1. 農のかけ算ラジオ
  2. #1  農×山浦①(自己紹介)
2023-09-24 21:55

#1  農×山浦①(自己紹介)

今回はエピソード初回ということでテーマは「山浦」本人。自己紹介もかねてミチテラスの想いとこのラジオを発する山浦の波乱万丈な人生を共有いたします。

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農のかけ算ラジオ 初めまして道テラスの山浦です。
今回エピソード1ということで、初回の今回は農業×山浦をテーマに、自己紹介も兼ねて農業との出会いや経験を共有させてもらいます。
経歴の前に簡単に自己紹介をさせていただきますと、現在道テラスの代表として、まだ個人事業主ではあるんですけれども、この夏に独立したばっかりの本当にひよこな経営者であります。
道テラスの意味としましてですね、なんでこんな名前にしてるのという話で言うと、自分は本当に未知の体験とか初体験も含めてですね、
未知の文化とかそういうものに出会うことが大好きで、基本的にもう事業としても、仕事もそうなんですけど、やったことないことばっかりやっていきたい。
もう大体やってきてなんとなくわかったし、このまま続けていればこうなってきたな、なってくるだろうな、みたいなところっていうのはあんまり得意じゃないですよね。
そういう意味ではお金稼ぐのめちゃくちゃ苦手なんですけれども、そういった中で農業に新しい選択肢をというテーマで今後事業を行っていきたいなと思っています。
農業の可能性って個人的にはもう無限にあると思っているんですけれども、やっぱりその可能性を引き出すために、未知その遭遇っていうのはもう必要不可欠だと思っているので、
そういったことも含めて、私の思いであったりとか、私のアイデアというか、発想の仕方みたいなところをいろんなゲストも交えて、このラジオで皆さんに共有していくことができればなと思って、この農のかけ算ラジオを始めていきました。
私の今後の事業のテーマとしては大きくは3つ。1つは農業、カンボジア、もう1つがイベントの3つのテーマで事業を行っていきたいなと思っています。
現状でいうと今は山梨県の北都市というところに子供3人、嫁とお母さんと一緒に6人家族で住んでいます。
テーマには入っていないんですけれども、やっぱり北都市というのはものすごくいいところで、そういう自分の足元の地域もしっかり応援していきたいし貢献していきたいという思いで、北都市には食・農を中心とする北都市のネットワークがありまして、北都市フードバレー協会というものがありまして、そこにもつい最近参画して、今後地域にも貢献していきたいなと思っております。
というところで、今までの経歴についてちょっと入らせていただければなと思います。
自分の経歴、人生というところでいうと、たくさんの方にお話したことがあるんですけれども、やっぱり親の影響もありまして、かなり波乱万丈みたいなところがあって、そこの1個1個のエピソードを全部言っていくと、それだけでラジオのエピソードがいくらでも埋まるというぐらいの内容が、ネタがあるんですけれども、
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基本的には農業×山浦というところで、農業と山浦との関わりから始めていきたいなと思いますけれども、やっぱりちょっともったいないんで、少しだけ自分の生まれ・生い立ちみたいなことに触れさせていただきます。
実は生まれは福岡県の辞め市というところで生まれています。結構自己紹介にするときに1つのネタとしてしてるんですけれども、福岡県辞め市生まれ、滋賀県育ち、山梨在住、でちょっと前、仕事を辞める前までは長野県勤務みたいなところであったりとか、その間に海外が5年以上の経験中があるので、そういうところも言っていければなと思いますけれども、
辞め市で生まれて父親が事業家だったんですね。気がついたらスーパーマーケットが3店舗4店舗周りにあって、家の前に焼肉屋があって、くるめにはレストランがあって、みたいな感じで、気がついたらなんか自分、小1、小2とかの記憶しかないんですけれども、自分の部屋もあって、大きい白い家もあって、なんか親父はベンチに乗ってて、みたいな感じで、なんか金持ちの家に生まれてる感じがするなと。
もちろんその時は思ってないんですけれども、そんな感じでした。
それが小3の時に、その事業が親父が調子に乗りすぎてですね、倒産してですね、借金多分4億5千万とかだったと思いますけれども、それで本当ドラマで見るような夜逃げを、本当にトラック1台で夜中に荷物をまとめて逃げるということを、そこまで鮮明にも覚えてないですけれども、経験しました。
で、その後に辿り着いたのが滋賀県森山市というところで、親戚が滋賀県にいたんですけれども、そこからすごい大きい家に住んでいたのに、四畳二間みたいな、手の平台の雲が出るようなクソみたいなアパートにですね、引っ越しました。
その時は何かが起きてるんだろうなぐらいは思ったんですけれども、なんかそんな悲観的なイメージはなかったですね。
ただなんか、そういう状況なので、母親と父親が朝から晩まで仕事に出ていない、小学校とか帰ってきてもご飯は適当に済ましたりとか、やってた記憶があるなと思います。
そういう経験の中で、父親がまた独立して、おそらく小5とかだったと思うんですけれども、自分で空調設備会社、多分個人事業だったと最初は思うんですけれども、
それを始めて、子供ながらやっぱり人を雇うって大変なんで、手伝いと言われたのかな、きっかけ全然覚えてないんですけれども、小学校5年生から工事現場に出て、クーラーをつけるっていう仕事だったんですけれども、そういうものを手伝っていたと記憶しています。
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そこからずっと夏休みとか春休みとか大型の休みのときは、ほとんど父親のところで、おそらく高校卒業ぐらいまでは結構仕事に出ましたね。
なので途中からは、もう溶接はやってたかな、わからないけど手元が中心でしたけど、ずっと現場ばっかり行ったんで、高校生ながら10万円とかのバイクとかジーパンとか買って、なんか歯振りは良かったイメージはありますね。
その分、それと同時に父親の背中をずっと見てきて、父親と一緒に仕事をしてきたので、仕事ってこういうことなのか、お金を稼ぐってこういうことなのかっていうのをすごい無意識ですけど、学んできたんだろうなと思っています。
その後で言うと、高校を卒業して親父は、僕3人兄弟の末っ子なんですけど、長男、次男が頭やってちゃんと大学に行って、僕はいける大学はあったんですけど、あんまり大学に行く意味がよく分からなかったので、
親に勧められた大学だけ受験して、まんまと落ちて、親父に設備会社に入れと。その頃結構大きい設備会社になってたんですけども、嫌だということで、単身兄がいた東京八王子に乗り込んで、
兄の通っていた大学にフリーターながら、軽音楽部に無理矢理入れてもらって、そこでずっとバンド、ずっとって言っても大してやってないんですけども、4年間他の大学生の同期と同じようにですね、大学生みたいな顔をしながら、フリーターでお金を稼ぎながら生活していたという感じになります。
そこで大きなきっかけがありました。同年代だったらしっかり覚えてるかなと思うんですけども、911同時ターツテロですね、アメリカで起こったすごい悲劇ですけども、それが起こって、テレビで友達と一緒に見てたんですね。
これは大変だった、えらいことが起こったなーっていうのを言ってたり、なんかしれーと見てたんですけども、その時にはーって思ったのが、これはテレビの前で見てても何も変わらんなーと思って、じゃあどういうことだと、そうかと、この世界をなんとかしたい、こんな悲劇を起こしたくないって思った自分が動かなきゃいけないんだなーと思ってですね、その瞬間に世界に出ようって決意できたんです。
もう一つほぼ同時期にきっかけがあって、友達がほとんどバンド仲間、大学生ばっかりだったんで、僕がフリータ、バイトはしてたんですけども、暇だったら大学の授業を受けてみれば、みたいな感じで言われて、え、そんなんいけんの?みたいな感じで、
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バレたらどうなるんだろう?と思いながら、たまたま誘われた授業、それが21世紀アフリカっていうアフリカの支援関係の授業を映像で見る、みたいな感じだったんですけども、それを隠れながら、席の後ろの方で見てたんですけども、
その授業が、クリスチャンがアフリカの難民であったりとか、貧しいところに対して支援をする、みたいな感じの動画を見させてもらったんですけども、なんか一人で号泣してしまって、こんな世界があるのかと、多分意識してなかっただけで、当たり前に情報がテレビとかで入ったはずなんですけども、それを初めて正面から受け止めたときに、これはやっぱりこの世界のために自分は動かなきゃいけないなと思って、
ニューヨークのターテルとその授業、2つをきっかけに腹が決まったと。絶対に自分は国際世界の、国際支援の社会に行くんだと決めて、そこから自分の戦いが始まりましたね。そういう夢ができたので。
そう決まったので、4年間バンドをやりたいことをやらせてもらって、地元に帰って、これはもう留学だと。英語もできなきゃいけないし、いろんな社会経験も必要だということで、まずは日本で社会経験をしっかり得た上で、お金を貯めた上で留学しようと思って。
親父の会社であったりとか、どうせ仕事をするなら人の役に立つような仕事がいいなと思って、実はホームヘルパー2級を持って福祉施設、老人介護施設で仕事をしていた経験もあります。
その後お金、3年くらい働いてですね、昔のバンド仲間がイギリス、ロンドンに音楽、留学というか音楽をしに行っていたので、1人くらい仲間がいた方がいいかなと思ってロンドンに留学しました。
ここでロンドンにいたのは約2年なんですけれども、学校がとにかく、語学学校ですね、全然面白くなくて、自分に合わなくてですね、何というか、本当に革ジャン着て破れたジーパンで、髪の毛はパワーマで、松田裕作を意識して、グラサン掛けて授業を受けるという、もう訳のわからんスタイルで授業を受けて、もちろんそんな感じなんで、あまり相手もされず、成績はまあまあ良かったんですけどね。
行く意味もないなと思って、仕事をしようというので学校に行かなくなりつつ、そこで出会った仕事というのがフェス。
イギリスって結構世界でも有数のフェスティバル大国で、春から秋、冬にかけて毎週どこかででかいフェスがやっている。
結構一番有名なのはグラストンベリーという、昔は世界最大のフェスと言われたフェスもあったりしてですね。
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ずっとそこで、いわゆるケータリング、分かりやすく言うとテキ屋というか、飲食を、食べ物を売るような仕事で、ずっとイギリス南西部ですかね。
その仕事でアイルランドも行ったりとか、これはもう一つの人生の自慢なんですけど、ローリングストーンズを生で見るであるとか、
ビョークとか、その辺の大きいビッグアーティストを仕事しながらタダでフェスに入って見れたという経験もめちゃくちゃ自分の人生に何かいろいろいい影響を与えてますね。
自慢になっているというか。
そばに行っても別に飯食うたびにイギリスに行っているわけではないので、仕事しているうちにやっぱり仕事なんで責任感もあって、学校行くよりはるかに英語の勉強になったなという自負があります。
その時はもう、今全然英語を覚えていないんですけど、その時はもう英語圏で生きていけるなというぐらいまではなっていた記憶がありますね。
ただやっぱり英語を学ぶのが目的ではないし、生活するのが目的ではなかったので、
このままじゃいかないんだ、俺この後どうするんだっけ、国際支援だということで、
その時にとにかくパソコンとか、これも10年以上前の話、20年ぐらい近く前の話ですね。
まだやっとパソコンが一人一台持つか持たんかぐらいの時代、海外行ってももちろん持ってたんですけども、そこをイギリスからとにかく調べるだけ調べて検索して、
日経の、日経で限定はしなかったと思うんですけど、とにかく世界中で国際支援系で活躍しているNGOであったり個人に50件以上ぐらいですね。
別に数えてもないですけど、かなりの数送った記憶があるので、今でいうクラファーみたいな感じですね。
とにかくいろんな人に、自分はこういう立場で英語はできるけど、世界平和の役に立ちたいと。
今考えたら相手しないだろうなという痛い若者だったんですけども、とにかくいろんな人にメールを送って。
その後、一番そのメールを送って、SNSもなんもない時代ですよね。
ミクシーがあったな、あれはなんなんだろう、面白かったですよね。
そういう時代でやっている中で、唯一まともに返ってきたのが、カンボジア関連の人で。
その人に一回、今その時はスカイプですね、スカイプでちょっとお話しさせてもらって。
カンボジアだと、そういう子でも、私みたいな人間でも、インターンとしてちょっと受け入れてくれそうな場所があるから、紹介するから一回連絡してみたらということで。
もうそれだと。正直国は東南アジアがいいとかアフリカがいいとかなんも考えてなかったんですけども、
その時はもうそれしかなかったですね。逆に言えばそれ以外、イギリスってNGO大国ではあるんですよ、オックスファームとかでっかいあるんですけども、
なかなか現場に行くというのが目的の時に、そのカンボジア以外、ネタがなかったというか道がなかったので、
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もう藁にもすがる思い、もう現場に行けるんだなという思いで、
そうですね、イギリスを離れて日本でちょっと経済整えて、でっかいリュック、バックパックですね、
支援物資みたいなの、ノートとかいらない服とか、そういうものをパンパンに入れてカンボジアに向かった感じですね。
向かってカンボジアに行きました。
そのNGOがカンボジアの首都であるフロンペにあったので、そこに顔を出させてもらって、
インターンさせてください、いいですよということで、ゆるい感じだったんですけども、
そこでNGOの現場、地方農村であったりとか、スラムですね、だいぶ少なくなったんですけども、
スラムであったりとか、個人とか、そういった支援の現場に様々同行させていただいて、
その間、いろんなお客さんとも、現場に来るお客さんとも接してさせていただいている中でですね、
本当は僕イギリスで読んでた本で、エリザベス・キューブラ・ロスっていう、
精神界ですね、死の瞬間と死後の生という、死ぬって決まった人間がたどる精神構造を解き明かした人みたいな感じで有名な方がいるんですけども、
その人に憧れて、かなりパンクな医療者だったので、
医療業界に行きたいなと、世界で活躍するなら、ただ医者ちょっとハードル高いし金もないんで、
看護師になりたいなと本当は思ってたんですけども、
現場で3ヶ月くらいいて、本当は単純に僕が発展途上国で生活をできるかどうか、
衛生とか悪いとかイメージあるかなと思うんですけども、
そこで生きていけるのかというものを試すために行ったのもあるんですけども、
それに関してはもう3日もすりゃ大丈夫だ、自分の国だくらいの感じで、全く違和感なかったんで、
それは大丈夫だな、じゃあやっぱり夢を叶えるために、NGO、国際支援の現場で働くために、
自分の技を持って武器を持って現場に立つために看護師になろうと思ってたんですけども、
3ヶ月くらい経って、そろそろかなって思ったときに、
一つはずっと子供たちと一緒にギターを弾いて歌を歌ってたり、
あとイギリス時代から、その時はフィルムでしたけど、
フィルムでいろいろ写真撮ってたりしたのと、
あととにかく持ち前のコミュニケーション能力、
いろんなお客さんと接していろいろ喋ってたりしたので、
そういったものを、何も突き抜けた能力は僕はないと今でも思ってるんですけども、
そういうマルチさを現地のNGOの方が見ていてくれて、
ちょうどスタッフが抜けるタイミングっていうのもあったらしいんですけども、
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今後NGO業界、国際支援の業界にいるつもりであれば、
このままスタッフとして一緒にやらないかって言っていただいて、
もう即答ですよね。
いや、それが夢だったのでやるよと。
今考えるとそれが良い判断だったのかどうかっていうのは、
例えば看護師になるとか、なってればもっとこうなったとか、
様々あるんですけども、結果的には本当にありがたいお声掛けをいただいて、
現地経験をさせてもらったなと思っています。
カンボジアにそのまま3年間いて、途中団体ともいろいろあったんですけども、
自分の能力がないっていうのに、その3年間で傷が垂れたっていうのが一番分かりやすい言い方ですね。
とにかくお金集める力もないし、人を集める魅力もない。団体があったからそれはできたけど、みたいな。
でもこのままじゃカンボジアならカンボジアという国に対して、
僕は大した影響を与えられないなっていうのに気づいて、
このままじゃダメだと思って、日本に帰ろうっていうタイミングになりました。
いや違うな、このままじゃダメだなって思っていたところと、
一度倒産した山浦の山浦家がですね、第2期倒産劇を迎えるということでですね、空調設備業がですね。
というところで、日本に帰らざるを得なくなったタイミングがほぼ同時期になってですね、
これはじゃあもう帰るかって言って日本に帰ってきたっていうところですかね。
その後、長いな、すいませんね、もうすぐ農業に入りますけども、
日本に帰ってきたすぐ後ですね、ちょっともがいたんですけども、
また親父の会社が倒産して、また借金4億なり5億なりだったと思うんですけども、なりましたと。
ちょうどその時も僕、鴨谷にいた理由がですね、誘われたっていうのと同時に、
鴨谷に行って1ヶ月で今の嫁さんと出会って、3ヶ月でも付き合ってたんで、
鴨谷にそのまま彼女といたいなって思って残ってたっていうのもあるんで、
鴨谷と帰ってくると同時に、ちょっと結婚もしたいなっていうところで、
だったんですけども、そういうまた家族の不済みたいなのが、悲劇みたいなのがあったので、
これはやばいなぁと思いつつ、ちょっと粘ったんですけども、無理だったんで、
とりあえずお金も返さなきゃいけない。借金はあったので、親戚とかでも借りてたので、
トラック、10トントラックですね、大型免許取って、とりあえずお金がいいんで、
それと同時期に結婚もしましてですね、いい奥さんで、いい奥さんの家族で、
それに対しては何も否定的なことはなかったんですけども、
10トントラック乗りながら、現場系の仕事は基本的には得意なので、
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お金をそれなりに稼げて、借金もちょっとずつ返してたんですけども、
イギリス行って、カンボジア行って、まだまだ大きなやりたいこともあるっていう中で、
いきなり、自分の失敗だったらあれですけども、親父の失敗というか、
家族のことで、このままトラックやろうで借金返しながら終わるっていうのは、
ちょっと自分の中で我慢できないなと思いつつ、苦しいな、
これいつまで続ければいいんだろうなっていう悩みがありましたね。
悩みながらも本当に仕事をしていたっていうのが正直なところになります。
というところで、一旦この辺で切らせていただいて、
続き、次から農業に入っていきたいなと思います。
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