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2025-06-15 24:59

#268 弟子の道を貫く~神に守られ生涯を全うする 25/6/15

ヨハネ—71からの礼拝説教。2025年6月15日録音.(聖書朗読は()まで、メッセージ導入は()からです)前回見て来たとおり弟子と言われていた人々が立ち去り12人だけが残ったのです。彼らとイエス様の対話から、困難に直面しながらもクリスチャン信仰を全うすることについて以下の3点から考えていきます。1.イスカリオテのユダ()、2.従順を強要しないイエス様()、3.授けられた信仰と言う希望()

原稿を読む

https://note.com/nsbc/n/ne41311614c3b?sub_rt=share_pb

サマリー

このエピソードでは、イエス・キリストと弟子たちの関係、特にイスカリオーテのユダについて言及されています。弟子の道を貫くことや、従順を強要しないイエス様の姿勢が語られています。また、信仰は神から授けられるものであるという重要な側面にも触れられ、強い希望と勇気を得ることができると伝えられています。ペテロの答えは、イエス様に対する傲慢な心情を反映しており、その後の弟子としての道の困難さを理解していません。イエス様は信仰が神から与えられ、守られることを強調し、弟子たちに希望をもたらしています。

イスカリオテのユダの存在
それでは、ヨハネの福音書、6章67節から71節をお読みします。
それでイエスは十二人に、あなた方も離れて行きたいのですか?と言われた。
するとシモン・ペテロが答えた。
主よ、私たちは誰のところに行けるでしょうか?
あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます。
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。
イエスは彼らに答えられた。
私があなた方十二人を選んだのではありませんか。
しかし、あなた方のうち一人は悪魔です。
イエスはイスカリヨーテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。
このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。
以上です。
従順を強要しない姿勢
今日はこのところから弟子の道を貫くと題して、みこさまを取り継ぎます。
みなさま、おはようございます。
先週のですね、10日の火曜日、関東地方の追入となりましたね。
ちょっと体調を崩してお休みされている方もいらっしゃいますけれども、
今日また私たちここに集えて礼拝できることを感謝しております。
今日はずっと見てきました、ヨハネの六章の最後の部分ですね。
非常に長いところで71節までありますが、
イエス様の五千人の給食から短音を発したこの説教、
そして最後弟子たちとのやりとりで締めくくられているところです。
そこからですね、弟子の道を貫くと題して三つの点から見ていきます。
最初はイスカリオーテのユダという人が出てきますので、そのことにふれます。
2番目はですね、イエス様は従順を強要しないということ。
3番目は、殺げられた信仰という希望、それについて見ていきたいと思います。
こちらの絵にありますように、
五千人の給食からですね、ガリダヤコの周辺から
働きが始まって、カペナームという街道で色々な議論がなされ、
そして先週見たところではですね、弟子たちのうちの多くのものが、
ほとんどのものが離れていったというところでした。
そして今日のところでは、まさに十二弟子とイエス様だけの対話が記録されています。
そしてその中でイエス様は衝撃的な発言をなさいました。
最初一番目は、イスカリオーテのユダというところを見ていきますが、
70節71節の罰水から読んでいます。
イエスは彼ら、十二弟子に言われた。
あなた方のうちの一人は悪魔です。
イエスはイスカリオーテのシモンの子、ユダのことを言われたのであった。
このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。
イスカリオーテというのは、カリオテというおそらく場所だと言われています。
そこ出身のシモンの子のユダということで厳粛な宣言がなされました。
悪魔という言葉はギリシャ語ではディアボロスと言っています。
映画の題にもなっていて、西洋キリスト教文明では知られた言葉でもあるわけです。
最後の晩餐で、レオナルド・ダビンチの絵が有名です。
80年代に池袋の西部にデパートリーもありますが、そこに美術館があったんですね。
その時にダビンチ展があって、レプリカだったんですけれども、
最後の晩餐の絵があったので、私も見に行ったことを覚えています。
その子の疑惑にイエス様の横だったかな、ユダの絵が描かれています。
そのユダの顔が、ダビンチの敵の顔じゃないかという疑惑があったんですね。
でも調べると、それは単なる憶測に過ぎない。
ダビンチはきちんとモデルなりがいて、しかも表情をきちんと考えているので、
ダビンチがライバルの顔を描いたというのは、憶測に過ぎないということが定説だそうです。
その中でイスカリオテのユダに関しては、いろいろなスキャンダルですとかことが言われていますが、
先週お話しましたけれども、だんだんと物語が進んできて、先週の箇所では、
イエス様が受難を受けるということで、安穏が立ち込めてきた。
その中で、先週のところで初めて64節で、イエス様はこういうことを言われたんですね。
あなた方の中に信じない者たちがいます。信じない者たちが誰か、ご自分を裏切る者が誰か、イエスが初めから知っておられたのである。
そうやって、裏切られて死ぬということが、先週はっきり語られました。
そして今日のところでは、それがはっきりとユダであった。しかもそれが12人のうちの1人だった。
何がセンセーショナルかと言いますと、多くの弟子が離れていったにもかかわらず、12人だけ残ったんです。
しかしその中にイエス様を売り渡す者がいるということと、その名前がユダであるという点が衝撃的であり、
だんだんと受難の道が明確にされていくというところが、今日のポイントなんですね。
ただ、ご存知のように、この後イエス様は知っていながら、ユダと共に旅を続けます。
最低1年でしょうか、長ければ2年、3年、選挙旅行を続けていくんですが、皆さんがもしイエス様の立場だったらどうでしょうね。
自分が十字架にかけられるということが分かっていて、しかも最も親しい身内の者が自分を裏切るというものを知りながら、一緒に旅を続けることができるでしょうか、ということなんです。
しかしイエス様は動じなかったわけですね。なぜ動じなかったか、いろんな理由を考えられて、先週まで見てきたように、自分が十字架の上であがないの死を成し遂げること、
それは父なる神、私を使わせた道の御心だ、それこそ私の食べ物で生きる道だという確信があったからだ、そういうことも考えられます。
ただもう一つ、今日注目したい点があります。それは何かというと、イエス様は良い終わりを知っていたから耐えられたのではないかということなんです。
先週少し見たんですけれども、こちらの前の部分に書かなかったんですが、皆さんのレジュメにありますけれども、
イエス様はご自分がやがて十字架に挙げられただけではなくて、元板元に昇ると言っているんですね。
62節で、人の子、ご自分がかつていたところに昇るのを見たら、あなた方はどうなりますかということを示唆して、
ご自分が元いたところ、父なる神様と親しい関係であった天、神の身元に昇るという、その幸い良い終わりを知っていたから、
イエス様は裏切る者が間近にいても、同日に済んだのではないかとも考えられるわけですね。
そのように良い終わりを知っていて、復活と昇天ということを知っていて、この困難を受け入れられていたということが一つ注目していきたいんですけれども、
もう一つはですね、これから見ていきますけれども、無理にユダを戒心させようとはしなかったんですね。
お前食い荒食べろって名指しでですね、強要して戒心させるということはしませんでした。
その点について、弟子たちとの関係も含めて2番目に見ていきます。
2番目、従順を強要しないイエス様ということです。
今日の冒頭のところでですね、人々が離れていく中でイエス様は12弟子に尋ねました。67節69節。
それでイエスは12人に、あなた方も離れていきたいのですかと言われた。
するとシモン・ペテロが答えた。ちょっと長いんですが主よから読んでみましょうか。
主よ、私たちは誰のところにいているでしょうか。あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます。
私たちはあなたが神の聖者であると信じ、また知っています。
冒頭でイエス様はですね、あなた方12弟子に対して、あなた方も彼らと同じように離れていきたいのですかと問いかけました。
それに対して、このようにペテロが模範回答をしているんですね。
その模範回答もさることながら、イエス様と弟子のやり取りについて、ある学者がこう解説してるんですね。
イエスは私たちに、弟子たちに美徳を強制したり、信仰を強要したり、弟子になることを強要したりはしません。
イエスに従うことは、誠に深い自由の行為ですと言っているんですね。
今日詳しく取り上げませんけど、神様やイエス様の私たちに対する愛は何かというと、私たちの自由意志を尊重してくださっているということなんです。
そのように、ご自分を信じ、従うことにおいても、強要していないという点なんですね。
で、先週見たようにですね、イエス様はご自分が生きるパンであって、自分を信じる者が永遠のいのちを受けますと言っていた。
そして多くの人たちは、そんなひどい言葉を誰が聞いてられようかと言って離れていきました。
でも無理やりに彼らを、彼女らを引き止めることはなさわなかったわけですね。
そしてこの問いかけ、「あなた方も離れていきたいですか?」という問いかけ。
これもですね、「いいえ、離れません。」ということもできますし、もちろん、「はい、離れます。」という、そういう自由な答えができるような問いかけなんですね。
で、ここから私たちが学べることと言いますか、知ることは、私たちは信仰を強要されてはならないということなんです。
ご存知かと思いますけれども、呪いを強調したり、恐怖を与えたりして従わせようとする、その手法がいわゆるマインドコントロールです。
そしてそれがカルトの特徴なんですね。
ですから、私たちクリスチャンであっても、そういうキリスト教の匂いを醸し出すようなカルトの存在があって、
そして私たちの信仰的な弱さとか、あるいは恐怖心とか呪いとかを煽って、そしてそちらの方に引き込もうという、そういう動きもありますので、私たちはその点に注意していく。
また、そういう方の相談に乗ることがあるかもしれませんから、その辺で相手の方に気をつけてくださいという警告も出すことができるわけです。
信仰の授けられた希望
これが第2の点なんですけれども、一方で注目すべき点は、イエス様に従うという言葉は、イエス様の後ろについていくという、そういう意味があります。
つけ嫌いがあると思いますけれどもね、赤いスイートピーという歌があって、I will follow you, follow you, follow me という、後をついていくという、そういうニュアンスがこの従うという言葉、アクロセオという言葉にあるんです。
それは人生の旅路をイエス様の後についていくのが弟子の道だという、そういうニュアンスがあるんですね。
実はそのような弟子の道はイエス様の十字架を担いで、共に歩くということもあるので、困難を伴う、そういうことなんですけれども、先ほどのペトロの答えには、それが意図されていなかった、そういう問題があったので、最後にその点も含めて見ていきたいと思います。
3番目、授けられた信仰という希望です。6章70節のイエス様の言葉の抜粋ですね。イエスは彼らに答えられた、これから読んでみましょうか。私があなた方12人を選んだのではありませんか。
先ほどお話ししましたように、私たちが弟子たちがイエス様にどう応答するのか、その決断は私たちに委ねられている。一方で実は信仰とは、私たちの決断もあるけれども、神様に授けられたものであるという面もある。
それを矛盾しているのではないか。どっちが先だという議論、前も申し上げましたけど、心学的な議論というのがわりと真剣になされています。ただ、私たちは、そういう難しいことも大事なんですけれども、大切なことは、私たちの信仰の糧としてどう捉えていったらいいか。
簡単に言うと、積極的にその両方面を捉えて、信仰の糧にしたらいいんじゃないかということなんです。なぜなら、私たちの信仰の進化というのは、困難に直面するときに試されるわけです。そのときに、このどっちもありだということを知っておくと、希望になり力になるんですね。
実は、ペテロの先ほどの答えですけれども、得意満面に、あなたを離れて私たちはどこに行くでしょうか。あなたは神の聖者です。あなたはいのちの言葉を持っていますと言って、その前にイエス様が言った、私の話すことは霊でありいのちだというようなことをそのまま受けていったわけですね。
皆さん、小学生から大学受験した方もいらっしゃると思いますけれども、テストを受けたことがあるでしょう。時々、余裕に終わったと思って、見返してみたら間違ってて焦ったことがある。ある方が、マークシートと言って答えを書いていく入試なんかあると思うんですけれども、
終わったと思って、答え合わせしたら全部1個ずつずれてたんです。必死になって直したという話があるんですけれども、ペテロも100点満点の答えをしたと思ったんですけれども、実は100点満点じゃなかったわけなんですね。
どういうことが、ここでペテロの答えに問題があったかというと、実は彼の心情を代弁すると、イエス様に対するヘズライとか傲慢な気持ちが見え隠れしていたんです。代弁すると、こんなことを思ってたんじゃないかと、彼の答えには。
一般の群衆だけでなく多くの弟子たちさえ立ち去った。しかし私たち12人は残っています。しかも自分の言ったことはイエス様の通りに答えているから、喜ばせているんだ。100点満点だっていうね。そういう自負があったのではないかという学者も言っているわけです。
でもですね、彼の答えというか、どこに落ちてはなかったか、先ほど言いましたが、イエス様に対してヘズラって言うという点もありましたし、傲慢な点があったんですね。
もう一つお察しがついたと思いますけれども、彼はこの後弟子としての困難な道を歩むということを知っていなかったわけです。そして最大の失敗と言えるような、イエス様を3度も知らない。そしてつまずくということを起こすわけですね。
それらのことがわからずに、彼が得意満々に答えている。そこが問題だったということなんです。
信仰の守られ方
その時にこのイエス様の言葉が意味を成してくるんです。イエス様はこう言いましたね。ちょっともう一回見てみましょうか。私があなた方12人を選んだのではありませんか。あなたの得ではなくて、私があなた方を選んだということに意味があるんだよということで、イエス様はペテロ、そして12人を悟しているわけなんですね。
最初にイスカリオーテのユダの話が出ました。なぜユダの話が出ると不安になるのかというと、私がイエス様を裏切らないでいられるんだろうかという、そういう疑念が私たちの中にユダに触れると起こるかもしれないわけですよね。
そしてまたペテロのことを他人事と思えない理由は、弟子の道に困難が伴うのであれば、私はこれから生涯イエス様の弟子として全うできるんだろうか、そういう不安が伴うからかもしれませんね。
けれども思い出していただきたいのは、この6章の中でイエス様は何度もこの言葉を、装いを変えながら、あなた方の信仰は神によって授けられているんですよということを、少なくとも3度繰り返し述べているんですね。
例えばですね、6章の37節読んでいますけれども、6章の37節、父が私に与えてくださるものは皆、私のもとに来ます。そして私のもとに来るものを、私は決して外に追い出したりはしませんと述べていますね。
また45節では、預言者たちの書に、彼らは皆、神によって教えられると書いています。父から聞いて学んだものは皆、私のもとに来ます。
これも神様が教えてくださる、私たちが覚えようとする前に、聖書の御言葉を心に刻んでくださる、イエス様への信仰を刻んでくださるということでしたね。
そして65節では、こう言いましたね。たくさん人が離れていく中で、イエス様はこう言いました。
このようにですね、信仰は神様によって授けられ、守られているということを、イエス様は6章の中で繰り返し、いろんな言葉を使いながら語っているわけです。
ここにありましたね。
これらのイエス様の言葉から何がわかるのか。
それはですね、言い換えれば、弟子の道には、たとえどんなに困難が伴っても、神様に守られて私たちは、良い終わりと完成の時を迎えることができる、そういう希望の言葉なんですね。
イエス様はですね、先ほど淡々と裏切り者が間近にいることを知っていながら、十字架への道を進まれた。なぜか。
その理由の一つはですね、イエス様は、自分こそ十字架の上で、贖えの死を成し遂げて、多くの人々のための救いの道を開くという、その使いのちを知っておられたからなんですね。
そして、イエス様ご自身は復活して天に昇って、私たち信じる者の希望となってくださった。
実はそこにですね、イエス様のこの受難の道が、そして復活と昇天がですね、私たちの信仰の拠り所となるということがわかるわけです。
繰り返しますが、私たちは自分自身のですね、強さとか、自分自身に確証を得たときに、信仰の道をまとうできるかということで不安になるかもしれません。
しかし、私たちの信仰は神が授けてくださり、イエス様が守ってくださる、そのことをですね、私たちは知るとですね、私たちはこの信仰の旅路、どんな困難があっても、必ず良い終わりを迎えることができるという、
そういう希望を持って歩み続けることができる、そのことを覚えておきたいと思います。
もう一つはですね、そんなイエス様は父の御元で何をしておられるか、ちょっと今日のところから少し発展するんですけれども、
イエス様は今、御父の御前で何をしているかというと、私たちのために鳥がしていてくださる。
それが希望だということを最後に聖書の言葉から見て終わりにしたいと思います。
ローマビテの手紙、8章37節、パウロが書いたところですね。
ちょっと難しいかもしれませんが、読んでみましょうか。
誰が私たちを罪ありとするのですか?
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリストイエスが、神の右の座につき、しかも私たちのために鳥なしていてくださるのです。
このイエス様にですね、希望を受けながら、信仰の旅路を歩んでいくお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、御言葉を通して、ユダの裏切りがはっきりと語られました。
しかし、その中で私たちは、あなたに守られ、この弟子の生涯を全うすることができる、その希望も知ることができまして感謝いたします。
さまざまな困難に直面したり、また不安がよぎるときに、私たちがどうぞこのあなたの約束を思い出しながら、あなたにあって自分自身の信仰が守られていく、
あなたが私たちにとって対して、あなたが成し遂げたいというそのような目的を持っておられる、そのことを信じて歩んでいくことができるようにどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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