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2026-02-01 30:28

#311 今も響くいのちのことば 26/2/1

ヨハネ—50からの礼拝メッセージ。2026年2月1日録音。


サマリー

このエピソードでは、イエスの語った言葉がどのように裁きをもたらすかについて探ります。また、イエスが父なる神から使わされたことに触れ、彼の神性とその意義について考察します。イエスと父なる神との親密な関係が強調され、ロゴスとしてのイエスの神性について語られます。また、信じること、見ること、言葉に関する理解が深められ、言葉を通して神との繋がりが示されています。イエスと言葉の関係を探求し、聖書を通じてどのように永遠のいのちを得て、深く知ることができるかについて考察します。

イエスの言葉の裁き
ヨハネの福音書、十二章、四十四節から五十節をお読みします。
イエスは大きな声でこう言われた。
私を信じる者は、私ではなく、私を使わされた方を信じるのです。
また、私を見る者は、私を使わされた方を見るのです。
私は光として世に来ました。
私を信じる者が、誰も闇の中に留まることのないようにするためです。
誰か私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその人を裁きません。
私が来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためだからです。
私を拒み、私の言葉を受け入れない者には、その人を裁く者があります。
私が話した言葉、それが終わりの日に、その人を裁きます。
私は自分から話したのではなく、私を使わされた父御自身が言うべきこと、話すべきことを、私においのちじになったのだからです。
私は父のいのち令が、永遠のいのちにあることを知っています。
ですから、私が話していることは、父が私に言われた通りを、そのまま話しているのです。
以上です。
今日はこのところから、今も響くいのちの言葉と題して、御言葉からお話しいたします。
皆さん、おはようございます。
早いもので、1月も終わりましてですね。
日曜日から週が始まるのですけれども、1日が日曜日という日です。
そういう区切りが良い日ですけれども、そんな月の始めですけど、
今日は、ヨハネの12章の終わりの部分、また、ヨハネの前半の大きな終わりの部分のところから御言葉を取り上げて、一緒に考えていきます。
今日のところはですね、3つのことを話します。
少し難しいところで、1番目はですね、イエス様の言葉が裁く。
イエス様ではなくて、言葉が裁くということを考えていきます。
そして2番目はですね、これは大事なことの繰り返しとして、イエス様が死に使わされたということから、御自分の神性さを表している、証しているところを取り上げます。
そして最後はですね、創造の始めにつながるいのちの言葉として、この今の私たちとイエス様の言葉、
そして引いては、世界の始まりの時の言葉が私たちに響いている。
そういう、私たちの日常や信仰生活と直接関わるようなことを取り上げていきたいと思います。
一番最初では、イエスの言葉が裁くとは、ということを見ていきましょう。
ちょっと長いんですが、12章47節を読んでみましょうか。
誰か私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその人を裁きません。
私が来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためだからです。
少し前後しますが、今日の単元の説明を簡単にいたします。
イエス様はですね、失礼しました。
今日のところでですね、群衆を招いているんです。
それは最後の救いへの招きの言葉なんですね。
と言いますのは、実はこの後から、ちょうど13章の始めからは、弟子たちへの直接の言葉です。
国別説教という言い方をしてますけどもね。
有名なね、ヨハネの13章のところから17章は、おそらくいわゆる
ダビンチが書いた最後の晩餐の場面で、イエス様が弟子たちに告げられた言葉。
他の3つの福音書にはないですね。
ヨハネ独特の非常に長い、イエス様の最後の国別説教になっています。
それが後半ですけど、そこに至る前半の部分で、群衆への最後の招きの言葉が、今日のところに当たるわけなんですね。
そして、繰り返しますが、群衆が直接イエス様から招きを聞く最後のチャンスとして、今日の箇所の言葉が取り上げられているんですね。
その言葉でイエス様が、失礼しました。こう言ってますね、48節。
私を拒み、私の言葉を受け得ない者には、その人を裁く者があります。私が話した言葉、それが終わりの日にその人を裁きます。
最後のチャンスのように救いに招くと同時に、裁きについて聞いている群衆にイエス様が語りかけているんですね。
繰り返しますが、イエス様は裁かなくて、イエス様の言葉が裁くとあえて言われている。
それはどういうことかということを少し考えていきます。
これはですね、契約書、英語のコントラクトですね。
皆さんね、スマホを買うときとかですね、インターネットで何かを申し込むときに、全部同意しました。
パチッとやるじゃないですか。で、契約します。全部読んでます?
なかなか読まないですね。読んだつもりでやりますよね。
で、実はこの契約書で私たちは何をしているか、重要事項説明書を全部読んで、その上で契約書にサインをします。
で、実はですね、そのときに私たちは、同意するという欄にサインした以上ですね、その後、その契約に違反することをしたならば、それ相応の罰と言いますかね、不利益を講じるわけです。
読んでなかった、知らなかったってどんなにクレームを上げてもですね、契約書にサインした以上は、この契約書に書かれている文言、言葉によって、ある面、罰を受けると言いますかね、違反に問われるわけです。
で、実はイエス様の言葉が裁くというのも、それに似ているんです。
実はイエス様の言葉が裁くというのはですね、このイエス様はこれまでですね、語っているように、人々を裁くためではなくて、人々が信じて救われるために、救いのメッセージを語ってきたわけじゃないですか。
それがですね、イエス様が言う、私が来たのは裁くためではなくて、救うためです。
もし裁くために来たのであれならば、裁きの言葉、罰を与えるための言葉を言いますが、そうじゃなくて、信じて罪の罰を神から受けることがないような救いの言葉をイエス様は語ってきたわけですよね。
はい。失礼しました。
ですから、信じて救われることを意図して語ってきた言葉をですね、ここで言う、それをこぼるわけですからね。
繰り返しますが、イエス様が来た意図は、世を裁くためではなくて、世を救うためだと47節書いてあります。
そして、同じようなことでですね、その前に書かれている、私は世の光です。私を信じる者が、誰も闇の中に留まることのないようにするためです、ということもある面ですね、信じた人が救われて光の中を歩むというイエス様の意図が同じように記されています。
その上でですね、もう皆さんお分かりになったと思うんですけども、この群衆がですね、それでも救いの言葉を拒んだのであれば、その救いの言葉を拒んだ、その言葉自体がこの拒んだ人に裁きをもたらす。
先週のことと通じるんですけど、人が堅くなればなるほど、もっと不信仰になるというのが神の裁きだと言いましたけど、やはり責任はですね、拒んだその人に問われているわけです。
彼ら、彼女らが裁かれるその根拠は、この救いの言葉だということが、今日のこのイエス様の言葉の意図なんです。実はそのことをですね、旧約聖書の新明記の18章19節で語っているんです。
イエスの神性の強調
この箇所は、モーセに対して神様がですね、約束した言葉です。どんな言葉という、どんな約束かというと、簡単に言うと、後々救い主を、あなたのような救い主を私は贈るという、そしてその彼の言葉を聞きなさい、という約束の後に、こういう警告が語られているわけですね。
18章19節、私のというのは神様がモーセに対して言った自分のことですね。じゃあ読んでみましょうか。
私の名によって彼が告げる私の言葉に聞きたがらないものがあれば、私はその人に責任を問う。
ここにもですね、彼というのは救い主です。救い主の言葉は神の言葉です。それを拒む人がいれば、その人に責任を問うということも言われているわけですね。
最初のイエス様の言葉が裁くというのは、そのような意味があると、ぜひ知っておいてください。
2番目、ここが簡単にいきますが、父に使わされたという神性さんですね。
12章の44から45でイエス様はこうおっしゃいました。
イエスは大きな声で言われた。私を信じる者は私ではなく、私を使わされた方を信じるのです。また、私を見る者は私を使わされた方を見るのです。
これは教科書です。今、受験シーズンに選挙があるなどで騒いでいますが、教科書や参考書を勉強するときに、各単元の最後に大事なことがまとめられていますよね。
実は、繰り返しますが、今日のこの44節から50節は、ヨハレンの福音書の大事なところのまとめ、エッセンスが詰まっているんですね。
しかも、イエスは大きな声でこう言われたというのは、原文で見ると一言、イエスは叫んでいったというのです。
本当に叫んだというのです。どうですか。一番最後に大事なことがまとめられて、しかもイエス様が叫んだということは、どれほどこれが大事なことなのか。
20年ぐらい前なのですが、流行った、今でしょう、ああいう予備校の先生が声を大にして、ここは重要ですというようにイエス様が叫んでいる。
そういうことが伝わってくるわけですね。重大さがわかるわけです。その重大さの理由の一つが、先に挙げた最後の救いの招きということが一つ目です。
そして二番目が、それは実はイエス様がただの人ではなくて、父なる神様から使わされているんですよという、イエス様の神性さが強調されているからです。
実はこの後、私の父と言って、私を使わせた方は父なる神だというのがわかるのですが、あえてイエス様は使わされた方と二回言っているのです。
それほどイエス様が父なる神から使わされているということがやはり大事なんですね。
実は神性という言葉は、日本語の音ではひらがな四文字ですが、漢字で書くと少なくとも二つの意味がありますね。
誠で正しいと書いた神性という意味ですね。もう一つは、神様の性質を宿すという意味で神性。これはぴったりの言葉なんですね。
イエス様の神性
イエス様は父から使わされたということで誠で正しいお方です。そして父から使わされて父と共にいたということで、まさに神ご自身の性質を宿した人となったお方ですということがここで強調されているわけですね。
実はこのイエス様と父なる神様の親密な関係、二人にして一人である神だということは非常に大事なヨハネの福音書のテーマでした。
そして何度も言いますが、1章の1節から18節がプロローグとして語られています。ちょっと皆さん家でもう一回じっくり読んでみてください。
実は今日見ている箇所は、そこの中のエッセンスがギュッと詰まったところです。
そこの1章の1節から18節の部分の繋がりがいっぱいあるんですけれども、今日はあえて有名な2つのところだけ取り上げますね。それは1章の1節から2節の部分を何度も読んでいることですけれども、読んでみましょうか。
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この方ははじめに神と共におられた。
これはロゴスなるイエス様のことですね。ここの部分のメッセージも文章とか音声で聞けますから振り返ってみてください。ここでロゴスなるイエス様は神であられたということが強調されています。
今日見ませんが、14節も言葉が人となって私たちの間に住まわれたという受肉の部分が語られていて、もう一つあえて今日取り上げたのが、1章18節のプロローグの締めくりですね。ここも読んでみましょうか。
いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子の神が、神を解き明かされたのである。
母親が自分の子供を懐に抱いて可愛がるように、父親でもいいんでしょうけども、まさに父の懐におられた独り子の御子イエス様ということで、その親密なつながりということがここでも強調されているわけですね。
ここの部分は、今日の箇所とプロローグとのつながり、そしてそこからイエス様の神性さ、正しく誠の方であり神であるということが最後にもう一回群衆に語られているということを覚えておきましょう。
その上でですね、イエス様はご自分の言葉の大切さということに、重要さということに話を進めているわけです。
3番目は、想像の始めにつながるいのちの言葉として。
今日の締めくりですね、12章50節。イエス様がこう言っておられます。
私は父のいのち令が、ここで使わされた方が父の神ってちゃんと控えられてますね。
私は父のいのち令が永遠のいのちであることを知っています。
ですから私が話していることは、父が私に言われた通りをそのまま話しているのです。
だから救いの言葉であり、その言葉によって信じない者は裁かれますよということにもつながるわけですね。
で、興味深いことにですね、実は今日の箇所には人々がイエス様を信じて、父なる神様を知るということが言い換えられているんですね。
ごめんなさい。
その一番最初にですね、私を信じる者は私を使わせた方を信じるという言い方をしていますね。
二番目は、私を見た者は私を使わせた方を見るのですと言い換えられているじゃないですか。
で、実は最後それを信じる、見るから言葉に言い換えられているんです。
イエス様と父なる神様のつながりと言いますかね、一つなること。
これを覚えていてください。言葉ということに最後言い換えられているわけです。
では、なぜ信じるから見るに、そして最後言葉に言い換えられているのかということを最後考えていきたいと思います。
それはですね、単刀直入に言うと、今の私たちのためなんです。言葉に置き換えられている理由は。
実は皆さんも気づいておりますけど、当時の人たちと違って私たちはイエス様を見ることができませんよね。
当時の人だけではなくて、イエス様の昇天後は、後の時代の人々はイエス様の言葉を見ることができずに、言葉を聞くことでしか信じることができなかったわけですね。
余談ですけど、今ペーパーレスの時代なんて言って、神がいらないって言われてるでしょ。
でもこの聖書が書かれた時代、神って本当に貴重だったわけですよね。
ヨーシヒとかパピルス、本当にお金持ちとか著名な人しか神は手に入らなかったんです。
当時の人はどうやってイエス様のメッセージと言いますかね、聖書の言葉を聞いたかと言っちゃいましたけど、聞くんですよ。
もう一枚だけ手紙が回されたのを街道で読んで、それを聞いてイエス様のメッセージとかパウロの手紙を受け取るわけですね。
だから言葉というと当時の人は聞くでした。
創世記の言葉
でも今の私たちは神が当たり前ですよね。
神じゃなくてもっとペーパーレスですから、今はスマホとかの中に言葉が書かれていたり、
それから音が聞こえてくるわけじゃないですか。
スマホのことは英語で何て言いますか?
タブレット端末って言いますか?
タブレット端末って言うじゃないですか。
タブレットって英語でね、タブレット順なんて知っていますけど。
タブレットって何かわかります?
え?
いた!
聖書に出てくるでしょ、スマホが。
モーセが神様からもらった石の板のことを聖書でタブレットって言うんですよ。
だからスマホとモーセの板がつながりがあるような。
余談ですけどね、全くの余談です。
そういうところなんですけども、とにかく言葉。
手紙を考えた時に、皆さんテレビでね、戦国武将の手紙を判定するじゃないですか。
よく言うのは3人が人気なんですって。
3人の戦国武将っていう誰ですか、有名な。今やってるでしょ。
信長、秀吉、家康。
その3人の手紙は、段違いに高額査定が出るそうなんですね。
で、実際にその秀吉が書いた手紙をね、見たり売れることができるわけじゃないですか。
私もね、京都の良禅博物館に行くとね、本当に龍馬が書いた手紙とかね、
坂本龍馬が切った刀とかってね、この刀が龍馬に刺さったんだとか、
この手紙を龍馬が書いたんだとかってのがわかるわけです。
で、何が言いたいかっていうと、その戦国武将が書いた手紙は、
実際に彼らが筆を取って書いた紙じゃないですか。
実はその紙に秀吉なりが触った同じ紙を、私たちはもし手にしたら、
同じ紙を手にすることになるわけでしょ。
それはその戦国武将とこの紙を通して繋がるような不思議な、
あるいは威風を抱くような体験だなって改めて思うんです。
それを考えた時にですね、実はイエス様がこういった言葉についても、
新しい洞察が出てくるんじゃないかと思うんですね。
イエス様はこう言ってますね、今日のところで。
私は自分から話したのではなく、私を使わされた父御自身が言うべきこと、
話すべきことを私においのちじになったからです、と言ってるんですね。
私たちが今読んで聞いているこの言葉、私たちが読んでいる聖書の言葉、
それはイエス様の直接の言葉ですよね。
このイエス様の、戦国武将が触った手紙ではないですけども、
このイエス様の言葉を私たちが聖書で読んでいる時に、
聖書を通して私たちはイエス様の言葉を直接聞くこともできるわけですし、
実はこのことが想像の始めに繋がっていくわけなんですね。
何が言いたいかと言いますと、
皆さん、全世界が作られた時のことを思い出してください。創世紀一章一節ね。
世界ができる前、全宇宙ができる前、あるいはできた時、
一番最初に響いた神様の言葉って何だと思います?
お名前もそうですけど、光よあれでしょ?
光よあれっていう言葉が世界が始まる、全宇宙が始まる、
一番最初におそらく響いたであろうと私たちが考えられる言葉です。
言葉って考えた時に、言葉って何の道具ですか?
もし私が道を歩いていて一人ごとでずっと歩いていたら、
喋っていたらどう思います?大きい声で、一人で。
言葉っていうのはコミュニケーションのツールじゃないですか。
ということは、相手があっての言葉なんですよ。
神様は世界の始まる前に光よあれっていう言葉とか、
それは非常に良かったって言葉を発したってことは、
じゃあ、世界、光よあれって時には誰もいないじゃないですか。
誰とコミュニケーションしてたんですか?
それは、父なる神様とイエス様が、
その時既にコミュニケーションしていたと考えられないでしょうかね。
言葉がコミュニケーションツールであるならば、
世界が始まる前、あるいは始まる時既にも、
未知なる神様と御子イエス様が既にコミュニケーションしていた。
実はそのことが、このヨハネの十二章四十九節ですね。
私を使わされた父御自身が言うべきこと、話すべきことを、
私においのちじになったからですって言ってるんですね。
先ほども言いましたが、父の懐にいた独り子の神って言ってますけど、
このようにイエス様は、世界の始まる前から、永遠の前から、
未知なる神様とコミュニケーションしていた。
そしてその言葉を、実は私たちに今伝えておられる。
そのように思いたるのではないかと思うわけなんですよね。
実はそのイエス様の親しい交わりについてですね、
このようにイエス様御自身が言ってますよね。
ヨハネの十七章の五節と二十四節にこんな言葉があります。
父よ今、あなた御自身が見舞いで私の栄光を現してください。
世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。
ここから読みましょうか。
世界のもとへが据えられる前から、私を愛された故に、
あなたが私に下さった栄光を。
イエス様と言葉の関係
ここからですね、まさに永遠の昔から、
世界が始まる前から父なる神様とイエス様が愛といいますか、
親しい関わりを持っていたということも見て取れるわけですよね。
このようにですね、イエス様と父なる神様は、
世界が始まる前からコミュニケーションを持っておられたわけです。
そしてその父から聞いた言葉をですね、
イエス様はこの当時の人々に語り、
そして今聖書を通して私たちに語ってくださっているわけなんですね。
私たちは実際にイエス様を見ることができませんし、
イエス様の声を聞くことができません。
しかし、光よあれといった最初の神様の言葉、
その言葉をですね、このイエス様の語られた言葉を通して、
私たちもですね、授かることができるわけなんですね。
そして世界が始まった時に、
このイエス様が言葉としてもそこにおられましたけれども、
この言葉なるロゴスなるイエス様のことを、
ヨハネの福井集はこのように言っているわけですね。
1章4節読んでみましょうか。
この方にはいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
まさにですね、イエス様自身が神の言葉であると同時に、
いのちであり、その時世界を作ったいのちの言葉であり、
そしてそのイエス様いのちの言葉が信じる私たちに、
永遠のいのちをですね、与えてください。
もうこの繋がりが複雑すぎて、
言葉で説明するのが難しいんですけれども、
実はその道の言葉こそ、
イエス様は永遠のいのちだとも言っておられるわけなんですね。
ですから今私たちはイエス様を見ることができませんが、
聖書を通してこの永遠のいのちについて知ることができますし、
そしてその既に与えられている永遠のいのちをですね、
聖書の言葉、イエス様の言葉を通してこの地上にいながら、
知り養っていくことができるわけなんですね。
そのような意味も汲み取りながらですね、
私たちはいのちの言葉をいただくという意味、
創造の始めから続いている言葉に触れるという意味合いを知りながらですね、
聖書を読んでイエス様の言葉に留まり続けていく。
そして永遠のいのちの幸いを知り、
それをまた伝えていくお互いであり教会でありたいと願うわけです。
お祈りと信頼
お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様が群衆への最後の言葉として救いの招きを告げてくださいました。
幸いなことに私たちはイエス様を救い主として信じて、
いのちに預かっているその幸いを感謝いたします。
どうぞ私たちがその与えられたいのちの幸いを、
あなたの御言葉を通して、書かれた聖書の言葉を通して、
さらに深く知ることができるように、どうか導いてください。
またどうかこの聖書の御言葉を通して、
私たちや教会を通して、
永遠のいのちの幸いを知る方々が導かれますように、
どうか私たちをも用いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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