2023-04-09 21:49

#復活、恐るべし 23/4/9

マルコ16:1-8からの礼拝説教。2023年4月9日録音。 イースターはクリスマスとならぶキリスト教の祝祭で、イエス様の復活をお祝いします。近年日本でも浸透してきて東京ディズニーランドでは毎年イベントが開催されています。ちなみに初開催は2010年だそうです。そんな身近になったイースターについて、オリジナルメッセージである聖書のイエス様の復活の記事をたどりつつ、私たちの生活とかかわりのある、1.香油を買ったマリヤ-人の限界、2.驚くマリヤ‐復活の衝撃、3.待っておられるイエス様‐赦しと回復の約束、の3つの事を取り上げます。

---

Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/nsbc/message
00:06
マルコの福音書16章1節から、新海福生書2017年版でお読みします。
さて、安息日が終わったので、マグダラノマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、シュウの初めの日の早朝、日が昇った頃、墓に行った。
彼女たちは、誰が墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか、と話し合っていた。
ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。 石は非常に大きかった。
墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、
彼女たちは非常に驚いた。 青年は言った。
驚くことはありません。 あなた方は十字架につけられたナザレジンイエスを探しているのでしょう。
あの方は呼びかえられました。 ここにはおられません。
ご覧なさい。 ここがあの方の納められていた場所です。
さあ行って、弟子たちとペトロに伝えなさい。 イエスはあなた方より先にガリダヤへ行かれます。
前に言われた通り、そこでお会いできます。 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。
震え上がり、気も動転していたからである。 そして誰にも何も言わなかった。
恐ろしかったからである。 以上です。
今日はこのところから、復活恐るべしと題して見言葉を取り継ぎます。
みなさんイースターおめでとうございます。
イースターというのはイエス様の復活をお祝いする 祝祭です。そしてこの絵にもありますが、近年ディズニーランドでも毎年
イベントが行われていますように、日本でもだいぶ浸透してきた クリスマスの他に浸透してきたキリスト教の祭典です。
ディズニーランドでいつから始まったか知ってます? 初めてディズニーランドでこのイースターイベントが開催されたのが2010年。
13年前。その時から今に至っていて、だいぶ日本の中でも浸透しています。
この絵を見てわかりますよね? ミッキーマウスがウサギの帽子をかぶっている。
ウサギというのは、たくさん子供を産むということで、命の象徴、春の祭典、そして復活のイエス様のお祝いということです。
03:06
オリジナルのメッセージは聖書にありますから、今日はそこに立ち帰って、私たちの生活にどんな関係があるのかと考えながら、3つのことを取り上げます。
この今日のところはマルコの勲書ですが、マグダラのマリアともう一人のヤコブの母マリア、そしてサロメという3人の女性がイエス様の墓に向かいました。
なぜか?それは十字架で亡くなったイエス様の亡骸に後遺を塗るためだったんです。
そして日曜の朝早くイエス様の埋葬されているお墓に行きました。 彼女たちの心配は、この墓の前のお蓋の1トン近くもある蓋を誰が開けてくれるんだろうかということだったんです。
当時のお墓は、日本の墓を皆さん覚えていると思いますけれども、違って、日本の墓とは違って、大体
1メートル弱の四角形の蓋があった。 そしてそこから横穴式ですね。
この辺だと吉見百血というのが有名ですけど、横穴式で、そして中は大体2メーター四方の上下左右の立方体だったそうです。
だから大人の男性が立ったり寝っ転がったりするのにちょうど良いぐらいの横穴式のお墓でした。
そしてその墓に向かって行ったんですけれども、墓に着くとですね、心配の種であったこの蓋がのけてあったんですね。
もうすでに。 びっくりしてですね、この3人の女の子たちは墓の中に入って行ったんです。
するとそこの中には白く眩い衣を着た、おそらくこれはいわゆる密会天使だと言われていますが、墓の右側に座っていた。
そして気がついたかわかりませんがイエス様の遺体が安置されている場所にイエス様はいらっしゃらなかった。
彼女たちはびっくり仰天してですね、不安や恐れも覚えた。
するとその密会の青年はこう言ったんですね。
驚くことはありません。あなた方は十字架につけられたナザラ人イエスを探しているのでしょう。
ここから読めるか読んでみましょう。
あの方は蘇られました。ここにはおられません。
ご覧なさい。ここがあの方の収められていた場所です。
イエス様の遺体に行為をぬろうと思って入って行ったら、この天使がですね、ここに確かに安置されていたけど、もうここにあったけどイエス様もいませんよ。
06:05
よみがえられたって言ったんですね。
この3人の女の人はですね、復活の出来事に直面して大変驚いたんですね。
何が私たち考えられるか。まず行為を買ったマリアたち、そこにはですね、人間の限界ってことが見て取れます。
これですね、当時の習慣で亡くなった人、当時この子はですね、
ミイラのようにですね布に巻いていたんです。そして腐ったり匂うことを防ぐために泣きがらにですね、しばらくして
行為をぬるという習慣があったんです。 ですから彼女たちが
それを買ってイエス様のとこに行こうと言ったのはですね、当然だったと思いますし、
この最愛の、まあ崇めていたイエス様に対してできる最善のことがそれだった。
まあそういうふうな常識だったわけですね。 でもその
最善のこともイエス様の復活ということから考えると、こういうふうにしか、こういうふうに言えることができるんですね。
彼女たちはイエス様を蘇るってメッセージ、少なくとも3回ぐらい聞いてたんですけど、それが信じられなかった。
そのことはですね彼女たちにとって、復活を受けることができなかった彼女たちが
精一杯考えて最善だと思ったこと、それはせいぜい
亡骸に行為をぬることでしかなかった。 ベストに思えた最大のこのですね
最善策が、せいぜい
死体に油をぬることでしかなかった。 それくらい復活に比べて、まあ
変な話ですけども、彼女たちの常識は 通用しなかった。
私たちも 物事を考えるときにですね、過去の経験とか
世間的な常識に基づいて、限界を定めてですね、
せいぜいこの程度だろうと考えちゃう。 あるいは私がよくそうなんですけど、過去の失敗から
どうせこの程度なんだっていうふうにですね、 何か考えてしまいがちなんですね。
物事を取り組む前に諦めてしまうことがあるかもしれません。 けれども
神様の復活の宮座、もうちょっと詳しく見ていきますけど、 神様の復活の宮座は私たちの想像はるかに超えて、
私たちの限界の先、 そこを超えている。
09:01
そういうことなんですね。 そのことを2番目に見てみましょう。
驚くマリア、そこには復活の衝撃があった。 実はですね、
この復活のイエス様の宮座、
もっと詳しく出てきますけど、そういうものに直面すると、 私たちは驚くわけです。
例えば神様はですね、マリアがどかすことができない石をどかしてくださいました。
墓についてはどういうことか。 そしてマリアたちが考えていた十字架で死んだと思ったイエス様を神様は
蘇らせてくださっていた。 その今日の歌詞はですね、よく読むと神様が働いてくださったということをよく表している言葉が隠れています。
16章の4節の、 石が転がしてあるという言葉は、
英語の聖書ではですね、もともと聖約書が書かれたギリシャ語の時世帯と同じですね、
受動帯なんです。 The stone had been rolled away.
Bプラス格文詞ってね、なんと知ってるかもしれませんけど、
何々石がされてあった、その守護は誰がしたかというと、 神様が石をどけてくださったという事実がそこに示唆されています。
2番目のですね、 密会のメッセージの、あの方イエスは蘇られましたって言い方が日本語になっています。
でもギリシャ語とではですね、もともとのギリシャ語ではこれも受動帯になっているんです。
英語ではHe has risenと言っているんですね。イエスが蘇ったという表現ですけれども、 そのギリシャ語に合わせて受動帯で訳してあるある英語の聖書では、
ここでですね、He has been raised。 やはりBプラス格文詞で、
イエスは蘇らせてもらったという。 じゃあ誰が?それは神様がイエス様を蘇らせてくださったっていうことで、
復活における神様の主体性が読み取ることができるわけなんです。
鍵はですね、予想を超えて誰でもない他でもない神様がそうしてくださったということなんですね。
また、5節6節に女たちが非常に驚いたって言葉があってですね、その後天使が驚くなって言ったんです。
実はこの驚くというのは、もともとのギリシャ語では珍しい言葉が使われています。
それはですね、ちょっと難しいんですけど、こういう意味です。 見る人に強烈なインパクトを与え、感覚を失うほど驚かされるという意味なんです。
12:14
日本語の聖書では驚くなって言うんですけど、例えばわかりやすく言うと、びっくり仰天した、そういう言葉なんです。
びっくり仰天した、天使は女たちに向かって、女性に向かってびっくり仰天するな、そういうやりとりなんですね。
そして今日のところ最後の16章8節、一番最後の言葉、 ギリシャ語の言葉でもですね、最後は
恐ろしかったからである。 驚きと恐れの余韻を残して終わっているんです。
どうですか?お墓に行って、その亡骸に紅葉を塗ろうとして行ったらですね、そこに亡骸がなかった。
当時墓泥棒でいたんです。だから墓泥棒が来ないようにこの蓋をしたんですけども、その蓋ものけてあって、そこにイエス様もいなかった。
それだけじゃなくて、神がイエス様を生き返らせたんだよって言われたわけですね。
しかも光り輝く見つかりがそんなことを言ったわけです。 このように今日の聖書の歌詞には
驚いたという余韻が残って終わっているんですね。
こうやってマリアたちは、復活という神様の偉大な技を目の当たりにして、びっくり行天した。驚いた。
そしてですね、先ほど言いましたが、 私たち皆さんわかりませんが、例えば私なんか、せいぜいこの手術だろう。
どうせこの手術だろうって思って臨んでいったことがですね、 びっくり行天するようなこの出来事になる。
それは神様の復活の技がそこに現れるっていう、そういうことなんですね。 その時に
ある人はですね、あまりに嬉しすぎて 受け止めることができなかったって言うんです、このマリアたちは。
それほど衝撃的な出来事なんです。
私ね、毎年イースターがやってきますけども、そのたんびに 聖書4つ、福音書があるんですね。
そこのどっかの箇所からイエス様の復活について、私なりに丁寧に勉強します。
ギリシャ語でどう書いてあるのかなとか、詳しい本。毎回ですね、毎回びっくりさせられます。
これ言うしかないんですけども、そのたんびに恐ろしいほどの衝撃とかですね、驚きが伝わってくるんですね。
15:00
ここまでしか言えないんですけど、ぜひ皆さんもイースターのこの朝、
神様は私たちが驚くほどのことをしてくださるんだ。 そういうですね、いわゆる復活の信仰というものをですね、ぜひ思い起こしてみてはいかがでしょう。
最後、私たちが驚くほどのことをしてくださるという 復活の信仰を思い起こしてはどうでしょう。
最後ですね。 待っておられるイエス様、それは許しと回復の役割なんだって言うんですね。
見つかりはマリアたちに言ったんですね。 さあ行って、弟子たちとペトロに伝えなさい。ここから読んでみましょう。3、はい。
イエスはあなた方より先にガリレアへ行かれます。 前に言われた通り、そこでお会いできます。
驚く女性たちに、 天使はですね、こういうふうに
メッセージを残したんですね。 イエス様は
あなた方と一緒に過ごしてた頃、ガリレアで待ってるって約束したでしょ? その通り、今イエス様はガリダヤという場所で、あなた方のことを待っていますよという。
今ガリレアはこんな感じですね。ガリレアの湖ですね。 ここにはですね、福音、良い知らせが込められています。
イエス様のことをですね、 ペトロは私は死んでもイエス様を知らないと言いませんって言ったにもかかわらず、
3回もイエス様のことなんか知らないよって、イエス様が裁判にかけられた時に言ったんですね。 その前にイエス様の十二弟子たちは、ユダは裏切りました。
イエス様を逮捕しに、多くの人が来た時に、 私は何があってもイエス様から離れませんと言った11人の弟子たちは、
イエス様が逮捕された時に、くむのこを散らすようにイエス様から離れて、イエス様を見捨てて行ってしまったんですね。
しかし、そんなペトロや弟子たちをイエス様は
先にガリデアに行って、待っていってくださるんだ。
そこには許しと回復の約束が
込められている。 許しと回復の約束、
新しい出発、新しい招きの約束がそこに込められているんです。 皆さんどうでしょうね。私、
学校の先生に怒られたことがあったり、仕事で偉い人に怒られることがあると、その先生とか上司の前に行きづらくなることがありますね。
18:02
あるいは反対にどうですか。皆さんの友達、大事な人が皆さんのことを裏切ったというか、困った時に皆さんのことを見捨てた。
そんなことがあった友達を皆さんは受け入れることができるでしょうか。
イエス様はそのような弟子たちのことを
責めることなく復活してガリデアという場所に行って、待っていてくださったわけなんですね。
先ほども言いましたこのガリデアという、彼らがイエス様と会って働きを始めた場所です。
弟子たちにとってガリデア出発の地でもあって、裏庭のような、 身近な公園のような
地元だったんですね。 そしてそのガリデアというのは私たちにとっては日常生活の場所です。
イエス様は復活して、今は目に見えません。
復活して、例えば私たちの家庭とか
学校とか職場とか、そこで私たちのことを待っていてくださるんですね。
ですから私たちはいろんな不安とか、もしかしたら諦めとかあるかもしれませんが、 イエス様が待っていてくださる
その場所に行こうと言って 前進していくことができるわけです。
あるいはまた 時に私たちの思いを超えた
とてつもないことが神様によってなされる、そして驚く、
そういう驚きの冒険が
私たちの前を待ち受けていく、 期待の将来だということなんですね。
復活祭であるイースターを機にイエス様の復活から神の驚くべき宮座、
そこに思いを馳せて生きていくということを振り返ってみました。
最後にそんなようなことを表す聖書の言葉を読んで終わりにしたいと思います。
これちょっと難しいかもしれませんが、神の約束ということを書いた言葉です。
第一コリント二章九節ですね。 読んでみましょう、3回。
目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、 人の心に思いを噛んだことがないものを、
神は神を愛する者たちに備えてくださった。 お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。 マリアたちは、
イエス様のお墓で驚くべき復活の宮座を目の当たりにしました。
恐ろしく驚いてその場を立ち去りました。 私たちもどうぞ私たちの思いを超えてなされる、
あなたの復活の宮座を見ることができるように、 どうか導いてください。
21:05
私たちのまた悲しみや苦しみ、否定的な思いも、 あなたに追い出すことができますように。
そしてどうぞ、あなたが待っていてくださる、 その先に私たちも進んでいくことができるように、
新しい年の始まりましたけど、 これからの私たちの歩みをどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、 主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それでは1分ほど、神様の御言葉に応えて祈る時間を持ってください。
21:49

コメント

スクロール