイエス様の支配権が イエス様と弟子の間の中でこう実現しているっていうことなんですね
つまり 少し学術的な言い方をしますと
彼らの中に神の国が訪れた っていうことになるわけなんです
イエス様は神の国が近づいた一番最初の言葉で宣言しました それは言い換えればですね
神の子であるイエス様がこの地に来たということはそれは 神の国がこの地に到来したということだ
なぜならイエス様の言動やこれから行われる宮座によって 神の支配の力が実現してからだっていうそういうことなんですね
まあ後々出てきますけども病気が治るのもその病気の人の上に神の支配権が現れたとか 罪を許す権威があるということにもその神の支配権罪を許す権威がその人の上に
実現したということになってくるわけです バブテスマのヨハネがイエスさんにバブテスマを授けた時に天から声がした
これは私の愛する子であるそれはですねある面 イエス様が
まあ 神の国を代表する
あるいは神の国を実現させるお方であるということそのことをですね 公に宣言した就任式のセレモニーでもあったわけです
そしてそのことをイエス様が宣言してそして弟子に従いなさいと言って弟子が 従ったことによって
イエス様の権威が弟子の中でまず実現したということが起こったということなんですね まあ私たちに当てはめるならば
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私たちが日々の生活の中でイエス様の言葉に従っている時 それは何が起こっているかというと私たちの中に神の国が訪れている
イエス様の支配が私たちの中に実現している イエス様の支配権が私たちの中に実現されている
まあそういう意味があると捉えてください他でもない私たちがイエス様の見心に そこで従う時に実はそこに
目に見えませんけども実は神の国が実現しているということになるわけですね そして最後の点
これも少し見るとわかるかと思いますが 実は
日常生活の中の名もなき人として 訪れるイエス様ということがあるんですね
2つ目のこの弟子たちの証明の箇所をちょっと読んでみましょうか 3はい
イエスはすぐに彼らをお呼びになった すると彼らは父ゼベタイを雇い人たちとともに船に残して
イエスの後についていった ここでヤクブとヨハネの
証明の出来事が書いてあるわけです ペテロと
アンデレの次にヤクブとヨハネをイエス様を呼ばれて この2人は
イエス様の後についていった ここでですね4人の両氏たちがイエス様に即座に応答していったわけですよね
それはどういうことかそれはですね私たちの日常生活の中に現れる イエス様との出会いに置き換えることができるんです
つまりですね弟子たちは 普通にまあ彼らは朝に寮に行くんですけども朝寮に行っておそらく寮から帰ってきて
網を作ろっていた 網にいろんな苔とかですねあの
ゴミがついてそのまま一言破れてしまうので網を直していたんです すると突然そこに普段いないイエス様が現れて私についてきなさいという
そういう招きがの言葉が聞かれたわけです そして弟子たちはその手を止めてそして持っている網を置いて
まあある名家族を置いてイエス様についてい それは繰り返しになりますが彼らの普通の生活の中に突然イエス様がやってきて
招かれたということなんですね 実はこの出来事のように私たちも日常生活の中で突然イエス様が現れるような出来事が
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あってイエス様に招かれているということが起こっているんです それに気づいてですね
イエス様にその都度答えていくのが今の弟子たち私たちの生き方だということなんです 実はこのマルコの冒頭で弟子たちは招かれますあんねん
1回だけですよねイエスたはついていったっていうの でもこれそしてマルコの服にした16章で終わってしまいます
でも私たちの生涯というのはイエス様を信じたらその後 まあずーっと続くわけですそして日常生活私たちは送っていくわけです
ですからどういうことかというと弟子たちの場合はこの1回でしたけど私たちは日々の 生活の中で何度もそういう機会が生涯にかけて
訪れていくんだ その都度まあこの見言葉が私たちの生活の中に
まあそういうようなことが起こっていくんだ そのように捉えていくことが必要かと思うんですね
でまぁある学者はですねこの 突然現れたイエス様と弟子たちの出会いを私たちにこう当てはめてこのように言って
んですね この現れ弟子にある弟子のところに現れたイエス様を私たちにとっては名もなき人に
例えてこのような言い方をしてるんですね イエス様は私たちに名もなき人
見知らぬ人としてやってくるでしょう そして弟子たちに私に従いなさいと語ったように私たちが果たすべき課題を私たちに与えます
そのようにイエス様は私たちに自分自身を表します そうして私たちはイエス様が誰であるかを経験を通して
時には口では言い表せない不思議なことを通して知るでしょう ですね
冒頭申し上げましたがこのイエス様 と弟子たちの出会いというのはですね簡単なパターンに当てはめることができないんです
私たちはイエス様の御心を求めながら生きていく それにこう気づいて生きていく一人一人としてですね
生活の何かの出来事 人を通し出来事を通してあこれはイエス様の招きだ
そしてその時にそれに気がついてですね今していることの手を休めてそちらに 気持ちを向ける必要があるかもしれん
あるいはですね その
自分の手を止めるだけではなくてですね 自分の目の前のことしか見えてないけれどもその時にふとあ
イエス様に今呼ばれているのかなと言ってその目の前のことから目を離してですね このまあイエス様が呼んでいると思われるとことにですね
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気持ちを向けてそれを行ってい 人との出会いかもしれませんし何かをの出来事かもしれません
そのようにして私たちはこの日々の生活を通して生涯かけて 檻に触れてイエス様に従っていく
それがですねイエス様のフォロワー イエス様の弟子としての日々の私たちの歩みではないかと思います
それではお祈りしましょう 天の神様皆を賛美いたします
イエス様は弟子たちを招かれました 私たちの日常生活の中で
ふとしたところであなたを現れて私たちを呼ばれます 時に私たちは
それを拒んだり 自分のしなければいけないそこにばかり思いが入ってしまうかもしれません
どうぞ あなたの弟子としてそのあなたの
呼びかけに応えることができるように またその時に
あなたに従うことの喜びや幸いを知ることができるように どうか私たちを導いてください
そのような弟子の道をあなたに委ねて私たちの救い主 主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それではしばらく1分ほど黙祷して
御言葉に答える時間を持ってください
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