2023-06-18 20:53

#人数より大切なこと 23/6/18

マルコ3:7-12からの礼拝説教。2023年6月18日録音.アイドルや有名アーチストのライブが全国で行われますが、ファンは全国各地を訪れます。同じように、ガリラヤ湖畔に向かったイエス様の噂を聞きつけた人たちが、徒歩で3日の道のりを経て押し寄せたのです。しかしイエス様は集まった人の人数を成功の証しとは考えていませんでした。私たちが大切だと考えていることが、時に的を外していることがあります。そのようなことを考えながら、1.さらに広がるイエス様の評判、2.多くの群衆を成功の証しにしない、3.信仰告白の正しさより大事なこと、の3つの点から学びましょう。


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マルコの福音書3章7節から12節をお読みします。
それからイエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。
すると、ガリラヤから出てきた非常に大勢の人々がついてきた。
また、ユダヤからエルサレムからイドマヤからヨルダンの川向こうや、
ツロ、シドンの辺りからも非常に大勢の人々がイエスが行っておられることを聞いて、
身元にやってきた。イエスは、群衆が押し寄せてこないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう弟子たちに言われた。
イエスが多くの人を癒されたので、病気に悩む人たちが皆、
イエスに触ろうとして、身元に押し寄せてきたのである。
けがれた霊どもは、イエスを見るたびに、見前にひれ伏して、
あなたは神の子ですと叫んだ。イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。
以上です。
今日はこのところから、人数より大切なことと題して見言葉を取り継ぎます。
皆様、おはようございます。
昨日、京都ですね。 私たちの礼拝守っている埼玉県新座市、
暑くなりまして、東京ですけれども、昨日は最高気温が30度を超えました。
そして今日もまた暑くなるようですね。 そしてイエス様が活動したガリダヤ古藩、
テベリアというところを今でもよく知られた町なんですけれども、そこもですね、
6月の平均の最高気温、6月の最高気温の平均が36.5度だそうです。
やはり私たちの住んでいるところよりは暑いみたいですね。
まあそれはともかく、イエス様はですね、これまで大きな働きや鍵となる出来事の後に、
荒野や、そして湖の古藩にですね、散りぞけました。
今日の箇所もそれにあたります。 そして今日の箇所ではですね、
癒しの奇跡を行って、そして人々を教えていたわけですね。
そしてまあこれまで、イエス様がいろんな奇跡を行って人々を教えて、そして
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先週見たところまではですね、立法学者のパイサイ人たちとの衝突が激しくなって、
このイエス様の殺害計画の話まで持ち出されるようになってきたわけです。
まあそのような緊張が高まったところですけれども、それにも関わらず、癒しの奇跡を聞いた人々が、
以前にも増して多く広い範囲から、今日後で見ていきますけれども、イエス様の元に駆けつけたわけです。
アイドリーや有名なアーティストのライブが全国で行われますね。 この間も私のメールにですね、あるアーティストのライブが開いてますみたいなのが来てですね。
宮崎県とかですね、沖縄県ですけれども、私の知り合いもですね、あるアイドルのことが好きで、埼玉の人なんですが、
札幌のですね、どうもツアーまで行ったなんてですね、そんな話も聞いたことがあります。 で、今日のイエス様の場合も、
これまでにない広い範囲から人々が駆けつけました。 そのことを最初に取り上げて、その後ですね、人数よりもあるいは正しさよりも大切なことということで、
全部で3つの点を取り上げていきたいと思います。 1番、
さらに広がるイエス様の評判が最初の点です。 繰り返しナニメスが読んでいますね。3章7節8節。
それからイエスは弟子たちと共に湖の方に静かれた。 するとガリラヤから出てきた非常に大勢の人々がついてきた。
またユダヤからエレサレムからイドマヤからヨロタン川の向こうや、 ツロ、シドンのあたりからも非常に大勢の人々がイエスが行っておられることを聞いて、
身元にやってきた。 今の箇所はですね、先ほども言いましたが、より広い範囲にイエス様の評判が広まっていったということを示しています。
その後でも詳しく見ますけれども、この上げられた範囲というのは、 使徒の働きの一章から始まるイエス様の弟子たち、
イエス様が天に変えられた後の彼らの、いわゆる宣教活動の広がりを示唆させる。
そういう地名なんですね。1個1個ちょっと 説明していきますけれども、
まずですね、
この
ユダヤからエレサレムからイドマヤ。 ユダヤ、エレサレム、イドマヤというのはですね、
これはですね、イエス様が今、シリーズを書いているガリダヤ広範ですけれども、そこから南です。
ユダヤ、エレサレム、イドマヤ、この地域から約150キロで東京駅と東海道線の富士駅の距離、
約ですね。徒歩で1日の距離だそうです。 次はですね、その次、ヨルダン川の向こう、ヨルダン川がありますけれども、
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ベレヤという地域を指します。この赤丸の。 ここはですね、現在はヨルダン王国となっていて、そこは首都アンマンと言いますね。
で、例えばその首都アンマンから、 今よく知られているガリダヤ広範のテベリヤの町まで、おそらくイエス様がこの時いたと思われた町まで約120キロです。
東京超市駅の距離。歩いてやっぱりこれも丸1日の距離ですね。
で、このイスラエル、そしてその後、 イスラエルの隣の国に限らず今度はスローとシドン。
明らかにこれはいわゆる違法人の地です。 ここからも人が来ている。ここが遠くてですね、この
現在もグーグルでも見れるんですけれども、こうやって回っていかないといけないんですね。東を経由で。すると320キロ、このシドンまでかかるそうです。
で、おおよそですね、東京名古屋駅間が340キロですから、それに足りないぐらいの距離。
歩くと3日かかる。それほどですね、広くて遠いところから、わざわざおそらく歩いてイエス様の下に癒してくださいと人々が押し寄せた。
しかもたくさん人々が押し寄せたということがわかります。 そして繰り返しますが、違法人の中にもそれが広がっていったということもわかるわけですよね。
先週見たようにパリ西人たちのイエス様への敵意は殺害計画まで発展し、激しくなってきました。それにも関わらずイエス様の評判が広まって、そして神の国の福音も広まっているということがわかるわけです。
そしてこの神の国とその広がりについて、この後イエス様は 例え話を、有名な例え話をしていきます。それも楽しみにしていきましょう。
しかし一方で注意してみるべきことがあります。それが次の点です。 2番目、多くの群衆が成功の証、多くの群衆を成功の証にしないということが大事なんですね。
3章9節10節をお読みします。 イエスは群衆が押し寄せてこないように、ご自分のために告伝を用意しておくよう弟子たちに言われた。
読める方は後半読んでみましょう。 3、イエスが多くの人を癒されたので病気に悩む人たちが皆、イエスに触ろうとして身元に押し寄せてきたのである。
イエス様は 押し寄せてきた人々を癒したわけですよね。
よくテレビやネットの画像でも見ますけども、 アイドルや有名人が群衆の中を歩くときに揉み口にされますね。
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あるいは外国でサッカーの試合なんかがあると、この選手たちに群衆が殺到して、この命の危険さえ及ぼすことがあるわけです。
そのようにイエス様の元に群衆が押し寄せて揉み口にされたのかもしれません。
しかしもう一個大事なことは、こうやって船を用意して群衆との距離を保ったわけですよね。
大事なことは、このように物理的な距離だけではなくて、ある意味をもってイエス様がこの距離を取ったと学者は解説しているんですね。
どういうことか。イエス様はより広い範囲から多くの群衆が集まった。 それをしかし成功の印としていない。
そういうふうに見て取れるというんですね。 よく今言われていますけれども、SNSのフォロワー数とか、そういうことが話題になりますよね。
あるいは、よくバズるなんて言葉も流行る、よく言われているわけです。 ホームページのページビューなんかを増やすことも注目されていますよね。
これらの言葉が示していますように、それは数が多いほど良いという発想なんですね。
当然、理順追及する企業とか、そういう団体であれば、そのような集客は大事なことだと言えます。
けれども、教会は違うわけですね。 教会が数字にとらわれてしまうと、道を踏み外してしまいます。
例えば、現在教会のホームページをリニューアルしています。 それはなぜかというと、できるだけ多くの人たちに教会の存在を知らしめるためですね。
なぜそうするか、それはそのことを通して、いろんな人が福音やイエス様の救いに触れるきっかけを作るという、そういう目標なんです。
そして皆さんにも祈っていただき、参加してもらっている、ある一部の人にも参加してもらっている、元哲学外来カフェ。
それもですね、これまでマルコの福音書で見てきたように、イエス様はその人が弟子になるならないかに関わらず、人を区別せずですね、誰にでも救いや癒しを提供してきた。
そのイエス様の足跡にならうのが元哲学外来カフェだということなんですね。
そして、それらの結果として、教会に集う人、教会を訪れる人が増えるかもしれません。
あるいは増えないかもしれません。しかしこの教会に足を踏み入れる人、集う人の人数よりもまず大事なことは、
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教会に救いがあるということを知らしめることなんですね。また、教会に足を運んでくださった人たちが、その教会でイエス様の救いを体験するということです。
来回者を増やすことそのものが目標ではないということを覚えておきたいと思います。
まあそれはともかくですね、大事なことに関連して、ある学者はこの箇所に関連して説明しているんですね。
群衆を惹きつけることが教会の目標であるとすれば、その言葉や行動は真にキリスト教的ではないということなんです。
群衆を惹きつけることが目標であるとすれば、その言動や行動、言葉や行動は真にキリスト教的ではないと言っているわけですね。
イエス様はこの神の国の福音を伝え、その証としてこれまで見てきたように人々を癒してきたわけです。
そしてその結果、評判を聞いて多くの人々が集まってきました。繰り返しになりますが忘れてはならないこと、目的と結果を入れ替えてはいけないということなんですね。
イエス様も多くの人を集めるために癒しを行ったのではなく、救いを明かしするために癒しを行い、その結果多くの人が集まったのです。
そしてどれだけ多くの人を集めることができるかは、例えば私たちの教会がいろんなことを取り組んで教え合わせしていってですね、
どれだけ多くの人を集めることができるか、それはある意味私たちの力が及ばない範囲なんですね。
イエス様は教会を通してご自分の救いが明かしされることを願っておられます。
そのイエス様の救いが教会にありますよ、そのことを人々に知らしめたり、その機会を提供することが私たちとしては大事である、そう覚えておきましょう。
3番目、最後の点です。 もう一つ、信仰告白の正しさより大事なことがあるということなんですね。
3章の11、12、読んでいますね。 汚れた霊どもは、おそらくこの湖にその人たちいたんでしょう。
汚れた霊どもはイエスを見るたびに見前に平伏して、あなたは神の子ですと叫んだ。
最後だけ読めるかで読んでみましょう。 3、イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しくいましめられた。
これは同じような場面の絵ですけれども、 この湖に集まった人々、違法人も含めさらに多くのいろんな種類の
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人々が群衆として集まってきました。 その人々の前でイエス様の正しい正体がこのようにですね、
あなたは神の子ですとはっきり告げられたわけです。 神の子というのは当時救い主とかメシアという意味がありました。
一見すると、イエス様はそれを歓迎しても良さそうなんですね。
イエス様の正体が明らかに、 より多くの人の前で告げられたからです。
けれどもイエス様はその発言を静止した。 彼らを厳しくいましめられたとあります。
なぜでしょう?いくつかありますが、2つ取り上げます。 1つ目の理由は、まずこれまで見てきましたように、ここにはですね、いわゆる
メシアの秘密ということがあるわけです。 背景にあります。
それはどういうことか? 十字架と復活が正しく理解されるまでは、イエス様が救い主であるということは、秘められている必要があった。
イエス様もそれを秘めていたという、これがメシアの秘密でしたね。 しばらく前に学んだイエス様は自分のことを人の子と言っていました。
そういうことにも見て取れるわけです。 なぜかそれは、群衆がイエス様が救い主だということをですね、誤解する
危険があったからです。救い主を、今のローマの圧勢からイスラエルを政治的に救うメシアだ、 そのようにイエス様を誤解する危険があったので、イエス様は時が来るまでご自分の正体を秘めておられた。
そしてその不要異な悪霊の発言を停止したということなんです。 そして2番目の理由は、この悪霊の発言の動機にあったということですね。
発言の動機はですね、イエス様への恐怖と敵対心にあったんです。 これ日本語ではあなたはと言ってますけど、訳し方や呼び方によっては、お前は
断末魔の叫びで敵意を持って、お前は神の子だと、 最後の叫びを上げたのかもしれません。ある学者はこれはですね、時をわきまえない敵対的な発言だ
と解説しています。 全く信仰とは愛、対する心から生まれた、この告白だったからです。
つまりイエス様を信頼することや、イエス様に従う献身ということを、その最も基本的なことが欠けていました。 正しい発言ではありましたけど、最も基本的なイエス様への信頼や献身が欠けていた。
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私たちはですね、イエス様自身や弟子たちのように、このイエス様やその福音を知らせたいと願っています。 であればこそですね、私たちはこの悪霊のような敵対心とか
この
そういうネガティブな思いはないと思います。 それ以上にですね、私たちはイエス様の救いや福音をもし知らせたい、明かしするに人になりたいと願うのであれば、
私たち自身がまずイエス様をより良く、より正しく知って、信頼していくということが欠かせないわけなんですね。 もちろんこれは明かしをしろって強制しているわけではありません。
クリスチャンの醍醐味、それはイエス様が救い主であるということをですね、 このテヴェリアの広範に集まった群衆のように、我がこととして日常の中で経験していく。
家庭生活、勉強、仕事、 あるいは病や何かで苦しむときに、イエス様を救ってくださいと祈って、イエス様の救いを体験する。
それはクリスチャン生活の醍醐味であり、体験的にイエス様を知るということですね。 もしそのような救いを願う気持ちがあれば、ぜひまたイエス様に
救いを求めていきましょう。 またこれからもですね、マルコの福音書から
より良く、より正しく、またイエス様を深く信頼することができるよう、 お互い学んでいきたいと思います。
そのようなことを期待しながら、イエス様のことをより良く知ることを期待しながらですね、 これから引き続きマルコの福音書、次のフェーズ、次の段階と入っていきますので、期待しながら学んでいきましょう。
お祈りします。 私たちの救い主ならイエス様、皆を賛美いたします。
あなたの救いの素晴らしさ、あなたが救い主であるその御業のゆえに、 あなたの素晴らしい評判が広がりました。
どうぞ私たちもそのあなたの素晴らしい救い主である素晴らしさを知ることができますように、 願うくはその私たちを通し、教会を通し、あなたの救いの素晴らしさが
明かされていくことができますように、どうか教会を用いてください。 またそれとともに、あるいはそれ以前にどうか私たちが日々の生活を通して、またマルコの福音書、また御言葉を通して、イエス様をより深く、より正しく知ることができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン
それではしばらく御言葉に応えて、黙祷の時間をとりましょう。
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